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「じゃあ次、森宮さん読んでください」
「はい」
私は静かに返事をして、立ち上がる。眠くて嫌いな現国の授業だったけど、ちゃんと起きていたので、どこまで読んでいたのか聞いていた。
漢字で突っかかりそうなところは、全部事前に調べてふりがなを振ってある。和佳なら教科書に直には書き込まなさそうだけど、それくらいはいいだろう。
すらすらとつっかえることなく読み終わると、先生が「はい。じゃあ次は……」ターゲットになりたくない生徒たちが一斉に身を縮こまらせるのを横目に、私はストンと席に腰を下ろした。
九月の教室で、私は未だに一人でいる。
昼休みになってお弁当箱を開けると、いつもより少し歪なお弁当が顔を覗かせる。今日は私が作ったのだ。
五時半に起きた。六時に起きてきた由佳ちゃんには目を丸くされ、それから弁当箱の中身を見て渋い顔をされた。怖くて包丁を使わなかったから、冷凍食品とか残り物のオンパレードだ。
でもたぶん、和佳はいつも五時半に起きていたんだ。部屋にあった目覚まし時計は、その時間にセットされていた。
和佳は、毎日ロボットみたいに動いていたんだと、今ならわかる。そこにはプログラムされた論理的な行動理念しかなく、和佳自身の意志で強くこうしたい、ああしたいと思うことがない。だから、その精巧なプログラムを理解さえしてしまえば、再現度はともかく再現自体はそんなに難しくない。
「返してよぉー」
川村さんの声がして、私は右を向いた。
廊下側の席。川村さんの周囲には長谷川さんグループの女子たちが群がっている。今日はお弁当箱にケチをつけられているようだ。ここから見ても、あのピンク色は高校生としては確かにちょっと子どもっぽいかもしれない……。
私は無理矢理目をそらすように、窓の外を見る。
九月の空。今日は曇天だ。もう夏らしさは薄れて、大きな雲を見かけることもなくなった。最近は涼しい日が増えてきた。このまま秋らしさは深まって、知らぬ間に夏は死ぬのだろう。一人の女子高生が死んだ事故の記憶も、世界から薄れていくのだろう。
そうして私は、和佳になる。
森宮和佳として、ずっと孤独に、今までの和佳と変わらない日々を過ごしていく。
私はロボットになるのだ。
森宮和佳という、ロボットに。
それでいいんだろう。それできっと、世界は今までと変わらず、静かに回っていくはずだ……。
「返してってばー」
けれどそのとき、ふっと、先日秀に言われたことが、耳の奥にこだました。
――もっと自分の思ったようにさ、自由に生きていいと思う。
気がつくと、私はお弁当箱を高く持ち上げている長谷川さんの腕を捕まえていた。
「やめなよ。嫌がってんじゃん」
静かに腕を引っ張ると、長谷川さんが私を見て、大きな目をますます丸くした。
「おいおいどうした優等生。頭でも打ったのか?」
その顔に、困惑混じりの薄笑いが広がっていく。教室がシンとなった。私は動かなかった。ねちねち先生に報告すんのがいつものやり口だろう? と言外に言われた気がしたけれど、そんなの知らない。
「そうだよ。事故で頭打って馬鹿になったの。悪い?」
私が憮然と言い返すと、長谷川さんは面食らったように目を白黒させる。
私は長谷川さんの手からお弁当箱を奪い返して、それを川村さんの机の上に戻した。川村さんが目を丸くしてこっちを見ているのがわかる。私は長谷川さんを睨んでいる。
「……本当に頭でも打ったの?」
長谷川さんが強張った顔で私を見た。私は首を横に振る。
いや、そうかもしれない。実際、私は頭を打った。頭部外傷で死んだ。そのときに、おかしくなったのかもしれない。和佳の中に入ってしまった。森宮和佳になってしまった。そうして、和佳として生きようって、思ったけど。
でも。
でもさ。
和佳らしさって、なんだよ。
そりゃあ、和佳はいつだって合理的だった。論理的には、彼女は何一つ間違ったことなんかしていない。
