私は、草壁さんに路地裏で拾われたタイミングに運命を感じながら、笑い涙なのか分からない涙を拭ったのだった。
春の夜風が、土と涙で汚れた頬を撫でていった。
第一話 終
出社時間よりも四十分早く会社に着くと、いつもは長蛇の列を作っているエレベーターにすんなりと乗ることができた。
誰もいない空っぽのエレベーターに入り、閉まるボタンを押そうとすると、誰かがこちらに近づいてきたので慌てて開くボタンを連打した。
「ありがとう」
「あ、いいえ……」
乗り込んできた人物を見て、私の心臓はどきりと跳ねあがる。
薄い水色のシャツをサラッと着こなした、長身のイケメンサラリーマンだなと遠目からは思っていたが、その人物は昨日腹ペコの私を救ってくれた草壁さんだったのだ。
ちょうど、昨日の夢のような出来事を思い出してぼんやりしていたところで出くわしたので、私は焦ってしまった。
昨日はあんなに素敵な料理をありがとうございました。ハーブティーもパスタもすごく美味しかったです。枝豆を一緒に植えたのもとても楽しくて、またあのお店に行きたくなってしまいました。
言わなきゃ、言わなきゃ、と思っているうちに、私たちのオフィス階に到着してしまいそうになった。
ボタンに指を添えたまま、背後にいる草壁さんの気配を感じ取ることしかできないでいると、エレベーターのドアが開いたと同時に、ぽこんと頭をなにかで叩かれた。
振り返ると、空のペットボトルを手に持った草壁さんが、無表情なまま私を見つめていた。
「今日はちゃんと昼食えよ」
「え、あ……!」
「無視してんなよ」
そう言い残して、草壁さんは私より先にカードキーをかざして、オフィス内に入っていく。
ほんの数秒の出来事に、私は呆然とその場に立ち尽くすことしかできない。
昨日、夢みたいなお店で草壁さんの手料理を食べたことは、疲れて見た幻じゃなかったんだ。
じわじわと嬉しさが込み上げてきた私は、ニヤけを抑えることができない。
エレベーターの前で立ち尽くしていると、うしろからドンと誰かがぶつかってきた。
「すみませーん。こんなところに人がいると思わなくて」
「あっ、ごめんなさい! 邪魔なとこにいて」
慌てて謝ると、彼女は冷たい瞳で私をじっと見つめてくる。この人は、たしか草壁さんと同じシステム部に配属している、ひとつ下の代の子だ。新卒から女の子が入ってくるのは珍しい部署なので、なんとなく顔に見覚えがある。
きれいな黒髪は、パツッと肩上で切りそろえられていて、少しタレ目がちな目元には泣きぼくろがある。
なんだか色気のある子だなと思っていたから、強く印象に残っていたんだ。たしか名前は……榎本(エノモト)さんだ。
そんな榎本さんに暫し睨まれたままでいると、彼女は訝しげな表情のまま問いかけてきた。
「あなた、たしか営業部の花井さん……ですよね?」
「はい、営業部三年目の花井です」
「……あの、さっきの会話偶然トイレから聞こえてたんですけど、花井さんって、草壁さんと付き合ってるんですか?」
「え⁉︎ そんなまさか!」
「ですよね。じゃあ大丈夫です」
慌てて否定した一秒後、榎本さんは私のことを見向きもせずにカードキーをセンサーに当てて、中に入っていった。
あまりにも露骨な態度に、私は再びその場に立ち尽くしてしまう。
「な、なんだ……今のは……。なんだ今のは⁉︎」
社内一のエリートイケメンに近寄るとこんなに怖いことがあるのか。
少女漫画のような牽制をされたことで、私は榎本さんを恐れるより前に、改めて会社での草壁さんの評価の高さに圧倒されてしまった。
草壁さんに軽々しく会社で話しかけるのはやめておこう。
私は固く、胸に誓ったのだった。
◯
草壁さんと鉢合わせないようにこそこそとオフィスを出た私は、今日もあの店に向かっていた。
