「おや、掃除かい? それなら、〝水〟に注意したまえよ、狐」
木製の看板に、味のある文字で茶房 春夏冬と描かれた店先。箒を手に、中腰になっていた俺は、ふってきたスカした声に顔を上げた。
「……おはようございます、安倍さん」
「おはよう、狐。今日も、貧乏くさいしかめっ面だね」
明るい色の髪をかき上げ、余裕たっぷりに笑う男の名前は、安倍保明。
外国の血が混じっているのか、背が高くて足が長い上、彫りの深い整った顔をしているこの男は、店の常連客だ。
そして、雇われ者のアルバイト店員である俺に対し、事あるごとに嫌味を言ってくる、面倒くさい相手でもある。
「……俺の名前は狐じゃなくて、稲成です。稲成小太郎。……お願いですから、狐と呼ぶのはやめて下さい」
毎回言っているだろうが、と心の中で付け足す。
客商売だから言葉を選んでいるというのに、当の失礼極まりない男は、少しも悪びれた様子無く言った。
「狐を狐と呼んで、何が悪い? 君は立派な狐顔じゃないか」
「……は?」
立派な狐顔とは、どんな顔だ?
一瞬、そんな事を思ったが、何か反応すれば安倍の思うツボだ。俺は、早々にこの馬鹿げた試合を放棄する事に決めた。
「えーと……こんな所で何をしているんですか? まだ、開店時間じゃないんですけど?」
努めて感情を押し殺し、精一杯丁寧な言葉で、コイツの非常識な行動をたしなめる。
「ああ、知っているよ」
俺が話を流したことなど気にも留めず、そして必死の訴えもスルーし、安倍は爽やかに笑った。
そして、勝手知ったる我が家のように、店の引き戸に手をかける。
「ちょ、ちょっと! だから、まだ開店前だって……!」
「かまわない、かまわない」
慌てて制止しようとした俺に、安倍は軽やかに手を振ってみせたかと思うと、ためらいなく店の中へ続く戸を開けてしまった。
「アンタは構わなくても、こっちは構うんですよ!」
俺は迷惑な常連客の後ろ姿に向かって叫んだ。その拍子に箒を取り落とし、慌てて拾い上げる。
(本当に、人の話を聞かない奴だな!)
はやく後を追わなければと焦る俺の前を、車が通過した。
ばしゃ。
「…………」
昨日の夜に降った雨により出来た水たまり。そこを、車が少しも減速せず通ったせいで、俺は思いきり水を被るはめになった。
「……この野郎っ、徐行運転しろよな、チクショウ……!」
通りすがりに水をかけようと、全く気にした様子も無く遠ざかる車に向かって、俺は悪態をつく。もちろん、これには、客である安倍に強く言えない分の、八つ当たりも含まれている。
ぶるぶると頭を振って水を払ったところで、ふとあの迷惑な常連客が、顔を合わせるやいなや放った言葉を思い出してしまった。
――〝水〟に注意したまえよ。
安倍は、間違いなく俺に向かってそう言った。
そして今、俺は車が跳ね上げた水を被って、濡れねずみだ。
「……はは、まさか……」
予知かと思うような言動だが、普通はありえない。
俺は、浮かんだ考えを即座に否定した。
(馬鹿馬鹿しい、ただの偶然だろ……)
安倍保明は、迷惑な常連客だ。
けれど、時々妙なことを……それこそ、予言めいた事を口にする。
そう、何もこれが初めてではなかった。
あれは、働き初めて一週間経った日の事だ。
俺は、急な買い出しに行く事になった。
その時、窓から見える快晴の空を指さし、『傘を持っていけ』と言い出したのはあの男。
晴れていたし、十分もかからず帰ってこられる距離だったから、俺は気にせず飛び出したのだが……帰り道は、バケツをひっくり返したような土砂降りになり、店に戻る頃にはずぶ濡れ。全身から水をしたたらせた俺が見たのは、『だから言ったのに』とでも言いたげに勝ち誇った笑みを浮かべた安倍で……。
(思えば、あの時からだな……安倍が、やたらと俺に絡んでくるようになったのは)
それまでは、若干嫌味で言動が鼻につくものの、まるで様子をうかがうように、一歩引いて俺を見ていたのに。
一体、何が原因で奴の関心を引いたのかは不明だが、迷惑な話だ。
ここ、春夏冬で働くようになって三週間経つが、通り雨に降られたあの日を境に、俺は安倍保明という非常識な常連客に振り回されっぱなしな気がする。
(あー、冷たい。それもこれもアイツのせいだ!)
水をかけられた俺が、ほうほうの体で店の中に入ると、安倍は営業時間前だというのに、いつもの席で悠然とくつろいでいた。
濡れている俺をみて、器用に片眉をあげる。
「呆れたな。せっかく僕が忠告してやったのに、無駄にするなんて」
「……誰のせいだと思っているんですか」
まだ店が開いていないのに、勝手に中に入ったお前のせいだろうと恨めしい思いで目を細めると、安倍はひょいっと肩をすくめた。
「ありがたい忠告を活かせない、無能な狐のせいだろう」
他の人間、例えば俺なんかがやっても噴飯もので終わるのが関の山な仕草だ。なのに、この男がやると海外ドラマのワンシーンのように決まって見えるのが、また腹立たしい。
「稲成くん、開店準備の方は大丈夫ですから、着替えた方がいいですよ。タオルも遠慮しないで使って下さい。……それと、保明さん、あまり彼をいじめないでくれませんか?」
カウンターの中にいた店長が、柔らかい口調で間に入ってくれた。
開店時間前に来て図々しく席に着いている迷惑客のために、店長は紅茶を用意していたようで、カウンターの一番端……奴の指定席の前には、湯気の立つティーカップが置かれている。
「いじめてなどいないぞ、店主。心外だ。僕は、この見るからに、しみったれた雰囲気の狐の運が少しでも上向くようにと、真心込めたアドバイスをしてやっているんじゃないか」
当然のように紅茶を飲む安倍は、やっぱりふてぶてしい。
店長は、物腰が穏やかで紳士的な、白髪頭の初老男性だ。いくら常連だとしても、年長者である店長に、こうまで強気には出られないのが普通だろうに。
(信じられないくらい、図太い奴だ)
俺の表情は、傍目からでも明らかなほど、苦々しいものだったらしい。
こっちを見た店長が、苦笑した。
そして、はやく行きなさいと口だけ動かす。
安倍の意識が紅茶に向いているうちに、とても接客できる状態では無い顔を何とかしてこいという事だろう。
開店前に客を中に入れてしまった失態もあり、俺は頭を下げる。
そそくさと奥へ引っ込んだ俺の耳に、奴の調子外れの鼻歌が聞こえてきた。