【ワケあり上司の愛し方】~運命の恋をもう一度~



 恋愛感情ではないにしろ私は飯島さんが嫌いではない。だから、嘘はつきたくない。

「ねえ、高橋さん」

 ちょうど赤信号で車が止まった時、黙り込んでしまった私を気づかうように飯島さんから柔らかい声がかかった。

 右頬に、穏やかな視線が向けられているのを感じる。

「昨日も言ったけど、そんなに深刻にならなくても良いから。ほんの気分転換。友達と遊びに行くような、気軽な気持ちでいいんだ」

 カチコチに固まっている私をリラックスさせるためなのだろう。

 今までのように、年上の女性に対するような一歩引いた感じではなく、まるで気の置けない女友達に話すように飯島さんは飾らない口調で言葉を紡ぐ。

「……」

 飯島さんの言うように気軽に楽しめる性格ならどんなにいいだろう。

 でも、『言わなければ』と言うプレッシャーと緊張ばかりが先に立って、こうして身を強張らせているのが関の山だ。

 尚も言葉もなく俯いている私に、飯島さんは淡々と言葉を重ねていく。

「正直言うとね、俺も、本当はこんな風に強引に誘うつもりじゃなかったんだ。断られても仕方がないかなって。でも、実際高橋さんの顔を見たら、誘わずにはいられなかった」



 すっと、腕の伸ばされる気配にドキッとした瞬間、右頬に温もりを感じて思わず扉の方へ身をのけぞらせた。

「い、飯島さんっ!?」

 反射的に上げた瞳が飯島さんの真っ直ぐな瞳に捕まって、金縛り。そのまま動けなくなってしまった。

 長いような、たぶん一瞬の視線の交錯。

 驚きの眼で見つめていると、その瞳がフッと愉快そうに細められる。

「まつ毛、付いてましたよ。ほら」

「えっ!?  あ、ええっ!?」

 飯島さんのがっしりとした骨太の指先に、黒いまつ毛を認めて、カッと頬に血が上る。

――あああ。痴漢扱いの反応をしてしまった。

 信号が青に変わり、クスクスと笑いながら車をスタートさせた飯島さんの横顔に、「ご、ごめんなさいっ!」と、頭を下げる。

「謝らないで良いですよ。今のは、半分わざとだから」

「は?」

――わざと?

 わざと、頬に触ったってこと?

 なぜか、湧き上がったのは、漠然とした不安。

 『明るく陽気で仕事ができる大手ゼネコンの現場監督さん』。

 もしかして、私は飯島さんと言う人を、見誤っている?

 尚も愉快そうに笑う飯島さんの横顔を、私は、一抹の不安を覚えながら呆然と見つめた。



 刻一刻と、『その時』が近づいていた。

 暴れ出した鼓動と共に高まっていく初めての感覚に、全身がピリピリと張りつめていく。

 力を込めて握りしめた手のひらから伝わるリズミカルな振動が、早まる鼓動に拍車をけて更に私を追い詰める。

「うっ……」

 あまりの緊張感と恐怖感の合わせ技に、思わず口からうめき声が漏れてしまう。

 怖い。怖すぎるっ。

 ギュッと握りしめた両手に、救いを求めるように更に力を込める。

 女歴二十八年で体験するこの恐怖。

 やっぱりよすんだった、やめておくんだった。

 後悔しても後の祭りで。

 ことここに至ってしまえば、今更逃げ出すことなどできはしない。

 パニック寸前の脳細胞でも、そのくらいは理解できる。

 でも、怖いものは怖いのだ。

『大丈夫。ぜんぜん怖くないから、平気ですよ』

 飯島さんの陽気な笑顔に、コロッとその気になった自分の浅はかさが、恨めしい……。

 この手のことは、はっきり言って得意じゃない。

 否、得手不得手以前に、大っ嫌いだっ!

「高橋さん、目を瞑っていたら、何も見えませんよ?」

 俯いて、ひたすら体を強張らせている私にの耳元に、笑いを含んだ飯島さんの明るい声が落ちてくる。

 そんなこと言っても、体が言うことを聞かないんですってば!




「ううっ……。どうせっ」

 手足にめいいっぱい力を込めているせいで、思うように声が続かない。

「どうせ?」

「どうせ、メガネを外したら、何にも見えませんからっ」

 見えないことが、余計に恐怖感を煽ってしまう。

 なら、目を開ければ良いようなものだけど、防御本能と言うヤツが勝手に反応してしまうのだ。

「でも、全く見えない訳じゃないでしょう? ほら、ほら、目を開けて」

 って、人の頬っぺたをつっ突くんじゃない、好青年!

