真夜中の植物レストラン

 今日は外部と内部合わせて十名参加の、なかなか緊張感漂う会議の日だ。
 この日のために、残業をして必死に準備をしてきた。
「……あれ?」
 パソコンを開いて数十秒後、私は画面の前で固まってしまった。
 いつもと画面の中の景色が違う……というよりも、この日のために用意してきた資料がまとまったフォルダがそのまま消えている。
 何度も格納場所を行ったり来たりして確認してみたが、やっぱり見つからない。
 謝って削除してしまったのかも……と思い削除フォルダを見るが、そこにもファイルは残っていない。
「ウソ、どうして……」
 絶望しきった声を出すと、隣の席の桃野さんがコーヒーを飲みながら「どうしたんですかー?」と画面を覗きこんできた。
「二時間後の会議で使う資料が消えてるの……」
「どこか場所移したとか、削除しちゃったとかですか?」
「どれも確認したし、検索もかけたんだけど出てこない……どうしよう……」
「え、それやばくないですか。ごめんなさいですけど、私全然助けられないです」
 あまりにストレートな桃野さんの言葉に、なにかがポキッと折れてしまった。
 あんなに時間をかけて頭を使って考えた資料なのに……。
 どうして無くなっているのか、まったく意味が分からない。
 だって、この資料だけきれいに消えるバグなんて起こりうるはずない。
 心臓がバクバクと早鐘のように音を立てて、額には脂汗が滲んできた。
 ついさっきまで細かい調整をして更新していたファイルが、この数分で跡形もなく消えるなんて……。
「おい花井、今日の資料用意できてんだろうな」
「は、はいっ」
 祐川さんにこのタイミングで声をかけられて、私の心臓はより一層鼓動を速めた。
 落ち着け、大丈夫、絶対冷静に探せばあるはず……。
 そう言い聞かせてマウスを動かすが、その手は震えてしまった。
「おい、なにまたゾンビ顔してんだ」
 そのとき、聞き慣れた冷たい声が頭の上に降ってきた。
 ふっと顔を上げると、そこには呆れた様子の草壁さんが立っていた。
「お前、俺のデスクにメモ帳置いてってたぞ」
「く、草壁さん……」
「なにそんな死にそうな顔してんだ。腹が減ったのか」
「し、資料が跡形もなく消えていて……。死ぬ気で作った資料が……」
 震えた声で現状を説明すると、草壁さんは「は?」と言って一瞬眉を顰めたが、すぐに私の画面に真剣に向き合ってくれた。
「見せてみろ」
 私は自分の椅子を引いて、草壁さんに自分のパソコン画面を見てもらった。
 草壁さんは冷静な表情のまま問いかける。
「資料名なんて名前」
「ま、丸谷食品様ソイミートコラボレシピ提案書0902です……。削除リストにも、検索かけても出てこなくて……。ついさっきまで更新してたんですけど」
 泣きそうな声になっている私を見て、草壁さんは低い声で「大丈夫だ」と言った。
 その横顔があまりに真剣で頼もしくて、私は草壁さんの名前を叫びながら抱き着きたい気持ちに駆られた。
「削除したファイルが直近であれば、まだハードディスクに残ってるから、復元ソフトを使えばこんなものすぐ戻せる」
「復元ソフト……」
「こんなの全然大丈夫だよ。ちょっと待ってろ」
 そう言って、草壁さんは復元ソフトとやらをつかってデータを戻してくれた。
 あまりに簡単に戻してくれたので、私は感動して言葉がすぐに出てこなかった。
 最終更新の状態で保存されたファイルは再び開かれたのを見て、安心してうっすら涙が出てしまう。
 私は草壁さんを見て、しっかり頭を下げた。
「お忙しいのに、しかも他部署なのにすみません。本当にありがとうございます……」
 草壁さんが最高技術責任者である理由がよく分かる。
 「どんなときも慌てなくて、絶対に問題を解決してくれる」って、システム事業部の部下に言われてたのを聞いたことがある。
「あとで社食五人前食ってるところ見せてくれよ」
「はい……、何人前でもフードファイト披露して見せます……」
「はは、楽しみだな」
 少しだけ笑って、草壁さんは颯爽と去っていってしまった。
 そんな一連をずっと見ていた桃野さんは、目の中にハートが入っているんじゃないかというくらいうっとりした表情になっている。
「草壁さん、イケメン過ぎる……。なんですか今の。私もパソコンぶっ壊そうかな」
 桃野さんの真剣なつぶやきに乾いた笑みをこぼしながら、私は心の中で草壁さんに何十回もお礼を伝えた。
