大雨が降った。
朝から土砂降りの夏の雨が窓を打って、右隣の人はいつになく寝苦しそうにしている。確かに少し、うるさい。昨日、ロビーのテレビの天気予報が、この夏一番の大雨になると言っていたっけ。
窓に打ち付ける大粒の雨を眺めていると、なぜだか少し、わくわくしている自分がいる。小さい頃、台風が近づいてくると学校休みになるので、その非日常感にそわそわしていたのを思い出す。代わり映えのしない入院生活では、天気の変化一つに敏感になる。
ふらふらとロビーへ行くと、いつもは端っこに座っているはずの蝶々髪留めのおばあちゃんが、端から二番目に座っていた。私は困惑して足を止める。
私の定位置は三番目だ。つまり、今そこに座ると、あのおばあちゃんの隣に座ることになる。
お互い毎日のように来ているので、お互いに定位置があることはわかっているはずだ。あの位置は、きっとわざと座っている。
ほかにも空いている椅子はたくさんある。別に四番目に座ったっていいけど、なんだかあからさまで嫌な感じだ。
引き返してもいいけれど、その前に私の気配に気がついたのか、彼女が振り向いてしまった。にっこり微笑み隣の椅子をぽんぽんと叩いたので、引き返す案は敢えなく霧散。
私はしかたなく、歩いていって、いつも通りの三番目の席に座る。隣を見ると、おばあちゃんは前を向いて、窓に打ち付ける大粒の雨を眺めていた。
窓ガラスの上で、川のように水滴が繋がり流れていく。虫が一匹、その水流をものともせずに上っていくのを見ているようだった。
「力強いわねえ」
と、おばあちゃんが言った。私は同じものをしばらく見ていて、気がついた。
「内側ですね、あの虫」
「えぇ?」
おばあちゃんはかけていた小さな眼鏡の奥の目をきゅーっと窄めるようにして窓ガラスを見る。
ちょうど虫が翅を広げ、飛んだ。部屋の中をふわふわと飛んでいくのを見て、おばあちゃんは笑い出した。
「やだわ、滝に打たれる修行でもしているのかと思ったのに」
その発想になんだか私もつられて笑ってしまう。ぎこちなく口角が引きつって、私は思わず頬を押さえた。この体で笑ったのは、初めてだった。
「あら、笑えるのね」
おばあちゃんが、からかうような声音で言った。なんだか、鈴のような声だと思った。
「よかったわ。若いのに、いつも難しい顔ばっかりしていたから」
「和佳はこういう顔なんです」
思わず言ってしまったが、おばあちゃんは気にしたふうもなく、また窓の外に目をやる。
「ねえ、間違っていたらごめんなさいね。あなた、もしかして自殺未遂だったりする?」
「え?」
私はぽかんとして、それから首を横にぶんぶん振った。
「いえ、違います。交通事故です」
「ああ、それならよかったわ。いえ、よくはないわね……でも生きているんだから、やっぱりよかったわね」
なんだか変なおばあちゃんだ。
そういうおばあちゃんの方は、特に目立つ傷や病症は見当たらない。ただ、ほっそりとやせ細って、生気が薄い。たぶん、入院の理由を訊き返すべきではないだろうと思った。
「ごめんなさいね。入院生活が長いと、なかなか人と会う機会もないものだから、ロビーにいる人、結構話しかけちゃうのよ。嫌だったら言ってちょうだいね」
「いえ……」
私はぼんやり答える。
「いつ退院なの?」
いきなり訊かれて、私は戸惑った。
「どうして退院するって、わかるんですか?」
「顔に書いてあるわよ。退院したくないって。だから自殺未遂なのかと思ったんだけど」
思わず自分の顔を触ると、おばあちゃんが笑い出した。
「すぐ顔に出るわね、あなた」
「そう……ですかね」
私の知る限り、和佳は顔に出ない子だった。私が中に入ってしまうと、そんなに変わるんだろうか。和佳はどうやって、顔に出さないようにしていたんだろう。
「学校で、嫌なことでも?」
「いえ……」
私はかぶりを振る。別に学校で嫌なことはない、はずだ。いじめられていたわけではない。不登校でもない。特に問題を抱えてはいなかった……まあ、勉強はちょっと、追いつけていなかったけれど。
問題は、そんなことじゃない。
九月一日になっても目が覚めないかもしれないこと。