私が住んでいるアパートの最寄駅も三軒茶屋駅なので、少しお店を覗いてみて入りにくそうな雰囲気だったら素通りして帰ろう。それに、お客さんは隣のマンションの住人限定と言っていたし……。
しかし、三角地帯を抜けた住宅街の奥に、あんなに緑に囲まれたレストランがあるなんて、よく今まで知らずに暮らしていたものだ。
緑に囲まれて食べる料理は、今まで食べたどんな料理よりも新鮮で美味しく感じた。
またあのご飯が食べたい……。あの空間で癒されたい。
それに、草壁さんが本当の営業日は毎週金夜だけだと言っていた。
金曜である今日、どんなお客さんが来て賑わっているのか気になって仕方がない。
「えっと、たしかここら辺の角を曲がって……。あった!」
入り組んだ道を抜けた先に、緑に包まれた建物が遠くに見えた。
大きなマンションが隣にあるから、今までそっちに気を取られて気づいていなかったのだろうか。
どうやらまだ開店前のようで、明かりは灯っていない。
草壁さん、私より先に退社していたはずなのにな……。
なんて思っていると、背後に人の気配を感じた。
「なにしてんだ、花井」
「ぎゃっ、草壁さん!」
「電柱の陰から人の家覗くなんて不審者すぎるだろ」
両手にスーパーの袋を持った草壁さんが、怪訝そうに眉を顰めて私を見ていた。
なるほど、今まで買い出しをしていたから遅かったんだ。
「すみません……。様子を見ていただけなんですが」
「ちょうどよかった、はいこれ」
「え……」
ぽんと手渡されたのは、古びた銀の鍵だった。戸惑った表情をしている私を見て、草壁さんは首を傾げる。
「両手塞がってて開けられないから開けて。食べに来たんだろ?」
迷っていた私がアホらしく思えるくらい、草壁さんは当然のごとく私を招いてくれた。
嬉しくなった私は、思わずこくこくと頭を縦に振って、笑みを浮かべる。
すると、そんな私を見た草壁さんが、ぼそりとひと言つぶやいた。
「なんかお前……、クォッカに似てるな。昨日から思ってたけど」
「え、なんですかそれ? 芸能人ですか?」
嬉々として問いかけると、草壁さんはふるふると首を横に振ってこう答えた。
「まあ、あとで調べて見て」
「はあ、分かりました……?」
カランコロン、と音を立てて中に入ると、再び植物の甘い匂いが鼻に立ち込めた。
ああ、やっぱりこの空間、癒される……。
店内に入った瞬間、私は深く呼吸をして、植物たちの生み出した空気を肺の中にいれた。
今まで植物に関心を抱いたことなどなかったけれど、緑に包まれるだけでこんなに癒し効果があるのならもっとはやく気づきたかった。
深緑色の丸い椅子に荷物を置くと、草壁さんが指示をした。
「そうだ。外の看板の電気つけてくれるか。外にあるスイッチを上げるだけだから」
「あ、はい! 分かりました」
看板なんてあったのか。本当にここはお店なんだ……。
気づかなかったけれど、『植物レストラン』と書かれた小さな看板が玄関の脇にあった。こんなの誰も気づかないレベルのサイズだ。
私は切り替え式のスイッチを上に押し上げて、光を灯した。
ブン、という鈍い音を立てて、『植物レストラン』という文字が浮かび上がる。
いったいどんなお客さんが来るんだろう。ワクワクするな。
「草壁さん、お客さんってどんな人が訪れるんですか?」
店内に戻ってそう問いかけると、草壁さんはすでに料理の下準備に取りかかっていた。
「来るのは、隣のマンションの住人だけだ。俺も普段はそっちに住んでるから」
「えっ、そうなんですか! なるほど……」
隣のマンションは中々に大きく、家賃も高そうな物件だ。
草壁さんほどの役職になれば、余裕で住めるレベルなのだろうけれど……。
