――家に続く坂道を歩いていた。
夕焼けに照らされた道は、赤くて……子供だった俺には、少し怖いくらいだったから、いつもは走って駆け抜けていたのだけれど――その日は母が一緒だった。
だから、俺は急ぐことも怖がる事も無く、母に手を引かれながら、上機嫌で坂道をのぼっていた。
俺達は、おきつね様の神社に立ち寄って手を合わせて、家に帰る途中だった。
「小太郎は、おきつね様に何をお願いしたの?」
「んーとね、きょうのごはんも、あしたのごはんも、おいなりがいいですって!」
「ふふ、小太郎は、本当にいなり寿司が好きだね」
「へへへ~」
それは何の変哲も無い、一日の終わりのはずだった。
坂を登り切った時、不意に母が、俺の手を離すまでは。
「……小太郎、母ちゃんがおまじないをしてあげる」
「おまじない……?」
「そう」
沈む太陽を背中に背負った母が、この時どんな顔をしていたのか……俺には分からない。
「悪いものから、小太郎を守ってくれるおまじないだよ」
笑っていたのか、あるいは悲しそうな顔をしていたのかも、記憶にない……。
もしかしたら、まったく別種の顔をのぞかせていたかもしれないが……何ひとつ、正確なことは思い出せないのだ。
「悪いものには、近付いちゃいけないよ」
「うん。おれ、知らない人にはついてかない」
子供の認識では、悪いものというのは、甘い言葉をかけて連れていこうとする不審者の事だった。常日頃から言い含められていたから「大丈夫」だと胸を張る俺に、母は首を横に振る。
「知っている人でも、悪いものを持っている人には、近付いたらいけない。約束できるね?」
「んー……、うん……」
話半分で、よく分からないまま、母から差し出された小指に、自分の小指を絡め。
「はい、指切った――」
約束をした。
そして顔を上げた時、俺が目にしたのは、人間ではない何か、だった。
けれど、そんな普通ではない事を、俺は綺麗さっぱり忘れ去った。……あの、嫌味で風変わりな男に会うまでは。
あの男……安倍保明と言う人間に出会うまで、俺の記憶は矛盾とつじつま合わせで成り立つ、嘘に憑かれた世界だったのだ。
――俺が、その店に入ったのは、ただの偶然に過ぎない。
特に有名なわけでもないし、行列が出来ていた訳でもない。
大学の講義が休講になり、暇を持て余してぷらぷらと道を歩いていた途中、なんとなく目に入った。木製の看板を掲げた店構えを目にして、何気なく足がそっちに向いただけ――。
(茶房……はる、なつ、ふゆ……なんて読むんだったかなぁ、これ)
ああ、そうだ。
秋だけないから、あきなしだ。
――ちりん
そんな事を考えながら引き戸を流せば、高く澄んだ音がして――店内にいたふたりが、一斉に俺の方を見た。
ひとりは、カウンターの中にいて、この店の店長だろう初老の男。
もうひとりは、カウンターの一番奥の椅子に腰掛け、悠然と足を組んで俺を見ていた。
揃って観察するような視線を向けられ、初めはいちげんさんお断りの店なのかと身構えたが、初老の男がにこやかに「いらっしゃいませ」と中に促してくれたので、俺はぺこりと一礼して中に入る。
「……君の客だな、店主」
「はい」
気安い会話から、俺は不躾な視線を向けてきた男が店の常連だと察した。
パッと見、芸能人かと思うような、華やいだ容姿の男だが、ずいぶんと感じが悪い。
俺が、わざわざ奴とはだいぶ距離を空けて反対側の端に腰を落ち着けたというのに、動物園の動物をみるような目でこっちを見てくる。
店内は清潔で明るいのに、客はコイツ以外いない。
常連が店を悪くしているパターンだなと思った俺は、その変な男の視線を無視しようとしたのだが、あまりにもじろじろ見てくるので、つい我慢出来ずに、面と向かって言ってしまった。
「……俺の顔に、何かついてますか?」
不機嫌なのを隠しもせずに発した声だったから、当然愛想なんて欠片もない、低い声だった。
それなのに、男の反応は予想と違っていた。
腹を立てるなりすれば、まだ分かりやすい。なのに、男はそんな反応をされると思っていなかったのか、不思議そうに俺を凝視した。
その後……感情がまったく読み取れない、微かな笑みを滲ませた顔で言ったのだ。
「君、どうしてこの店に入ったんだい?」
「……は?」
「若い男がひとりで来るのは、珍しいから」
自分だって若いだろうにと思いつつ、俺はたまたま目に入ったからと正直に告げた。
「たまたま……そうか、たまたま偶然、君の目に入ったのか」
「なんですか、一体」
「――鈴の音は、聞こえたかい?」
言われて、高く澄んだ音が鳴った事を思い出す。
「ああ、あの音……鈴だったんですか。綺麗な音でしたね」
「…………」
褒め言葉だったのに、馴れ馴れしく話しかけてきた男は、喉に魚の小骨でも引っかけたような顔で黙ってしまった。
「……あの?」
「いや……、君は……」
「何ですか?」
「……いや、失礼。てっきり僕は、アルバイト募集の事を聞きつけて、店に来た人だと思ったんだ。なにせ、男のひとり客は珍しいから」
ここは、妙齢のご婦人方が多いのだと男は言った。
やけに格好付けた言い回しなんて、下手をすれば滑稽でしかないのに、この男は違和感を抱かせない。
変な奴だと思いつつ、俺は男が口にした『アルバイト募集』という言葉に食いついた。
「……それ、細かい要項あるんですか?」
「いいや。……店主、あの張り紙は、もう掲示したのか?」
「いいえ、まだですよ。……この通り、静かな店ですからね、もちろん経験者は歓迎しますが、未経験でも問題はありません」
「だ、そうだが?」
自分でも、なんでこんな事を思ったのかは分からない。
ただ、俺はこの時、どうしてもこの店だという、訳の分からない衝動とこだわりに突き動かされた。
それまでは、カフェなんて興味なかったはずなのに、気付けば口が勝手に動いていたのだから。
「それ……是非とも、俺をお願いします……!」
突然の申し出にも関わらず、初老の男はにこやかに、それじゃあ後で履歴書を持ってきてくれと言い、不躾だった男は、物好きだなと俺を見て笑った。
いきなり雇ってくれなんて言い出す男など不採用確定だろうと思っていたが、一日もしないうちに返事が来て、俺はその店――『茶房・春夏冬』のアルバイト店員として採用される事となる。
俺が入るまでは、店長ひとりで店を回していたのだと知ったのは、初出勤の日。
そして、あの失礼男が、常連は常連でも、かなりモンスターな部類に入る常連だと知るのも、初出勤してからの話だ。
温和な店長と、毎度顔を出す嫌味な美形。
それが、春夏冬の普通だった。
奇妙なお客さんが訪れる、あの日までは。
「おや、掃除かい? それなら、〝水〟に注意したまえよ、狐」
木製の看板に、味のある文字で茶房 春夏冬と描かれた店先。箒を手に、中腰になっていた俺は、ふってきたスカした声に顔を上げた。
「……おはようございます、安倍さん」
「おはよう、狐。今日も、貧乏くさいしかめっ面だね」
明るい色の髪をかき上げ、余裕たっぷりに笑う男の名前は、安倍保明。
外国の血が混じっているのか、背が高くて足が長い上、彫りの深い整った顔をしているこの男は、店の常連客だ。
そして、雇われ者のアルバイト店員である俺に対し、事あるごとに嫌味を言ってくる、面倒くさい相手でもある。
「……俺の名前は狐じゃなくて、稲成です。稲成小太郎。……お願いですから、狐と呼ぶのはやめて下さい」
毎回言っているだろうが、と心の中で付け足す。
客商売だから言葉を選んでいるというのに、当の失礼極まりない男は、少しも悪びれた様子無く言った。
「狐を狐と呼んで、何が悪い? 君は立派な狐顔じゃないか」
「……は?」
立派な狐顔とは、どんな顔だ?
