『小川商店』、通称『オガワ』――そのまんまだけど――は、あじさい団地に続く細い上り坂の途中にある。駄菓子やカップ麺やちょっとした生活雑貨が置いてある、こぢんまりしたお店で、団地に住む小・中学生がしょっちゅうたむろしている。
 始業式を終えて、学校帰り、私と苑子はオガワの店先の色あせたベンチに座ってアイスを食べていた。まだ四月だというのに、歩いていると背中が汗ばんでしまうほどの陽気だった。
「あー。またハズレだー」
 半分ほど食べ進めたところで、ミルクバーの棒に「ハ」の赤文字が現れて、私はぶうたれて両足をじたばたさせた。
 苑子はくすりと笑うと、
「私もハズレ。クラス替えで、一日分の幸運を使っちゃったみたい」
 と言って、ミルクバーをかじった。
 苑子の「ひとくち」は、私のちょうど半分ぐらいだ。食べるときもしゃべるときも、目一杯大きく口を開いているのを、見たことがない。
 小リスみたいにちまちまと、アイスをかじる苑子。
「ひとりの人間の一生において与えられる、幸運の数と不運の数は、ひとしい」というのが苑子の持論だ。
 つまり。ラッキーなことのあとには、アンラッキーなことがある。アンラッキーなことのあとには、ラッキーなことがある。
 ラッキーラッキーラッキーと、ラッキーが続いたら、そのあとにはアンラッキーが続く。そんなふうにしてバランスが保たれている、らしい。
 だから、
「二年生になっても果歩ちゃんと同じクラスだったのが、すごいラッキーだったから。だから、今日は、アイスがハズレるぐらいの小っちゃい不運がたくさん起こんなきゃ、釣り合わない」
 なんて言って、苑子は笑う。
 やわらかい風が吹いた。萌え出た緑と、開いた花のにおいが混じったような、くすぐったい風。苑子の艶やかな黒髪を揺らす。
「果歩ちゃん! 溶けてる、溶けてる!」
 苑子が、アーモンド型の綺麗な目を見開いた。我に返った私の手は、溶けたアイスのしずくで、べたべただ。慌ててハンカチで拭って、残りのアイスのかけらを口に放り込んだ。舌がキンと痺れる。
「あ」
「あ」
 坂道を上ってオガワに近づいてくる猫背の男子の姿が目に入って、私と苑子は揃ってまぬけな声を漏らした。
 ハルだ。晴海。島本、晴海。
 ハルがまとっている学生服は、真っ黒で生地もしっかりしてそうで、女子のセーラー服よりも暑苦しい。脱げばいいのにと思うけど、それすら「めんどくさい」のひと言で済ますんだろう、きっとあいつは。
「おまえらアイス食ってたの? うまそう」
 すっ、と、ハルは、ベンチにいる私たちの真ん前に立った。斜め掛けのスクバの内ポケットをごそごそして、じゃら、と、小銭を何枚か取り出す。ぱっと見、十円玉の比率が高い。
「あー。足りね。化石ガチャガチャやったらアイス買えねーや」
「ていうか、ポケットに小銭入れて持ち歩いてんの? 財布ぐらい買いなよ」
「めんどい」
「いちいち小銭探す方がよっぽど手間じゃん」
 うっせーな果歩は、と、ハルはむくれた。
「ていうか、ハル、髪、はねてるよ。 気づいてる?」
 後頭部の髪の一部が、ぴょこんとアンテナみたいにはねているのだ。
「何度も水で撫(な)でつけたけど、直んねーんだよ」
 ハルはため息をついた。ハルの髪はさらっとしてそうに見えるけど、意外と素直に言うことを聞かないのかもしれない。触ったことなんてないから、わからないけど。
 それより。ハルが現れてから、苑子がいきなり黙り込んでしまったことの方が気になる。
「苑子? 苑子ー」
 となりにいる親友は、その白い肌をぽうっと桃色に染めていた。ふるふるとやわらかそうなくちびるは、わずかに開いている。
 男子と話すのが苦手(というか、女子と話すのもそんなに得意じゃない)苑子だけど、ハルだけは例外。だった、んだけど。どうしたんだろう。
 店の薄汚れたガラス窓の前、ベンチの真横に置かれたガチャガチャの前にハルはしゃがみ込んでいる。いつからあるのか知らないけど、年季の入ったガチャガチャ。化石シリーズ。
