真夜中の植物レストラン

「菜乃ちゃん、覚悟しててね」
「ん? はい、いっぱい食べましょうー!」
「あはは」
 好きな人がいるって無敵だよと、誰かが昔言っていた。
 菜乃ちゃんのお陰で、僕も無敵になれるかもしれない。
 笑いながら食べたトウモロコシは、信じられないくらい甘くて美味しかった。

第五話 終

 葵さんの写真集が発売された日、同時に、葵さんのインタビュー記事があがって世間を賑わせていた。
 自分の過去を振り返った記事で、そこにはありのままの葵さんが描かれている。
 “自分らしく生きるモデル”として取り上げられた葵さんは、同じ境遇の人たちなど新しい層にファンを増やし、中性モデルとして活躍の場を広げた。
 もちろん、良い意見ばかりではなかったが、事務所の理解や戦略もあり、葵さんは『急だったけど、一歩先のステージに行くことができた』と嬉しそうに笑っていた。
 そして、心ないことを言われた日は、植物レストランで愚痴を吐きながら大盛のサラダを食べている。
 なんにせよ、葵さんは葵さん自身で今回の騒ぎを解決したのだ。
 葵さんはすごい。本当にすごい。
 私も葵さんのファンのひとりとして、心から応援していきたいと思っている。

 あれから数週間経ち、待ちに待った夏季休暇が訪れた。
 うちの会社はまとまった夏季休暇を自分の好きなときに五日間消化することができる。
 私はとくに用事もなかったが、八月末からお休みを取ることにした。
 そして今、やることも浮かばないまま自分の部屋のベッドで大の字になって寝転んでいる。
 1K、築十二年、駅から徒歩十五分で、家賃は八万ぴったり。
 東京はやっぱり家賃が高い。こうして寝ているだけでお金がかかるのだ。
 天井を見つめながら、今日という日をどう過ごすか考えあぐねていると、ふとあることが思い浮かんだ。
「今日はご飯、自分で作ってみようかな……」
 思い起こせば、自分のご飯を作ったのはどれくらい前のことだろう。
 こんな私でも、入社して一、二か月のころは、健康に気を付けようと息巻いていたのだ。
 しかしときが経つに連れ、残業も増え、飲み会も増え、気づいたらカップラーメンすら作らなくなっていた。
 レシピ投稿サイトに勤めているくせに料理が下手なんて、ユーザーに知られたら笑えない話だ。
 別に料理が嫌いなわけではなくて、ただ本当にセンスがなくて上手くできないだけなんだけれども……。
 いや、でも、いつまでもこのままじゃまずい。
 私は動画再生を止めて、ひとまず体を起こしてみた。
 そして、草壁さんが軽やかに料理をしていた姿を思い出す。
 私もあんな風に、おしゃれな何かを作れる人間になりたい……。
「よし! 入社当初のやる気を今復活させるときだ……!」
 そう思い立って、勢いよく立ち上がり、冷蔵庫の扉を開く。
 しかし、自分のやる気とは裏腹に、冷蔵庫の中身は、賞味期限の切れたチーズと、醤油とマヨネーズしかない殺風景な状態だった。
「まずは買い出しか……」
 パタンと静かに扉を閉めて、私はスニーカーを履いて外に出た。

