「ユリトは、このマシンのこと、大事にしてたんだね」
染み入るように澄んだカイリの声が、耳の奥で熱を持つ。息をついて目を閉じたら、見栄が一つ、はがれて落ちた。
「笑ってくれてかまわないんだけど、おれはこいつのこと、ただのモノだと思ったことないんだ。親友で、相棒で、心も魂も命も持ってる。こいつはしゃべれないけど、どこをメンテしてほしいかって、おれには伝わってくる」
「この尾びれみたいな翼みたいな部分に書いてあるの、この子の名前?」
目を開けて、真正面にマシンをかざす。シャープな流線型のボディでも、ひときわ目を引くのは、大きなリヤウィング。そこに、銀色の文字で刻んである。
STRAHL《シュトラール》。
「うん、こいつの名前」
「何て読むの?」
「シュトラール。ドイツ語で、輝きっていう意味。プラモートとしての商品名は別にあるんだ。でも、おれとハルタは、わざわざ自分だけの名前を付けてて。変だろ?」
「変じゃないよ。シュトラールって、カッコいい名前だと思う」
カッコいいって、カイリの声で聞かされたら、おれの胸の奥が何だか勘違いした。ドキッとしてしまって、少し苦しい。
「名前、カッコいいとか、初めて言われた。まあ、こいつの名前を知ってるの、おれのほかにはハルタだけか。でも、ぬいぐるみに名前付けてる子どもみたいなもんだから、人には教えたことなくて」
「子どもでもいいんじゃない?」
「どうだろうな。おれはそういうとこ見栄っ張りだし、何かダサいかなって」
「もう走らせないの?」
「シャーシとチップが割れてからは、意味もなく眺めてるばっかりかな。いじるのが、怖くなっちゃって。必要以上に悲しい気持ちになりそうで、それがイヤで」
なあ、シュトラール。おまえ、走りたいか? いや、訊いてごめん。走りたいよな。おまえは走るために存在するんだから。
なんてね。呼び掛けても無駄かな。頭脳だったチップが壊れて、おまえはもう、おれのことわからないだろ? まあ、最初から機械に意識なんか存在しないんだろうけどさ、本当は。
シュトラールのモーター音をまた聞きたいとも思う。でも、もういいかなとも思う。子どもっぽい夢、このへんで終わらせようかな。プラモートに夢中になった子ども時代は、シュトラールのチップと一緒に割れて終わって、それでいいかな。
「走らせるの、楽しい?」
カイリの言葉に、ドクンと血潮が反応する。レースの興奮を記憶している体が、あるいは魂が、おれの口から正直な言葉を吐き出させた。
「楽しかった。ライバルに勝つのも嬉しかったけど、それ以上に、シュトラールがどんどん速くなることが嬉しかった。昨日の自分より今日の自分のほうが成長してるって実感できた。新しいセッティングを思い付く瞬間も、抑え切れないくらいワクワクして好きだった」
「楽しそう」
「スタートラインから走り出すときが、最高にドキドキするんだ。『レディー、ゴー!』で、レースが始まる。そこから先は、祈って応援して、シュトラールを信じるしかない。ちゃんと応えてくれるんだ。だから、こいつにも心があるって錯覚しちゃうよな」
小学生のころに入りびたっていた模型屋に行かなくなったのは、中学一年生の何月だっただろう? 覚えていない。
一年生の一学期からクラス委員を任されて、テストの成績もトップを維持していた。一目置かれる存在でいなければならないような気がした。小学生のままでいてはいけない。早く大人にならないといけない。そんなふうに、心が追い立てられた。
カイリがおれに尋ねた。
「チップがもとどおりになってシャーシの傷が治ったら、シュトラールは走れるの?」
「ああ。でも、この島には模型屋とかないよな」
「ないよ。わたしが言いたいの、そういうことじゃなくて。ユリトはシュトラールに命があるって、本気で信じてるよね。命あるものは、龍ノ神が見守ってるよ」
おれはカイリの目をのぞき込んだ。唐突に何を言い出すんだろう? まっすぐにおれを見つめ返す目はふざけている様子もない。
「どういう意味? おれが信じてたら、シュトラールに命が宿るってこと?」
薄い唇が、透き通る声が、歌うように告げる。
「龍ノ里島に訪れる、最後の奇跡。まもなく眠りに就く島の、小さなたわむれ」
シュトラールを持つおれの手に、カイリが濡れた手を重ねた。
「な、何だよ?」
「シュトラールには、さわらないよ。機械は海水を嫌うから。ユリト、シュトラールを想って。正直な願いを込めて、想って」
「正直な願い?」
「生き返ってほしいでしょう?」
ドクン、と、カイリの手が熱を持った。気のせいなんかじゃない。確かに熱い。人の体温ではあり得ないくらいに。
熱はおれの手に飛び込んで、そして突き抜ける。
シュトラールが熱に包まれる。レースを走り切った直後みたいに、シュトラールの車体が熱い。そして、かすかな振動と涼やかな駆動音が、唐突に起こる。
そんなはずはない。シュトラールには今、モーターも電池も入っていない。
何が起こった、と問うより早く、熱は引いた。振動も音も引いた。
カイリの手が離れていく。
まばたきなんか一度もしなかった。ずっとシュトラールを見つめていた。なのに、いつそれが起こったのか、わからなかった。
「割れて、ない……?」
無傷のチップが、整然としてそこにある。シャーシにも傷ひとつない。復元された? 生き返った?
