「彩葉、下がれ」
私に背を向けたままの白蓮さんに強い口調で指示されて、カクカクうなずく。
私は目を白黒させながら這うようにしてうしろに下がり、木の陰に隠れた。
しかしその木は太くはなく、身を隠しきれない。
かといってほかに隠れられそうな場所もない。
いっそ逃げたほうがいい?と考えたものの、神社の出口は黒爛が立っている方向だ。
私はあたりをぐるりと見まわしてみた。
すると、下がった先に細い獣道のようなものがあることに気づいたが、これ以上森の中に入っていくのもためらわれる。
そんなことを考えているうちに、黒爛が翼をバサッバサッと動かして風を起こしたかと思うと、羽が無数に飛んできた。
「キャッ」
私をかばうようにして立った白蓮さんがそれのほとんどを尻尾で払いのけたが、一本飛んできて頬をかすめる。
「卑怯なヤツだ。俺を狙え!」
白蓮さんは怒りをあらわにして黒爛に向かっていく。
ダンと地面をひと蹴りしたかと思うと宙を舞い、ひとつ目にひと蹴り入れてから、次は顔なし。
まったく隙のない動きでダメージを与えていく。
しかしその間に黒爛が再び私に向けて羽を放つのでかばうということの繰り返し。
四体も相手にして対等に戦える白蓮さんの力が圧倒的に優位に見えるが、これではきりがない。
そのうち私をかばいつつ戦う白蓮さんの左腕に、とうとう黒爛の羽が刺さってしまった。
白蓮さんは左腕の羽を自分で抜き去り、血が流れることも意に介さない様子で再び向かっていく。
「お願い、やめて!」
彼の左手の指先からポタポタと真っ赤な鮮血が流れるのに気づいて、声を振り絞った。
懇願してもやめてくれる相手ではないことはわかっているが、私にできるのはそれくらいだ。
黒爛に訴えかけたとき、うかつにもあの赤い目と視線を合わせてしまった。
まずい。動けない。
しかも、先ほど頬をかすめた羽になにか仕込まれていたのか、体が燃えそうに熱くてしびれてきた。
焦り表情を硬くしていると、黒爛が私に向かって薄気味悪い笑みを浮かべ再び翼を動かし始める。
「クソッ」
赤舌の鋭い爪をよけた白蓮さんは、ふさふさの尻尾で跳ね飛ばしたあと、私のところまでやってきて片手で軽々と抱え、飛んできた無数の羽からよけた。
そして私が見つけた獣道の奥に向かう。
「いったん退散する。大丈夫か?」
すさまじい速さで進む彼に問われ、罪悪感でいっぱいになりながら小さくうなずく。
私……彼をナンパ師だと思い込み、忠告を聞かなかった……。
「まずいな。体温が上昇している。苦しいだろ。すぐに楽にしてやるからな」
やはり黒爛の羽のせいだろうか。
のどが詰まったように息がうまくできなくなり、意識がもうろうとしてきて気を失った。
「彩葉さま?」
名前を呼ばれた気がして重い瞼を持ち上げると、私の顔を覗き込んでいる絣模様の着物を纏った目がクリクリの少年がいた。
「あー、よかった。お目覚めになったんですね」
「あなたは?」
「私は白蓮さまにつかえております、勘介(かんすけ)と申します。白蓮さまー」
ごく簡単に自己紹介した彼は、障子を開けてすっ飛んでいってしまった。
白蓮さんを呼びに行ったようだ。
「ここ、どこ?」
白地に菖蒲の模様の入った浴衣を着せられて布団に寝かされていた私は、上半身を起こして二十畳ほどはある和室をぐるっと見回す。
見覚えがないはずなのに、なぜか遠い昔に来たことがあるような気がした。
そのうちドタドタと足音が近づいてきて、白蓮さんが姿を現した。
そういえば……黒爛に襲われて彼が助けてくれたんだ。
あのとき、小さな耳も出ていたような気がしたが、ふさふさの尻尾も耳も見当たらない。
彼はずかずかと部屋の中に入ってきて、私の横で胡坐をかいた。
勘介くんは少しうしろに正座している。
「気がついてよかった……」
安堵のため息を漏らす彼に、ずいぶん心配をかけたようだ。
「私……」
「黒爛の羽には毒が仕込まれている。お前の頬をかすめたとき、体内に入ってしまったのだろう」
だから、体が熱くてしびれてしまったのか。
「白蓮さんは?」
