秋に空が高く見えるのは、秋雲のできる高度が高いからだと聞いたことがある。
フェンスに切り取られた秋空には綺麗なうろこ雲が浮いている。朝はぱっとしなかった天気は、午後になって青く晴れつつある。
風は少し冷たくて、ひりひりと剥き出しの肌に染みる。すっかり深まった秋の気配が、この場所には濃密に詰まっている。
元々は、文化祭の風景を一望できるように、という理由で密やかに解放されたらしい。それがいつしか、文化祭限定開催・屋上カフェという催しになり、生徒会により運営されるようになった。
大して広くもない屋上に、学生机と椅子を持ち込んで、生徒会が生徒会室で使っているというコーヒーメーカーで淹れたコーヒーや紅茶を出してくれる。
一応屋上なので、生徒会が目は光らせている以外は、他の文化祭の出し物とあまり変わらない。
ただ、眺めは最高だ。
ウチの学校は少し高台にあるから、学校で一番高い場所に上れば、学校だけでなく自分たちの暮らす町も一望できた。
私たちはずっとこの町で暮らしてきた。幼稚園も、小学校も、中学も高校も地元で、通学ではこの町から出たことがない。どの方角を見ても、だいたい知っている場所がある。知っている風景がある。
結構、緑豊かなんだなと思う。まだ紅葉には少し早いか。電車が走っているのが見える。うちの駅を通過したので、きっと急行だ。川の中で水を掛け合っている子たちが見えた。もうだいぶ寒いのに、子どもは元気だな。
「いいだろ。サッカー部の先輩に教えてもらったんだ」
秀が得意げに言った。
「俺も一年のとき噂は聞いたんだけど、普段完全閉鎖してる屋上を文化祭のときだけ開放してるなんてなんか嘘っぽくてさ」
「教えてくれればよかったのに」
「そうだな。二人に話してみればよかった」
まあ、それでも信じたかどうかはわからないけれど。
実際、客はぽつぽつと在校生のみだ。一般客はこんなところまで上がってこないのだろうし、在校生だって知らなければこんなところには絶対来ない。来たとしても、風がちょっと寒い。長居には向かない。ホットのコーヒーは、おいしく感じるけれど。
「その髪留め、よくつけてるな」
秀が不意に私の髪を指して言った。
「ああ、これ……」
アサギマダラの髪留め。清水さんからもらった遺品。
「似合わない?」
私が少しいたずら心で訊いてみると、秀はぱっと目をそらす。
「いや……いいと思う」
手で顔半分を覆い隠して、そんなふうに言う。
そのとき、私はふと、和佳としての人生も悪くないな、と思ってしまった。
家では家事をしなきゃいけないし、水泳部の練習に出なきゃだし、友だちは伊織だった頃ほど多くないし、お母さんはいない。
でも代わりにかわいい妹がいる。優しいクラスメイトがいる。そして……恋人がいる。
私は、秀が好きだった。
今でも好きだと思う。森宮和佳としてじゃなく、大神伊織として、私は秀が好きだ。
どこが? って訊かれたら困るけど。友だちっていうか腐れ縁だし、すぐ馬鹿にするし、馬鹿にされるし、口を開けば言いたい放題、ロマンチックのロの字も見当たらないのに。
それでも秀を見かけると、その姿を目で追ってしまう。
しゃべりたいと思って、話題を探してしまう。
メールがくると、嬉しいと思う。
返信する時間を、少し遅らせてみたりする。
たまに会えない日が続くと、寂しく思う。
四六時中、ぼーっとしていると、すぐ頭に浮かぶ。
笑った顔に、どきりとする。
サッカーをしているときの真剣な顔に、どきりとする。
自分の名前を呼ばれて、くすぐったくなる。
三秒目が合うと恋に落ちるなんて話を信じて、必死に三秒間目を合わせようとしてみたりする。
秀には和佳がいるのに。
わかっているのに。
ああ。
好きだなあ。
わかってるよ。
わかってる。
秀が好きなのは私じゃない。
秀が好きなのは、森宮和佳だ。
でも、もういいんじゃないか。
今は私が、森宮和佳なんだ。
ふっと、私は秀の方に身を乗り出した。
何をするつもりだったのだろう。
キス?
でも何もできなかった。
突然だった。
ぐらっときた。
急に目の前が暗くなって、私は体のバランスを崩した。乗り出しかけていた体が机の上に落ち、コーヒーの入った紙コップを倒した。熱がじんわりとお腹のあたりに広がっていくのを感じながら、そのまま横向きに転がって、地面に落ちた。
頭の中を、誰かの手でぐるぐるとかき混ぜられているような、激しい目眩がする。
秀が私の名を呼んでいるのを感じる。
屋上に吹く風とは別に、世界がざわついているのを感じる。
それに混じって、私は確かにこの場所ではない景色を見た。
黒い喪服。女性の遺影。強い、線香の香り。
すすり泣きの声。胸に広がる喪失感。隣で少女が泣いている。
強張った男性の横顔。
視界が滲む。
知らないのに、知っている光景。
意識が途切れる刹那、確かに声を聞いた。
――お母さん、どこに行っちゃったの?