意外にも草壁さんはプライベートなことをサラッと教えてくれるので、私はその度に驚いてしまう。
とりとめのない話をしているうちに、草壁さんは手際よく食材を切り始めた。
手に持っているのは……大きめサイズのアボカドだった。
「私アボカド大好きなんですけど、いっつも上手に皮が剥けないんですよね」
「なんでだよ、簡単だろ」
「ぐちゃってなっちゃうんですよ! 唯一作れる料理であるサラダに入れたいんですけど、結局いつもスプーンでほじくっちゃってます……」
私が残念そうにそうつぶやくと、草壁さんは数秒、間を置いてから、私を手招きした。
「こっちおいで、花井」
ただのそんな仕草がかっこよすぎて、うっかりときめいてしまいそうになった。危ない、危ない……。
私はどんと拳で心臓の真上を一度叩いてから、草壁さんにいるカウンターの中へと入った。
仕事では一切関わりのない上司なのに、私今、アボカドの剥き方の講習を受けているんだ……。なんだかシュールな絵面だ。
「まずアボカドを寝かせて、一周させながら皮を切る。パカッと開けて、種に包丁の顎を刺して種を取って」
「先生すみません、一周させるところからミスりました」
「なんでそんな勢いよく切れ目が行き違ってんだよ。逆に器用だな」
「す、すみません……」
ものすごく深刻そうに謝ると、草壁さんが私の青ざめた顔を見て真顔で吹き出した。
それから、私の手から無残な姿になったアボカドを取ると、くるくると器用に皮を切っていく。
「こうやって表面に薄く切れ目を入れるとバナナみたいに剥けんだよ」
「さっき笑いましたよね」
「あんなゾンビ顔で謝られたら笑うだろ」
「ゾンビ顔」
薄く綺麗にスライスされていくアボカドに、レモン汁を塗る作業だけ任された。
どうやらこれで色止めができ、美しい緑が保たれるのだとか。
草壁さんの料理は、味も美味しいけれど、見た目がとにかく美しいんだ。
あの料理ができるまでに、きっとこれ以上の沢山の下準備があるんだろう。
チラッと草壁さんを尊敬のまなざしで見上げると、バチッと目が合ってしまった。
思わずアーモンド形のきれいな瞳に吸い込まれそうになったとき、カランという鐘の音が店内に響いた。
「お疲れー、今日メニューなにー?……って、おぉ?」
そこに現れたのは、黒髪ロングがよく似合う長身の美女だった。
彼女は黒めがちな瞳をパチクリと瞬かせて、私と草壁さんの顔を交互に見比べている。
「いらっしゃい」
草壁さんはいつもどおりの声音でそう言うと、おしぼりを私が座っていた隣の席に置いた。
私も慌ててカウンターから出てぺこりとお辞儀をする。
キャスケット帽のつばを少し上げて、彼女は暫し沈黙をつくってから真剣な表情で口を開いた。
「会社の後輩を、手料理をダシに呼びつけて、家に連れこもうとしている途中のイチャイチャクッキング……」
「なにを言ってるのか全く分からない。座れ」
間髪入れずに、呆れた口調で草壁さんがそう指示すると、笑いながら彼女は席に座った。
「なーんだ、女っ気ない爽(ソウ)君が、やっと彼女つくろうとしたのかと思ったのに」
ケラケラと楽しそうに笑う彼女の隣に静かに座ると、彼女は私に白い手をさしだしてきた。
「初めまして。隣のマンションに住んでる茎田葵(クキタアオイ)です。葵って呼んでね。一応モデルやってます」
「あ、初めまして! 草壁さんと同じ食品会社で宣伝部の、花井菜乃です」
あまりの美しさに圧倒されながら握手をすると、太陽みたいな笑顔でよろしくね、と言ってくれた。
ま、眩しい……。
忙しすぎて、たまにシャンプーとリンスを混ぜて洗髪してしまう私とは、恐らく人間力から違う。
恍惚として見つめていると、葵さんは無邪気な声で暴言を吐いた。
