「そうでしたか……。あっ、そうそう。志麻さんが、いよいよ明日宿を去るとか」
「それを聞いたからここに来たんだろ?」
「はい。私、志麻さんにお礼を言われました。そのとき思ったんです。現世でなくても――幽世でも私にできることはいろいろあるんだなと」
そう伝えると彼は頬を緩めてうなずいている。
「最初は不安しかなかったのに、私の料理を取り合いして食べてくれる仲間がいて、元気を取り戻すあやかしがいて……。大したことはできないのに、皆私のことを温かく迎えてくれているようで心地よくて」
「当たり前だ。皆、彩葉が戻ってくるのを待っていたんだぞ。鬼童丸はもちろん、勘介も和花も、いつか会えると首を長くして待っていたんだ」
黒爛のような残忍で冷酷なあやかしがいる一方で、白蓮さんをはじめとするここのあやかしは皆温かい心を持っている。
私はその中に入れてもらえて、ようやく自分らしさを取り戻すことができたような気がしている。
作り笑いではなくお腹の底から笑い、時には苦しくなることもあるけれど、それをごまかさなくていい。
「私、ここにいてもいいですか? 人間でも、仲間に入れてもらえますか?」
「それを望んでいるのは俺のほうだぞ。本当にいいのか?」
「はい。だって、白蓮さんは三百年も待っていたなんて言うし……」
そこまで口にしたところで、本当に一途なんだなと他人事のように感心してしまった。
雪那さんの鬼童丸さんへの恋心もそうだが、あやかしって人間より純粋なのかも。
「そうだ。長かったな……。でも、お前は必ず戻ってくると信じていた。それで、嫁になるのか?」
「そうは言ってません。その件は保留です」
そんなに大切な決断を一度にいくつもできそうにない。
白蓮さんの私を想う気持ちは胸にズドンと突き刺さっているし、優しさは身に染みている。
けれど、結婚――しかもあかしとの――なんて考えたこともなかったし、彼の気持ちが真剣だからこそ慎重に自分の気持ちを見極めたい。
「なんだ。なかなか頑固なところも前世と同じなんだな。そういうところは変わっていてもよかったのに」
彼は、ふぅ、と大げさにため息をついているが、目は笑っていた。
「あっ、鬼童丸さんがいつでも現世に行けると言っていましたから、やっぱり幽世やーめたというのもアリですから」
「まったく。幽世で俺を脅せるのはお前くらいだ。そうならないように今後も善処する」
白い歯を見せる彼とともに微笑み合うこの時間は、私を幸せな気持ちにした。
豆吉の件をあっさり解決し、志麻の頑なな心を溶かした彩葉はさすがだった。
彼女が志麻に『罰を与えてください』と言いに来たときは目を丸くしたが、俺が知る限り一番優しくて温かい罰だった。
そんな志麻が彩葉の期待通り、もう一度やり直すと決めて俺に改めて謝罪に来たとき『彩葉さまのおかげです』と盛んに言っているのを聞き、鼻が高い思いだった。
彩葉が部屋を訪ねてきたとき、志麻が旅立つ喜びを伝えに来ただけだと思っていた。
それなのに幽世に残ると言いだしたときは、正直顎が外れそうだった。
彩葉がここにやってきてから、勘介も和花も異常なほどにテンションが高く、勘介に至っては下手な鼻歌まで歌っているのでうっとおしくてたまらない。
しかし、鬼童丸までも笑顔が増えたし、和花の料理も上達した。
まあ、約一名不機嫌なヤツはいるが事情が事情なので除外しておく。
なにより、俺の心が穏やかだ。
毎晩尻尾に触れられるというちょっとした拷問――弱々しい自分を見られるという意味で――はあるが、幼い頃のように包み込んでやれることに、幸せを感じていた。
だから彩葉の選択に歓喜し、にやけるのを必死にこらえなければならないほどだった。
嫁入りは拒否という落ちはついていたが……。
幽世にとどまることを決めた彼女が、一度現世に戻りたいと訴えてきた。
身の回りのものや、ばあさんと両親の位牌を取りに行くということだったが、学校に退学の手続きもしたかったらしい。
ちょうど春休みという長い休みだったらしく、彼女が長きに渡り現世にいなかったことは気づかれていないようだ。
