美味しい相棒~謎のタキシードイケメンと甘い卵焼き~


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ルイに言われた通り、三日後に良太が『ボヌール・ドゥ・マンジェ』を訪れると、祖母の食空間演出プランはほぼ出来上がっていた。

 ルイの計画では、店内奥にある個室に、六十年前のオリエント急行のダイニングカーを再現するらしい。

「写真の通り、テーブルにはダマスク織のクロスをかけ、食器はリチャード・ジノリのものを使用します」

リチャード・ジノリとは、イタリアの有名な食器ブランドらしい。ちなみにジノリのオリエントエクスプレス・シリーズは、現在もオリエント急行内のダイニングカーで使われているそうだ。

「花は、ミモザの切り花をラッパ型のバカラの花瓶に生けましょう。モノクロの写真でしたが、テーブルクロスと色合いが一緒でしたので、花の色はおそらく白と思われます。ミモザを飾っているということは、季節は春です。窓の外の田園風景がはっきり写っていたということは、日没前だったのでしょう。ライトで、春の日没前のおだやかな日差しを再現したいと考えています」

 ちらりと見ただけの不鮮明なモノクロ写真から、ルイはそこまで読み取り、覚えていたというのか。記憶力に辟易する。
「それから、1960年当時、“オリエント急行”と名のつく列車は多数ありましたが、話されていたルートから察するに、おばあさまが乗られたのはシンプロン・オリエント急行で間違いないでしょう。当時のシンプロン・オリエント急行の運行ルートは、ロンドンを出発し、パリ、ローザンヌ、ミラノ、ヴェネチア、サンタルチア、イスタンブールと続きます。おばあさまは、ヴェネチアで下車されたようですね。同じルートの列車の車窓からの景色を入手して、壁に投影しましょう。他に、何かご要望はございますか?」

「……いえ、充分です」

 ここまで綿密に計画を練られたら、冷え切った晩年の夫婦関係に心乱す余裕すらなく、本気で喜んでくれるような気がしてくる。

「でも、食器とかどうやって用意するんですか? よくわからないんですけど、きっとオリエント急行で使われている食器って高いですよね」

 しかも、予算があればどうにかなるけれど、無報酬の案件だ。

「あらゆる食器を豊富に取り揃えている洋食器店に、屈強なコネがありますので、ご安心を」

「屈強なコネですか、なるほど。あ! そういえば……」

 肝心なことを見落としていたことに、良太は今更気づいた。

「料理、どうしたらいいですか? このお店、料理は出ないんですよね?」

 ここがレストランではなく食空間演出の専門店だということは、もう分かっている。けれども、外観内装ともにどう見てもレストランなので、どこかから料理が出てくるのではないかと期待してしまう。

 それこそ屈強なコネを利用して、三ツ星ホテルのシェフに力を貸してもらうなどできないのだろうか。

 ところがルイは、真っ向から良太の期待を裏切った。

「残念ながら、私がサポートできるのはここまでです。当店では、料理はご用意できません」

「そうですか……」

 料理人は、自分で用意しろということか。

 良太の知り合いに、もちろんシェフなどいない。シェフを雇うお金もない。そもそも、料理人などどうやって雇ったらいいのかも分からない。

「ご提案なのですが」

 思い悩んでいると、ふとルイが言った。

「君が作ってはどうでしょう?」

「えっ!?」

 考えもしなかった選択肢を示されて、良太は目を白黒させた。

「君は料理上手だと、おばあさまが言われていました」

「たしかに、料理は好きだけど……」
 幼い頃から、毎日のように料理をする祖母の手先を見てきた。

数学の公式も、英単語もからきし頭には入らないのに、料理のレシピは見ただけでスルスルと入っていく。

 ひとり暮らしをはじめた今も、自炊だけは欠かしていない。

昨日は近所のスーパーで安いアジを見つけたので、南蛮漬けにしてみた。特売品の大根と鶏むね肉のミンチで大根のそぼろあんかけも作り、みそ汁には大根の葉と油揚げを入れた。節約もばっちりだ。

「でも、筑前煮とか肉じゃがとか魚の塩焼きとか、日本の平凡な料理しか作ったことがないんで、フランス料理なんて絶対無理です。それに、ミキサー食なんて、どうやって作ったらいいのか全く知らないし……」

