「あれ、伊織じゃん」

 中央階段でばったり秀に出くわして、私はどきりとした。こうして面と向かって話すのは、結構久しぶりだった。

「ヨウ」

 なんとか笑顔を作って、軽い調子で挨拶をする。昔は近づいて、腕や背中を平気でどついたりしていたのに、さすがにそれはできなくて、適度な距離を保って立ち止まる。

「相変わらず男みたいな挨拶してんな」

 秀はぎこちなく笑う。

 どうして秀がそんな顔をするんだろう。私みたいに、厄介な感情を抱えているわけじゃないだろうに。

「うっさいな。別にいいじゃん、挨拶なんかどうだって」

 秀は私の微妙にささくれ立った感情に、敏感に気づいた。

「なんだよ、不機嫌だな」

「どうせ私は男っぽいよ」

 ぶすっとして言うと、秀が視線を泳がせた。

「おまえな、そういう……」

「なによ」

「……いや、なんでもねえ。悪かった」

 なぜか謝られて、私ははっとした。

 何言ってんだろ、私。秀を困らせて、何がおもしろいんだろ。

「……嘘。ごめん。別に気にしてない」

「いや、気にしてるだろ絶対」

「うるっさいな、気にしてないってば」

 謝ったばかりなのに、すぐ強がって、何かを誤魔化すみたいに、汚い言葉ばかり使ってしまう自分が嫌だ。

 昔はこんなんじゃなかったのに。いつだって馬鹿みたいな話して、笑ってばかりで、楽しいだけだったのに。高校に入ってから、秀と普通に話せなくなった。和佳と普通に話せなくなった。

 今の私、すごく嫌な子だ。

 うまく謝れなくて、それ以上取り繕うのも諦めて、私が階段を降り始めると、秀は半歩後ろをついてきた。

「あー……最近どうなの。大会とか」

 私は、ちょうど差し掛かった踊り場の窓に目をやった。最近雨ばかりだったけど、今日はよく晴れている。

 青い空は、夏の空だ。七月だった。

 八月になると、インターハイがある。それはサッカー部にしても、陸上部にしても、水泳部にしても一緒だ。まあ……出れないんだけど。

 私は百メートルとか、二百メートルに出たけど、地区も抜けられなかった。自分で言うのもなんだけど、わりと速い方なんだけど、上見ちゃうと、きりがない。

「予選落ち。そっちは?」

 訊き返すと、秀の声音がしかめっ面になった。

「インハイ出てたら、報告してるさ。うちの親が、そっちの親にさ」

「ああ……ウン」

 それもそうだ。じゃあなんで訊いたんだ、ってツッコミは……たぶん野暮だろう。私たちは一緒に階段を降りて、そのまま昇降口に向かった。

 今日は陸上部は練習がない。サッカー部はどうなんだろう。もう高校へ入って一年以上が経つのに、私はサッカー部の練習日も、水泳部の練習日も、きちんと把握していないことに今さらのように気がつく。というか高校に入ってから、三人で平日一緒に帰ったことって、一度もない。

「なあ」

 下駄箱でぼんやり靴を履き替えていると、秀が言った。

「ん?」

「……あのさ」

 煮え切らない声だ。私は眉をひそめる。

「なによ?」

「あー……最近、さ。和佳と何か話した?」

 私は目を丸くした。

「なんで私にそんなこと訊くの」

「いや、なんか話したのかなァって」

「喧嘩でもしたの?」

 私が訊ねると、秀は少し怖い顔になった。

「してねえよ。普通に話すし。でも和佳ってほら、なんか……あんまり自分のこと言わないじゃん」

 ――それは昔からそうだった。

 和佳は、自分のことを話さない子だった。

 私と和佳がつるむようになったのは、席が隣だったときにノートを貸してもらったとか、そんな些細なきっかけだったと思うけどよく覚えていない。

 中学のときから和佳は口数が少なくて、でもそれは人見知りというより、一人でいるのが好きというだけで、たぶん人付き合いが特別苦手なわけではなかった。話せば普通に話してくれる。

 ただ、なんとなく距離は感じさせる。深入りさせない感じ。そんなだから当然、和佳の方から自分のことを語ることもあまりなかったし、私もそれについて深く突っ込んで訊いてみたこともなかった。

 なんとなくだけど。それ以上踏み込んだら、和佳は友だちではいてくれなくなってしまう気がした。

「いつものことでしょ。別にいいんじゃない? 和佳がしゃべりたくないこと、無理に訊かなくても」

 私は言った。

「そうだけど……」

 と、秀は眉根にしわを寄せたままだ。昇降口から出ると、七月の熱気がベールのようにまとわりついてきて、私はため息をついた。

 放課後なのに、まだまだ日は高く、空は青く、気温も馬鹿みたいに高い。野球部がグラウンドを走っている。このくそ熱いのに、なんで野球部って必ず長ズボンなんだろう。あれでよく熱中症にならないものだと、いつも不思議な気持ちで見ている。

「和佳ってさ、しゃべりたくないっていうか、しゃべれないんじゃないかって、最近思うんだよ」

 私は秀の方を見た。

「どうして?」

「だって、愚痴も悩みも泣き言も言わないんだぜ。いくらでもあるだろ、部活とか、家とか、クラスのこととかさ」

「ああ、彼氏の悪口とかね」

 私は少し意地悪なことを言った。秀は真顔のままだ。

「まあそれとかな。けど、あいつは言わない」

 秀が疲れたように言った。

「本当に自分のことは、何もしゃべらないんだよ、あいつ」

 疲れたように聞こえたけれど、寂しそうにも聞こえた。

 私はなにも言わなかった。

 秀がそんなに心配する相手が、自分じゃないことばかり考えてしまう。和佳のことを、ちっとも心配しない自分がいる。どちらも嫌で、和佳のことを考える。無理やり、考える。

「……それとなく訊いてみるけどさ」

 やがて、私はぽつりと言った。

「頼む。俺には言わないこと、伊織には言うかもしれないし」

「それはないでしょ……」

 とつぶやいたのは、二人は恋人同士で、私よりもずっと距離が近いはずで、要するに僻みだったけれど、声が小さかったせいか秀には聞こえなかったようだった。

 私たちは校門を並んで出る。道路はすっかり乾いていたけれど、道端の日の当たらない影に少し昨日の水たまりが残っていて、夏空が青く映り込んでいた。

 私はそれを見るふりをしながら、秀の様子をうかがった。どうもサッカー部の練習はないらしい(確かに、グラウンドは野球部が使っていた)。

 家が近いから、このまま帰ろうとすれば、必然的に一緒に帰ることになってしまう。胸がどきどきして、同時にちくちくした。秀が何も言い出さないので、仕方なく私から口火を切った。

「あー……私さ、駅に用事あるから」

 もちろん嘘だった。

 突然言い出したのも、たぶん見え透いていただろう。それでも秀は、その嘘を嘘だと暴くようなことは、しなかった。

「おう。またな」

 そう言って、ようやく昔みたいにニッと笑ったその顔に、またどきりとしてしまう自分が我ながら本当に嫌になる。