毎日毎日お弁当作って。勉強して。先生に当てられたら絶対に完璧に答えて。
自分の悩みは自分で抱え込み、一人で解決してしまう。解決しないことは、その状態で封印をかけてしまい、周囲からは悩んでるなんて思わせもしない。
ああ、立派だよ。立派だけどさ。
でもそれじゃあ、和佳の本当の気持ちが誰にも見えないよ。
いろんな鎖で雁字搦めになって、本当の和佳の心がどこにも見えないんだよ。
和佳は笑うし、怒る。呆れるし、悲しむこともある。中学から三年間、ずっとその顔を見てきた。私は知っている。和佳は、ロボットなんかじゃない。彼女はきちんと、人間だった。
合理的な行動をするのは、彼女の意志だったかもしれない。
でもそれは、本当に和佳がしたいこととは、違うと思う。和佳らしさとは、違うと思う。和佳が演じている、何かの役割でしかないと思う。
私は、本当の森宮和佳はきっと、ずっと、もっと直接的に川村さんを助けたかったはずだと思う。
「私がそうしたいと思っただけだよ」
ぽつりと答えると、長谷川さんは意味が分からないという顔をした。
まあ、そうだろう。私だって、わからない。適当なこと言っているだけな気がする。ただ、和佳を演じることがめんどくさくなってしまっただけなのかもしれない。秀の言葉に甘えて、もっと自由にやってやろうと思ってしまっただけなのかもしれない。
しょうがないよ。
根本的な話、私は和佳じゃないんだ。だから、長谷川さんに言った通り、それが答えだった。私が、そうしたいと思っただけ。私が、和佳にそうしてほしいと思っただけ。それじゃあいけない?
ふいに背の高い影が隣に差した。佐島だった。
「俺も森宮に賛成だ。おまえらはちょっと、やり過ぎだと思う」
馬鹿正直にそう言う佐島を、私はまじまじと見てしまった。
こいつ、よくもまあこの雰囲気で出てこれるな。今まで散々見て見ぬふりしてきただろうに。でも……靴を隠されたら元に戻したりしていたし、ひょっとしたらこいつも、先生に報告したりはしていたのかもしれない。
やっぱり和佳に似ている。こういうとき、私に味方してくれるのは、いつだって和佳だった。
なんとなくクラスのムードが川村さんに味方する方向に偏ったのが、私にも、そして長谷川さんたちにもわかったようだった。
「……行こ」
長谷川さんが小さくつぶやいて、彼女たちはぞろぞろと教室を出ていった。
あーあ。
やってしまったな。
もう完全にキャラ崩壊だ。今まで和佳がこつこつと築き上げてきた優等生像を、私は一瞬にして粉々にした――だけど。
「もりみーすごいね」
川村さんが、私のことを見上げて微笑んだその顔を見たから、私は深く後悔はしなかった。
「長谷川さんにあんなふうに逆らう人、初めて見た」
「あー……はは。勢いっていうかね。まあお弁当はさすがに嫌だろうって思っただけ」
今さら気まずくなって、私は頭をかいた。佐島はいつのまにか自分の席に戻っている。なんとなく周囲から視線を感じるけれど、とりあえずはいつもの平穏な昼休みが戻ってきつつあった。
これでよかったんだろう。
和佳が見たら、怒るかもしれない。うん、怒るだろうな。でもきっと、最後は「馬鹿だね」って笑うんじゃないかな。
今日の私は、確かに今までの和佳とは違っていた。森宮和佳のプログラムに、逆らった。
だけど、川村さんを助けられたことが、間違っていたとは思わなかった。
それはきっと、いいことだ。周囲を困惑させるとしても、変わっていく森宮和佳が誰かを笑顔にできるのなら……。
和佳の魂がいつかこの体に戻ってくるのか、それとも私の魂がこの体に溶け込んで完全に和佳として生きていくのか、どっちにしたって周囲から見たら、それが森宮和佳であることに変わりはない。
今、この体を動かしているのは私だ。私が知る和佳ではなく、私がなってほしかった和佳を演じることは、許されるだろうか。
「ね、もりみー」
川村さんに声をかけられて、私は首を傾げた。
「一緒にお昼食べない?」
自分の作った不格好なお弁当を思い出して少し躊躇したけれど、そんなのは些細な問題だった。
――そうでしょ、和佳。