♪side:翔一
横からショートホープの煙が流れてくる。直哉がいつも吸っている電子タバコの焦げ臭いミントのようなにおいとは明らかに違う。煙から蜂蜜のにおいなんて感じられないが、心の奥底に封印していたかった記憶の断片を鮮明に甦らせるにおいがした。何度嗅いでも慣れることないこのどうしようもなく懐かしいにおいが今も俺の心をじんわりと締め付けてくる。
火を消して吸殻を灰皿の中に放り込む仕草さえも、何かが自分の中でフラッシュバックしそうで怖かった。
「あ、やばいヤニクラ来た」
「ホープ一本でかよ?」
「普段電子タバコの奴にいきなりこんなもん吸わせるからだろ」
「勝手に吸ったんじゃねぇかよ」
「しまう所無かったから仕方ないだろ。直にポケットに入れるわけにもいかないし」
「ほら行くぞ。まだその例の店に向かうにしちゃ早いけど少し歩こうぜ」
「少し?どの辺まで?」
「決めてねぇけど」
「ならちょっと休んでから行こうぜ。普通に疲れたから歩くのはちょっとな」
「俺より若いくせに足腰弱いんだな」
「うっせぇな。とりあえずエキュート上野で軽く店とか見て回ろうぜ」
「買い物でもしたいのか?」
「ショッピングって言ってくれねぇかな」
「若者だねぇ」
「翔一もまだギリギリ若者でいけるって」
「いけねぇよ、この前その辺の子供からおじちゃんって呼ばれたんだぞ」
「え、マジで?おじちゃんなんだ」
「らしい。ストレートに言われすぎて少しへこんだ」
どこぞのすべらない話を延々と話すバラエティ番組の視聴者の様に爆笑する直哉と上野駅に向かいながら歩く。正直俺が「おじちゃん」なんて呼ばれたところで何が面白いのか分からなかったが、直哉の爆笑は止まる気配が無い。さっきまで心の大半を占めていたろくでもないどんよりした気持ちが消え去った訳では無いが、なんだかんだ少し楽になった気はする。本当にくだらない日常の会話に、少しだけ救われる事もあるものなんだとひっそりと思う。
「お前いい加減に笑うのやめろよ」
「いや、無理だろ翔一おじちゃん」
「おい頼むからその呼び方やめてくれよ。お前に言われるとなんか余計傷つくわ」
「分かったごめんて。翔一おじちゃん」
「馬鹿にしてるだろ」
「いやいや、そんな滅相もない」
「駅に着くまでには落ち着けよ」
「分かった分かった」
「本当に分かったんだろうな。エキュートの中で爆笑してる中年と沈黙した中年が一緒に歩いてたらヤバい目で見られるぞ」
「ちょ、だって翔一おじちゃんなんて呼び方面白すぎてさ」
「やめろって」
「悪い悪い。面白かったわ」
結局エキュート上野に入る寸前まで直哉はずっと笑っていた。翔一おじちゃんなんてあだ名を勝手に着けた挙句爆笑しまくったこの失礼な男とショッピングなんてものをするとは予想もしていなかった。行きたい店というのも特に無く、ひとまず気になったBOOK COMPASSという書店に向かう。
「翔一って本も読むんだな」
「嫌いじゃないかな。あんまり長い長編は読む気失せるかも」
「長い長編って、頭痛が痛いみたいなさ」
「今日は揚げ足取りまくりだな」
「そんな事はいいんだけどさ、翔一って普段どんなの読むんだよ?」
「お前そういうの気になる人なんだな」
「そりゃ好きな人の好きな物は気になるね」
「……またそういう事をさらっと言ってくれやがって」
「別にただ思ったことポロっと言っただけじゃねぇか」
「そうなんだろうけどよ」
「質問に答えろって、普段どんなの読んでんだ?」
「漫画も小説も本当に色々。好きな映画の原作だとか、好きな小説のコミカライズ版だとか」
「好きな映画って?」
「お前がもしかしたらギリギリ知らない可能性のある映画だけど……戦場のメリークリスマスって知ってるか?」
「あぁ、なんか名前だけ。八十年代くらいの映画なんだろ」
「タイトルだけでも知ってるんだな」
「なんか、テーマ曲って言うのか?それがめちゃめちゃ有名だよな」
「なんだ、意外と知ってるんだな」
「タイトルと曲しか知らねぇけどな」
今でも鮮明に思い出せる。「メリークリスマス。メリークリスマス、ミスターローレンス」と曇りのない笑顔で言うあの最後のシーンは、今もなお俺に衝撃と感動の記憶を残している。いつか直哉にも観せてやりたいと思うが、まさかこんな現代に『戦場のメリークリスマスを』上映している映画館なんて無いだろう。
白地に青い文字でBOOK COMPASSと書かれたオシャレな看板の元に向かう。映画が観せられないならせめて原作を、と思いながら海外の文庫本コーナーに向かうが、駅ビル内の書店にローレンス・ヴァン・デル・ポストの小説は一冊も置いていなかった。俺は昔から、探しているものほど見つからないというジンクスがあるらしい。諦めて、週刊青年誌が平積みされている棚から始まるコミックスコーナーに寄ってみた。別に集めてもいない漫画が並んだ適当な棚を見ていると、本気で目を疑う本を見つけてしまった。見つけたいと思ってはいなかったし、なんなら今見つけるまで完全にその存在すら忘れていた。もう勘弁してくれよ、過去のことはもういいよ、と軽くうんざりした。『べつにいい』というタイトルの背表紙をまさかこんなところで見る事になるとは思ってもみなかった。