一瞬、そんな事を思ったが、何か反応すれば安倍の思うツボだ。俺は、早々にこの馬鹿げた試合を放棄する事に決めた。
「えーと……こんな所で何をしているんですか? まだ、開店時間じゃないんですけど?」
努めて感情を押し殺し、精一杯丁寧な言葉で、コイツの非常識な行動をたしなめる。
「ああ、知っているよ」
俺が話を流したことなど気にも留めず、そして必死の訴えもスルーし、安倍は爽やかに笑った。
そして、勝手知ったる我が家のように、店の引き戸に手をかける。
「ちょ、ちょっと! だから、まだ開店前だって……!」
「かまわない、かまわない」
慌てて制止しようとした俺に、安倍は軽やかに手を振ってみせたかと思うと、ためらいなく店の中へ続く戸を開けてしまった。
「アンタは構わなくても、こっちは構うんですよ!」
俺は迷惑な常連客の後ろ姿に向かって叫んだ。その拍子に箒を取り落とし、慌てて拾い上げる。
(本当に、人の話を聞かない奴だな!)
はやく後を追わなければと焦る俺の前を、車が通過した。
ばしゃ。
「…………」
昨日の夜に降った雨により出来た水たまり。そこを、車が少しも減速せず通ったせいで、俺は思いきり水を被るはめになった。
「……この野郎っ、徐行運転しろよな、チクショウ……!」
通りすがりに水をかけようと、全く気にした様子も無く遠ざかる車に向かって、俺は悪態をつく。もちろん、これには、客である安倍に強く言えない分の、八つ当たりも含まれている。
ぶるぶると頭を振って水を払ったところで、ふとあの迷惑な常連客が、顔を合わせるやいなや放った言葉を思い出してしまった。
――〝水〟に注意したまえよ。
安倍は、間違いなく俺に向かってそう言った。
そして今、俺は車が跳ね上げた水を被って、濡れねずみだ。
「……はは、まさか……」
予知かと思うような言動だが、普通はありえない。
俺は、浮かんだ考えを即座に否定した。
(馬鹿馬鹿しい、ただの偶然だろ……)
安倍保明は、迷惑な常連客だ。
けれど、時々妙なことを……それこそ、予言めいた事を口にする。
そう、何もこれが初めてではなかった。
あれは、働き初めて一週間経った日の事だ。
俺は、急な買い出しに行く事になった。
その時、窓から見える快晴の空を指さし、『傘を持っていけ』と言い出したのはあの男。
晴れていたし、十分もかからず帰ってこられる距離だったから、俺は気にせず飛び出したのだが……帰り道は、バケツをひっくり返したような土砂降りになり、店に戻る頃にはずぶ濡れ。全身から水をしたたらせた俺が見たのは、『だから言ったのに』とでも言いたげに勝ち誇った笑みを浮かべた安倍で……。
(思えば、あの時からだな……安倍が、やたらと俺に絡んでくるようになったのは)
それまでは、若干嫌味で言動が鼻につくものの、まるで様子をうかがうように、一歩引いて俺を見ていたのに。
一体、何が原因で奴の関心を引いたのかは不明だが、迷惑な話だ。
ここ、春夏冬で働くようになって三週間経つが、通り雨に降られたあの日を境に、俺は安倍保明という非常識な常連客に振り回されっぱなしな気がする。
(あー、冷たい。それもこれもアイツのせいだ!)