夢を見たまま、学校へ行かなければならないこと。
私は今さら、その現実に怯えている。夢なら、崖から落ちたって、地面に落ちる前に目が覚める。鬼に追いかけられたって、追いつかれる前に目が覚める。
だけどこの夢は、私が病院を出ていく日が決まっても、まるで覚める気配がない。それは、地面にぶつかって頭から血が出ても目が覚めないのと同じだ。鬼に捕まって、食われてもなお目が覚めないのと同じだ。
「……あの、信じてもらえないかもしれないですけど」
私はぽつりと、口にした。
相手はどうせ赤の他人だ、という気持ちが半分、この人なら信じてくれるかもしれない、という淡い期待が半分だった。
「私、私じゃないんです」
自分で言っていて意味が分からなくて、慌てて言いなおした。
「つまり、この体は私のものじゃなくて、友だちのものなんです。二人一緒に事故に遭って、私が死にました。だけど気がついたら、私がその友だちになっていて、だから、その……」
どれだけ突拍子もないことを言っているのか、口にするとよくわかって、私の言葉は尻すぼみになる。
信じられるわけがない。自分で言っていても信じられない。事故で頭を打って、自分の頭がおかしくなったのだと思う方がだいぶ現実的だし納得できる。
「あら、それは重症ね。先生はなんて?」
私は顔を上げる。おばあちゃんはなぜか微笑んでいた。信じてもらえていないかもしれないけど、真向から否定されなかっただけ、気持ちが楽になった気がした。
「言ってないです」
と、私は答えた。そもそもその発想もなかった。何度か診断は受けている。頭の具合も見られている。でも私は、一度だって自分が本来の体の持ち主ではないなんてこと、言ったりはしなかった。だって、
「頭がおかしいって、思われるだけだから」
「まあ、そうね。私がお医者さんだったら、一応精神科の先生を呼ぶわね」
はっきり言われて、思わず苦笑いになる。そりゃそうだ。
「でも私はお医者さんじゃないから、とりあえず相談に乗りましょう。それで、あなたはどうしたいの?」
「それがわからないんです」
私はため息をついた。
「私、どうすべきなんでしょうか」
雨足が少し遠のいたようだった。どんよりとした空模様は相変わらずだけど、窓ガラスの上を流れる川がちょろちょろとした支流に変わっている。
いつのまにかさっきの虫が戻ってきて、窓ガラスの上をまた内側から這い上っていく。すごい勢いで上空を雲が流れていき、風の唸り声が響いている。
「そうねえ」
おばあちゃんが口を開いた。
「しばらく、そのお友達として過ごしてみるのも悪くないんじゃないかしら」
私は彼女を見た。彼女の横顔は、やっぱり微笑んでいた。
「不幸な事故だったわね。でも、あなたの言うことが本当なら、入れ替わってしまったことにはきっと何か意味があるのよ。あなたはきっと、それを見つけなくちゃいけないわ」
「意味……」
私は考え込む。正しいことを言われているような、誤魔化されているような。でも確かに、こんな状況でなければできないことが、あるかもしれない。
「ねえ」
ふっと、おばあちゃんが窓ガラスを指差した。
「今度はあの虫、外側ね」
おばあちゃんに言われて、私は瞬きした。
同じ虫だと思った窓ガラスの羽虫の上で、確かに水流が割れている。逆らうようにぐんぐん上っていって、やがて窓のてっぺんにたどり着くと、翅を広げて降りしきる都会の雨空へ向かって飛んでいった。
「力強いわねえ」
おばあちゃんがしみじみと言って、私もうなずくしかなかった。
ふいにおばあちゃんが自分の髪留めを指差して言った。
「あのね、これ、アサギマダラっていう蝶々なの。すごく長い距離を飛んで、海をも越えてしまう蝶々なんですって」
薄青い翅を持つ蝶々を見つめて、それから私はおばあちゃんを見つめた。
ふっと気づく。少し、薄青い瞳だ。異国の血が混じっているのだろうか。
彼女はその目に不思議な光を宿して、ぽつりとつぶやいた。
「蝶々って、魂を運ぶ虫なのよ。昔からね。霊の乗り物だなんて呼ばれてたの。アサギマダラが海を超えるのは、ひょっとして海を渡りたい魂を乗せているのかもしれないわね……」