 たしかにこれは、うっかりしていたら惚れてしまいそうなシチュエーションだ。
 私は強く自分の頬を叩いて、目先のプレゼンと向き合った。
 どこからか誰かの視線を感じ取ったけれど、そのときはそれが誰なのか分からなかった。


 
 草壁さんのお陰で無事プレゼンも終わり、今週も平和な金曜日がやってきた。
 そしてお店に着いた今、私はなぜかざるを持たされて、お店の裏にある畑に立っている。
「今日はピザを作る。よって、庭からピーマンを収穫したい」
「あの……、私、自然と手伝わされてませんか、最近」
「手伝いじゃない。都会ではなかなかできない農業体験だ」
 そんなことを言いくるめられながら、私はピーマンの収穫に熱中した。
 お店に売っているピーマンはどれも形が整っていてきれいだけど、畑にあるピーマンはすごく大きかったり、細長かったり、丸かったりする。
 不揃いで不格好だけど、でもすごく張りがあってツヤツヤとしていて美味しそうだ。
 それに、こんな風に土を触る機会なんて日常だとない。
 柔らかな土を触っていると、どうしてこんなに日々のノイズが消え去るんだろう。
「草壁さん、一昨日はデータの復元本当にありがとうございました」
「あんなの誰でもできるから、花井も覚えておくといい」
 草壁さんの不器用な言葉に少し笑みをこぼしながら、私は話を続けた。
「あの草壁さんと、今こうして隣でピーマン採ってるなんて未だに不思議です」
「俺もだよ。ここは会社のやつには誰にも教える気はなかったからな」
「えっ、そうだったんですか」
 私が驚きの声をあげたあとに、なんだか知ってしまったことを申し訳なく思っていると、それを察したのか草壁さんは「まあひとりくらいなら」と付け足した。
 元々お客さんは皆マンションの住人だし、私だけが外部のお客さんだ。
 それなのに、このお店にこんなに頻繁に訪れていいのか急に不安になってきた。
 ピーマンの柔らかなフォルムを手の平で感じながら、暫し今までのことを思い出す。
 彼氏に振られて、仕事も上手くいかなくて、休日はやることがなくて、自分のためになんかしようとか、誰かのために役に立ちたいとか、そんなこと思わずにここ数年生きていた。
 ただぼうっと働いて、過ぎていくだけの日々だった。
 だけどこのお店に来てから、色んな人と出会って、良い感情も悪い感情も忙しなく波打っている。
 ずっと壁打ちみたいだった日々が、このお店に出会って変わったんだ。
 だからもう、私にとってこのお店は……。
「今更だけど。葵のこと、ありがとな」
「えっ、なんのことですか……?」
「俺だったら、あそこで葵のこと追いかけるまでできなかった」
「え……、いやそんな私はなにも」
 すぐに否定をすると、草壁さんはまた少しだけ微笑んだ。
 本当によく見ないと分からないほどの微妙な口角の上がり方だ。
 さぁっと流れるような風が吹く。秋を知らせるような、ほんの少し冷たい風。
 草壁さんのさらさらとしたきれいな髪の毛が夜空にふわっと舞い上がって、優しい瞳があらわになる。
 草壁さんは、不器用だけど、底知れず優しい。
 こんな草壁さんを知っている人が、会社にいったい何人いるだろう。
 私はほんの少しの優越感を抱きながら、パッと目を逸らしてピーマンの収穫を再開した。

「お、今日はピザの日なんだ?」
「あ、萼さんお久しぶりですっ」
 お店に戻って、草壁さんがピザ生地を準備している様子を見ていると、萼さんが今日もお疲れな様子でやってきた。
 少し長めで無造作な髪の毛の間からのぞく瞳は相変わらず色っぽい。
 官能小説家と聞いていたけれど、締め切りに追われているせいなのか、あまり顔色がよろしくない。
 そんな萼さんを見て、草壁さんも心配になったのか「ちゃんと食ってんのか」と突っ込んでいた。
 萼さんは私の隣の席に座って、自分で伝票にビールを記入してから、グラスにお酒を注いだ。
 モスグリーンの大きめのシャツはよれよれなのに、なぜか雰囲気のある大人の男性に見えてしまうのは、萼さん自身が持つ空気感のせいなのだろうか。
「萼さん、最近ちゃんと寝られてます? 顔色が……」
「いやー、一般向けの小説と、色々締め切り被っちゃってね。アルコールだけはちゃん摂取してたんだけど」
「健康に悪すぎますよ。ちゃんとご飯も食べてください」