 生半可な腕前で、祖母を心から満足させる自信がない。

 たしかに、自分で作れば万事解決だけれど。

すると、ルイがおもむろにタキシードの懐に手を忍ばせた。取り出されたのは、折りたたまれた紙だった。

「よろしかったら、こちらを参考になさってください」

 差し出されたそれを、良太は半信半疑のまま受け取る。紙は、二枚重ねになっていた。一枚目には、びっしりとこと細かくレシピが記載されている。

「春野菜とチーズのテリーヌ、鯛のポワレ、じゃがいものヴィシソワーズ、ラム肉の赤ワインソース……。これって……」

 先日、祖母が口にしたのとほぼ同じレシピが羅列されていた。二枚目には、ミキサー食を美味しくする作り方が分かりやすく書かれている。

「調べてくれたんですか!?」

 なんて、親切な人なんだろう。

ここまでこと細かく書かれていたら、できるかもしれない。

そう思う一方で、良太の胸の奥では不安がくすぶっていた。

 次こそきっといける、次は大丈夫。そう自分自身を奮い立たせながら、医学部に落ち続けた。できるかもしれないと思っても、できないこともあるのだ。

 世の中は、努力すれば報われることばかりではないことを、良太はもう知っている。

「――でも、僕には無理だ」

 踏みとどまろうとする良太を、ダークグレーの人形目(ドール・アイ)が見つめている。

 ルイが何を考えているのか、良太には見当もつかない。

磨き上げられた白磁器のように美しく、澱んだところがなくて、謎に包まれている。まるで、人々を魅了してやまない、謎めいた芸術品のようだ。

奇妙な出会いがなければ、一生関わることのなかった人種だろう。
きれいな人は、やっぱり苦手だと良太は思った。

自分のみじめさを、改めて痛感するから。

「そうでしょうか」

 うつむき加減の良太を、説き伏せるようにルイが言った。

「おばあさまにしろ、名も知らない料理人に作ってもらうより、あなたに作ってもらう方がうれしいでしょう。おばあさまの味の好みも、きっと分かっていらっしゃるでしょうから」

 ルイの声音に触発されるように、祖母の笑顔が良太の脳裏に蘇る。

『ふふ、良ちゃんの筑前煮、美味しいものね』

――美味しいものを食べたときの、ばあちゃんの笑顔がもう一度見たい。

心の揺らぎが、伝わったのだろうか。

良太の戸惑いを受け入れるように、ルイが優しく微笑んだ。

     4

老人ホームに外出届けを出し、良太が祖母を連れ出したのは、青空に霞がかった雲が揺蕩う四月半ばのことだった。

ルイのレストランに行こうと言うと、祖母はひどく喜んだ。ルイのことを、すっかり気に入っているらしい。

 店へと続く急勾配の階段を目にしたとき、祖母は不安げな表情を顔に浮かべたが、ルイが介助役を買って出れば、途端に上機嫌になった。

良太も手伝おうとしたが、「ルイさんの方が背が高くて安心だから、もう大丈夫よ」と、さりげなくあしらわれた。

175センチある良太も低身長なわけではないが、さらに10センチは高いルイに守られる方が、たしかに安心だろう。とはいえ、おばあちゃん子の良太としては少し面白くない。

「まあ、素敵なお店ね」

 階段を降りた先に広がるエレガントな内装を見るなり、祖母はため息を吐くように呟いた。

 中世ヨーロッパ風の装いの店内には、四人掛けのテーブルが四つに、八人掛けの長テーブルがひとつある。

八人掛けのテーブルは主に講座に使われており、向かいの壁際には、数々の名食器やカトラリー、燭台やテーブルクロスを収納した棚が備えつけられていた。

その隣には、柱を挟んで茶色いロココ調のカウンターがあった。両サイドにテーブルスタンドの置かれたそこは、会計などを担う場所のようだ。

ちなみに背後にある棚の臙脂色のカーテンの向こうには、しろたんのゲージが置かれている。
 反対に位置する、四人掛けのテーブル側の扉は、厨房になっている。

料理のないレストランに、どうしてここまで立派な厨房があるのか謎だが、アイランド式のキッチンに大型の冷蔵庫から、大小さまざまな調理器具に至るまで、良太には恐れ多いほどの設備が整っていた。