朝から土砂降りの夏の雨が窓を打って、右隣の人はいつになく寝苦しそうにしている。確かに少し、うるさい。昨日、ロビーのテレビの天気予報が、この夏一番の大雨になると言っていたっけ。
窓に打ち付ける大粒の雨を眺めていると、なぜだか少し、わくわくしている自分がいる。小さい頃、台風が近づいてくると学校休みになるので、その非日常感にそわそわしていたのを思い出す。代わり映えのしない入院生活では、天気の変化一つに敏感になる。
ふらふらとロビーへ行くと、いつもは端っこに座っているはずの蝶々髪留めのおばあちゃんが、端から二番目に座っていた。私は困惑して足を止める。
私の定位置は三番目だ。つまり、今そこに座ると、あのおばあちゃんの隣に座ることになる。
お互い毎日のように来ているので、お互いに定位置があることはわかっているはずだ。あの位置は、きっとわざと座っている。
ほかにも空いている椅子はたくさんある。別に四番目に座ったっていいけど、なんだかあからさまで嫌な感じだ。
引き返してもいいけれど、その前に私の気配に気がついたのか、彼女が振り向いてしまった。にっこり微笑み隣の椅子をぽんぽんと叩いたので、引き返す案は敢えなく霧散。
私はしかたなく、歩いていって、いつも通りの三番目の席に座る。隣を見ると、おばあちゃんは前を向いて、窓に打ち付ける大粒の雨を眺めていた。
窓ガラスの上で、川のように水滴が繋がり流れていく。虫が一匹、その水流をものともせずに上っていくのを見ているようだった。
「力強いわねえ」
と、おばあちゃんが言った。私は同じものをしばらく見ていて、気がついた。
「内側ですね、あの虫」
「えぇ?」
おばあちゃんはかけていた小さな眼鏡の奥の目をきゅーっと窄めるようにして窓ガラスを見る。
ちょうど虫が翅を広げ、飛んだ。部屋の中をふわふわと飛んでいくのを見て、おばあちゃんは笑い出した。
「やだわ、滝に打たれる修行でもしているのかと思ったのに」
その発想になんだか私もつられて笑ってしまう。ぎこちなく口角が引きつって、私は思わず頬を押さえた。この体で笑ったのは、初めてだった。
「あら、笑えるのね」
おばあちゃんが、からかうような声音で言った。なんだか、鈴のような声だと思った。
「よかったわ。若いのに、いつも難しい顔ばっかりしていたから」
「和佳はこういう顔なんです」
思わず言ってしまったが、おばあちゃんは気にしたふうもなく、また窓の外に目をやる。
「ねえ、間違っていたらごめんなさいね。あなた、もしかして自殺未遂だったりする?」
「え?」
私はぽかんとして、それから首を横にぶんぶん振った。
「いえ、違います。交通事故です」
「ああ、それならよかったわ。いえ、よくはないわね……でも生きているんだから、やっぱりよかったわね」
なんだか変なおばあちゃんだ。
そういうおばあちゃんの方は、特に目立つ傷や病症は見当たらない。ただ、ほっそりとやせ細って、生気が薄い。たぶん、入院の理由を訊き返すべきではないだろうと思った。
「ごめんなさいね。入院生活が長いと、なかなか人と会う機会もないものだから、ロビーにいる人、結構話しかけちゃうのよ。嫌だったら言ってちょうだいね」
「いえ……」
私はぼんやり答える。
「いつ退院なの?」
いきなり訊かれて、私は戸惑った。
「どうして退院するって、わかるんですか?」
「顔に書いてあるわよ。退院したくないって。だから自殺未遂なのかと思ったんだけど」
思わず自分の顔を触ると、おばあちゃんが笑い出した。
「すぐ顔に出るわね、あなた」
「そう……ですかね」
私の知る限り、和佳は顔に出ない子だった。私が中に入ってしまうと、そんなに変わるんだろうか。和佳はどうやって、顔に出さないようにしていたんだろう。
「学校で、嫌なことでも?」
「いえ……」
私はかぶりを振る。別に学校で嫌なことはない、はずだ。いじめられていたわけではない。不登校でもない。特に問題を抱えてはいなかった……まあ、勉強はちょっと、追いつけていなかったけれど。
問題は、そんなことじゃない。
九月一日になっても目が覚めないかもしれないこと。