「金曜だけはここでちゃんとした飯食ってるからさ。野菜も沢山出るし」
 そんな会話をしていると、草壁さんが「まずアルコールを控えろ」とまっとうな意見を言ってきた。
 草壁さんは、丸いピザ生地の上にトマトソースを伸ばし、白いハーブソーセージと収穫したピーマンとチーズを乗っけている。
 それをオーブンに入れている間に、キンキンに冷やしたグラスに砕いた氷を入れて、さらにぎゅっとライムを絞ってそのまま落とし入れた。
 そこに炭酸水を注ぎ入れると、庭先で育てていたミントを手の平で叩いてグラスに浮かべる。
「ノンアルモヒートだ。しばらくこれ飲んで我慢しろ」
「うわなにこれ、超お酒飲んでる気分」
 ありがたいことに一緒に私の分も作ってもらったので、早速飲んでみた。
 ミントの爽やか香りとライムの苦みと酸味が合わさって、大人な炭酸水といった感じだ。たしかにお酒を飲んでいるような気分になれる。
 すっきりしたりとした美味しさに浸っていると、萼さんがにこにこしながら話しかけてきた。
「この前、芽依とロビーで会ってたでしょ」
「えっ、見てたんですか⁉︎」
「うん、面白くて遠くで観察してた」
「そんな、言ってくださいよ……」
「もう敵視されたの決定だね。頑張ってー」
 お気楽そうに言う萼さんは、完全に私の状況を楽しんでいる。
 まさかこんなに腹黒い一面があるなんて……。
 少しショックを受けながらも、私は萼さんに問いかけた。
「でも私、草壁さんにどう考えても釣り合う人間レベルじゃないですし、芽依さんが敵視するまでもないと思うんですけど……」
「でも、休日会ってたんでしょ? 芽依はこの店以外で草壁と会ってもらったことないよ」
「いや、あれはでもなりゆきでっ」
「いいじゃん、芽依に嫌われたって生活に支障まったくないでしょ」
 そんな黒いことを言っても、萼さんは相変わらずにこにこしている。
 萼さんは思った以上に癖のある人かもしれない……。
 そう気づいた私は、なにも言い返すことができないままドリンクを口に運んだ。
「誰かに嫌われてもへっちゃらくらいが丁度いいよ。誰かに好かれたいと思うことの方が数倍しんどいから」
「萼さんは誰かに嫌われても平気ですか……?」
「うん、どうでもいいね。ねぇ、草壁もそうだよね?」
 ふいに萼さんが草壁さんに問いかけると、草壁さんは鋭い目つきで「死んでも俺をお前と同じ人間にするな」と即答していた。
 草壁さんがそこまで言うなんて、ふたりは本当に友人関係なのだろうか……。不安な表情でいると、萼さんはそんな私の顔を見つめてきた。
「菜乃ちゃんは弱そうだね、その辺」
「え……」
「皆に好かれてるかどうか、不安で仕方ないでしょ」
 結構なことを言われているのに、私はそのまま固まってしまった。
 じっと見つめられていると、心まで見透かされるような気持ちになってくる。
 皆に好かれてるかどうか……。
 萼さんの言葉がふいに胸を突いて、一瞬過去のできごとがフラッシュバックした。
 あんな昔のことを思い出すなんて、萼さんの言葉は図星だったからかもしれない。
「萼、やめろ」
 落ち着いた低い声が聞こえて、私は一瞬で正気に戻った。
 草壁さんは珍しく少し怒った様子で、萼さんの名前を呼んだ。
「お前の言葉は毒がありすぎる。うちの客の心理掘ってネタにするな」
「ごめん、つい癖で」
「お前それやりすぎて、小鳥遊芽依にも嫌われてるんだろ」
「そう、大嫌いなんだって、俺のこと。ごめんね菜乃ちゃん、本当に悪気はないんだけど職業病で」
「他の小説家に失礼だろ。ただお前が性格悪いだけだ」
「そうでした、ただ僕の性格が悪いだけです」
 ふたりのやりとりに、私は苦笑いをすることしかできなかった。
 危ない。なんだか萼さんの言葉や瞳に誘導されて、つい思い出さなくてもいいことまで思い出しそうになってしまった。
 愕さんは催眠術師や占い師にでもなるんじゃないだろうか。
 萼さんは「ごめんごめん」と再び謝りながら、怒っている草壁さんを制している。それから、「じゃあもっとポップな話してあげるよ」と指を鳴らした。
「さっきこの店を物陰からじっと見てる男がいたよ。誰かのストーカー? 大丈夫?」
「どこがポップなんですか⁉︎」
「あれ、違った?」
 私の全力の突っ込みに対して、萼さんはあははと笑っていた。
 つ、掴み所がなさすぎる……。初対面ではそんな印象じゃなかったのに!