 いや好青年の皮を被った……ガキ大将めっ!

 心の叫びは声にはならず、次の瞬間、体を包んだ浮遊感に全身が凍った。

 ひ、ひ、ひえーーーーっ!!

「うーーーーっ!?」

 ストンと気分は垂直落下。そしてすぐさま右に左に斜め上。

 変幻自在で体にかかる重力と遠心力の相乗効果の荒業に、声にならない悲鳴を上げ続け。

「ほら、目を開けて!」

 飯島さんの声に励まされて、おそるおそる開けた目に飛び込んで来たのは、一面のブルー。

 その色彩に視界を満たされた瞬間、すべての音が消えた。

 そこここで上がっていた悲鳴や歓声。

 自分の荒い呼吸音すら消えたその瞬間。

 ああ、綺麗だなぁ……と、確かに感じた。


 
 飯島さんが私を連れて行ってくれたのは、県北にある県で唯一存在する『遊園地』だった。

 規模はさほど大きくなく、動物園と併設されている老舗のテーマパークだ。

 今日は、折しも土曜日。

 それも晴天のお昼時となれば、親子連れやカップルで大賑わい――、かと思いきや、不景気な世情を反映してかそれほど人出は多くなく、どこかのんびりとした空気が漂っていた。

 遊園地内の軽食スタンドでハンバーガーセットを買い込み、パラソル付のテーブルセットの一つに私と飯島さんは陣取った。

 周りを見渡せば、幼い子供連れの親子が、賑やかにテーブルを囲んでいる姿が目に入る。

 楽しげにじゃれあう子供たちと、それを見守る両親の慈愛に満ちた笑顔が、脳裏に懐かしい思い出を甦らせる。

 私が小さい頃。

 まだ父が健在で、母は忙しく仕事に追われることもない専業主婦だったあの頃。

 あんな風に家族水入らずで、遊園地に連れてきてもらったことがある。

 楽しくて温かくて、そして幾ばくかの切なさを内包した懐かしい記憶――。

「しかし、本当に初めてだったんですねー高橋さん」

 愉快そうな飯島さんの声に、ハッと現実に引き戻される。

「あ、あはははは……」

 ジェットコースターから、ヘロヘロの体で飯島さんに抱えられるように降りてきたのは、ついさっき。

 まだ、足元がフワフワしている。





 怖かったけど、なんだろうこの感覚。

「あれは、けっこう癖くせになるんですよ」

 ビッグ・サイズのコーラのカップを口に運び、ゴクゴクと美味しそうに飲みながら、飯島さんは笑う。

 そうか、『怖いけど、又乗りたい』。

 そう感じるこの感覚を『癖になる』と言うのか。

「そうですねー」

「じゃ、食べ終わったら、もう一回チャレンジしてみますか?」

 少し意地悪そうにニヤリと口の端を上げる飯島さんに、ブルブルと頭を振る。

「食べた後に乗ったら悲惨なことになりそうだから、遠慮しておきます」

「それは、残念。高橋さんと二人で、またあの目くるめく感動を味わいたかったのに」

「あ、あははは……」

 確かにある意味、『目くるめく感動』には違いない。

 飯島さんと、遊園地。

 意外と言えば意外だけど、似合っていると言えば似合っているかもしれないこの組み合わせ。

 始めこそぎこちなくてギクシャクしていた私も、飯島さんの飾らない底抜けの明るさに引っ張られて、いつの間にか、このひと時ときを楽しんでいた。

 明るくて行動的で、楽しくて。

 こういう人を、ネアカって言うのだろう。今まで、私の周りにはいなかったタイプの男性だ。

 少し強引だけど、嫌味がないから、その強引な行動も思わず笑って許せてしまうようなところがある。

 この人は、きっと男女の別なく友人が多いのじゃないだろうか。

 学生時代に比べれば、社会に出て揉まれた分いくらか対人関係に進歩の跡が見られる程度の私からすれば、美加ちゃんとはまた違う意味で、羨ましい存在ではある。

「でも、よかった」

「はい?」

 脳内で飯島さん分析に勤しんでいた私は、今までとは違う穏やかなトーンの声に引き寄せられて、彼の顔に視線を走らせた。




 相変わらずまっすぐ向けられる視線は、声と同じように穏やかで優しい。

「笑ってくれて、よかったと思って」

「え?」

 その言葉の意味が分からず小首をかしげていると、飯島さんは鼻の頭をポリポリと書きながら私の疑問に答えてくれた。

「今朝電話を掛けたとき、高橋さんの声がものすごく沈んでいるような気がしたんです。ああ、何か嫌なことでもあったのかな? って。で、実際コンビニの駐車場で会ってみれば、泣きはらしたような目をしているし、ああ、これは何かあったなって」