カイリが静かに告げた。
「命が、あったから」
おれはカイリを見つめた。
「どういうこと?」
「レディー、ゴーで走り出したら、シュトラールはユリトに応えてくれるんでしょ? ユリトと共鳴するための命が、この子には本当にあった。奇跡は、命あるものにだけ訪れる」
「奇跡? 命あるもの?」
カイリは立ち上がった。おれは視線をさらわれた。呆けたように、海の輝きを映す瞳を見つめてしまう。
ふっと、カイリが頬を緩めた。
「ユリト、シュトラールをバッグにしまって、バッグをここに置いて。帽子も邪魔」
「は? 何で?」
「泳ごう」
「お、おれが?」
カイリはおれを見下ろして、首をかしげた。
「ユリトって、ほんとは、おれって言うんだ? さっきからそうだよね」
しまった。うっかりしていた。今まで家族以外の人の前では、ぼくという一人称で通してきた。言葉遣いも、できるだけ丁寧にしようと心掛けていたのに、今、カイリの前では崩れていた気がする。
「何か、あの……ごめん」
「どうして謝るの?」
「ここにいる間、行儀よくしなきゃって決めてたのに」
「必要ないよ。ハルタみたいに、自由にしてれば? それより、カバン置いて。濡れちゃいけないもの、カバンと一緒にここに置いて」
言われるままに、おれは帽子を脱いで、シュトラールをバッグにしまって、バッグを体から外した。財布もケータイも、部屋に置いてきている。濡らしたくないのは、シュトラールだけだ。いや、全身ずぶ濡れにも、あんまりなりたくないけれど。
おれが立ち上がると、カイリはいきなり、おれの手首をつかんだ。濡れた細い指。カイリのほうが背は高いけれど、手はずいぶん華奢だ。おれの手と全然違う形をしている。
形が違うのは、手だけじゃない。体じゅう全部だ。濡れて肌に貼り付いた服のせいで、そばにいるだけで恥ずかしくなるほど、カイリの体の形がわかってしまう。
すごい勢いで、おれの頬に熱が集まった。
「ちょ、て、手を、あのっ」
「飛び込むよ」
「はい? ま、待って、ここ、海面から、かなり高い」
「今は潮が引いてるから、三メートルくらいあるかな」
「な、三メートルって、飛び込む高さ?」
「思いっ切り遠くまで飛ばないと、海底が浅いとこに落ちたらケガするよ」
「ええぇぇっ? 待ったなしかよっ?」
カイリがおれの手を引いた。うっかりぶつかったカイリの体は、想像以上に柔らかい。間近な横顔が笑っている。目を奪われた一瞬の間に、カイリは駆け出していた。もちろん、おれも引っ張られて走る。
「レディー、ゴー!」
カイリの掛け声とともに、おれとカイリの足はコンクリートを蹴って、キラキラ輝く海の上へと躍り出した。
昼を過ぎたころになっても、部屋を通り抜けていく風は涼しい。にぎやかなセミの声も、慣れればむしろ耳に心地よかった。家でハルタがよく聴いている日本語の歌詞のポップスより、よっぽどいい。日本語の歌詞は、ついつい追い掛けてしまうから疲れる。
部屋のダイニングテーブルに向かって、ひたすら課題を解いている。高校入試の過去問の数学。中学三年で教わるべき内容は、自分で全部、勉強し終えた。あせっているつもりはない。これがおれのペースだ。飛び級とか、できればいいのに。
一次関数の直線l上にある点Pとy軸上にある点Aを通る直線mの、y=-2のときの傾きを求める。点Pが直線l上を動いて、直線mの傾きが変わって、ある特定の条件下で形作られる図形の面積を求める。
中学レベルの数学はパズルだ。スパッと答えが出る。素数階段とかリーマン予想とか、数というもの自体に迫る学問に立ち入ると、神秘や真理みたいな、うまくアプローチできない何かに近付いてしまうけれど。
「神秘か」
今朝、まぶしい光に包まれた海辺でおれが目にしたのは、何だったんだろう? 破損していたこと自体がおれの見間違いだったみたいに、今、シュトラールのシャーシとチップには傷跡ひとつ残っていない。
見間違いだったはずはない。カイリが確かに、何かをしたんだ。何かって、何だ? カイリは何と言った? 奇跡?
不意に、開けっ放しのドアの向こうから、元気のよすぎる声が聞こえた。
「たっだいまー!」
ハルタだ。玄関で叫んだ声が、ここまで飛んできた。ハルタは、昼食の後にどこかに行っていたけれど、帰ってきてしまった。面倒だな。あいつ、絶対に邪魔しに来る。
案の定、軽快な足音が階段を駆け上がってきた。その勢いのまま、全身汗びっしょりのハルタは、部屋に姿を現した。
「兄貴、見ろ! カブトとクワガタ、つかまえたぞ! こんなデカいの、初めて見た!」
ハルタがおれの目の前に突き付けたのは、即席の虫かごだった。ペットボトルの底を切って網をかぶせただけの代物だ。透明なプラスチックの内側で、立派な角を持つカブトムシとクワガタがのそのそと動いている。
「こいつら、夜行性だろ? 寝ぼけてるじゃないか」
「そっ。昼寝中をつかまえたんだ。虫捕り網とか使わずに、手でつかんだんだぜ。こんなことできるって、ビックリだ」
「よかったな」
棒読みで言ってやりながら、解きかけの数式に意識を戻す。
虫はあんまり得意じゃない。カブトムシやセミは平気だけれど、夜の外灯に群がっている虫には背筋がゾッとする。特に、毒々しい色の鱗粉をまとったガは、本当にダメだ。
視界から問題集が消えた。ハルタがかっぱらったんだ。
「こんなもん、ここでやる必要ねぇだろ」
「返せよ」
「やなこった。って、うげえ、これ高校入試の過去問じゃん。こんなの、普通は三学期にやるんじゃねぇのか?」
「それじゃ遅すぎる。返せってば」