 三軒茶屋は昼も夜も賑やかだ。
 小さなお店が密集した三角地帯の夜はまさにカオスで、小窓から覗きたくなるような不思議なお店ばかり。
 今はお昼だからどのお店も閉まっているけれど、芸能人が営業しているお店もあったりする。
 大型スーパーに向かうまでの道に植物レストランがあるので、Tシャツデニム姿のままなんとなく通り過ぎると、なんとそこには草壁さんの姿があった。
 花に水やりをしている草壁さんも、目を丸くしたまま私を見ている。
「ついに会社を辞めてこっちを本業に……?」
「ちげぇよ。有休消化日だ。制度厳しくなったから人事に注意されてな」
「なるほど、お疲れ様です……」
「花井は夏季休暇って言ってたな。どこか行くのか」
「いや、とくに予定が無いので数年ぶりに料理をしようかななんて血迷ってみまして……えへへ」
「すぐそこに美味いちゃんぽん屋あるぞ。あと牛丼屋は今日並盛が半額らしい」
「作るなってことですか?」
 すっかり草壁さんに、料理出来ない人間認定をされてしまったことは仕方ないけれど……。
 ぐぅの音も出せない私を見て、草壁さんが心配そうに問いかけてくる。
「なにを作る気だったんだ」
「いや、とくに決めてなかったんですけど、弊社のレシピを見ながら作ろうかなって。このコンテスト優秀賞を受賞したやつとか!」
「それ揚げものだけど、花井ん家に揚げ物に必要な調理道具一式あんのか」
「え……、深めのフライパンじゃダメですかね?」
「かす揚げ、菜箸、バット、キッチンペーパー等はあんのかって聞いてんだ」
「……ないですね」
「なんでお前ら料理しない勢は、なにも学んでないくせに謎の自信で難易度高いものから作ろうとするんだ。謎味にされる食材に謝れ」
 白目をむく勢いで叱られた私は、全て正論過ぎてそのまま苦笑いすることしかできない。
 だって……レシピを見ると作る気が失せてくるんですもん……という反論はさすがに口にせずにぐっと飲み込んだ。
 その代わりに、私は口を尖らせたまま、小声でつぶやく。
「だって、草壁さんの料理姿見てたら、私もなにか作ってみたいなって思っちゃったんですもん……」
 そう言うと、草壁さんは水やりをしながら、しばらくじっと私を見て固まっていた。
 それから、仕方ないと言うようにキュッと蛇口の捻って水を止める。
「今から鬼の料理教室を開く。食材を買ってここに集合だ」
「お、鬼の……?」
「なんか……お前がもし一生独身だったとき、どう生きていくのか一気に不安になった」
「勝手に私の未来想像して不安にならないでくださいよ⁉︎」
 全力でつっこみなからも、私は草壁さんに言われた通りの食材を買いに向かった。
 ちょっとしたものを作るつもりが、まさかこんな展開になるなんて……。
 完全に仕事モードのスイッチが入った草壁さんを見て、私は震えあがりながら食材をカゴに入れていた。