クラスの仲間とはそれなりにうまくやっていたようだが、馬が合う友人とまではいかなかったらしい。
あっさりと退学届けというものを提出してきた彼女は、校門の外で待っていた俺のところに駆け寄ってきた。
「お待たせしました」
「ずいぶんさっぱりしているな。本当によかったのか?」
「はい。ずっと苦しかったんです。クラスメイトが両親のいない私に過剰に気を使ってくれていたのは知っていてありがたかったんですけど……。なんていうか腫物扱いで、同じ土俵にはのせてもらえなかったなーと」
彼女は校舎を振り返り、じっと見つめる。
「私は普通に振る舞っても、ことあるごとに気を使わせて気まずい雰囲気にもなるし、かわいそうって言われるのに疲れちゃった……」
かわいそうと言われれば言われるほど、そうじゃないよと虚勢を張っていたんだろうな。
「おばあちゃんが死んじゃってからは、もうかわいそうでいいやって割り切ったら、今度は笑っている意味がわからなくなって。あー、私って面倒ですね」
彩葉は自嘲しているが、両親の死からよくここまで踏ん張ってきたと思う。
「まだまだ甘いな。俺なんて三百年も彩葉をあきらめきれずに待ち続けた面倒な男だぞ」
「ほんとだ。最高に面倒なあやかしがここにいる!」
彼女がようやく弾けた笑顔を見せるので、俺の頬も緩んだ。
それからふたりで墓参りに行った。
目を閉じて手を合わせたまましばらく動かなくなった彼女が、両親やばあさんとなにを話していたのかは知る由もない。
しかし、目を開いたときには実にすがすがしい表情をしていたので、幽世に行くことに後悔はないのだと感じた。
寂しくなったらまた戻ってくればいい。
そのあとは桜庵に向かった。
「白蓮さん、夜までここにいてもいいですか?」
「かまわないが、なにか用があるのか?」
「今日は満月なんですよ。ふたりでお月見しませんか? 私、なにかお料理を作りますから」
そういうことか。
「それはうれしい。そうしよう」
カウンターの向こうでトントントンと軽快に包丁の音をさせ始めた彩葉を見ながら、俺は昔のことを思い出していた。
俺がこの店に初めて訪ねてきたのは、彩葉の両親の事故のあと、ばあさんが店を再開した日のことだった。
――二月の雪が降りそうなほど寒い日。
間一髪、事故現場で彩葉を助け、人間の救助が来るまで気を失った彼女が凍えないように尻尾で温め続けた。
救助が来て俺は消えたが両親を一度に亡くした彼女のその後が気になって仕方なく、店の再開と同時に客を装って訪ねるようになった。
ばあさんは店の奥の部屋で彩葉をあやしていたようだったが、彼女はすぐに泣きだして、なかなか料理に手が回らない。
そうしていると、しびれを切らした客が次々に帰ってしまい、ばあさんは頭を抱えていた。
とはいえ、傷ついた彩葉優先でと奔走していた。
俺は今度こそ守ると決めた彩葉の大切な両親を助けられなかったという後悔で、最近は食事ものどを通らない。
ほとんど飲み込むようにして胃に送っているような状態だ。
数品注文して、あとは日本酒をちびちびと口にしていた。
「お待たせしてすみません」
「かまいませんよ」
通い始めて一カ月。
その日も他の客は帰ってしまい、俺だけになった。
俺も帰るべきかもしれないと考えたが、店は客がいなくては成り立たない。
ばあさんは、彩葉を育てるために店を再開したのだろうからおそらく金が必要だ。
幸い現世で金を稼ぐあやかしがいて、幽世で家族を守ってくれるからという理由で俺に提供してくれるので、それをありがたく使わせてもらうことにした。
まだ最初の料理を食べきれていないのに、ばあさんに追加の料理と日本酒を出してもらったとき、再び彩葉がすさまじい勢いで泣きだした。
「行ってあげてください」
「ごめんなさい。あの子、尻尾、尻尾とわけのわからないことを言ってずっと泣いているんです」
そう言い残して奥に入っていったばあさんのうしろ姿を呆然として見つめていた。
「尻尾……」
もしかして彩葉は事故のときのことを覚えているのか?