横からショートホープの煙が流れてくる。直哉がいつも吸っている電子タバコの焦げ臭いミントのようなにおいとは明らかに違う。煙から蜂蜜のにおいなんて感じられないが、心の奥底に封印していたかった記憶の断片を鮮明に甦らせるにおいがした。何度嗅いでも慣れることないこのどうしようもなく懐かしいにおいが今も俺の心をじんわりと締め付けてくる。
火を消して吸殻を灰皿の中に放り込む仕草さえも、何かが自分の中でフラッシュバックしそうで怖かった。
「あ、やばいヤニクラ来た」
「ホープ一本でかよ?」
「普段電子タバコの奴にいきなりこんなもん吸わせるからだろ」
「勝手に吸ったんじゃねぇかよ」
「しまう所無かったから仕方ないだろ。直にポケットに入れるわけにもいかないし」
「ほら行くぞ。まだその例の店に向かうにしちゃ早いけど少し歩こうぜ」
「少し?どの辺まで?」
「決めてねぇけど」
「ならちょっと休んでから行こうぜ。普通に疲れたから歩くのはちょっとな」
「俺より若いくせに足腰弱いんだな」
「うっせぇな。とりあえずエキュート上野で軽く店とか見て回ろうぜ」
「買い物でもしたいのか?」
「ショッピングって言ってくれねぇかな」
「若者だねぇ」
「翔一もまだギリギリ若者でいけるって」
「いけねぇよ、この前その辺の子供からおじちゃんって呼ばれたんだぞ」
「え、マジで?おじちゃんなんだ」
「らしい。ストレートに言われすぎて少しへこんだ」
どこぞのすべらない話を延々と話すバラエティ番組の視聴者の様に爆笑する直哉と上野駅に向かいながら歩く。正直俺が「おじちゃん」なんて呼ばれたところで何が面白いのか分からなかったが、直哉の爆笑は止まる気配が無い。さっきまで心の大半を占めていたろくでもないどんよりした気持ちが消え去った訳では無いが、なんだかんだ少し楽になった気はする。本当にくだらない日常の会話に、少しだけ救われる事もあるものなんだとひっそりと思う。
「お前いい加減に笑うのやめろよ」
「いや、無理だろ翔一おじちゃん」
「おい頼むからその呼び方やめてくれよ。お前に言われるとなんか余計傷つくわ」
「分かったごめんて。翔一おじちゃん」
「馬鹿にしてるだろ」
「いやいや、そんな滅相もない」
「駅に着くまでには落ち着けよ」
「分かった分かった」
「本当に分かったんだろうな。エキュートの中で爆笑してる中年と沈黙した中年が一緒に歩いてたらヤバい目で見られるぞ」
「ちょ、だって翔一おじちゃんなんて呼び方面白すぎてさ」
「やめろって」
「悪い悪い。面白かったわ」
結局エキュート上野に入る寸前まで直哉はずっと笑っていた。翔一おじちゃんなんてあだ名を勝手に着けた挙句爆笑しまくったこの失礼な男とショッピングなんてものをするとは予想もしていなかった。行きたい店というのも特に無く、ひとまず気になったBOOK COMPASSという書店に向かう。
「翔一って本も読むんだな」
「嫌いじゃないかな。あんまり長い長編は読む気失せるかも」
「長い長編って、頭痛が痛いみたいなさ」
「今日は揚げ足取りまくりだな」
「そんな事はいいんだけどさ、翔一って普段どんなの読むんだよ?」
「お前そういうの気になる人なんだな」
「そりゃ好きな人の好きな物は気になるね」
「……またそういう事をさらっと言ってくれやがって」
「別にただ思ったことポロっと言っただけじゃねぇか」
「そうなんだろうけどよ」
「質問に答えろって、普段どんなの読んでんだ?」
「漫画も小説も本当に色々。好きな映画の原作だとか、好きな小説のコミカライズ版だとか」
「好きな映画って?」
「お前がもしかしたらギリギリ知らない可能性のある映画だけど……戦場のメリークリスマスって知ってるか?」
「あぁ、なんか名前だけ。八十年代くらいの映画なんだろ」
「タイトルだけでも知ってるんだな」
「なんか、テーマ曲って言うのか?それがめちゃめちゃ有名だよな」
「なんだ、意外と知ってるんだな」
「タイトルと曲しか知らねぇけどな」
今でも鮮明に思い出せる。「メリークリスマス。メリークリスマス、ミスターローレンス」と曇りのない笑顔で言うあの最後のシーンは、今もなお俺に衝撃と感動の記憶を残している。いつか直哉にも観せてやりたいと思うが、まさかこんな現代に『戦場のメリークリスマスを』上映している映画館なんて無いだろう。
白地に青い文字でBOOK COMPASSと書かれたオシャレな看板の元に向かう。映画が観せられないならせめて原作を、と思いながら海外の文庫本コーナーに向かうが、駅ビル内の書店にローレンス・ヴァン・デル・ポストの小説は一冊も置いていなかった。俺は昔から、探しているものほど見つからないというジンクスがあるらしい。諦めて、週刊青年誌が平積みされている棚から始まるコミックスコーナーに寄ってみた。別に集めてもいない漫画が並んだ適当な棚を見ていると、本気で目を疑う本を見つけてしまった。見つけたいと思ってはいなかったし、なんなら今見つけるまで完全にその存在すら忘れていた。もう勘弁してくれよ、過去のことはもういいよ、と軽くうんざりした。『べつにいい』というタイトルの背表紙をまさかこんなところで見る事になるとは思ってもみなかった。