 食材をなんとか買い終えて、植物レストランの前に着くと、ちょうど葵さんからメッセージが返ってきた。
【えー! そんなおもしろいことやってるなら行く! ていうか僕の家のキッチン使いなよ!】
 仕事を終えたらしい葵さんは、どうやらもうすぐ家に着くようで、私たちに合流したいと言ってきた。
 正直一対一でレッスンを受けるのは怖かったため、葵さんが来てくれると知って安心した。
 そんなこんなで、葵さんの帰りを待ってから、葵さんの部屋へと向かったのだった。
 そして今、私は緊張した面持ちで包丁を握りしめている。
「爽くん、部屋中に物騒な空気醸しだしすぎ」
「花井が怯えてるからだろ」
「草壁さんのオーラが怖くて萎縮してるんですよっ」
 震えながらエプロンを身に着け、私はいよいよ草壁さんの鬼の料理レッスンを受けることとなった。
 葵さんはどう見ても今の様子を楽しんでいる。
 ちなみに今日の葵さんは、女性誌での撮影だったようで、ストレートロングの黒髪のウィッグをつけていて相も変わらず美しい。
 ただの白シャツがなんであんなにおしゃれに見えるのか謎だ……なんて見惚れていると、バチッと葵さんと目が合ってしまった。
「なに? 僕に見惚れちゃった?」
「は、はい……」
「えー、かわいい」
 なんてやりとりをしていると、刺すような視線がキッチンから飛んできたので私は慌てて葵さんから離れた。
 危ない危ない、うっかり目で殺されるところだった……。
 慌てて対面式キッチンの中に入ると、草壁さんは食材をきれいに並べて準備万端の様子だ。
 そして真剣な顔つきで、作業前に問いかけられる。
「まず何事も目的を決めることが大事だ。花井、なにか目標はあるのか」
「目標? えーっと、えっと……じゃあ、恋人に作っても恥ずかしくない料理ができるようになりたいです!」
「それは料理のできる恋人をつくればいいだけの話だ。却下」
「目標修正もされるんですかこれ?」
「冗談だ」
 冗談が分かりづら過ぎて困るんですけど。
 そんな言葉を飲み込んで、なんとか料理はスタートした。
「今日作るのは炙りサーモンアボカド丼だ。難易度は星一」
「出ました、アボカド……」
「今回はアボカド上できれいなXを描くなよ」
「なんでそんなこと覚えてるんですかっ」
 過去の失敗をいじられながらも、落ち着いて一周すればいいと言われ、私はなんとかアボカドをきれいに切ることができた。
 嬉しそうに草壁さんに見せつけると、真顔で「よかったな」と言われた。
 相変わらず鉄仮面の草壁さんとは違い、葵さんは「上手に切れたね」とまるで親のように褒めてくれた。
「じゃあ次はサーモンに軽く塩コショウして……」
 まな板の上に乗せたサーモンを見つめながら、草壁さんに言われた通りこなしていく。因みに材料費は全て草壁さんが出してくれたので、三人分作ることとなった。
 久々に生魚に素手で触れたが、サーモンはしっとりひんやりとしていて、気持ちいい。
 フライパンで油を熱し、そこにゆっくりサーモンを三切れ入れると、じゅわっという音を立ててサーモンの身が白くなっていく。
「しっかり焼かなくていい。レアの方が美味しいから」
「はっ、はい」
 言われた通りにサッと炙る程度にして、コロッと身を裏返した。
 周りだけ炙られた状態のサーモンをすぐにまな板の上に取り出し、半生の状態のそれを食べやすい薄さに切り落とした。
 火が通っている部分が脆く、切るときに少しバラけてしまったけれど、きれいなレア状態に焼くことができた。 
 つやつやと輝くサーモンをそっとご飯の上に乗せて、分厚く切ったアボカドもきれいに盛り付ける。
 最後にごま油と醤油を混ぜただけのタレを回しかけて、細かく切った万能ねぎを散らしたら完成だ。
「お、美味しそう……。サーモンがごま油で輝いてます……」
「十五分もあればできる。これなら花井の脳でも覚えられるだろう」
「私の脳」
 草壁さんの発言はともかく、完成した美しいどんぶりに感動していると、葵さんが「めちゃくちゃ美味しそう」と可愛い笑顔で近づいてきた。
 私でもこんなに美味しそうなご飯を作れるなんて……。
 感動した私は思わず丼ぶりを両手で持ちながらつぶやく。
「葵さん、これでいつ彼氏ができても大丈夫ですね私……?」
「え、ダメだよそれは」
「ええ?」
「彼氏なんてつまんないもん、作っちゃダメ。ね?」
 髪の毛を触りながらそう囁かれて、私は葵さんを見たまま固まってしまった。
 あまりに美しい顔が目の前にあると、言葉が出てこなくなるんだな……。
 葵さんのプライベートでのファンサ―ビスに完全に当てられていると、草壁さんが「じゃれてないで早く食え」と怒った。
 パッと葵さん離れると、葵さんはつまらなさそうに口を尖らせている。
「爽君、邪魔しないでよ」
「あんまり茶化すな」
「茶化してないよ、全然本気」
 笑顔でそう言い放つ葵さんから、若干ぴりっとした空気を感じ取ったけれど、私はそこから逃げるように丼ぶりを持ってダイニングテーブルへと運んだ。
「まあ皆さん一緒に食べましょうよ」
「わーい、菜乃ちゃんの手料理だ」
「まるで花井の家のようにするな。葵の家だぞ」
 草壁さんの意見を無視して、ぴょんと跳ねるようにやってきた葵さんは、すぐに着席した。
 もし私の家だったらこんな風に立派なダイニングテーブルも、おしゃれな椅子も無かったから、葵さんの家を借りることができて本当に良かった。
 草壁さんもなんだかんだ言いながら着席し、三人で手を合わせる。
「いただきます」
 そう言って、サーモンとアボカドが乗ったご飯を口に運ぶと、口の中にまろやかなこくが広がった。
「お、美味しい……」
「菜乃ちゃん、これ本当ご飯すすむね!」
 サーモンのしっとりした油と、アボカドのクリーミーな味わいと、ごま油の香りが見事にマッチして、ご飯との相性が抜群すぎる。
 全部がバランスよく口の中で混ざり合って、一口の幸福度がかなり高い。しかも見た目もおしゃれだ。
 こんな料理が簡単に作れるなんて、確かに知っておいて損はない神レシピだ。
 草壁さんに感謝も気持ちが止まらない。
 最初は教わることがだるいと思ってしまっていたけれど、私はしっかり草壁さんの目を見つめてお礼を伝える。
「草壁さん、私この料理毎週作りますね! 本当にありがとうございます」
「いや、脂質も高いし毎週出されたら彼氏もキツいからやめておけ」
「本当にありがとうございます!」
 草壁さんのマジレスを完全に無視して、私は自分でもこんなに美味しいご飯が作れたことに感動していた。
 草壁さんと出会ってから、色んな経験が楽しいと思えるようになったな。
 しかも、葵さんのようなお客さんとも友達になれたし……。
 いつもの私だったら、今日という休日は、昼寝してスマホをいじって出前を取って終わっていた。
 自分で作るという楽しさを、改めて草壁さんが教えてくれたから、今日はすごくいい休日になった。
「草壁さん、作るのって、食べるのと同じくらい楽しいですね」
 笑顔でそう言うと、草壁さんはほんの一瞬だけ笑った気がした。
 その日、私たちは三人でご飯を食べ終えて、葵さんの写真集の鑑賞会をしてから解散した。