「へへーん、返さねぇよ。兄貴、今日はこれから探検に行くぞ! カイリが、学校に忍び込む方法、知ってるって!」
「学校? 行ってどうするんだ?」
「だから、探検すんだよ! 学校ったって、普通の学校じゃねぇぞ。もう使われなくなった学校なんだ。チラッと眺めてきたんだけどさ、木造で一階建ての超古い建物だった。な、行ってみようぜ!」
「行かない」
「ふぅん? 夜に行くほうがいいのか? 肝試ししたら、すっげー迫力ありそうな場所なんだけど」
「だから、おれはそういう……」
尖った言葉もいらだった顔も、慌てて引っ込める。部屋の入り口に、カイリが立っていた。ハルタと同じく汗をかいている。カイリは首をかしげた。
「ユリトは勉強? 邪魔だった?」
ハルタがおれの問題集をテーブルの上に投げ捨てた。
「なあ、行こうぜ、兄貴。学校、誰もいないんだってよ。おもしろそうじゃん」
「おもしろそうって、だけど……」
「別に、無理やり首に縄付けて引っ張ってくつもりはねぇけどさ、兄貴もちょっとは付き合えよ。せっかくカイリが山とか海とか案内してくれるって言ってんのに」
チクッと、胸に小さな棘が刺さった。
ハルタが抱えたペットボトルの虫かごは、細工が丁寧だ。ハルタはプラモートのセッティングやメンテナンスも大雑把だから、あんなにきれいに仕上げるはずがない。きっと、あれはカイリがハルタのために作ったんだ。そして、二人で山に行ってきたんだ。
学校にも、おれが行かないと言ったら、ハルタはカイリと二人で行くんだろう。まあ、ハルタの好きなようにさせればいいさ。あいつは天真爛漫で、誰とでもすぐに仲良くなる。ハルタが誰と友達になろうと、おれはおれだ。関係ない。
本当に? 関係ないって、本当に言えるか?
胸にチクチク刺さる棘がある。一体いくつ刺さっているんだろう? その正体も、とっくにわかっている。
おれとハルタは、兄弟だからワンセット。おれはいつでもハルタの隣にいて、おれと違って太陽みたいなあいつを見て、そのたびに小さな棘が増えていく。
嫉妬だ。おれはあいつになれない。おれはあいつがうらやましい。
「ユリト」
カイリの澄んだ声がまっすぐに、痛む胸に染み入った。顔を上げたら、カイリはおれを見つめていた。おれは反射的に笑顔をつくる。
「何?」
「行こう?」
自分がまぎれもなく、単純明快なハルタと同じ遺伝子を持っているんだって、こういうときに気付く。カイリがおれを誘ってくれた。その一言で、おれは胸の痛みを忘れ去る。なんて単純明快なんだろう。
「課題は、夜にやることにしようかな」
おれが椅子を立ったら、ペットボトルの虫かごを抱えたハルタは、屈託なくガッツポーズをした。
☆.。.:*・゜
龍ノ原小中学校の校舎は、木造一階建てで、屋根には瓦がふかれている。二百メートルトラックがギリギリ入る広さの運動場は、海と山に挟まれて、いびつな形だ。赤い屋根の体育館は、校舎よりは新しそうに見える。
錆びた鉄棒や遊具、砂がすっかり減った砂場、見上げるほどに立派なヒマワリ、ハチが蜜を吸うサルビア。おれの知る小学校のイメージに似ていて、だけど、やっぱり決定的に違う。
「静かだな」
セミの声と風の音、波の音しか聞こえない。子どもの声がしない空っぽの学校は、真夏の日差しの中で、今にも裏山に溶けていきそうに儚い。
カイリはまっすぐに校舎の玄関に向かった。ハルタがその左隣を歩いている。
「玄関から入れんのか?」
「鍵、掛かってないから」
「この島って、鍵掛ける習慣がまったくねぇんだな」
「よそでは、鍵掛けるんだ?」
「掛けるだろ、普通」
カイリとハルタを後ろから眺めて、いつもの配置と同じだなと思う。ハルタが左、幼なじみの千奈美《チナミ》ちゃんが右、おれが後ろ。ハルタが後ろ向きになって歩いたり、チナミちゃんがおれを振り返ったりすることはあっても、配置が崩れることはない。
チナミちゃんはハルタと同い年だ。おれが一人、先に中学に上がった年も、相変わらず三人一緒に通学していた。おれたちの学区の小学校と中学校は、目と鼻の先にある。
この島では、目と鼻の先どころか、小学校と中学校が一緒になっているらしい。校門の門柱にあった「小中学校」の文字を思い出していたら、おれが考えているのと同じことを、ハルタが声に出してカイリに確認した。
「なあなあ、カイリ。小中学校って、小学校と中学校がくっついてるってことだよな?」
「そうだよ。別々の校舎を使うほどの人数、いないから」
運動場の砂で白く汚れたガラス張りのドアは、確かに鍵が掛かっていなかった。校舎に入ると、薄暗い。こもって蒸し暑い空気の中、かすかに隙間風を感じる。黒ずんだ板張りの床には砂がうっすらと積もっている。
「靴のまま上がって」
言いながら、カイリはスニーカーで廊下に踏み出した。ハルタが続いて、おれも追い掛ける。
玄関に並ぶ下駄箱は、ざっと見た感じでは三百人ぶん以上あった。違和感というより、疑問を覚える。またしても、ハルタもおれと同じタイミングで同じことを思ったらしく、それを口にした。
「下駄箱、やたら多いんだな。子どもの数、こんなにいなかったんだろ?」
カイリの答えは、少し意外だった。
「昔はいたんだよ。龍ノ原小学校だけで、各学年二クラス。龍ノ尾の根元にも、もう一校あった。山を越えた反対側に集落があったし。もちろん、その当時は、中学校は小学校と別だった」
今の龍ノ原には朽ちた家ばかりが残されている。原形を保って建っている家も、ほとんどが空き家だ。おれは今朝、カイリと一緒に家に帰る途中でおばあさんひとりと話したほかは、誰とも会っていない。