水をかけられた俺が、ほうほうの体で店の中に入ると、安倍は営業時間前だというのに、いつもの席で悠然とくつろいでいた。
濡れている俺をみて、器用に片眉をあげる。
「呆れたな。せっかく僕が忠告してやったのに、無駄にするなんて」
「……誰のせいだと思っているんですか」
まだ店が開いていないのに、勝手に中に入ったお前のせいだろうと恨めしい思いで目を細めると、安倍はひょいっと肩をすくめた。
「ありがたい忠告を活かせない、無能な狐のせいだろう」
他の人間、例えば俺なんかがやっても噴飯もので終わるのが関の山な仕草だ。なのに、この男がやると海外ドラマのワンシーンのように決まって見えるのが、また腹立たしい。
「稲成くん、開店準備の方は大丈夫ですから、着替えた方がいいですよ。タオルも遠慮しないで使って下さい。……それと、保明さん、あまり彼をいじめないでくれませんか?」
カウンターの中にいた店長が、柔らかい口調で間に入ってくれた。
開店時間前に来て図々しく席に着いている迷惑客のために、店長は紅茶を用意していたようで、カウンターの一番端……奴の指定席の前には、湯気の立つティーカップが置かれている。
「いじめてなどいないぞ、店主。心外だ。僕は、この見るからに、しみったれた雰囲気の狐の運が少しでも上向くようにと、真心込めたアドバイスをしてやっているんじゃないか」
当然のように紅茶を飲む安倍は、やっぱりふてぶてしい。
店長は、物腰が穏やかで紳士的な、白髪頭の初老男性だ。いくら常連だとしても、年長者である店長に、こうまで強気には出られないのが普通だろうに。
(信じられないくらい、図太い奴だ)
俺の表情は、傍目からでも明らかなほど、苦々しいものだったらしい。
こっちを見た店長が、苦笑した。
そして、はやく行きなさいと口だけ動かす。
安倍の意識が紅茶に向いているうちに、とても接客できる状態では無い顔を何とかしてこいという事だろう。
開店前に客を中に入れてしまった失態もあり、俺は頭を下げる。
そそくさと奥へ引っ込んだ俺の耳に、奴の調子外れの鼻歌が聞こえてきた。
予備の制服に着替えて店に出ると、丁度店の扉が横に動く。
高い吹き抜け天井のせいか、来客を知らせる鈴が、どこまでも響いていくように澄んだ音を鳴らす。
「いらっしゃいま……せ……」
本日最初の――もちろん、営業時間前に押し入った常連は抜きだ――お客様だ。元気よく挨拶をしようとした俺だったが、あまりにも意外すぎるお客様の姿に、途中で声が途切れてしまう。
「……あ、あの」
和風な引き戸に手をかけたまま、もじもじしている本日のお客様第一号は……真っ赤な頬の、子供だった。
「あ~……えっと……、いらっしゃいませ」
気を取り直し近付くと、子供はびくっと肩をすくめオロオロと視線を彷徨わせる。
「今日は、ひとり……かな?」
いつまでも親が出てこない事を不思議に思いながら、しゃがみ込んでたずねると、子供は俺の顔をまじまじと見上げたあと、こくりと頷いた。
「誰か、大人の人は一緒じゃない?」
「お、おれ、ひとり」
たどたどしくも、はっきりと子供は「ひとりで来た」と宣言した。
まだ小さい……小学生にもなっていないだろう小さな子が、わざわざひとりでお茶を飲みに来るだろうか?
(もしかして、迷子か……?)
とっさにそう考え、後ろを振り返り、店長の判断を仰ごうとした。そんな俺の袖を、つんと小さな手が引っ張る。
「ん? どうした?」
大学の友人曰く、俺は胡散臭い顔立ちらしい。
眼鏡の奥の細い目が、まったく笑っていないからだなどと、失礼な事を言われた記憶がある。あの友人は「童話とかで人を騙す悪い狐みたいだな!」などと抜かしていた。思い出すと腹が立ってきたが、不安そうな子供を前にして取る態度ではない。
なるべくこの子を怖がらせないようにと注意を払いながら笑いかけると、子供は再び俺の顔をじっと見上げてくる。
「……あ、あの」
「うん?」
「あの、な、……友だち、さがしてほしいんじゃ」
「……え?」
俺の声は、よっぽど間抜けに聞こえたらしい。子供は焦れたように地団駄を踏み、繰り返した。
「おれの友だち、さがしてほしいんじゃ! どこにもおらんけ、さがしてくれ!」
「待て待て待て!」
身を乗り出し、すがりつく勢いで言い募られ、俺は慌てて子供を押しとどめる。
「友達が、いない? ケンカでもした?」
「しとらん! なのに、きのうもおとといも、いつもの場所に、おらんかった……」
大きな目に、じわりと涙が溜まっていく。
「わわっ、泣くな……! あのな、そういう事は、お父さんとお母さんにまず相談しような? それから、警察に……」
俺の言葉は、最後まで続かなかった。
「お父もお母も、おれにはおらん! けいさつっちゅうのは、分からん!」
ぶん、と大きく腕が振られて、眼鏡に当たる。
ちょっとずれた眼鏡を直そうと子供から距離を取った瞬間、俺は〝見てはいけないもの〟を見てしまった。
子供の小さな影。
その頭の部分から、ぴょこんと二本の影が突き出ていたのだ。
まるで、角のように。
「ぁ、ご、ごめんな、兄ちゃん……! いたかったか……!?」
〝それ〟が何か、確認することも無く眼鏡を戻した俺の沈黙を不安に思ったのか、子供は慌てたように、また取りすがってきた。
「――っ」
ぎくりと体が強張り、無意識に逃げるように立ち上がってしまう。
「……だ、大丈夫、なんともない。眼鏡にちょっと、当たっただけ。君の方は痛くしなかったか?」
避けた事への後ろめたさから、取って付けたような言葉が口から出てきたが、子供は気が付かない。
「おう! おれは、強いからの!」
俺がなんともないと知ると、子供はパッと八重歯を見せて無邪気に笑った。
その頭に、不自然な突起は見当たらない。
(じゃあ……やっぱり、あれは……)
瞬間で判断した通り……〝普通は見えるはずが無いもの〟。そう再確認した途端、胸の奥が冷えていく。
〝見えるはずが無いもの〟ならば――俺は何も見ていない。
俺に、見えるはずが無い。
そう心の中で呪文のように繰り返しながら俺は、今度は中腰で子供に話しかけた。
「でも、ごめんな、坊や……ここは、お茶を飲んだりお菓子を食べたりするところで、人捜しはしていないんだよ」
「え? でも……表に……」
不意を突かれたような顔をした子供は、俯きもごもごと何事かを唱えた。
一体、どうしてただの飲食店に人捜しを頼もうなんて思いついたのか――不思議がっていた俺のすぐ後ろで、声がする。
「どきたまえ、狐。彼は、僕のお客だよ」
「うわっ!」
びっくりして飛び退く俺をうるさげに見たのは、さっきまで定位置に座っていた安倍だった。足音ひとつ立てず、いつの間にか近付いてきたらしい。
「この店員が不躾な対応をして悪かったね。彼は、まだ入ったばかりの新入りだから、もののイロハがわからんのさ。中へどうぞ、君の話を、詳しく聞かせてくれたまえ」
そう言って、俺よりも断然人当たりの良い笑顔を浮かべた安倍に、子供はホッと一安心するかと思いきや、「ぴゃっ!」と悲鳴を上げて、なぜか俺の足にしがみついた。
意外な反応に目を丸くしていたのは俺だけで、店長はもちろん当の安倍まで苦笑している。
まるで、何時もの事だというように。
(……老若男女に好かれそうな、きれーな顔してんのに、意外だな)
まさか、子供に怖がられるタイプだったとは……と、安倍を見やる。
すると、奴はなぜか真顔で俺を凝視していた。
「…………」
「な、なんですか……?」
「……狐なだけに、好かれるんだな」
「はい? 意味が分かりません、狐とか今関係ありますか?」
子供が好きな動物で、狐がダントツ人気なんて聞いた事がない。
そもそも、狐なんてのは、この男が勝手に呼んでいるだけの、不本意なあだ名のようなものだ。初対面である子供が知るはずない。
この子に人見知りされたショックで、どっかネジが抜けたのだろうか?