「爽君、会社でめちゃくちゃ嫌われてるでしょ。表情筋が死んで顔が能面だから」
「え? いや、表情筋は死んでますけど、女性には人気です!」
慌てて答えると、カウンターから草壁さんが『俺の笑顔の可愛さを知らないのか』と言って睨んできた。
葵さんの、キュートな顔からは想像できない毒舌に、思わず緊張が少し解けた。
「あはは、菜乃ちゃんおもしろいなー。あ、今、やっと表情和らいだね」
「モデルさんって、私初めてお会いしたので、きれい過ぎて、緊張してたんですけど……」
「え、なにそれかわいいー」
「葵さんは、ここの常連になってどのくらいなんですか……?」
「一年前! 丁度事務所に所属して、お仕事貰えるようになって、隣のマンションに越してきたの」
「よくこのお店にひとりで入る勇気ありましたね……。一見なんのお店か分からないのに」
そう言うと、葵さんはうーん、と昔を懐かしむように目を細めた。
とそのとき、草壁さんが『やべ』という声を小さくあげた。
会話を一旦停止して、頭を抱えた草壁さんのほうをふたりで見つめる。
「まさかのバターが品切れていた……」
「あ! 私買いにいきますよ」
すかさず手を挙げてそう答えると、草壁さんが『それは流石にいい』と申し訳なさそうに首を横に振った。
「いや、私、自分の食欲のために行くだけなんで、全然遠慮しないでください」
「そんな真っ直ぐな目できるんだな、花井」
「はい! 駅前のスーパーまで行ってきます!」
そう言って、財布を取り出して店を出ようとすると、葵さんが私の手を握った。
すっと立ち上がった葵さんは、モデルさんなだけあって、私より頭ひとつ分大きい。
頭に疑問符を浮かべながら葵さんを見つめていると、彼女は当然のように囁いた。
「この時間、ナンパ多くて危ないから、一緒に行くよ」
「え、その理論ですと、葵さんと一緒のほうが危ないのでは……」
「丁度タバコも買いたかったし。ね?」
なんだかかっこいい葵さんに押されて、私は思わずこくんと頷く。
草壁さんは申し訳なさそうにしていたが、その間にデザートをつくってくれることを約束させて、私たちはお店を出た。
〇
深夜になっても、三茶は明るくにぎやかだ。
暗い住宅街を抜けて、三角地帯の方面へ戻ってくると、テラス席で楽しそうに飲む若者の声が聞こえてきた。
「あ、このちゃんぽん屋さん、すっごく美味しいんですよね。行ったことあります!?」
「ううん、気になってたけどまだないや。今度行ってみようかな。菜乃ちゃんもこの辺に住んでるんだね」
「私は上馬の方なんですけど……」
興奮気味に話しかけてから、私は少し恥ずかしくなって俯く。
初対面で、しかもモデルの葵さんに、いきなりグルメ話を振ってしまった。
「菜乃ちゃんは、本当に食べることが大好きなんだね。食品会社向いてると思う」
「いやいや、ただの大食いなだけで……」
「実は、まだまだ東京歴浅いからさ。色んなお店教えてね」
葵さんって、キラキラした笑顔が可愛かったり、今みたいにお姉さんぽかったり、さっきのようにかっこよく見えたり、色んな顔を持っているな。
ただきれいなだけじゃなくて、コロコロ新しい顔を見せてくれる。
そんな葵さんからしたら、草壁さんが能面に見えて当然だろう。
葵さんにバレないように思い出し笑いをしながら歩いていくと、駅前の大型スーパーが見えてきた。
二十四時間営業のスーパーには、どんな時間帯でも人が沢山いて、なぜか少し安心する。
上京したばかりの頃は、こんな深夜でも私みたいに残業して、お総菜を買って帰るサラリーマンがいるんだと、涙が出そうになったものだ。
「あ、バター発見」
地下の乳製品コーナーでバターを発見した葵さんが、また太陽みたいな笑顔を向けた。
「あと、歩きながらこれも飲んじゃお。爽君のおごりだし」