校舎の壁は、白い漆喰で塗られていた。窓のサッシは赤錆びがビッシリの鉄製で、ねじ込み式の鍵は、工学事典で見たことがある。事典の説明どおりに開けてみようと思ったら、鍵もすっかり錆びていて、少しも回ってくれなかった。
職員室、保健室、放送室、校長室、理科室、音楽室、図書室。毛筆で書かれた表札を巡りながら、開け放たれた引き戸から中をのぞき込む。
何もなかった。
机も椅子も教卓もカーテンも、保健室のベッド、放送室の機械、校長室のソファ、理科室の実験道具、音楽室の楽器、図書室の本も、全部ない。それらがあった形に、板張りの床が日焼けを免れている。
「すげぇな。誰もいないし何もないって、別世界みたいだ。ここ、学校の抜け殻だな」
ハルタが天井を見上げて言った。カイリがうなずいた。
「抜け殻だよ。学校も、龍ノ原の町も」
「町っていうサイズじゃねぇだろ。あー、でも、昔は違ったんだっけ?」
「漁業の基地になってたころは、いつでも二千人以上、人が住んでた。漁に出てる男たちが帰ってくると、もっと増える。子どももたくさんいた。クジラが獲れたらすごくお金になってたし、そのころは龍ノ里島がこんなに寂れるなんて誰も思ってなかった」
昔って、どれくらい昔の話だろう? 確か、昭和四十年代って言っていたかな。カイリは見てきたように話すけれど、龍ノ里島が潤っていたのは、おれたちが生まれるずっと前のことだ。
当然の疑問が湧いて出る。
「どうして人がいなくなったんだろう?」
カイリが答えた。
「魚、売れなくなったから。クジラ、獲っちゃいけなくなった。漁で稼げなくなったら、漁師は違う仕事を探さないといけない。違う仕事は、龍ノ里島にはない。人がいなくなるのは、あっという間だった。小学校が減って、一つになって、中学校も小学校に合併された」
カイリが足を止めた。教室の前だ。表札には、一年生、三年生、四年生と並べて書かれている。カイリが教室に入って、おれとハルタも付いていく。黒板には文字が残されていた。幼い字で書かれたいくつもの「ありがとう」のそばに、三人の名前が添えられている。
黒板に触れたカイリが、おれとハルタを振り返った。
「この三兄弟が、龍ノ原小学校の最後の子どもたち。学年の違う三人が、一つの教室で授業を受けてた。でも、こんなの、学校って言える環境じゃないよね。去年の三月で、三兄弟の家族は龍ノ里島から引っ越していった。もう二度と戻ってこない」
ハルタが汗を腕で拭って、ギュッと顔をしかめた。
「寂しい話だな。仕方ないかもしれねぇけど」
「うん、仕方ない。もうすぐ、この町は滅ぶ。わたしはそれを見届ける。そうすることしかできない」
カイリが目を伏せた。長いまつげの奥に瞳の輝きが隠れる。この学校は、カイリの母校だ。最後の一人だったんだ。
おれは正直に言った。
「想像できないな。同じ小学校や中学校に通うのが自分の兄弟だけって。おれとハルタは学年が違うから、当然クラスも違う。それが普通だよね。そうじゃない学校があること自体、想像を超えてる」
「ユリトの感覚が普通だと思う。こんなに人間のいない場所のほうが珍しい」
「おれにとっての学校はもっと大きな場所だよ。たくさんの人間がいて、そのぶん窮屈で」
「窮屈?」
「役割を演じないといけない。おれは生徒会長をやってるし、特にね」
学校におれとハルタだけしかいないなら、気楽なんだろうか。それとも今以上に、ハルタと違う人間でいなきゃいけないと、意地や見栄を張ってしまうんだろうか。
三人だったらどうだろう? おれとハルタと、幼なじみのチナミちゃん。
最悪だな。おれだけ蚊帳の外だ。
ごまかしようのない人間関係に、他人に本心を見せられないおれは、きっとだんだん酸素が足りなくなっていく。追い詰められるに決まっている。
ああ、なるほど。小さな小さな社会になった龍ノ原からよそに移っていく気持ちが今、少しわかった。
だって、一から十までお互いのことを知ってしまう距離の人間関係なんて、おれにはうまくやれない。やり方がわからない。
カイリが静かに告げた。
「わたしは、生まれたらいつか滅ぶのは当たり前だと知ってる。学校が一つ消える。町が一つ消える。いつか迎える運命だとわかってたから」
「八月の終わりに、みんな引っ越してしまうんだっけ?」
「うん。隣の大きな島に移る人、本土に移る人、親戚や子どものいる都会に移る人、いろいろ。とうさんは隣の島で発電の研究や管理の仕事を続ける。龍ノ里島の発電施設が、そっちに移るから」
「きみもスバルさんと一緒に隣の島に行くんだよね?」
おれの質問に、カイリは目を伏せたまま、そっと笑った。その寂しげな表情が、おれの胸の奥に刺さる。
ハルタも同じ痛みを感じたらしい。慌てた口調で言い募った。
「カイリなら、どこ行っても、うまくやれるって! かわいいし、運動得意だし、何だかんだ物知りだしさ。うちの学校とか転校してきたら、一瞬でファンができそうだよな。男子はもちろん、女子からもモテそうじゃん? なあ、兄貴!」
「えっ? ま、まあ、そうだな。こんな人数の少ない学校からの転校じゃ、最初は大変だろうけど、か、カイリなら大丈夫じゃないかな」
言葉が素直に出ていかないのは、どうして? 自問の答えは、素直に見付かる。
ハルタがあっさりと、カイリをかわいいと言ったから。カイリがモテるだろうというのは、ハルタ自身がカイリに惹かれているから。カイリなら確かに、どんな場所にいても、変わらないカイリでいられそうだから。おれはうまくやれないのに、カイリならできそうだから。
