今月から、水泳部の練習に復帰している。腕も普通に動くようになってきたし、痛みもない。医者のゴーサインも出た。
まあ正直言うと、私は走るのは好きだけど泳ぐのはそうでもなくて、あんまり乗り気でもないんだけど……。
和佳の泳ぎを何度か見たことがある。試合の応援とか、一緒に泳いだこともあるし、部活の練習風景を眺めていたこともある。
彼女がどれくらい速いのか、当時陸を走っていた私にはあまり分からなかったけれど、歩くことよりも泳ぐことを先に覚えたんじゃないかってくらい自然に泳いでいたのを覚えている。
和佳らしい、とてもスムーズでスマートなフォーム。もちろん、一緒に泳いだときは勝負になんかならなかった。
私はもともとそれなりに泳げるし、和佳の体に染みついたフォームは意識せずとも体を動かしてくれる。それでも、やっぱり私が動かすのと、和佳が泳ぐのとでは違うのだろう。
いまいち調子は出なくて、チーム内でそれは事故のせいということになったけど、私としてはやっぱり気持ちの問題な気がした。たとえ体は同じでも、同じ動きを筋肉が覚えていても、私では、和佳ほどには水泳に気持ちが入らないのだ。
とは言え、所属している以上練習には出なくてはいけないわけで……。
その日も半ば義務感から部活に顔を出すと、プールの中をすごいスピードで泳いでいく影があった。水面に顔を出し、ゴーグルを外すのを待つまでもなくわかる。あのフォームは、佐島だ。
佐島の泳ぎは、和佳よりもなお水に溶け込むようだった。海から生まれてきたみたいに見える。水中にいる方が自然に見える。水棲生物なんじゃないかと思う。二十五メートルの距離がみるみるなくなっていく。
「相変わらず速いね」
水面に顔を出したところで声をかけると、佐島はこっちを向いて、それからプールサイドの時計を見た。
「特別早くもないだろ。来たばっかりだぞ」
泳ぐのが速い、と言ったつもりだったけど、来るのが早いという意味に取られたようだ。まあ、どっちだっていい。
佐島が水泳部だと知ったのは最近だった。別段、部活で和佳と特別からみがあったわけではなさそうだ。佐島はクラスと変わらず無口で、他の部員ともそんなに絡まない。いつも黙々と泳いで、淡々とタイムを出す。部では一番に速いけど、エースって感じはしない。
「なんかコツあるの?」
「コツ?」
「速く泳ぐコツ」
「さあ……体が勝手に動くからな」
スポーツには自動化という考え方がある。繰り返し繰り返し反復練習したことは、考えたり意識的に命令しなくても、体が勝手に動くようになる。
私が包丁を使えたり、泳げるのも、理屈は同じことだ。とはいえそれを言われてしまうと、何の参考にもならない。
「そういえばさ」
私は話題を変えた。
「こないだ蝶々見たよ。黒いの。クロアゲハかな、あれ」
ずっと頭の隅に引っかかっている。
――おまえ、蝶々を見なかったか?
佐島はプールの中からじっと私を見上げた。
「それで?」
訊き返されて、私は面食らった。
「あんたが訊いたんじゃない。蝶々見なかったか、って」
佐島は質問には答えず、まだ私をじっと見ていた。塩素のにおいが鼻をつく。佐島の目を見返していて、やっぱり不思議な色をしていると思った。
黒じゃない。少し、青っぽいような気がするのは、プールの水色を反射しているだけだろうか。ゆらゆらりと揺らぐ、夏の終わりの水たまりみたいな、不思議な光を湛えている。
「ねえ。こないだ言ってたの、どういう意味?」
「こないだ?」
「記憶が消える、みたいなこと言ってたじゃん」
ふいに佐島がぽつりと目をそらして、そのままプールから上がった。顧問の先生がやってきたのだ。
私の目は、自然と佐島の脇腹に吸い寄せられる。そこには、大きな傷跡がある。何か鋭利なものが突き刺さったような、痛々しい傷跡。水泳部の練習に出るようになってから知った。
それとなく訊いてみたけれど、なんの傷なのか、部内には知っている人はいないらしい。さすがに私も訊けなかったけれど、普通に生活を送っていたらまずつかない傷だ。どうしても気になってしまう。
――消え始めたら、俺に教えろ。
ふと、佐島がそう言ったような気がした。でも顧問の先生が吹くホイッスルの音に重なって、よく聞こえなかったので、気のせいかもしれない。