彼はかすめたどころか、ぐさりと刺さり血を流していたはずだ。
「俺は大丈夫だ。毒に耐性がある」
とはいえ、血が流れていた光景を思い出して、顔が険しくなる。
「傷は?」
「もうなんともない。俺たちは傷の治りが早いんだ」
彼は左の着物の袖をまくり、ムキムキの上腕二頭筋を見せつけてくる。
そこには傷痕ひとつ残っておらず、安堵した。
「ごめんなさい。私……白蓮さんのこと、ただのチャラい男だと思って……」
「チャラいとは?」
すかさず質問してきたのは勘介くんだ。
「お前は知らなくていい」
すぐさま彼をけん制した白蓮さんが私の頬にそっと触れたあと、その手を滑らせて今度は首を撫でるので、拍動が速まる。
墓苑で彼に抱き上げられて頬を赤く染めたように、男の人に触れられるのには慣れていないのだ。
「解毒薬を飲ませたから、体はもう大丈夫だ。しかし傷が治癒するにはしばらくかかるかもしれない。薬草は塗ってあるが、すまない」
そうか。羽がかすめた切り傷だけでなく、首を絞められたときの痕跡も残っているのだろう。
ここには鏡がないのでわからなかった。
しかし、助けてくれたのだから謝る必要はないのに。
それにしても解毒剤がなかったら、今頃どうなっていたのだろう。
考えるだけでも身の毛がよだつ。
「解毒剤、ありがとうございました」
「大変だったんですよ。意識がない彩葉さまは飲んでくださらなくて、仕方なく白蓮さまが口移しで――」
「え……?」
「勘介、余計なことは言うな」
口移し?
嘘……。
私のファーストキスは、記憶がないまま、しかも好きでもなんでもない人――いや人ならざるものに奪われたということ?
あぁ、また熱が出てきそうだ。
「彩葉、顔が真っ青だ。もう一度横になれ」
私の顔を青ざめさせた張本人が、布団の中へと促してくる。
まあ……飲まなければ命を落としていたのだから、ここは感謝すべきところではある。
とはいえ、ファーストキスへの憧れを過大なほどに抱いていた私にとって、ショックだったことには違いない。
これはノーカウントよね……。
そんなことを考えて自分の気持ちに折り合いをつけた。
いや、そんなことより聞かなければならないことがたくさんある。
「白蓮さん、あなたは誰なんですか?」
やはり思い出せない。
というか……人間ではなさそうな彼と会ったことがあるはずもない。
ああして身を挺して助けてくれたから信頼して落ち着いて話していられるが、そうでなければ一目散に逃げているはずだ。
「俺の姿を見ただろう? ここはあやかしの住む幽世。俺は妖狐だ」
「妖狐……」
彼は説明をしながら再び尻尾と耳を出してみせる。
幽世という言葉は聞いたことがあるが、本当に存在するとは思わなかった。
「白蓮さまは、妖狐の中でも最上位の九尾でいらっしゃいます」
子供に見える勘介くんが、実に滑らかに説明を加える。
「九尾……。あ……」
黄金色の――。
繰り返し見る夢に出てくるのは、こんな尻尾だ。
「どうかしたか?」
白蓮さんは横たわる私を愛おしそうな目で見つめて、尋ねる。
私……ずっと昔にもこうしてもらっていた気がする。ふさふさの尻尾に包まれて、「彩葉、おやすみ」と頭を撫でてもらっていたような。
「いつも夢を見るんです。黄金色の尻尾に包まれてひどく安心する夢を」
「それは夢ではございませんよ」
口を挟んだのは勘介くんだ。
「どういうこと?」
「白蓮さまは彩葉さまをお助けになったのです」
あの夢に出てくる私は、四、五歳くらいの小さな子だけれど、その頃にも助けてもらったことがあるということ?
「勘介。お前はもういい。用があれば呼ぶから退室しなさい」
「かしこまりました」
勘介くんの話を遮った白蓮さんは、彼を部屋から追い出した。
「すまない。勘介に悪気はないのだが素直すぎて、なんでもぺらぺらと……」
「い、いえっ。あの……助けてくださったというのは、私が小さな頃のことじゃないですか?」
「無理に思い出さなくてもいい。しかし俺は、ずっとお前を探していたんだ」
「え……?」
思いがけない言葉に、キョトンとする。
どうして妖狐が私を探すの?