「あーっ! また直角石だ! 三個目だし! うー、出ないなあ、スピノサウルスの歯」
 ハルが大きな声を上げた。その、なんとかサウルスの歯は、どうやらレアアイテムらしい。
「そんなに欲しいなら、ネットか何かで買ったら?」
「わかってねーなあ。ガチャガチャでコンプリートすることに意味があんだよ」
 立ち上がったハルは、私に、直角石とやらの入ったカプセルを投げた。
「いる? 果歩」
「いらない」
 即答。
「まあ、そう言わずに」
「もーっ……」
 こんなもの、私が持ってたってどうしようもない。何時代の何の化石だか知らないけど、ぱっと見は黒っぽい石ころだし、何の興味もない私に、ダブったからやるよだなんて、迷惑でしかない。
「苑子、いる?」
 カプセルを振ってみせた。苑子は、じっとそれを見て、何も答えない。
「いるわけないか。ごめんごめん」
 しょうがないから私が引き取ってやろう、捨てるのは忍びないし。と、自分のスクバに押し込むと、
「あっ」
 苑子が小さく声を上げた。
「何? まさか、欲しいの?」
 と、眉を寄せたら、苑子は、
「ううん。……何でもない」
 もそもそとつぶやいて、うつむいてしまった。
 へんな苑子。私は首をかしげた。

 ――果歩ちゃんと一緒のクラスで、ほんとに幸せ! ずっと、ずーっと、よろしくね!
 みずいろの便箋にしたためられた、丸っこい字がはずんでいる。
 ホームルームの途中、苑子がこっそり回してきた手紙。
 帰宅して、荷物を片づける手を止めて、ひとり、読み返していた。自然と頬がゆるむ。
「私も幸せだよ、苑子」
 つぶやいて、綺麗にたたんで、クッキーの缶にしまった。苑子がことあるごとによこしてくれる小さなメモや、手紙や、ふたりで撮った写真をためている。
 もう、あふれそうだ。
 私、沢口果歩と、二宮苑子、そしてハルこと島本晴海の三人は、坂道を上り切ったところにある、あじさい団地に住んでいる。本当の名前は、『市営団地息吹が丘住宅』というのだけど、みんな、あじさい団地、あじさい団地と呼んでいる。由来はシンプルで、敷地にたくさんあじさいが植えられているから。もっとも、梅雨の時季以外は、あじさいの存在なんてすっかり忘れ去られてしまっているけど。
 私と苑子は、生まれたときからこの団地に住んでいて、ハルは五歳のときに越してきた。お父さんとお母さんが離婚した後、運よく公団の抽選に当たったとかで、ハルはお母さんとふたりで、ここで新しい生活を始めたのだ。
 以来、ずっと私たち三人は一緒だ。
 他の同級生や仲間たちが、家を建てたり家族の仕事の都合だったり、そんな理由で団地を出ていく中、私たち三人はどこへも引っ越すことなく、ここに住み続けている。
 団地は高台の中腹にあるから見晴らしはいいけど、毎日坂道を上っていくのがしんどい。自転車で下っていくのは爽快だけど。
 敷地には、五階建ての棟が五つ。
 苑子はA棟の三〇八、私はE棟の五〇一。ハルは五〇二、私のとなりだ。エレベーターなんてついていないから、やっと坂道を上りきったと思ったら、今度は最上階まで階段を上っていかなきゃならないのがつらい。
 そのかわり、眺めはいい。
 小さいころから。放課後さんざん遊んで、苑子に手を振ったあと、私とハルはいつも、オレンジ色の西日に照らされながら、コンクリの階段を競い合うようにして一気に駆け上がった。そして、ふたりで、夕陽を見た。
 五階の通路から、沈んでいく丸い陽が、透明なオレンジ色に染め上げられていくジオラマのような街並が、見えるのだ。
 しばし見入って、そして、じゃね、またな、と、短い挨拶だけを交わして、それぞれの家へと帰っていく。
 明日も、会える。そのことに何の疑いもなかった。
 太陽は沈むけど、またすぐに昇る。今日と変わらぬ明日は、必ず来る。私に、ハルに、苑子に、この世に存在する、すべての子どもたちに。
 私たちは、ずっと、ずーっと、一緒にいられる。
 まっすぐに、純粋に。そう、信じていた。