自分にできないことを、目の前にいる誰かは簡単にやってのける。それを見せ付けられると、おれの体の奥で嫉妬がきな臭い煙を上げる。醜い感情にいぶされて、おれは内側からじわじわと、黒く染まっていく。
イヤだ。こんな自分は嫌いだ。止めてくれよ、誰か。
でも、誰も気付かない。おれが笑顔の仮面の下でいつだって他人に嫉妬していることに、いちばん身近なはずのハルタでさえ気付いていない。信じられない鈍感野郎だ。おれがいちばん嫉妬する相手はハルタなのに。
「しっかし、やっぱ暑っちぃなー。閉め切ってっと、蒸し暑くてたまんねえ」
ハルタが手のひらで顔をあおいだ。息苦しいほどの熱気と湿気は、それくらいじゃどうしようもない。カイリも腕で額の汗を拭った。
「帰り、海に飛び込む?」
「おっ、それ楽しそう! でも、おれ、水着じゃねぇぞ?」
「水着で泳ぐ子ども、この島にはいないよ。普通の服のまま飛び込む」
「よっしゃ、それ、ますます楽しそう!」
ということは、ハルタはまだ泳いでいないんだ。朝、おれは思いがけず、カイリに引っ張られて飛び込んだけれど。
水は冷たかった。足の届かない深さで泳ぐのは初めてだと、海に入った後で気付いた。不格好に水を掻いていたら、力を抜けば浮くことをカイリが教えてくれた。そして二人で仰向けになって、青さを増していく朝の空を眺めた。
海から上がったら、体が重かった。濡れたまま家まで帰って、風呂場の勝手口から中に入ってシャワーを浴びて、ベッドに引っくり返った。眠れたわけじゃないけれど、疲れた体はしばらく動かなかった。
と。
おれは気付いた。
「あれ……何か、おかしい……」
さっきから汗をかいていない。暑さを感じるのに、同時に寒気を感じる。勘違いじゃない。腕に鳥肌が立っている。たぶん、体温が下がっている。
何かひどく重たいものが、腰から背骨を伝って、肩へ、首へと這い上がってくる。
まずい。これが頭まで上がってきたら、おれは立っていられなくなる。いつもの、あの発作だ。つかまって体を支えられるものを探さないと。
でも、もう手遅れだ。視界がかすみ始める。呼吸が鈍くなる。つられて心臓の動きまで鈍くなる気がする。
「ちょっと、おい、兄貴っ?」
おれの異変に気付いたハルタが駆け寄ってくる。大丈夫、と反射的に動いたはずの舌が絡まった。ハルタの目を見ているつもりなのに、焦点が合わない。
首まで上がってきていた重くて気だるい感覚が、頭に達した。その瞬間、体を支える全部の力が抜けた。
意識が消える寸前、ハルタに抱き止められるのを感じた。
☆.。.:*・゜
最初は、夜にほとんど眠れなくなった。夜中とも朝方ともいえない時間帯に、うとうとするだけだ。
みるみるうちに体力が落ちるのが、自分でもわかった。反応速度が鈍くなった。体育のサッカーで、あり得ないほど簡単にケガをして、部活のバスケを休む羽目になった。
寝不足でドジをやるなんてユリトらしくないと、心配しながらも笑ってくれる部活仲間に、おれも笑って返した。本当は、あせりで胸がザワザワしていた。ごまかし笑いを続けていられるうちに、ちゃんと眠れる体質に戻らないといけない。
おれの体はどうなってしまったんだろう? なぜ、眠るという簡単なことがうまくできないんだろう?
いや、このくらい大丈夫。まだ大丈夫。
そんなふうに自分をなだめていたのに、急転直下だった。ある日の学校帰り、道を歩いているときに、いきなり気を失った。眠りに落ちた、というのが正しい。たまたま一緒にいたハルタが、家までおぶって運んでくれた。
当然、親にメチャクチャ心配された。大丈夫だと言い張ったけれど、その夜のうちに二度も倒れてしまった。翌朝、おれは精神科に連れていかれた。
精神科だよ。おれ、異常なんだ。
悲しくなった、というのとは少し違う。ただ、張り詰めていたたくさんの糸のうちの一本が、音もなく切れた。
おれは病院でも品行方正の優等生を演じた。問題はないように振る舞った。だけど、症状は出るんだ。夜は眠れない。その反動のように、昼間にときどき、意識を失うように唐突に眠ってしまう。
ナルコレプシーという脳の病気が疑われたけれど、検査の結果、違うとわかった。おれの睡眠のリズムがおかしいのは、原因不明。おそらくストレスだろう、と。
ハルタにも親にも、学校には内緒にしてくれるよう頼み込んだ。爆弾を抱えて生活している気分だった。それも長くは続かなかった。授業中、板書をしているときに倒れて、保健室にかつぎ込まれた。担任の田宮先生にも睡眠障害がバレた。
田宮先生にも、みんなに言わないでくださいと頼み込んだ。ちゃんと内緒にするから剣持は無理をするなと言われた。そこまで無理をしているつもりはなかったけれど、はたから見たら、やせ我慢の痛いやつだったのかもしれない。また、糸が一本、ふつりと切れた。
少しずつ、うまくいかなくなっていく。一本ずつ、糸が切れていく。昼間に突然眠っても、疲れは取れない。というより、眠ったことに自分で気付かない。
夜は相変わらず、あまり眠れない。体力も注意力も削られていく。それでも、授業やテストや生徒会の仕事は、次から次にやって来る。立ち止まってはいられない。
糸が、切れる、切れる、切れる。でも、おれはまだ大丈夫。最初からたくさんの糸を張って自分を吊り上げておいたから、これだけ切れても、まだ落ちないでいられる。
こんな無茶がいつまで続くんだろう? 中学を卒業するまで? 高校や大学を出るまで? 社会人になってからも? いつか年老いて死ぬまで?