 それにしても、そんな怪しい男性がいたなんてちょっと怖いな。
「葵の追っかけ記者だろ。この前も来てたし」
 草壁さんの冷静なひと言に、私もなるほどと納得した。
 たしかに、もう大分数は減ったけれど、たまに記者らしき人を私も見かけた。
 萼さんは「なんだそういうことか」と言って、つまらなさそうにモヒートを口に運ぶ。
「お前がバカなこと言ってるうちに焼けたぞ。スペース空けろ」
「うわー! 美味そう! もう食べていい?」
 目の前に出されたのはぷりぷりのハーブソーセージが乗ったピザだ。
 緑色のピーマンと、赤いトマトソースとの色合いも美しい。
 相変わらず、草壁さんがつくる料理は見た目も完璧だ。
 感動しながらも、私も薄い生地のピザを手に取って、上に持ち上げた。
 細い糸を引いた白いチーズがプツンと切れるまで待って、具が零れ落ちないように軽く折ってから口に運ぶ。
 すると、口の中にハーブの香りとソーセージのジューシーな油、ピーマンの歯ごたえ、チーズの濃厚な味わいが一気に広がった。
 美味しすぎて昇天しそうなところに、さっきのモヒートを流し込む。
 爽やかな味わいが喉を通り過ぎて、より一層ピザが美味しく感じた。なんて最高の相性なんだ。
 いつもピザには甘い炭酸飲料水を合わせていたけど、この組み合わせもすごくいい。
 キラキラした目で草壁さんを見つめると、「ほんと美味そうに食うな」とぼそっとつぶやかれた。
「うう……、仕事の疲れが取れていきます……」
「花井、それだけじゃ足りないだろ。もう一枚食べるか?」
「あと二枚追加でオーダーしていいですか。あとアルコール入りのモヒートも飲みたくて……」
「了解」
 草壁さんは、私の大食いになにも突っ込まずに、注文を受け入れてくれる。草壁さんに限らずここのお客さんは皆そうだ。
 『まだ食べるの?』と言われることがなによりも嫌な私にとって、それは本当にありがたいことで。
美味しさに感動しながら目の前にあるピザをたいらげると、萼さんからの視線を感じた。
「菜乃ちゃんの食べっぷり見てると元気出るわ」
「えっ、ほんとですか」
「うん、動画配信とかしたら視聴者つきそう、三人くらい」
「身内しか観てないじゃないですか」
 なんて冗談を言い合っていると、テーブルに置いてあった自分のスマホが震えた。
 画面には、目を疑うような名前が表示されていた。
【葛谷洋介】
 その名前は、もうすっかり頭の中にはない名前だった。
 スマホを見ながら固まっていると、萼さんが「取らないの?」と聞いてきた。
 私はスマホを鞄にしまって、「仕事の電話でした」とへらっと笑って答えた。
 こんな時間に、今更なんの用があるのだろう……。
 せっかく美味しいご飯食べていたのに気分が台無しだ。
 私は、草壁さんが出してくれたアルコール入りのモヒートを飲みながら、洋介となんで付き合ったのかを思い出していた。


 洋介と出会ったのは、今から三年前の内定者の研修の時だった。
 まだ配属先も分からずグループ分けされたメンバーの中に、洋介がいたんだ。
 洋介は明るくて、リーダー気質で、強引なところもあるけれどぐいぐい引っ張ってくれて、私とは真逆の人間だった。
「花井はどう思う?」
「あ、えっと……、私は葛谷君の意見に賛成。インパクトあるテーマで他のグループとも被らなそうだし」
 引っ込み思案でなかなか自分の意見を言えない私に、いつも『花井はどう思う?』って聞いてくれるところが優しいなって思っていた。
 洋介はわりと最初から好印象で、仲良くなるにはそう時間はかからなかった。
 そのうちふたりで飲むようになって、配属先が同じだと決まってからどちらからともなく付き合うようになった。
 リクルートスーツで会うんじゃなくて、お互いだんだんと社会人らしい服装になって、違う部署ながら金曜は一緒にお酒を飲んでお互いを励ましあっていた。
 行きつけだったのは、彼の家の近くにある、串揚げが有名な居酒屋だ。
 本当はひとりで軽く三十本は食べたいところを、私はいつも我慢していたんだ。
「ていうか三年目の葛西さん、よくあんなんでうちの会社受かったよな。全然仕事できねぇの」
「葛西さん……聞いたことないや」
 もともとプライドが高かった洋介だけど、入社して一年経った頃からだんだん口調が変わってきた。
 私は串揚げを食べながら、否定も肯定もしない言葉を選んで、相槌を打つだけの人形になっていた。
 洋介が批判する“要領が悪い人”に、私も該当する人間だから、洋介の話は自分のことも否定されているようで少し辛い。
 そんなとき、店員さんがラストオーダーを聞きにテーブルにやってきた。
 うわ、もう食事ラストオーダーなんだ!