俺は少しだけ心配になったが、安倍はすぐさまニコリとさっきと同じ笑みを浮かべて見せた。
「狐。お客人を席までお連れしろ」
「……は?」
「彼は、君の足がお気に召したようだからな」
言われて視線を下に落とす。
俺の足には、赤い頬の子供が、コアラのようにしがみついたままプルプル震えている。
「あ、あの、離れてもらっても……」
「っ!」
びくっと大げさなまでに肩をはねさせ、子供はこの世の終わりに直面したような涙目で、ぶんぶんと首を横に振った。
(……安倍、そこまで顔怖くないと思うんだけど……)
子供も、人見知りというほどでもない気がしたのだが、この怖がりようはどうした事だろう。
けれど、今にも泣き出しそうな小さな子を無理矢理引っぺがしたりなんて、出来るはずも無い。安倍に従うのは癪だが、そうせざるを得ないと感じて、俺は「行こう」と子供を促した。
「に、兄ちゃんも、おる?」
「え?」
「お、おれ、強い! じゃけんど、兄ちゃんが、ど……どうしてもってい言うなら、い、いっしょにいても、いいぞ……?」
どうしたらいいのだと迷っている間に、安倍は何時ものカウンターではなく、一番端のボックス席に移動していた。
「狐、早くしたまえ」
偉そうに呼びつけられ眉間にシワが寄る俺だったが、子供は全く違う反応を示した。まるで親に怒られたかのように、ひゅっと亀のように首を竦ませ震えている。
「……あー……」
これはちょっと、放っておけないかもしれない。
ちらりと店長を見れば、温和な笑みでひとつ頷いてくれた。
それでようやく覚悟を決めた俺は、足に子供をひっつかせたまま、ずるずると移動する。
――これまで誰も座っているのを見たことが無い、一番奥のボックス席へ。
長椅子の上に、赤い丸座布団が敷かれているボックス席。
安倍とは向かい合う形で反対側に座った子供は、俺の服を握り、ぐいぐいと引っ張る。隣に座れと訴えているらしい。
一応、席に案内したが、同席するのはまずい。仮にも俺は勤務中だ。
「ちょ……、俺、仕事中だから――」
なんとか断ろうとしたが、横槍が入る。
「かまわないよ。お客人が良しとするなら、狐もここにいるといい」
目を細め、口元をわずかにつり上げた安倍だった。
笑っているように見えるが――その目は全く笑っておらず、品定めでもするような視線をじっと注いでいた。
なぜか、俺に。
(……おい待て、なぜ俺だ)
不審がるのは、子供の頼み事の方だろう。
友達が消えたなんて相談事をここに持ち込んだ事もそうだが、両親がいないという事もひっかかる。
頼れる大人が誰もいない状況で、この子はどうしてこの店を選んだのだろうか?
「縁だよ、狐」
「……え?」
「全ては縁によって繋がる。求めるものがあり、乞う思いが強ければ、縁を辿ってここに来るのさ」
頬杖をついた安倍は、人の心を見透かすような眼差しをしながら、意味の分からない事を滔々(とうとう)と語った。
ぽかんとした俺の顔が面白かったのか、安倍はひとしきり語り終えた後で吹き出す。
「訳が分からないという顔だ。単純な事だろう。ここは、そういう店なのさ。……君があの日、この店に来たのと同じ事だ」
やっぱり、分からない。
俺がこの店を訪れたのは、偶然だ。
ぶらぶら散歩していて――たまたま目に入ったのが、この店だった。
特別な理由なんて無い。
ただ、それだけの事なのに、さも何かあるような言い方をされると、答えの無い謎かけを向けられたような気分になり、俺は思わず顔をしかめてしまう。
けれど、安倍はその反応は想定内だというように、静かに笑っただけだ。
「お待たせしました。ほうじ茶ラテでございます」
丁度良いタイミングで、店長が飲み物を運んできた。
「あっ、すみません店長……! 俺が――」
「大丈夫ですよ。稲成くんは、その子についていてあげて下さい」
腰を浮かしかけた俺の手を、がっちりと握っているぷくぷくとした小さな手。横に視線を動かせば、相も変わらずの涙目が、どこにも行くなと訴えかけてくる。
「……兄ちゃん……」
「――うっ……!」
俺を縋(すが)るように見ている子供。この子から、今不用意に離れたりしたら、今度こそ大泣きしそうだ。諦めて俺が座り直すと、子供は安心したように、息を吐いた。
「えっと……これ、のんでええのか?」
「はい。どうぞ。熱いから、気をつけて」
「……あ、でも……おれ、あんまりお金、もっとらん……」
しゅんとした子供に、店長は笑顔で首を振った。
「大丈夫。相談事にいらしたお客様には、サービスです」
その一言に、子供は嬉しそうな声を上げる。
「ありがとうのう、じいちゃん!」
「いいえ。稲成くんも、気にしないで飲みなさい。……それでは、ごゆっくり」
「俺の分まで、申し訳ないです……」
恐縮する俺にも笑顔で首を横に振った店長は、一礼してカウンターの中へ戻っていく。
ほうじ茶ラテからは、あたたかい湯気が立ち上り、それにのって香ばしい匂いがふわりと広がる。
「いい匂いじゃな~」
「熱いから、気をつけろよ」
「おう!」
ふーふーとカップに息を吹きかけた子供は、こくりと一口飲む。
安倍を前にしてからは、ずっとビクビクしていた子供から、ようやく力が抜けた。ほんのりと舌に残るハチミツの甘さが、子供の緊張をほぐす事に一役かってくれたらしい。
「うまいか?」
「うん!」
「そっか」
どこかほのぼのとした空気が漂い始めた途端、ごほんとこれ見よがしな咳払いが聞こえた。
ひとりだけ、紅茶を飲んでいる安倍だ。
「そろそろ本題に入ろうか、お客人」
緩みかけた空気が引き締まる。
子供の背筋も、しゃんと伸びた。
「何を求めて、ここに来た?」
「……あのな、おれの、だいじな友だちが、消えてしもうたんじゃ」
「ふぅん」
気のない相槌に、横で聞いていた俺の方が慌ててしまい、つい口を挟む。
「いや、なんで、そんなにあっさりしてるんです? 子供が消えたなんて、大事件じゃないですか、早く警察に――」
「おいおい狐、君はお客人の話を聞いていたのかい? ……一体、いつ子供が消えたなんて言った?」
いつ?