いっそ今すぐ終わらせてみたいけれど、その方法がわからない。
もうすぐ中学二年が終わる三月中旬のことだった。
「剣持、ちょっと頼まれてくれるか?」
「はい、何でしょう?」
生徒会顧問の先生から呼ばれて、おれは笑顔で足を止めた。内心、少しイラッとしている。
ザワザワする廊下、部活に移動する途中、下駄箱に向かう人たちの注目。どうしてこのタイミングなんだ? おれは早く部活に行きたいのに。こんな場所じゃ、人目も気になるのに。
でも、先生はおれのいらだちに気付く様子もない。完璧に隠しているから当然か。先生の用事は、生徒会活動のことだった。
「今度の集会は、春休みに全国大会に行く生徒たちの壮行会も兼ねてるだろう。校長先生からの激励の言葉と選手団代表の挨拶がプログラムに入るのは決まってるんだが、生徒会からのスピーチも一言どうかという意見が出ている」
「はい、この間、教頭先生からうかがいました」
「そうか、だったら話が早いな。剣持、おまえにスピーチを頼みたい」
「えっ? でも、ぼくは生徒会長として、集会の別の場面でも壇上に立ちますよ」
「生徒会役員一同、会長の剣持を差し置いて登壇したくないんだそうだ。剣持が表に出るおかげで生徒会の人気も上々だし、運動部の女子生徒の中には剣持に接近できるチャンスだと喜んでる者もいる。ここは一つ、みんなの期待に応えてやってくれ」
何だ、最初から包囲されているんじゃないか。胸の内では先生や役員メンバーの根回しを鬱陶しく思いながら、おれは笑顔で、わかりましたと答えておく。先生は機嫌よくおれの肩を叩いて、職員室へ戻っていった。
今度の集会って、週明けだ。どうせなら、もっと早く話を回してほしかった。短いスピーチでいいんだろうけど、原稿を考えるのはそれなりに時間が掛かる。試合の応援だから縁起を担ぐ人もいて、言葉の端々まで気を付けないといけない。
人通りの多い廊下でのことだった。当然ながら、今のやり取りはまわりにも聞かれている。同じクラスの女子の集団も、しっかり聞き耳を立てていたらしい。おれは、あっという間に彼女たちに囲まれた。
「やっぱり剣持くんって、先生方からも頼りにされてるんだね! 生徒会長で、頭いいし、大人っぽいし、顔もカッコいいし、頼りになるもんね。文句なしよね!」
「そんなことないですよ」
「えーっ、選挙のとき、圧倒的だったじゃなーい! しかも二期連続!」
「いえ、それは、いろいろ要因が重なっただけの偶然でしょう」
おれがお茶を濁そうとしても、女子の集団は勝手に盛り上がっていて、歯止めが利かない。選挙で誰に入れたとか何とか、生徒会の規約的に、大っぴらに騒いでいい話題じゃないのに。
「ねえねえ、だけどさ、一部の男子は剣持くんに投票しなかったっぽいよ! 剣持くんってモテるから、ひがまれてるよね。嫌がらせとか、されてない?」
「全然、そんな心配は無用ですよ。ぼくなんか、ひがまれるほどのものでもありませんし」
「ほらほら、謙遜しちゃってー! むしろ嫌味だぞ? 剣持くんは、もっと自信持っちゃっていいのになー」
笑ってごまかして、どうにか話を終わらせる。部活に行くからと手を振って、一人になった瞬間、笑顔の仮面がはがれ落ちた。どっと疲れが押し寄せてくる。
期待の重みは背負い慣れている。小学生のころからずっとだ。人に認められるにはどうしたらいいか、その正解の方法が身に染み付いている。一度引き受けたが最後、仕事と信用は連鎖反応でのし掛かってくる。逃れられない。
モテるかどうかと問われれば、事実として、おれはモテる。ただ、相手が本気だと感じられたことは一度もない。好きだと言ってくる彼女たちはミーハーなだけ。剣持ユリトという人間が、学校で人気を得るのに必要な項目をいろいろと満たしているだけ。
本気じゃない恋を押し売りに来られても、安うけ合いする趣味はない。本気になれない恋なんて汚くて、ほしいとも思えない。
「時間、取られちゃったな」
急がないと、また仲間や後輩たちに準備を全部やらせることになる。そんなのは申し訳ない。
バスケ部は、何となく入った。ハルタがやりそうにない部活なら何でもいいというのが本音だった。ハルタの運動能力には、どうやったって勝てない。ハルタの活躍を間近で見ていたくない。
予想していたとおり、ハルタはバスケ部には入らなかった。あいつは、屋外で太陽の光を浴びながら走り回るのが好きなんだ。いくつかの部活を冷やかしで体験したハルタは、無所属のまま助っ人として呼ばれるという、唯一無二のポジションに落ち着いた。
おれがバスケ部に入部して、もうすぐ二年。すばしっこさと器用さは、先生や仲間たちも認めるところだ。フリースローも外さない。大して身長のないおれでも、低いドリブルと広い視野を武器にパス回しを磨いて、中陣での司令塔を担えるようになっている。
おもしろくなってきた部活に水を差すのは、生徒会活動だ。放課後、何かと用事が入る。規定練の開始時間までにどうにか体育館に駆け付けても、全員でやるべき準備をすっぽかすわけで、気が引ける。うちの部にはマネージャーがいないから、なおさらだ。
まあ、今日はまだマシか。先生につかまった割に、すぐ解放されたんだ。頭を切り替えよう。部活、頑張ろう。
小走りで体育館に向かっていたら、同じく急ぎ足の部活仲間と合流した。他愛ない話をするうちに体育館に着いて、準備を手伝って、ストレッチをして、規定練が始まって。