ルイは厨房とは反対に位置する扉へと、祖母を案内した。

そこはどうやら、個室に続くようだ。

「ここは……」

 扉の先で、祖母が息を呑む。

 ガタンガタン、と列車の進む音が響いている。

 薄暗い室内には、幾何学模様の施されたチャコール・グレイの絨毯が敷き詰められ、四人掛けのテーブルが三つ直線状に並んでいた。

どのテーブルにも白いダマスク織のクロスが掛かっており、透き通ったバカラのガラス花瓶には、ミモザが扇状に生けられている。

光沢ある焦げ茶色の壁には、車窓からの風景が映し出されていた。

夕暮れの空を流れる、青々としたヨーロッパの山並み。時折山の峰に現れる塔のシルエットが、ここが異国であることを物語っていた。

映像に連動して響く列車の音は、埋め込み式のスピーカーから流れているものだろうか。
窓と窓の映像の間には、スズラン型のアンティークランプ。

窓から光が射し込んでいるかのように、室内にはオレンジ色の淡い光が落ち、列車の動きに合わせて時折影を作る。

予想をはるかに超える演出に、良太は虚を突かれた。

見た目、音、空気感、全てが一体となって、六十年前の異国の食堂車を再現している。

モノクロだった写真の世界が、色を伴って今に蘇ったかのようだ。

「六十年前の、オリエント急行の食堂車でございます」

 ルイが、一番手前にある椅子を厳かに引いた。

「お客さま、どうぞお掛けになってください」

 室内でただひとり平然としているルイは、まるで不思議の世界へと迷い人を誘う案内人のようだ。これがきっと、プロの所業なのだ。何もかもが中途半端な良太とは、まるで違う。

「良ちゃんとルイ君が用意してくれたの? ありがとう、あの頃に戻ったようだわ」

 ようやく、理解が追いついたのだろう。
祖母が、ルイに促されるがまま椅子に腰かけた。
テーブルの上には、波打つようなブルーのラインで淵が彩られた、リチャード・ジノリのディナー皿。

皿の上には、三角をふたつ重ねるように折り込まれたナプキンが置かれ、右隣にはナイフとスプーン、左隣にはフォークがずらりと並んでいる。

右上にはさまざまな形のグラス、左上には同じオリエントエクスプレス・シリーズのパン皿が据えられていた。

これから唯一無二の特別なディナーがはじまる。
そんな期待を、まばゆいばかりの光沢を放つ食器たちが盛り立てる。

――うまく、いくかもしれない。

期待に満ちた祖母の表情からそう感じた良太は、あらかじめ用意しておいた料理の最終仕上げをするために厨房へと急いだ。

前菜から順に、トレイに乗せて別室に運ぶ。

ルイは良太から受け取ったそれを、祖母のもとへと順々に給仕していった。

「前菜(オードブル)は、春野菜とチーズのテリーヌでございます」

「まあ、かわいらしいわね」

 テリーヌは、キャベツ、ズッキーニ、トマト、人参をミキサーにかけた春野菜と、ペースト状のチーズで作った。

本来は色とりどりのカット野菜が見た目を華やかにするものらしいが、ミキサー食でそれは難しい。

その代わり、それぞれのペーストを地層のように重ね、おしゃれに仕上げている。すべてが、ルイのレシピメモに書いてあった通りだ。

 続いて、じゃがいものヴィシソワーズ。基本の作り方は同じだが、味を損なわない程度にとろみ粉を加え、嚥下に困難を抱える祖母でも飲みくだしやすいようにしてある。

「魚料理(ポワソン)は、鯛のポワレになります」

「いい匂い……!」

 鯛のポワレは、ミキサーにかけた白身を、もう一度魚の形に形成した。ポワレは、中身をふんわり、外側をカリッと焼き上げるフランスの調理法だ。

カリッと感を出すために、外側だけをほんの少しバーナーで焙っている。食べやすいよう、ホワイトソースにもとろみを加えた。
 
メインの牛フィレ肉のステーキは、ミキサーにかけた牛肉を、魚料理と同じくステーキの形に作り直した。

ゆるめのミートローフのような食感で、噛み砕くことなく味わえる。とろみ入りの赤ワインソースが、牛肉のうま味を出すのに一役買っている。

 デザートは洋梨のジュレだ。ジュレはほぼ手を加えることなく、祖母でも問題なく飲み下せた。
 ジュレの最後のひと口を飲み込んだあとで、ナプキンで口もとを拭きながら、祖母は満足そうに目尻を下げた。

「こんなに美味しいものを食べたのは久しぶりだわ。これ、全部良ちゃんが作ったのね」

「……え? なんで分かったの?」

 個室の入り口で祖母の様子を見守っていた良太は、思いがけない祖母の反応にたじろぐ。

最後に教えて驚かせようと思っていたのに、先手を取られて拍子抜けしてしまった。

「分かるわ。あなたの料理には、真心があるの」

「真心……?」

「ええ。ホームの薄味に私が飽きているのを知っていて、少し濃いめに味付けしてくれてる。健康を害さない程度にね。昔からそうだった。あなたは人が食べたい味を、絶妙な味加減で、上手に引き出すの」