そう言われて、隣に視線を落とす。
安倍の、指摘通りだ。
この子はただ、「自分の友達が消えた」としか言っていない。
だが、子供の友達と言えば子供と決まっているわけで、なんらおかしくないだろう。
それなのに、安倍は呆れたと肩をすくめた。
「お客人、消えた君の友人とやらの特徴を、僕達に教えてもらおうか」
「……背は、高くて……」
「どれくらい?」
「ひっ」
安倍の追求に怯えたように身を竦ませた子供が、俺の腕にしがみつく。
(……嫌われすぎだろう、安倍)
「今、君がしがみついている、その狐くらいかい?」
俺くらいとなると、少なくとも百七十五センチ程度だ。
いくらなんでも、それは無いだろう。子供だし。
そう思っていた俺だったが、横から出てきた答えはとんでもなかった。
「この兄ちゃんよりは、もっとずっと大きいんじゃ」
「成長期、仕事しすぎだろ!?」
「うるさいぞ狐、黙れ。……では年は? そこの狐より上か、下か?」
「うんと……ものすごく、長生きしとる」
「まさかの年上疑惑……!」
これは……あれか? 大きいお友達とかいうやつなのか?
ふたりの話についていけずに、視線を安倍と子供の間で何度も行き来させる俺は、よっぽど不可解そうな面をしていたのだろう。安倍に鼻で笑われた。
「探し人が子供だなんて、彼は一言も言っていない。固定観念にとらわれるのは、やめたまえよ」
「……大きいお友達案件なら、もっとやばくないですかね?」
一応声を潜めて安倍に伝えたのだが、奴はまたしても鼻先で俺を嘲笑った。
「どうやら君の頭は、思っていたよりもずっとガチガチの石頭だったようだ。――店主、この駄目店員を借りるぞ」
「はあ? なんなんですか、いきなり……!」
「困ったことに、このお客人は君を頼りにしているようだからな。……依頼人に怯えられて話も出来ないよりは、ガチガチの石頭で固定観念に凝り固まった面倒狐でも、場を和ませる存在がいた方がいい」
「……何言ってんですか、アンタ?」
立ち上がった安倍は、ふんっと笑うと髪をかき上げた。
「感謝したまえ、狐。今日から君に、〈探し屋〉の手伝いをさせてやろう」
「……ああ?」
柄の悪い声が出たが、安倍は全く気にしない。そして、俺の隣に座る子供も、気にしていない。
無邪気に「兄ちゃん、ついてきてくれるのか」と笑うと、両手でカップを持ち、コクコクとほうじ茶ラテを飲んでいる。平和だ。
「……申し訳ないですけど、俺は……」
「構いませんよ」
「店長!?」
俺がしっかりと断るより先に、店長が柔和な笑顔で交渉を成立させてしまった。
「しっかりと、お仕事を頑張ってきて下さい、稲成くん」
ここは大丈夫ですから、なんて優しい口調で言う店長。
だったら、どうして俺を雇ったんですかと聞けなかったのは――安倍の奴に首根っこを掴まれ、ずるずる引きずられたから。
「では早速行こう! 善は急げというからね!」
(この野郎、少しでいいから他人の話に聞く耳を持てよ!)
傍若無人な安倍の手を払いのけ、自由を取り戻した俺は、内心辟易しながらも店の出入り口に向かう。
からからと戸を横に滑らせ、店先にかけてある暖簾を手で押し上げれば、昨日の夜の雨が嘘のように、からりと晴れた空が視界に広がった。
店内ではどこまでも広がっていきそうなほどによく聞こえた鈴の音は、微かに聞こえただけ。
それだけで、店の中と外には、まるで見えない線でもあるような気分になる。
もっとも、そんな事はありえないから、全ては俺の馬鹿げた思い込みなんだけど。
「……で? どこに行こうっていうんですか?」
外に出て、舌打ち混じりに振り返る。
着替える暇も無く出てきたから、俺の格好は店の制服のままだ。
今日はもう水被って1着駄目にしたから、予備もない。
どこで何をさせる気だと悠々と出てきた安倍を睨めば、奴はまったく堪えた様子なく、決まっているだろうと胸を張った。
「さぁ、お客人。僕達を、〝何時もの場所〟へ連れて行ってもらおうか!」
「えっ!?」
子供は飛び上がらんばかりに驚いて、またしても俺の足にしがみついた。
「なっ、なっ、なして……!?」
「なして? …………ああ、どうしてかと問うているのか。愚問だ。……決まっているだろう。それが一番、手っ取り早い探し方だからだ」
きらりと、安倍の色素の薄い目が日差しを受けてきらめいた。
すると、子供は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまい、全く動けない。
人当たりの良い笑顔を向けたと思ったら、今みたいに刺すような視線を向ける。なるほど、これでは子供に好かれるのは、到底無理かも知れない。
「……おい。子供をいじめんな」
嫌な沈黙を打破したかった俺は、さりげなく子供を俺の後ろにかばい、大人げない安倍をとがめた。
ぞんざいな口調が気に入らなかったのか、安倍の片眉が跳ね上がる。
「全く。店主といい、狐といい、心外な事を言う。僕は誰もいじめてなどいないのに」
「何言ってんですか、怖い目で人を凝視しておいて」
「……え」
顔が整っているだけに、真顔は怖い。