 それで少しでも笑ってほしくて断られるのを覚悟で強引にデートに誘ったのだと、そう言って飯島さんは笑った。

『何があったのか?』とは問わない彼の優しさが、ありがたいと思った。

『明るく陽気で仕事ができる大手ゼネコンの現場監督さん』

 この人は、思った通りの人だ。

 ううん、それ以上に、人の痛みを察することのできる優しい人。

 正直に言って、私はこの人が好きだ。もちろん、『LOVE』ではなく『LIKE』。情愛ではなく、友愛。

 だからこそ、伝えなくてはいけないことがある。

 今が、それを伝えるときだ。

 ぎゅっと膝の上で両手を握りしめ、私は意を決して口を開いた。

「あの、飯島さん……」

「はい?」

「昨日のお話しなんですけど――」

 本当は、昨日の二次会で告白されたときに、きちんと答えなければいけなかった自分の気持ちを伝えるべく、言葉を続けようとしたその時。

 ピョコピョコと視界の端に何か見覚えのあるものが動くのが見えて、続く言葉を飲み込んだ。




――あれ?

 脳裏をよぎる既視感にドキンと鼓動が跳ね、ゆっくりと視線を巡らせる。

 私から見れば前方。

 食事スペースの脇の煉瓦(れんが)敷きの通路を元気に歩いてくる小さな人影に、さらに深まる既視感(デ・ジャブ―)

 女の子だ。パステルピンクのワンピースに赤いサイドポーチを肩から斜にかけた、とても可愛らしい女の子が、私の方に近づいてくる。

 好奇心と希望に満ちあふれた黒目がちの大きな瞳と、ほんのりと上気したプクリと丸みを帯びた頬。

 彼女が動くたびにツインテールの髪がひょこひょこと上下して、その白い頬をサラサラと撫でる様はまるで子ウサギのようだ。

 少女の面差しは『ある人』を思い起こさせ、私の鼓動はますます大きく跳ね回った。

 まさか。

 そんな偶然、あるわけがない。

 他人の空似よ。他人の空似。

 ほら、子供って、みんなよく似ているもの。

「高橋さん? どうかしましたか?」

「あ、いいえ、なんでもないで――」

 不安を払拭するように呟いたその言葉は、最後まで発することができなかった。なぜなら。

「あれ、お姉さん。パパのカイシャのドウリョウの高橋さん?」

 私のテーブルの前で足を止めた少女が、ニッコリと邪気の無いエンジェル・スマイルでそう声をかけてきたからだ。

 キュッと下がる目じり。

 小首を傾げる様は、まさに天使(エンジェル)




「えっと……」

 確か、名前は。

真理(まり)……ちゃん?」

「はい、谷田部真理ですっ。パパが、おセワになってます!」

 少女はあの時のように、『ペコリ』と礼儀正しくおじぎをする。

「あれ? 谷田部ってもしかして課長の谷田部さん?」

「はい、カチョウの谷田部東悟ですっ」

 珍客乱入に目を丸める飯島さんの呟きに、その子、真理ちゃんはニコニコ笑顔で大人顔負けの挨拶をした。

 ドキドキドキと、鼓動が限界点で暴走する。

 この子がいるってことは、十中八九。

「真理、一人で先に行ったら迷子になるって……」

 少女を追って歩いてきたその人、谷田部課長は、私と飯島さんに気付いてさすがに絶句した。

 そして、課長の腕に手を添わせて優雅な足取りで歩いてきた美しい女性に、視線が釘付けになる。

 おそらく何某のブランドであろう、品の良いライト・ベージュのワンピーススーツに身を包んだその人は、私たちに気付くと、自然なウェーブのかかった栗色の髪をフワリとなびかせて、課長の隣で微笑んだ。

 香水だろうか。

 風に乗って届いた甘いフローラルの香りが、鼻腔をくすぐる。

「東悟さん、この方たちは?」

 凛と澄んだやわらかい声が、凍りついてしまった私の鼓膜を震わせる。

 なんでまた、こんな所でこんな状況で鉢合わせするのか?

 宝くじも当たったことがないのに、なぜ、こんな天文学的なぶち当たり方をするのか。

 ――やっぱり、週末は呪われている。

 今度ばかりは、私はそう確信した。