 洋介が隙を与えてくれないから全然注文できなかった……。
 せめてここの名物の肉吸いだけでも締めに食べたい!
「あ、もういい。お会計で」
 そんな私の希望なんて一切聞かずに、洋介はお会計を依頼した。
 いつからだろう。洋介が『花井はどう思ってるの?』と、あの頃みたいに聞いてくれなくなったのは。
 長く付き合うほど男性は安心して、女性は不安になるものだって、誰かがどっかで言っていた気がする。
 それは本当にその通りで、洋介は長く付き合うほど自分の話しかしなくなった。
 気を許してくれているんだと、私は何度も自分に言い聞かせていた。
 仕方ない。この空腹はこのあとひとりでラーメンを食べて落ち着けよう。
 そんなことを思って頭の中でラーメンマップを浮かべていると、洋介が私の手を取った。
「今日、ウチ来るでしょ?」
「え……」
「えってなんだよお前。いつもすんなり来ないよな」
「いや、色々準備とかしてないし、なにも着替え持ってきてないよ!」
「そんなの買うか同じの着ればいいだろ。明日休みなんだし」
 金曜日の夜は、いつも愛情の答え合わせみたいだった。
 溝の口にある1Kの洋介の部屋はいつも散らかっていて、私を呼ぶって分かっているはずなのに座る場所がない。
 いつもすぐにシャワーを浴びて、物が散乱したソファーに向かうこともなく、ベッドへ向かう。
 洋介の部屋はいつも薄暗くて、彼の顔もよく見えない。
「菜乃、もっと声出してよ」
 そんなことを言われても。
 私の頭の中は今、食べることができなかったラーメンのことで頭がいっぱいなわけで……。スマホでオットセイの鳴き声の動画でも流しておこうかな……。
 ていうか、バカみたいに演技臭い声を上げる前に、洋介に言いたことがあるよ。
 まだ入社して間もないのに、上司の悪口言うのやめて。気分悪いから。
 自分で勝手にメニュー決めるのやめて。私だって選びたいから。 
 酒飲むとお腹空かないんだよって言うのやめて。こっちは超お腹空いてるから。
 店員さんにタメ口なのやめて。なんかイキってるのダサくて殴りたくなるから。
 部屋いつも汚いのやめて。掃除して。やりたいだけの部屋に見えてくるから。
 あと、最後に、私の意見も聞いて。あの頃みたいに。
 私はどう思ってるの?って、目を見て聞いて。お願い。
「菜乃……? なに、泣いてんの?」
 私は私なりに、洋介のことが好きだった。
 でもこうなってしまったのは、自分の意見を聞かれないと言えない自分の性格のせいだし、今日ラーメンを食べられなかったのも、本当の自分を曝け出す勇気がなかった自分のせいだ。

 だから私は、自分の大食いを洋介に告白したのだ。
 洋介と歩み寄りたいから。進みたいから。
 だけど、洋介はそれを受け入れてくれなかった。
 あのときの、引いた冷たい目を今でも忘れることはできない。
 誰かに話すと笑い話になっちゃう失恋だけど、私はたしかに洋介のことが好きで、ちゃんとあのとき傷ついたんだ。
【あんなに食うのは女じゃない。正直引いた。別れよう(笑)】