スクエアパスの最中だった。おれはいきなり倒れて、保健室に運ばれた。倒れるときに肩から行ったせいで、軽く筋を傷めた。額も床で打って腫れた。
学校で倒れたのは二回目だ。保健室にすっ飛んできたハルタが余計な口出しをしたせいで、家でも何度か倒れていることを、保健の先生やバスケ部顧問の先生に知られてしまった。これまでは田宮先生が、事情を知りつつも黙っていてくれたのに。
顧問の先生からは厳しい言葉を突き付けられた。
「睡眠障害の一種なんだろうが、その体調でバスケをするのは危険だぞ。キッチリ治るまでコートに入らないほうがいい」
「でも、先生、ぼくは……」
「レギュラーのおまえを外すのは、チームとしてもつらい。だが、剣持、思春期の体調不良を甘く見るな。重篤な病気のケースもあるんだぞ。一生引きずる障害を起こしてしまうかもしれない。ちゃんと病院にかかることだ。いいな?」
はい、と答えるしかなかった。ハルタがおれの立場だったら、泣いて暴れて抗議しただろう。おれは、そんなみっともないことはできない。聞き分けのいいふりをして、平気な顔をして、自分を押し殺す。
大丈夫。優等生役は慣れている。このくらい、逆境でも何でもない。県大会にも行けないレベルの部活で引退試合に出られない程度の問題なんて、たいしたことない。おれは大丈夫。まだ大丈夫だ。
☆.。.:*・゜
目を開けたとき、状況がよくわからなかった。布が見えた。体の下に感じるのはコンクリート。でも、頭の下には、もちもちと柔らかい枕がある。
「ユリト、起きた?」
声が降ってきた。カイリの声だ。ぼんやりした視界の真ん中には、何かの布越しに、おれを見下ろすカイリの顔。木陰だろうか、薄暗い。
「おれは……?」
「いきなり倒れた」
唐突に、おれは状況を理解した。
見えている布の正体、胸だ。タンクトップを着たカイリの胸。下手をしたら額に触れそうな近さに、その胸がある。おれの頭の下にあるのは、カイリの太ももだ。つまり、膝枕というやつだ。
ボッ、と音がしそうな勢いで顔がほてった。言葉が出ない。全身、固まってしまう。ヤバい以外の何物でもない。
起き上がらなきゃ。離れなきゃ。でも、この状態から体を起こすには、カイリの胸が邪魔だ。メチャクチャ大きいってわけじゃないけど、おれの顔をのぞき込むために前かがみになっているから、視界の中での存在感がすごい。これ、ほんとにマジでヤバい。
カイリの手がおれの額に載せられた。その手が動いて、頬と首筋にも触れる。
「体温、戻ったね。倒れたときは体温が低くなってた。呼吸数も心拍数も少なくて」
ちょっと待って、カイリは何で平然としていられるんだ? おれは視線をそらすこともできないくらい、本気で頭がパニックなのに。
かすかな風を感じる。視界の隅に、カイリがおれの帽子をうちわ代わりにあおぐのが見えた。
「気分悪くない?」
「だ、だい、じょうぶ……」
「ここは校舎の外だよ。風が抜けて涼しい日陰を探して、ハルタと二人で運んできた。ハルタは今、うちまで走って飲み物を取りに行ってる。ユリト、脱水症状気味だから」
校舎の水道は止まっていること。近くにあった自動販売機もすでに撤去されたこと。唯一残っている商店に行くより家に戻るほうが近いこと。カイリの説明を、回らない頭で一生懸命、理解する。
ということは、今、おれとカイリの二人きり?
やめてくれよ、もう。朝もヤバかったけど。ずぶ濡れで透けていて、気になって仕方なくて。
だけど、今はある意味、それ以上だ。だって、接近どころか接触していて、手でも顔でもちょっと動かすだけで、いくらでもヤバいことをやってしまえる。
おれは魔が差してしまいそうで、その一方、緊張しすぎて体が動かない。理性と衝動がギシギシとせめぎ合う均衡状態。少なかったと聞いたばかりの呼吸数と心拍数が、急激に上昇する。
ほてりは、でも、長く続かなかった。
「ハルタに聞いた。半年近く前から、ユリトはときどき倒れるんだって」
逆さ吊りにして冷水に突っ込まれた気分。
「……聞いたんだ」
「うん。ユリト、夜、あんまり眠れないんでしょ。その反動で、昼間にいきなり意識を失って眠ってしまうって、ハルタが言ってた」
カイリに弱みを知られてしまった。スーッと心が冷えていく。ハルタのバカ野郎。誰にでもペラペラしゃべるなよ。こんなの、カッコ悪いのに。
おれが教室で倒れた後の、学校の女子たちの反応が頭によみがえった。実は病弱なのを隠して微笑んでいるのが逆に貴公子っぽくて素敵だって、おれを誉めているつもりらしかった。
ふざけるなよ。意味がわからない。病弱なんて、おれはそんなんじゃないのに。そもそも貴公子でも何でもない。笑っているのは、ただの仮面だ。
眠れない夜のいらだちと、疲れの取れない体の重さと、いつ倒れるかわからない不安と恐怖。こんなものに耐えなきゃならない。投げ出すこともあきらめることも許されない。おれの気持ちは、誰にも理解されない。
「ハルタから、どこまで聞いた?」
「少しだけ。二言、三言くらい。ユリトはいつも体調が悪いから心配だって、ハルタが泣きそうな顔してた」
「実際、あいつ、すぐ泣くから。おれは確かに体調悪いけど、薬を飲んだりするようなことでもないんだ。眠くなる薬を病院で出されそうになったときも断った」