「ええ、いいんですかね……」
「いいのいいの」
そう言って、葵さんは無邪気に缶チューハイを買い物かごに入れる。
草壁さんに申し訳なく思いながらも、「おつかい代だよ」と葵さんに可愛く説得されてしまった。
お酒とバターが入ったかごを持ってレジに向かいながら、葵さんは懐かしむように語りだす。
「上京したての頃、用もないのにこのスーパー来てたなあ。なんか人恋しくてさ」
「ええっ、今私もそんなこと思って、感慨深くなってました」
「本当に? あはは、地方出身者あるあるなのかな」
セルフレジで数秒で会計を済ませて、私たちはスーパーをあとにした。
お仕事があまりない時代は、世田谷線沿いの安いアパートに住んでいたという葵さん。
酔っ払いサラリーマンたちに紛れて、スーパーから出てすぐにあるキャロットタワーの前で缶チューハイを開けて、乾杯する。
ぬるい春の夜風が葵さんの髪を揺らす。
目の前では、酔いつぶれた上司を駅に運ぶ若手社員や、街頭インタビューを受けている女子大生や、酒の勢いに任せてナンパをしているお兄さんがいる。
スーパーから出てきたおじさんが、私たちと同じように缶チューハイを開けてグイッと飲んでいる姿を見て、思わずふたりで笑ってしまった。
「あはは、おんなじだ」
葵さんの笑顔を見て、私はほろ酔い気分のまま、思わずつぶやいてしまう。
「葵さんって、色んな顔を持ってますね。今みたいに無邪気だったり、可愛かったり、かっこよかったり……素敵です」
そう言うと、葵さんは一瞬目を丸くして、それから照れ臭そうに『そんなことないよ』とキャスケット帽のつばを下げた。
それから、なにか思い出すように、ぽそりとつぶやく。
「菜乃ちゃんみたいな子が、あのとき隣にいたらな」
「え、あのときって……?」
「菜乃ちゃん、もう気づいてると思うけど」
葵さんがそこまで言いかけたとき、ガラガラ声がうしろから聞こえてきた。
「ねぇ、お姉さんたち、これからどこで飲むの?」
くるっと振り返ると、そこには完全に酔っぱらっている、三十代前後の男性二人組がいた。
スーツはしわくちゃで、顔は赤く、息も酒臭い。
うわぁ、めんどくさい……。穏便に離れたい。
葵さんは、なにも言わずに私の手を繋いで、キャロットタワーに背を向けて歩き始める。
すると、すかさず彼らは葵さんの前を通せんぼして止めに入った。
「きれいなお姉さん、顔ちゃんと見せてよ……あれ?」
嫌な沈黙が流れる。葵さんはキャスケット帽の下から彼を睨んでいた。
面識があったのだろうか……?
ハラハラしながらも、止めに入ろうとしたが、それは葵さんの顔を覗いた彼の声によって遮られた。
「こいつ、男じゃん。たしか前ナンパしたときも騙されたわ」
「はー? お前の目、どうなってんの。しっかりしろよ」
え……?
彼らの言葉に一瞬驚き、固まっていると、葵さんは帽子を取ってにっこりとほほ笑んだ。
それから、さっきより野太い声でこう返した。
「ほんとしっかりしろよ。女の見抜き方だけじゃなく、お前らのクズみたいな人生含めしっかり見つめ直せば」
そう言い放った瞬間信号が青に代わり、葵さんに手を引かれるがままに、私たちは全力ダッシュした。
葵さんは楽しそうに笑っていて、私はついていけない展開の連続にただただ驚いていた。
迷路みたいな三角地帯を通り抜けて、なんとかふたりを撒くと、なんだか分からない笑いがこみあげてくる。
路地裏で、息を切らしながら座りこみ、私と葵さんは吹きだした。
「あはは、葵さん、口悪すぎ……」
「口の悪さは、爽君に教えてもらったの。あの人も毒舌でしょ」
「たしかに、そうですね、ハアハア……、久々に走った」
息を整えていると、葵さんが私の頭に手をポンと置こうとして、すぐに引っ込めた。