俺だって、こいつに凝視されると居心地が悪いことこの上ないのだから、子供の負担は相当だろう。
そう言ってやると、安倍は霧の中から抜け出た人のような顔で、ぱちぱちと瞬きをした。
「……そんな事、初めて言われた」
呟いた安倍は、それきり黙りこくる。
「だろうな。アンタみたいな美形を捕まえてそんな文句をつけたら、たちまち袋だたきに遭いそうです」
目に浮かぶと言ってやれば、安倍は首を左右に振った。それから、俺を見て子供を見る。
なんだとふたりで身構えると、安倍はその場で爆笑した。腹を抱えて、目尻に涙まで浮かべるほどの、ガチの爆笑。
美形の馬鹿笑いを目の当たりにした俺と子供は、今度は揃って顔を見合わせ首をかしげる。
「……狐は、ガチガチに固い石頭な挙げ句に固定観念でぐるぐる巻きなクセに、面白い事を言うね」
「俺には、何がそんなに面白いのかサッパリです」
「僕にそんな事を言ってきたのは、君が初めてだ」
「ああ、そうですか。それなら、数秒前に、聞いてます。ボケましたか?」
「……僕に、面と向かってそんな事を言ったのは、君が初めてだと言ったんだ」
ふと声が沈んだ気がした。
安倍はもう、俺達を見ていない。じっとアスファルトを見下ろしている。
何を熱心に見つめていると思って、視線を辿っても、そこには何も無い。
けれども安倍は、なにかを見ていた。
「僕には、誰も本心を語らないからね」
嫌味で傍若無人で……とにかく気に入らない男だが、吐き出された声はそんな普段の安倍とはかけ離れた、寂しそうなものだった。
なんと声をかけたものかと、俺が迷うほどに。
「まあ、僕も有象無象の事なんて、いちいち振り返ってなどいられないから、煩わしくなくて丁度良いんだが」
「……おい」
人が心配したのに、安倍は顔を上げると、けろっとした様子で言った。
本心からそう思っていそうな口ぶりに、こめかみの辺りが痛むのは、絶対に気のせいでは無い。
「その辺の凡庸な連中が僕を理解出来ないのは、摂理。僕が有象無象の塵芥共を振り返らないのも、また摂理であると思えば仕方がない事だ」
「ああ、そうですか。それはよかったですね」
コイツはもう、放っておこう。
真面目に取り合うだけ無駄だった。
ようやく悟った俺は、おかしなものでも見るような目つきで安倍を見上げている子供に声をかける。
「坊や、その……大きいお友達とは、いつもどこで会ってたんだ? いつもの待ち合わせ場所に、急に来なくなったって事なんだよな?」
「う、うん」
「家の住所は分からないのか?」
「じゅうしょ……? ううん、おれ、分かんね……」
でも、待ち合わせ場所には案内できると、子供は言う。
「じゃあ、そこに案内してくれるか? ……そしたらきっと、馬鹿笑いしていたこっちのお兄さんが、お友達を見つけてくれるからさ」
「…………」
おずおずと安倍を見上げた子供。俺は、安倍を片肘で突く。
「ここまでお膳立てしてやったんだから、少しは子供に好かれるように笑ってくださいよ……!」
「だから、僕が有象無象に……」
「それ以上言ったら、一回本気で殴りますから」
「…………」
睨み付ければ、安倍は本気を感じ取ったのか押し黙った。
それから、ごほんと咳払いして、にこりと笑う。
「ああ、もちろんさ。〈探し屋〉として、必ず僕達が見つけよう!」
「ぴゃっ!!」
爽やか三割増しの笑顔だが、子供は目の当たりにするなり悲鳴を上げて、またしても俺の後ろに隠れた。
白けた目が、安倍から俺に向けられる。
「おい。全然駄目じゃないか、狐」
「……俺も人のこと言えないけど、アンタ……本当に子供に好かれない人種なんですね」
俺にしても、ここまで子供に友好的というか――べったり頼られたのは初めてだ。
だけどそれは、俺以上に子供に好かれない奴がいたからだろう。
綺麗に整った顔が浮かべる笑顔は、老若男女問わず、全人類に有効だと思っていたから、少し意外だった。
「ふん。そんな哀れみのこもった目で見るのはやめてもらおうか。……僕は哀れまれるのが、吐き気がするほど嫌いなんだ」
「そうですか、すみませんね。……という訳だから、坊や。安心していいから」
「依頼に関しては、同感だ。僕達が見つけるさ」
「ああ、その通りだ。僕達が…………えっ……なんで僕達……?」
なぜ複数系なのだと、俺は安倍を見た。勝ち誇ったように笑った男は、また繰り返す。
「僕と、狐。ほら、どこからどうみても、僕達という言葉が相応しいだろう?」
「ふ、ふざけるな、俺は……!!」
「わぁ~、兄ちゃんも手伝ってくれるんか? おれ、うれしい! ありがとうな!」
「だ、そうだが?」
「…………」
安倍の視線は、このキラキラした目を裏切れるのかと問いかけてきていた。
ああ、もう、クソ!
「……そうだな、手伝うよ。……俺達は、一体どこへ向かったら良いのかな?」
子供は笑顔で元気よく答えた。
「おう、墓場じゃ!!」
「そっか、墓……墓場ぁ!?」
「こっちじゃ! はやく、はやく!」
待ち合わせ場所に案内されながら、俺は首をひねっていた。
(だって、墓場だからな……)
近頃の子供って、墓場で待ち合わせるのが普通なんだろうか?