「どうして?」
「薬を飲んだら、自分は病気だって認めることになる気がした。違うんだ。おれは病気なんかじゃない。今までうまくやってこられた。失敗や挫折はときどきあったけど、ちゃんと踏み台にして、頑張り続けることができた。このまま行けるはずなんだ」
目を閉じながら、カイリから顔をそむけた。耳の下には、カイリの太ももの少し湿って柔らかい感触。その肌にキスしたい衝動が起こった自分に、瞬間的に吐き気がした。
カイリの手が、おれの額に触れて、髪を撫でた。
「ユリトは色が白いね。髪も肌もきれい。まつげが長いから、ハルタとは目元の印象が違う。全体的に似てる顔だけど」
「兄弟だから似てるよ。目元は、おれが母親似。このまつげのせいで、小さいころ、よく女の子だと間違われてた。ユリ、って親がおれを呼ぶから、普通に勘違いされるよな」
「ユリトの顔、男の子の顔だと思うけど」
「ありがとう。そう言ってくれるのは、昔からハルタだけだった。おれが女の子に間違われるたびに怒ってたの、おれじゃなくてハルタだったんだ。だからあいつ、おれをユリって呼ぶのをやめて、兄貴って。それまで呼び捨てだったくせにさ」
「ハルタは、ユリトのこと大事なんだね。いいな。わたしは一人だから」
カイリは父親のスバルさんとの二人暮らしで、学校でも中学生は一人だったみたいだ。おれの常識では考えられない環境のこの島で、カイリは何を思って生きてきたんだろう?
急に、カイリのことを知りたくなった。ときどき寂しそうな顔をするのは、どうして? カイリはずっとこの島で暮らしていたい? どこか遠くに行きたいって考えたりしない? 違う自分になれたらって想像することはない?
「カイリは、一人はイヤ?」
「どうして訊くの?」
「訊いてみたいだけ。何ていうか、カイリは、おれの学校にいるような女子とはちょっと違う。不思議な雰囲気だよな」
「不思議かな?」
「静かなのに、暗いわけじゃなくて、自然体な感じで、嘘なんてつきそうになくて」
「そんなふうに見える? これでも、昔はにぎやかだったんだよ。それに、嘘はつかないけど、隠しごとはする」
「そりゃ、誰だって全部を人に見せるわけじゃないさ。隠しごとくらい、おれも……」
いや、それ以前に、おれは嘘つきなんだろうけど。いい人のふりをしている。優等生の役を演じている。笑顔の仮面をかぶっている。
演技がうまくなりすぎた。本当の自分の面影が見えなくなるときがある。まあ、別にいいか。このまま全部、子ども時代の自分なんて忘れてしまうほうが気楽だ。
「ユリトはどうして龍ノ里島に来たの?」
カイリが、今さらなことを言い出した。おれが担任の田宮先生の紹介で龍ノ里島のスバルさんを訪ねることになったのは、カイリだってわかっているはずだ。
でも、そうか。普通、ただの教え子に離島での夏休みなんか、勧めるわけがない。自分の後輩を伝手に、都会から遠く離れた辺境に行けだなんて。
「授業中に倒れて以来、担任の田宮先生がおれを気に掛けてくださってるんだ。進路の相談にしても、どこの高校や大学に行きたいかだけじゃなくて、もっとちゃんと将来のことを話し合って。そんな話の中で、スバルさんのことが出てきた」
おれは将来、何になりたいのか。今、何に興味があるのか。子どものころ、何が好きだったか。
自分自身の歴史を読み解くうちに、いちばん強く輝く存在に気が付いた。プラモートのシュトラール。勢いよく走る、小さな自動車模型。もっと速く走ってほしくて、一生懸命に調べた機械の仕組み。
おれが夢中になれるのは、生徒会活動や部活のバスケじゃない。勉強するのが好きなのは、シュトラールのためにたくさんの知識を得ようと思ったあのころ、サイエンスをおもしろいと感じたからだ。
「先生は、好きなものに没頭して生きればいいって言った。でも正直、おれはその言葉に納得できない」
「どうして?」
「おれが田宮先生にしゃべったの、プラモートのことだよ。小学生のころにハマってたおもちゃの話だ。学校じゃ誰にも言えないくらい幼い趣味で、みんなとっくにそんなもの卒業してる」
「でも、ユリトは今も、シュトラールを大事に思ってるでしょ?」
「ダメなんだよ、こんなんじゃ。プラモートのことで頭がいっぱいだった小学生の自分から卒業しなきゃいけない。成長しなきゃいけない。実際、親も普通の先生方も、おれが大人みたいに振る舞うことを期待してる。田宮先生だけが違うことを言う」
「プラモートを好きなままでいいって?」
「うん。それで、おれが田宮先生の言葉に納得できないままでいたら、好きなものに没頭して生きてる人として、スバルさんを紹介された」
「だから、ここに来たの?」
「スバルさんという人と話すためと、自然の中で過ごすために、ちょっと行ってこいって言われた。ちょっとって場所でもないんだけど。田宮先生も、何度か龍ノ里島に来たことがあるらしい。島の生命力を分けてもらえるような場所だったって話してくれた」
カイリが、そっと笑った。
「龍ノ里島の生命力。感じてくれる人が、都会にもいるんだ」
「おれも感じるよ。むしろ、都会に住んでるからこそ、この島に生命力があふれてるのを感じる。すごくキラキラした場所だな、って」
「ないものねだりだよ。この島をどんなにきれいだと感じたとしても、二十一世紀の人間が住むには、やっぱり不便だから」