夢を見たまま、学校へ行かなければならないこと。
私は今さら、その現実に怯えている。夢なら、崖から落ちたって、地面に落ちる前に目が覚める。鬼に追いかけられたって、追いつかれる前に目が覚める。
だけどこの夢は、私が病院を出ていく日が決まっても、まるで覚める気配がない。それは、地面にぶつかって頭から血が出ても目が覚めないのと同じだ。鬼に捕まって、食われてもなお目が覚めないのと同じだ。
「……あの、信じてもらえないかもしれないですけど」
私はぽつりと、口にした。
相手はどうせ赤の他人だ、という気持ちが半分、この人なら信じてくれるかもしれない、という淡い期待が半分だった。
「私、私じゃないんです」
自分で言っていて意味が分からなくて、慌てて言いなおした。
「つまり、この体は私のものじゃなくて、友だちのものなんです。二人一緒に事故に遭って、私が死にました。だけど気がついたら、私がその友だちになっていて、だから、その……」
どれだけ突拍子もないことを言っているのか、口にするとよくわかって、私の言葉は尻すぼみになる。
信じられるわけがない。自分で言っていても信じられない。事故で頭を打って、自分の頭がおかしくなったのだと思う方がだいぶ現実的だし納得できる。
「あら、それは重症ね。先生はなんて?」
私は顔を上げる。おばあちゃんはなぜか微笑んでいた。信じてもらえていないかもしれないけど、真向から否定されなかっただけ、気持ちが楽になった気がした。
「言ってないです」
と、私は答えた。そもそもその発想もなかった。何度か診断は受けている。頭の具合も見られている。でも私は、一度だって自分が本来の体の持ち主ではないなんてこと、言ったりはしなかった。だって、
「頭がおかしいって、思われるだけだから」
「まあ、そうね。私がお医者さんだったら、一応精神科の先生を呼ぶわね」
はっきり言われて、思わず苦笑いになる。そりゃそうだ。
「でも私はお医者さんじゃないから、とりあえず相談に乗りましょう。それで、あなたはどうしたいの?」
「それがわからないんです」
私はため息をついた。
「私、どうすべきなんでしょうか」
雨足が少し遠のいたようだった。どんよりとした空模様は相変わらずだけど、窓ガラスの上を流れる川がちょろちょろとした支流に変わっている。
いつのまにかさっきの虫が戻ってきて、窓ガラスの上をまた内側から這い上っていく。すごい勢いで上空を雲が流れていき、風の唸り声が響いている。
「そうねえ」
おばあちゃんが口を開いた。
「しばらく、そのお友達として過ごしてみるのも悪くないんじゃないかしら」
私は彼女を見た。彼女の横顔は、やっぱり微笑んでいた。
「不幸な事故だったわね。でも、あなたの言うことが本当なら、入れ替わってしまったことにはきっと何か意味があるのよ。あなたはきっと、それを見つけなくちゃいけないわ」
「意味……」
私は考え込む。正しいことを言われているような、誤魔化されているような。でも確かに、こんな状況でなければできないことが、あるかもしれない。
「ねえ」
ふっと、おばあちゃんが窓ガラスを指差した。
「今度はあの虫、外側ね」
おばあちゃんに言われて、私は瞬きした。
同じ虫だと思った窓ガラスの羽虫の上で、確かに水流が割れている。逆らうようにぐんぐん上っていって、やがて窓のてっぺんにたどり着くと、翅を広げて降りしきる都会の雨空へ向かって飛んでいった。
「力強いわねえ」
おばあちゃんがしみじみと言って、私もうなずくしかなかった。
ふいにおばあちゃんが自分の髪留めを指差して言った。
「あのね、これ、アサギマダラっていう蝶々なの。すごく長い距離を飛んで、海をも越えてしまう蝶々なんですって」
薄青い翅を持つ蝶々を見つめて、それから私はおばあちゃんを見つめた。
ふっと気づく。少し、薄青い瞳だ。異国の血が混じっているのだろうか。
彼女はその目に不思議な光を宿して、ぽつりとつぶやいた。
「蝶々って、魂を運ぶ虫なのよ。昔からね。霊の乗り物だなんて呼ばれてたの。アサギマダラが海を超えるのは、ひょっとして海を渡りたい魂を乗せているのかもしれないわね……」