なぜ、わざわざ墓場なんかで待ち合わせをするんだと思うのは、俺の感性が田舎者だからなのか、それとも子供時代に友達と待ち合わせ経験がないからなのか……駄目だ、考えてもわからない。
俺は、正直に子供に聞く事にした。
「……あ、あのさ……墓場で待ち合わせとか、ちょっと新しすぎないか?」
「そうかぁ~? おれたちは、いつも墓場じゃよ」
「えー……やっぱり、都会っ子の常識なのか……?」
都会すげーと感心していたら、それまで静かだった安倍から冷笑を向けられた。
「馬鹿狐。そんな常識があってたまるか。……あくまで、お客人とその友人にのみ適応される事だ。墓地などといった、普段はあまり人が近付かない場所で待ち合わせる理由なんて、簡単だろう。――人目に付かないためだ」
「……いや、待って下さい。そうなると、お友達とやらがもの凄くヤバイ人に聞こえるんですけど……」
人目を避けて、小さな子供に会おうとする大きいお友達。
響きだけで通報案件な気がしてならないが、子供は怒ったように声を荒らげた。
「やばくない! 青は、いい奴じゃ!」
大きなお友達は、どうやら『青』という名前らしい。そして、この子は青という友達を、信頼していると分かる。
「そっか。ごめんな」
俺はかがんで、悪かったと子供に謝った。
自分が信じている相手を悪く言われたら、怒って当たり前だ。
いくら、俺の中に大きい友達とはヤバイ大人ではないかのか? という疑念があったとしても、口に出すのは無神経だった。
謝罪を受け入れてくれた子供は、ふくれ面をしたものの、それ以上大声は上げなかった。
ただ、俺達に何度も「青はいい奴」だと訴えてくる。
「ほんとうに、いい奴なんじゃ! ……おれ、しゃべり方がおかしいじゃろう? 親もおらん。……でも、他の奴らは、親に色々教えてもろうてから町におりるんじゃ。そいで、たっくさん、友だちをつくって……毎日、楽しそうじゃった」
それをずっと、うらやましいと思っていたと子供は呟いた。
「そしたら、青が声をかけてきてくれてな。もう泣かんでいい、親がおらんのなら、自分が友だちをたくさん作る方法を、おしえてやるって」
それからは、自分も町に降りられるようになった。仲の良い友達も何人も出来て、楽しい毎日だった。
けれど、友達を作る方法を教えてくれた彼は、いつもひとりぼっちでお墓にたたずんでいる。
そんなのは寂しいと思った。
だから子供は、毎日恩人である彼の元を訪れるようになったと言うわけらしい。
しかし。
「突然、いつもの場所に来なくなってしまった……というわけかい」
道すがら聞いた話を、最後に安倍がまとめる。
「……そうじゃ」
毎日会えた友人が、突然の音通不信。気が動転し『消えた』と大騒ぎしてしまったのだと子供は俯いた。
「ま、まぁ、友達が急に来なくなったら、心配になるのはわかるよ」
取りなすように俺が言うと、子供はうんうんと何度も頷く。横の安倍は「ふ~ん」と、面白がるような目で俺を見た。
「……なんだよ」
「君、子供には優しいんだな」
「……はあ?」
その間にも、足は進む。
目当ての寺が見えてきた途端、子供はぱっと先に駆け出した。
「あそこじゃ!」
「あっ、こら、待てって!」
俺は慌てて追いかけようとするが、のんびりとした足取りの安倍にその気はない。足取りと同じくらい、のんびりとした口調で奴は言った。
「優しいのは分かったが……それでも君は、〝ウソツキ〟だな」
「――は?」
「なんで、あのお客人に触らないんだい?」
「……意味が分からないな。今時、子供にベタベタ触る奴がいたら、即通報もんだろ」
「ほら、ウソツキだ」
喉に小骨が引っかかったような、嫌な言い方をされて、足が止まってしまう。
すると、安倍は素っ気なく俺を追い抜いた。このまま先に行くのかと思いきや、奴は数歩先で足を止めると、こちらを振り返り、笑った。
「見えているくせに」
その一言で、ぞわりと背筋が寒くなったのを――俺は気のせいだと思う事にした。
全速力で走り、いけ好かない男を追い抜く。
――なぜだか、そうしなければいけない気がした。
正直な話、あのままアイツの言葉を聞いていたら、もう戻れない気がしたんだ。
店から二十分程度の距離にある寺。
門をくぐり並ぶ墓石を通り抜け、木々が生い茂って隠れている階段を上る。小高い山になっている場所に、人目を避けるように数個の墓石があった。
「……ここ……」
下に見える、整然とした霊園とは雰囲気が違う。
ここにあるものは全て、大分古い時に建てられたのだろう。苔が生えた丸い墓石が、数個ぽつぽつと点在している。
その中で異彩を放っていたのが、真新しい花だった。誰かが供えたのだろう花は、まだ瑞々しく鮮やかだ。
それを見た子供は、歓声を上げる。
「兄ちゃん! 見て、この花! たぶん、あいつじゃ!」
「あ、あいつ? 友達か? 花を供えてるって事は……なんともなかったのか?」
安倍を見れば、考え込むように目を細めている。そして、顎に手を当て、自分の考えを披露するように、一言、一言、吐き出した。
「お客人は、相手が急に音通不信になったため、何か大変な事に巻き込まれ、連絡が取れない状況に陥ったと考えた。だから、慌てて店に来た。……だがしかし、真実はどうだろう。これを見る限り、答えは明白だ。お客人の友達とやらは、君の前から消えたかった。それだけの話だ」
空の高い所で、ひゅーんと鳥が鳴いている。
風で、草木のそよぐ音が聞こえる。
それくらい、俺達のまわりは静まりかえっていた。
「……え? なに……?」
意味が分からない。そんな様子で、子供が困ったような半笑いを浮かべている。
「おれの前から……なに……?」
「君の前からだけ、消えたかったと言っているんだ。会いたくないと言えば、通じるか?」
「うそじゃ!」
かっと歯を剥いて叫んだ子供は、今にも安倍に飛びかかりそうな勢いで、俺はたまらず押さえ込む。
「落ち着け!」
「はなせ! はなして、兄ちゃん! こいつ、こいつは……!」
今まではぎりぎりで泣かなかったのに、安倍の容赦ない物言いで我慢の限界に達したのか、子供はボロボロと泣いていた。
邪魔をするなというように、大きく腕を振られると、またもや俺の眼鏡に手が当たった。
