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 龍ノ原小中学校の校舎は、木造一階建てで、屋根には瓦がふかれている。二百メートルトラックがギリギリ入る広さの運動場は、海と山に挟まれて、いびつな形だ。赤い屋根の体育館は、校舎よりは新しそうに見える。
 錆びた鉄棒や遊具、砂がすっかり減った砂場、見上げるほどに立派なヒマワリ、ハチが蜜を吸うサルビア。おれの知る小学校のイメージに似ていて、だけど、やっぱり決定的に違う。

「静かだな」
 セミの声と風の音、波の音しか聞こえない。子どもの声がしない空っぽの学校は、真夏の日差しの中で、今にも裏山に溶けていきそうに儚い。

 カイリはまっすぐに校舎の玄関に向かった。ハルタがその左隣を歩いている。
「玄関から入れんのか?」
「鍵、掛かってないから」
「この島って、鍵掛ける習慣がまったくねぇんだな」
「よそでは、鍵掛けるんだ?」
「掛けるだろ、普通」

 カイリとハルタを後ろから眺めて、いつもの配置と同じだなと思う。ハルタが左、幼なじみの千奈美《チナミ》ちゃんが右、おれが後ろ。ハルタが後ろ向きになって歩いたり、チナミちゃんがおれを振り返ったりすることはあっても、配置が崩れることはない。
 チナミちゃんはハルタと同い年だ。おれが一人、先に中学に上がった年も、相変わらず三人一緒に通学していた。おれたちの学区の小学校と中学校は、目と鼻の先にある。

 この島では、目と鼻の先どころか、小学校と中学校が一緒になっているらしい。校門の門柱にあった「小中学校」の文字を思い出していたら、おれが考えているのと同じことを、ハルタが声に出してカイリに確認した。

「なあなあ、カイリ。小中学校って、小学校と中学校がくっついてるってことだよな?」
「そうだよ。別々の校舎を使うほどの人数、いないから」

 運動場の砂で白く汚れたガラス張りのドアは、確かに鍵が掛かっていなかった。校舎に入ると、薄暗い。こもって蒸し暑い空気の中、かすかに隙間風を感じる。黒ずんだ板張りの床には砂がうっすらと積もっている。

「靴のまま上がって」
 言いながら、カイリはスニーカーで廊下に踏み出した。ハルタが続いて、おれも追い掛ける。

 玄関に並ぶ下駄箱は、ざっと見た感じでは三百人ぶん以上あった。違和感というより、疑問を覚える。またしても、ハルタもおれと同じタイミングで同じことを思ったらしく、それを口にした。

「下駄箱、やたら多いんだな。子どもの数、こんなにいなかったんだろ?」
 カイリの答えは、少し意外だった。
「昔はいたんだよ。龍ノ原小学校だけで、各学年二クラス。龍ノ尾の根元にも、もう一校あった。山を越えた反対側に集落があったし。もちろん、その当時は、中学校は小学校と別だった」

 今の龍ノ原には朽ちた家ばかりが残されている。原形を保って建っている家も、ほとんどが空き家だ。おれは今朝、カイリと一緒に家に帰る途中でおばあさんひとりと話したほかは、誰とも会っていない。

 校舎の壁は、白い漆喰で塗られていた。窓のサッシは赤錆びがビッシリの鉄製で、ねじ込み式の鍵は、工学事典で見たことがある。事典の説明どおりに開けてみようと思ったら、鍵もすっかり錆びていて、少しも回ってくれなかった。

 職員室、保健室、放送室、校長室、理科室、音楽室、図書室。毛筆で書かれた表札を巡りながら、開け放たれた引き戸から中をのぞき込む。
 何もなかった。
 机も椅子も教卓もカーテンも、保健室のベッド、放送室の機械、校長室のソファ、理科室の実験道具、音楽室の楽器、図書室の本も、全部ない。それらがあった形に、板張りの床が日焼けを免れている。

「すげぇな。誰もいないし何もないって、別世界みたいだ。ここ、学校の抜け殻だな」
 ハルタが天井を見上げて言った。カイリがうなずいた。
「抜け殻だよ。学校も、龍ノ原の町も」

「町っていうサイズじゃねぇだろ。あー、でも、昔は違ったんだっけ?」
「漁業の基地になってたころは、いつでも二千人以上、人が住んでた。漁に出てる男たちが帰ってくると、もっと増える。子どももたくさんいた。クジラが獲れたらすごくお金になってたし、そのころは龍ノ里島がこんなに寂れるなんて誰も思ってなかった」

 昔って、どれくらい昔の話だろう? 確か、昭和四十年代って言っていたかな。カイリは見てきたように話すけれど、龍ノ里島が潤っていたのは、おれたちが生まれるずっと前のことだ。

 当然の疑問が湧いて出る。
「どうして人がいなくなったんだろう?」
 カイリが答えた。
「魚、売れなくなったから。クジラ、獲っちゃいけなくなった。漁で稼げなくなったら、漁師は違う仕事を探さないといけない。違う仕事は、龍ノ里島にはない。人がいなくなるのは、あっという間だった。小学校が減って、一つになって、中学校も小学校に合併された」

 カイリが足を止めた。教室の前だ。表札には、一年生、三年生、四年生と並べて書かれている。カイリが教室に入って、おれとハルタも付いていく。黒板には文字が残されていた。幼い字で書かれたいくつもの「ありがとう」のそばに、三人の名前が添えられている。
 黒板に触れたカイリが、おれとハルタを振り返った。

「この三兄弟が、龍ノ原小学校の最後の子どもたち。学年の違う三人が、一つの教室で授業を受けてた。でも、こんなの、学校って言える環境じゃないよね。去年の三月で、三兄弟の家族は龍ノ里島から引っ越していった。もう二度と戻ってこない」

 ハルタが汗を腕で拭って、ギュッと顔をしかめた。
「寂しい話だな。仕方ないかもしれねぇけど」
「うん、仕方ない。もうすぐ、この町は滅ぶ。わたしはそれを見届ける。そうすることしかできない」
 カイリが目を伏せた。長いまつげの奥に瞳の輝きが隠れる。この学校は、カイリの母校だ。最後の一人だったんだ。

 おれは正直に言った。
「想像できないな。同じ小学校や中学校に通うのが自分の兄弟だけって。おれとハルタは学年が違うから、当然クラスも違う。それが普通だよね。そうじゃない学校があること自体、想像を超えてる」

「ユリトの感覚が普通だと思う。こんなに人間のいない場所のほうが珍しい」
「おれにとっての学校はもっと大きな場所だよ。たくさんの人間がいて、そのぶん窮屈で」
「窮屈?」
「役割を演じないといけない。おれは生徒会長をやってるし、特にね」