「そうかなあ……? あまり、深くは考えたことがなかったけど……」

 たしかに、長兄の顔を見て『辛めのものが食べたいんだな』とか、母の顔を見て『とびきり甘いものが食べたいんだろうな』とか漠然と思うことはあった。

けれども、特別意識して味付けをしてきたわけではない。

大仰に褒められて、良太は照れを隠すように頭を掻いた。昔も今も、良太を褒めてくれるのは祖母だけだ。

そのことが、良太を嬉しいような情けないような心地にさせる。

「私の自慢の孫よ。真っすぐで不器用で……」

 祖母の声が、低く沈んでいく。

「あの頃の主人によく似てる」

 ガタンゴトン。

時空を超えたオリエント急行の食堂車は、止まることなく進んでいく。

祖母が見つめているのは、向かいの座席だった。今は空席のそこには、六十年前は祖父が座っていたはずだ。

 今までの満足げな笑顔が嘘のように、祖母の表情が曇っていく。

良太は、はっとする。

まるで列車の動きに導かれるように六十年前のあの日に舞い戻っていた祖母の気持ちが、今に帰ろうとしている。

束の間の幸せのあとには、埋まらない溝を残したままに、祖父と死別した現実が待っていた。

 祖母の顔が、徐々に泣き顔になっていくのに気づいて、良太は慌てた。

 やはり、祖父との思い出はタブーだったのだ。

 責めるようにルイを見やったが、ルイは直立したまま、祖母の動向をうかがっている。

「……本当は、もうとっくに許していたのよ。浮気は、三十年も前のことだもの。でも、私のプライドがそれを許さなかった。だから、嫌われたの」

 絞り出された声は、祖母の声ではないかのようだった。
「ばあちゃん……」

「三十年も過去の過ちを引きずる奥さんなんて、嫌われて当然よね。あの人にはたくさん幸せをもらったし、あの人のおかげで暮らしていけたのに、私は何もあの人に返してあげなかったんだもの。最後のときですら、看とれなかった……」

 加速するオリエント急行が、再び祖母を過去に連れ戻す。

思い出の情景が、長年祖母の心にくすぶっていた想いを引きずり出す。

目の前にいるのは八十四歳の祖母ではなく、二十代であり、三十代であり、四十代であった、かつての祖母なのかもしれない。

 良太は、祖母の辛い気持ちに寄り添うように、傍らに膝をつき目を伏せている彼女を見上げた。

「ばあちゃんは悪くない。自分を責めないで」

 裏切りに時効などない。傷ついた想いは年月とともに薄まっても、一生消えることはないし、それどころか時折フラッシュバックしてじわじわと人を苦しめる。

祖母は自分の気持ちに忠実に生きただけだ。

「悪いのは全部じいちゃんだ。僕が言い切ってやる。ばあちゃんに、悪いところなんかひとつもない」

 もしも祖母を想うなら、何十年何百年かかろうと、祖父は祖母に歩み寄るべきだった。

亡くなってもなお祖母を苦しめる祖父は最低だ。

 良太の励ましにも、祖母は力なく微笑むだけだった。

 ダメだ、最悪だ。このままだと、祖母の苦しみを掘り返しただけで終わってしまう。

良太は、祖母に食事を楽しんでもらいたかっただけだ。『美味しい』と心の底から言って、幸せそうに笑う祖母を見たかっただけなのだ。

「ひとつ、この店の話をしてもよろしいでしょうか」

 突如、耳障りのいい声が落ちてきた。

 緊張の糸が切れたかのように、良太と祖母は我に返る。

 良太と祖母は、ほぼ同時に背後にいるルイを振り返った。

「この店は、三年前まではフランス料理店でした。もちろん、料理もお出ししていました。知る人ぞ知る名店で、常連のお客様もたくさんいらっしゃいました」

 何を突然、と思いつつも、良太はルイの話に引き込まれていく。この店のことをルイが語るのは、初めてだからだ。

「常連のお客様のひとりに、ある老紳士がいらっしゃいました。三年前、その方は店長の桐ケ谷にとあるオーダーをしました。然る女性をいつか連れてくるから、指定したメニューを作って欲しいと」

 ダークグレーの瞳の先には、祖母の向かいの席がある。