「お姉ちゃん、こっちこっち!」
「はいはい」


 陽介君の後を追って、マヨイガの中庭を歩く。


 この屋敷の中庭は随分と広い。
 家庭菜園をしているエリアに、人工的に池が造られている庭園エリア、端の方には鶏などの家畜を飼っているエリアまである。今、私たちがいるのは、庭園エリアだ。橋が架かっていたり、人工池には立派な錦鯉が泳いだりしていて、飛び石なんかも設えられている。鹿おどしが、時折小気味いい音を上げる庭には、至るところに季節の花々が咲き誇り、今は百日紅が見頃を迎えていた。百日紅の紅い花弁は、濃緑に染まった夏の庭の中で、より際立って見える。


 陽介君は、とりわけ錦鯉が気になるらしい。池の淵にしゃがみ込んで、興味深そうに池の中を覗いている。その様子を眺めながら、私は隣で仏頂面をしている旦那様に恐る恐る声をかけた。


「あの……朧。怒っていますか?」
「……」


 私の問いかけに、朧は無言のままだ。
 朧は、整った容姿をしていることもあって、表情がなくなると途端に冷たい印象を受ける。私は手を強く握りしめると、意を決して言った。


「勝手なことをして、ごめんなさい。私、どうしてもお手伝いがしたくて」
「……お前は、ここで心安らかにいればいいと言っただろう」
「でも! 凛太郎に聞きました。お客様のおもてなしは、本当は嫁の仕事だって。一年限りとは言え、私はあなたの妻です。朧には、本当に色々と良くして貰っています。感謝してるんです。だから――……」


そこまで口にすると、朧は手を上げて私の言葉を制した。そして、赤と黒の色違いの瞳を細めると、ため息をつくなり苦笑いを浮かべた。


「お前には敵わない。俺の指示に従うことを約束できるなら、いいだろう」
「……! 本当ですか!」


 私は途端に嬉しくなって、顔を綻ばせた。


「私、頑張りますね。困った奥さんでごめんなさい。朧、ありがとう」
「……」


すると突然、朧が私の頰に手を伸ばしてきた。
 朧の手が、自分に触れるかもしれない。そう思うと、途端に胸が高鳴った。
徐々に近づいてくるその手を見つめる。


 朧の手が私の頬に触れたら――その時、自分はどういう感情を抱くのだろう。朧に惹かれ始めている自分が、彼に触れられたなら。
 朧の手から伝わる体温に、幸せを感じるのだろうか?


「……」


 けれども、朧の手は私に触れることはなかった。
 朧は、私の髪についていたらしい小さな葉っぱを摘まむと、少し困ったような顔をして、視線を陽介君に戻した。


 すると、ひとり遊んでいた陽介君が、私たちに向かって叫んだ。


「なにしてるの? 一緒に遊ぼうよ‼」
「……あ。うん、今行くよ‼」


 私は、朧をその場に残して、陽介君に近寄っていった。
 歩きながら、自分の頬に手で触れる。そこは、酷く熱を持っていて――。


「なんでがっかりしてるの、私」


 ぼそりと呟いて、小さく首を振ると、私は顔を上げて足を早めた。





「――この子どもは、いまだ『未練』を解消できていないのだ」


 あの後、陽介君とお昼近くなるまで目一杯遊んだ私たちは、屋敷に戻ってきていた。


 笹舟を敷地内の小川に流したり、虫取りをしたり、隠れんぼをしたり。陽介君は、汗だくになって夢中で遊び、疲れ切って眠ってしまった。私たちは、面布衆に部屋の一室に寝具を用意して貰い、そこに陽介君を寝かせた。


 その時に、朧が教えてくれたのだ。
 この男の子が、どうしてまだ客人ではないのかを。


「陽介君の『未練』って、なんなのですか?」


 聞いていいものかと迷いながら、朧に尋ねる。
 すると朧は少し黙った後、私に陽介君の未練を教えてくれた。


「母親が、帰ってこなかったことだ」
「……つまり、置いていかれた?」
「そうだ」


 朧はゆっくりと頷くと、自分の手を見つめながら言った。


「……俺は、相手が求めているものがわかる」
「それは、どういう意味ですか?」
「神として、そういう力があるということだ。欲求を満たすもの。希望を叶えるもの。空腹を満たすもの。心を救うもの。そういったものが、理解できる能力を持っている。それを利用して、未練を残し、現世を彷徨っている魂を導くのが俺の仕事だ」


 ――その時、はたと気がついた。


 そう言えば、私が熱を出した時に、朧がみかんの缶詰を差し入れてくれた。
それに、熱で朦朧としている私に、父と同じ言葉をくれた。
 それは、朧の能力があってのことだったのだ。


