土曜日の朝、近所のスーパーで朝市をやっている。
 ここでいう近所とは、大神伊織だった頃の近所だ。実のところ、私は行ったことがない。なにせ土曜日の朝六時とかにやっているのだ。和佳ならともかく、私が起きられるわけがない。

 行ったこともない朝市のことをなぜ知っているのかと言えば、両親が毎週行っていて、その戦利品が私の朝食(という名の昼食)になるからだ。
 地元パン屋のぶどうパンが、朝市だと安くなっていて、よく買ってくる。それを土日で私が食べ尽くすので、よく文句を言われていた……。

 だいぶシャッターが目立つようになってしまった商店街は、それでも近づいていくと活気が伝わってきた。一番活気のある界隈を少し遠巻きにしながら、人だかりを観察する。

 いた。
 パン屋の列に、両親が並んでいた。

 久しぶりに見たその姿に、涙腺がぐるぐると緩んだ。私が死んでから、もう三ヶ月? 四ヶ月? 土日にそれを食べ尽くしてしまう一人娘はもういないのに、両親の手にはぶどうパンの袋が握られていた。

 二人の表情には、ぱっと見でわかる悲壮感は見当たらなかった。穏やかに話しているように見えた。
 もう四十を過ぎて、新しく子どもを作るような歳でもない。この先も二人で、静かに暮らしていくんだろうか。

 なんだかたまらない気持ちになる。
 元々声をかけるつもりはなかった。でも何も言わずにはおれなくなって、私はパン屋のお会計が終わるところで二人を待った。

 二人は和佳の顔を知っている。和佳をうちに呼んだことはないけれど、和佳のことは散々しゃべっているし、中学の卒業式や、高校の入学式、授業参観に文化祭、顔を合わせたことは何度もある。

「……あら、和佳ちゃん?」

 果たして、お母さんが先に私に気がついた。私はどういう顔をすればいいのかわからなくて、結局「へへへ」とだらしなく笑った。和佳らしくもないけれど、しょうがない。

「どうしたの、こんなに朝早く……」

「ちょっと用事があって。近くを通ったので」

「あら、そうなの。最近どう? 体は大丈夫?」

 体調を気遣ってくれる母に、視界がじわっと滲むのがわかった。
 自分の娘が死んで、娘の友だちは助かった。その友だちが目の目に現われて、恨み言一つぶつけずにいられる母の強さに、何も言えなくなった。

「どうしたの、大丈夫?」

「ごめんなさい……なんでもないんです」
 私はすすり泣きを飲み込むようにして、必死に笑う。

 何を伝えるつもりもなかった。ただ、一目見ておきたかった。今どうしているのか。元気かどうか。この先も、大丈夫そうかどうか。

 でも私の方が、よっぽど大丈夫じゃなかった。こんな姿を見せるつもりはなかったのに、みっともない姿をさらして、気を遣わせる始末。
 最低だ。最低に、かっこ悪い。

「ずいぶん大きな荷物ね。どこ行くの?」

 母は、敢えてなんでもなさそうな話題を選んでくれたのだろう。

「ちょっと沖縄に旅行に」

「あら、いいわねえ。今なら台風も来ないし。ひょっとして秀くんと?」

「いえ、今回は別の友だちです」
 私は苦笑する。秀だったらよかったけれど、生憎と今回の同伴者はもう少し堅物だ。

「そう。でもまあ、旅はいいわ。ゆっくりしてらっしゃいね」
 そう言う母の顔は、間近で見るとやはり少し疲弊した色が滲んでいるように見えた。

 私はたぶん、うるさい娘だったし、わがままな娘だったし、家の手伝いもろくにせず大食らいで文句ばっかりの、いい娘じゃなかった。

 厄介払いした、くらいに思っていてくれたら、いっそ気楽だったけれど……そうじゃなかったことにほっとして、そして同時に胸が痛んだ。

 親より先に死ぬこと以上に、親不孝なことなんてないのだと、死んだからこそわかった。
 それをどうこうすることは、もう私にはできないけれど。

 せめて和佳には、そうならないでほしいと思うから。
 だから私は、この旅に出ることを決めたのだと気持ちを新たにした。

「じゃあ……行ってきます」
 私がそう言うと、何も言わず母に任せていた父が手提げ袋から何かを取り出して、私の手に持たせた。

「これ、伊織が好きだったぶどうパン。おいしいんだ。もし朝ご飯まだだったら食べなさい」

 また涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に噛み殺して、私はそれを受け取った。

「ありがとうございます」

 ありがとう、お父さん。お母さん。