「はあー、お腹いっぱい」
 そんなひとりごとを呟きながら、葵さん草壁さんとお別れして、エレベーターに乗っていた。
 そしてロビーに着いてマンションを出ようとしたとき、どこかで見たことのある女性が私のことを凝視していた。
 ぎょっとして立ち止まり、私も彼女のことを見つめていると、その女性はツカツカとヒールの音を立ててこちらに近づいてくる。
 腰まで伸びたきれいな縦ロールに、お人形さんみたいな華やかな顔立ち……そうだ! お店で一瞬だけ会ったお客さんだ!
 なんて思い出したときには、目の前に彼女がいた。
「あのっ、今このマンションから出てきましたよね! まさか爽君の部屋に行ってたんですか?」
「ま、まさか! 葵さんのお家にお邪魔して、草壁さんから料理指南を受けていました……」
「爽君とプライベートで会ってたんですか?」
 私の言葉に、彼女……たしか芽依さんは元々大きな目をより大きく見開く。
 ど、どうしよう……。ただただ鬼の形相で料理を監視され、無表情で手料理を食べきってもらっただけなんだけれど……。
 しどろもどろしていると、芽依さんはそんな私にさらに苛立ったのか、ぼそっとつぶやくように言い放った。
「爽君、意外と素朴顔の子が好きなのかな……」
「素朴顔」
「なんでもないです。突然すみませんでした。さようなら」
「いえ、こちらこそ……」
 わけも分からないままぺこっと頭を下げると、芽依さんはつんとした表情のままマンションの中へ入っていった。
 芽依さんは草壁さんのことが大好きという萼さんの言葉を思い出し、私は若干気まずい思いになった。
 でもすぐに、『あそこまで敵意むき出しにならなくても⁉︎』という気持ちがふつふつとわいてきた。
 でも芽依さんからしたら、私は突然現れたくせに常連客ぶってる女でしかないのかもしれない。
 そう思うと、なにも言い返すことができずにその美しい背中を見送ることしかできなかった。
「そ、素朴顔ってなんだー!」
 ロビーのドアが閉まる瞬間、私は、半径十五センチ以内でしか聞き取れない声でそう叫んだのだった。

第七話 終

 どうして会社だとこうも話しかけづらいのだろう。
 私と草壁さんは普段まった関わることのない部署だが、今日はたまたま話しかけなければならない状況に陥っていた。
 どうしても会議室の空きが足りず、社内打ち合わせの会議室と、来客用の会議室をチェンジしてほしいというお願いに来たのだ。
 来客用の大きい会議室が欲しい時間帯に、たまたま社内ミーティングを入れていたのは草壁さんだった。
 私は恐る恐る眉間にしわを寄せて仕事している草壁さんの元へ近づくと、私を押しのけて榎本さんがやって来た。
 榎本さんは今日も美しい黒髪を揺らしている。
「草壁さーん、さっき経理から内線ありましたよ。この食事会の経費の詳細を教えてほしいって」
「丸吉食品会社の常務と飲んだ。そう答えておいてくれ」
「分かりましたー! ていうか、このお店超美味しいって有名なところですよね。さすが草壁さんお店選びのセンスもいいですね」
「それ選んだの葛谷(クズタニ)だぞ。無駄口叩かずに仕事しろ」
「目標達成したら、今度このお店私も連れてってくださいよ」
 草壁さんの冷たい返しをものともせず会話し続ける榎本さんは、やはりハートが強い。
 それにしても、久々に聞いた元カレの名前にびくっと肩が揺れてしまった。
 そうか、元々洋介は草壁さんと同じ部署だったけれど、先月まで別の階で仕事していたんだ。
 それがいつのまにか、私と草壁さんと同じ階に席移動していた。
 入口の近くにいる洋介をチラッと見ると、タイミング悪く目が合ってしまった。
 げっ、最悪だ……。
 洋介も一瞬、バツの悪そうな顔をしていた。
 引きつった顔のまま草壁さんの方に顔を戻すと、今度はその顔のまま草壁さんと目が合ってしまった。
「なんて顔してんだお前。喧嘩売りに来たのか」
「ち、違います。会議室変更のお願いに来ましてっ」
「なんだよ、そんなことかよ。いつ?」
 草壁さんは私に目もくれずにパソコンと向き合いながら、数秒で会議室を移動してくれた。
 やっぱり会社での草壁さんはなんだか話しかけづらい。
 私はぺこっと頭を下げて、そそくさとシステム事業部から去っていった。

 あと二時間後には大事な会議がある。
 こんなことで時間を潰している暇はないのだ。
 自分の席に戻った私は、すぐにプレゼン資料のファイルを開く。