フェンスに切り取られた秋空には綺麗なうろこ雲が浮いている。朝はぱっとしなかった天気は、午後になって青く晴れつつある。
風は少し冷たくて、ひりひりと剥き出しの肌に染みる。すっかり深まった秋の気配が、この場所には濃密に詰まっている。
元々は、文化祭の風景を一望できるように、という理由で密やかに解放されたらしい。それがいつしか、文化祭限定開催・屋上カフェという催しになり、生徒会により運営されるようになった。
大して広くもない屋上に、学生机と椅子を持ち込んで、生徒会が生徒会室で使っているというコーヒーメーカーで淹れたコーヒーや紅茶を出してくれる。
一応屋上なので、生徒会が目は光らせている以外は、他の文化祭の出し物とあまり変わらない。
ただ、眺めは最高だ。
ウチの学校は少し高台にあるから、学校で一番高い場所に上れば、学校だけでなく自分たちの暮らす町も一望できた。
私たちはずっとこの町で暮らしてきた。幼稚園も、小学校も、中学も高校も地元で、通学ではこの町から出たことがない。どの方角を見ても、だいたい知っている場所がある。知っている風景がある。
結構、緑豊かなんだなと思う。まだ紅葉には少し早いか。電車が走っているのが見える。うちの駅を通過したので、きっと急行だ。川の中で水を掛け合っている子たちが見えた。もうだいぶ寒いのに、子どもは元気だな。
「いいだろ。サッカー部の先輩に教えてもらったんだ」
秀が得意げに言った。
「俺も一年のとき噂は聞いたんだけど、普段完全閉鎖してる屋上を文化祭のときだけ開放してるなんてなんか嘘っぽくてさ」
「教えてくれればよかったのに」
「そうだな。二人に話してみればよかった」
まあ、それでも信じたかどうかはわからないけれど。
実際、客はぽつぽつと在校生のみだ。一般客はこんなところまで上がってこないのだろうし、在校生だって知らなければこんなところには絶対来ない。来たとしても、風がちょっと寒い。長居には向かない。ホットのコーヒーは、おいしく感じるけれど。
「その髪留め、よくつけてるな」
秀が不意に私の髪を指して言った。
「ああ、これ……」
アサギマダラの髪留め。清水さんからもらった遺品。
「似合わない?」
私が少しいたずら心で訊いてみると、秀はぱっと目をそらす。
「いや……いいと思う」
手で顔半分を覆い隠して、そんなふうに言う。
そのとき、私はふと、和佳としての人生も悪くないな、と思ってしまった。
家では家事をしなきゃいけないし、水泳部の練習に出なきゃだし、友だちは伊織だった頃ほど多くないし、お母さんはいない。
でも代わりにかわいい妹がいる。優しいクラスメイトがいる。そして……恋人がいる。
私は、秀が好きだった。
今でも好きだと思う。森宮和佳としてじゃなく、大神伊織として、私は秀が好きだ。
どこが? って訊かれたら困るけど。友だちっていうか腐れ縁だし、すぐ馬鹿にするし、馬鹿にされるし、口を開けば言いたい放題、ロマンチックのロの字も見当たらないのに。
それでも秀を見かけると、その姿を目で追ってしまう。
しゃべりたいと思って、話題を探してしまう。
メールがくると、嬉しいと思う。
返信する時間を、少し遅らせてみたりする。
たまに会えない日が続くと、寂しく思う。
四六時中、ぼーっとしていると、すぐ頭に浮かぶ。
笑った顔に、どきりとする。
サッカーをしているときの真剣な顔に、どきりとする。
自分の名前を呼ばれて、くすぐったくなる。
三秒目が合うと恋に落ちるなんて話を信じて、必死に三秒間目を合わせようとしてみたりする。
秀には和佳がいるのに。
わかっているのに。
ああ。
好きだなあ。
わかってるよ。
わかってる。
秀が好きなのは私じゃない。
秀が好きなのは、森宮和佳だ。
でも、もういいんじゃないか。
今は私が、森宮和佳なんだ。
ふっと、私は秀の方に身を乗り出した。
何をするつもりだったのだろう。
キス?
でも何もできなかった。
突然だった。
ぐらっときた。
急に目の前が暗くなって、私は体のバランスを崩した。乗り出しかけていた体が机の上に落ち、コーヒーの入った紙コップを倒した。熱がじんわりとお腹のあたりに広がっていくのを感じながら、そのまま横向きに転がって、地面に落ちた。
頭の中を、誰かの手でぐるぐるとかき混ぜられているような、激しい目眩がする。
秀が私の名を呼んでいるのを感じる。
屋上に吹く風とは別に、世界がざわついているのを感じる。
それに混じって、私は確かにこの場所ではない景色を見た。
黒い喪服。女性の遺影。強い、線香の香り。
すすり泣きの声。胸に広がる喪失感。隣で少女が泣いている。
強張った男性の横顔。
視界が滲む。
知らないのに、知っている光景。
意識が途切れる刹那、確かに声を聞いた。
――お母さん、どこに行っちゃったの?