 朧は僅かに眉を顰めると、話を続けた。


「この子どもの未練を解消するには、時間が必要だった。しかし、人間の……特に、幼い者の魂はすぐに劣化する。放って置いたら魂は穢れ、邪悪な存在へと堕ちてしまうだろう。だから、俺の目が届くところに連れてきていたのだが」


 ――まさか、お前にこんなにも懐くとは。


 朧は苦笑すると、陽介君と私が作った笹舟を指で突いた。


 私は、眠っている陽介君を眺めると、深く嘆息した。こんなにも幼い子が、成仏できないほどの苦しみを味わい、現世を彷徨うはめになるなんて。
 この子の母親は、一体なにをしていたのだろう。


 顔も知らない陽介君の母親に怒りを覚える。そして、どうにかしてやれないかと思っていると……眠っていた陽介君が、小さく声を上げた。


「う、ううう……」
「陽介君?」


 しかし、声をかけてみても反応はない。固く目を瞑り、顔を歪めた陽介君は、胸の辺りを小さな手でかきむしりながら、虚空に向かって反対の手を伸ばした。


「ママ……‼ たすけ、て」
「陽介君、大丈夫⁉」


 私は、陽介君が伸ばした手を握ると、必死になって声をかけた。けれども、陽介君は目覚める様子はなく、脂汗を流しながら母親を呼び続けている。


 ――どうすれば……。
 途方に暮れていると、一瞬、視界に変なものが入り込んだ。何度か目を瞬いて、それをまじまじと見つめる。そうしている間にも、それは、まるで畳の存在を無視するかのように、床から次々と姿を現し始めた。


「……ひっ」


 それは、人間の手の形をしていた。まるで闇を煮詰めたように黒く、ひとつひとつに個性があった。筋張った大きな手。長い指を持った細身の手。紅葉みたいに小さな幼い手。皺が寄り血管が浮き上がった手。それらは互いに押し合い、絡み合いながら畳の下から姿を現し、陽介君の体を掴んでいる。そして、陽介君の小さな体を、下へ、下へと引きずり込もうとしているではないか。


「駄目‼ なによ、あんたたち‼」


 私は、大急ぎで陽介君を抱き上げると、その体を強く抱きしめた。けれども、それらの手は諦めることはなく、強烈な力で陽介君の体を引っ張ってくる。それほど力が強いわけでもない私は、陽介君の体を離さないようにするので必死だった。


 その時だ。朧が動き出した。


「真宵、動くな」


 そう言うと、片手を横に振り切った。するとどうだろう。その瞬間、黒い手は霧のような粒となって霧散してしまった。


「朧、今のは……?」


 黒い手がいなくなった途端、安堵のあまり座り込む。体が震えている。あの得体の知れないものが、また出てくるのではないかと不安で、陽介君を強く抱きしめる。すると、朧は深刻そうな顔でため息をついた。


「あれは、魂を堕落させようとするものだ。劣化し始めた魂に取り付き、穢れを早める。そして、仲間に引き入れようとする」
「あれに連れて行かれたら、どうなるんですか」
「……あれと同じもの――悪霊と成り果てる」


 ゾッとして、全身に鳥肌が立つ。一瞬、あの手と同じように、黒く染まった陽介君の姿を想像してしまい、頭を振って振り払った。


「あの。なんとかなるんですよね? 陽介君は、あんなのになりませんよね⁉」


 すると、朧は視線を畳の上に落とすと、ぼそりと言った。


「この調子では、あと数日保つかどうか」
「ま、万が一……陽介君が悪霊となったら、どうするんです」


 すると朧は、私の腕の中の陽介君を見つめると言った。


「悪霊になるということは、想像を絶するほどの苦痛を魂にもたらす。その子どもが、そうなってしまった場合……地獄の苦しみを味わう前に」
「……っ、駄目です」


 最後まで聞きたくなくて、朧の言葉を遮る。そしてもう一度、意識を取り戻さない陽介君を強く掻き抱くと、朧を睨みつけて言った。


「――朧。どうすればいいですか。どうすれば……この子を救えますか」
 すると、朧はおもむろに外に視線を向けた。そして、太陽をじっと見つめていたかと思うと、ぽつりと言った。


「――どうも、今の時期は時間がかかっていけない」


 その言葉の意味がわからずキョトンとしていると、朧は私に言った。


「真宵。そろそろ飯時だろう。なにか作ってくれないか」
「こ、こんな時に、なにを言ってるんですか! 空腹ぐらい我慢してください‼」


 あまりにも呑気な言葉に憤慨していると、朧は小さく笑みを零した。
そして、私の腕の中で眠っている陽介君を指差して言った。


「俺じゃない。ソイツが――食べたいと言っている」