よっぽど興奮していたのだろう、子供は今度こそ謝らなかった。
そのまま安倍に飛びかろうとして――数歩の距離で、足を滑らせべちゃりと地面に突っ伏す。
「おいっ……――!」
大丈夫か、と続けるはずだった声が詰まった。
駆け寄ろうとした足が、動かない。
俺の目は、〝ありえないもの〟を見ていた。
角の生えた、ありえない生き物――これは、まるで。
「お、鬼……?」
かすれた俺の呟きに、つまらなそうな顔で子供を見下ろしていた安倍が視線を上げる。
「やあ、狐。ようやく眼を開いたかい。……見てみないふりは、楽しかったかな?」
ありえない、と俺の口は動いたはずなのに、音にはならない。金魚のように口をぱくぱくさせたまま、俺は地面に落ちた眼鏡を探す。
どこかにあるはずだ。
あれをかければ、こんな……〝見えるはずが無いもの〟なんて、消えて無くなる。
「おや? もしかして、探しものは、これかい狐」
おかしな空気が漂うこの場で、唯一平然としている男は、ゆったりとした足取りで歩みを進め、何かを拾い上げた。
手で弄ぶようにして見せた物は、俺の眼鏡。
「……返して下さい」
「ふぅん……。特別な仕掛けもない、普通の眼鏡だな」
「眼鏡に、変な仕掛けなんてあるわけないでしょう」
「度も入っていない伊達眼鏡で、君は必死に何を偽っていたのかね?」
「――っ……返せって言ってるだろ!」
ふと笑った安倍は、眼鏡を俺に向かって放り投げ、いまだに地面に突っ伏して動けない子供に、ちらりと視線を向けた。
眼鏡をかけ直した俺は、その視線の動きにぞっとして、慌てて子供の方に駆け寄る。
「おい、大丈夫か!」
「に、兄ちゃん……! あの人間、やっぱり……おん――」
何か言いかけた子供だったが、遮るように安倍の声が重なった。
「意外だね、狐。固定観念に凝り固まった君ならば、常識を逸脱したこの場からは、さっさと逃げ出すものだと思っていたのに……今までは触れもしなかった、そっち側に行くんだな」
「は? 大人げないアンタと子供を、ふたりきりにしておけるかよ! ……ほら、立てるか?」
べそをかいた子供に手をかして、立たせてやる。けれど、子供の目にはさっきまで以上に、安倍への恐怖心があった。
「やれやれ。君は、本当に子供に弱いんだな。……たとえそれが人ならざるもの……鬼であっても」
「っっ……うぅっ、ひぐっ……ごめ、なさい……!」
身を縮こめた子供は、安倍の一言にまた泣き出した。
「お、おい!」
「僕は、現実を見ない君に、わざわざ教えてあげているんだよ」
「知るか! 子供泣かせておいて、ぺらぺら語ってんな! ……あっ、ほら、飴やる! 苺味! うまいぞ!」
あわてふためいて包装を剥ぎ取り、口の中へ入れてやれば、子供はようやく涙を止めた。
「鬼の目にも涙、とは言ったものだけど……」
呆れた安倍は、まったく反省の色が無い。
「……いい加減にしろ。この子に失礼だ」
「おや。自分の目で今見たことを、君は信じないのかい?」
「俺は、〝自分の肉眼で見たもの〟なんて、一切信じない」
だってそれは、〝普通ではない〟から。
「……へえ」
断言すると、安倍は目を細めて、くすりと笑った。
「君がそう言い張っても……当のお客人は、どうだろうか?」
「っ、う、あの……おれ……鬼、だ」
小さな声で呟いて、子供は項垂れた。そして、恐る恐る安倍を見上げる。
「……おれのこと、調伏(ちようぶく)するか……?」
「やめてくれ、今は、そういう時代じゃないのさ。……お客人、君が何か悪事を働かない限りは」
子供は、少しだけ安心したようだったけれど、俺にはさっぱりだった。
(ちょうぶくって……なんだ?)
かさりと木々の揺れる音がしたのは、頭の中でクエスチョンを乱舞させていた時だった。
「……誰か、そこにいるのか……?」
伸びっぱなしの草を手で押しやりながら、青い顔をしたスーツ姿の男が姿を見せた。長身を、窮屈そうにかがめて墓地へ入ってくる。
そして、俺達を不可解そうに眺め――安倍に視線を定めた時点で、わずかに眉を眉間に寄せた。
「……ここは、故人を偲ぶ場所だ。騒ぐなら、よそへ行け」
「心外だ。僕は、騒いでなどいないさ。ぎゃーぎゃーとうるさかったのは、むしろそっちのふたりだね」
安倍がすました顔で、俺と子供を指さす。青い顔をした男の眉間には、シワがますます深く刻まれる。
「……貴様……その子に、何をした?」
「おや? 僕が一方的に悪者かい? ……まっ、慣れているけどね」
皮肉めいた笑みを浮かべた安倍に、男はさらに機嫌を悪くしたようだった。
「ち、ちがうぞ! こいつ、おれが連れてきたんじゃ!」
空気が張り詰めている事に気付いた子供が、慌てた様子でスーツの男に飛びつく。すると男の眉間のシワがわずかに緩み、戸惑ったような目で、子供を見た。
それで合点がいって、言葉が口をついて出る。
「あっ……もしかして、大きいお友達?」
三人の視線が、一気に俺に集中した。
(やべ……言葉選び間違えた……!)
まずい。
さすがに、面と向かって、大きいお友達は無かった。
友達だけで充分だった。
やらかした。
唯一、子供だけは気にしなかったようで、笑顔で頷いている。
ただ、青い顔のスーツさんには微妙な言葉のニュアンスが伝わったようで、もの凄く困惑したような顔をされた。
安倍は、フォローする気もなく、ただ呆れている。
「そうだぞ、兄ちゃん! こいつが、おれの友だちの青! ……なぁ青、どこに行っとったんじゃ? おれ、たくさん、たくさん、さがしたんだぞ!」
「……ああ、悪かったな」
青と呼ばれたスーツの男は、優しい顔で子供を見下ろす。
まとわりつく子供を邪険にしたりせず、頭を撫でる手も謝る声もとても優しい。
だから、続けられた言葉があまりにも不釣り合いだった。
「だが、もうお前とは会わない」
「――え」
突然の決別宣言に、ようやく会えたと緩んでいた子供の顔が、強張る。
わかりやすい表情変化を目の当たりにした青さんは、辛そうに顔を歪めたが――子供の肩を掴むと、自分から引き離した。
「赤、私はもうすぐ寿命が尽きるんだ」
縁を切りたい。
そのためだけについた嘘だとしたら、これほど最悪なものはないだろう。
突然の事に、子供は顔を強張らせたまま、何も言えなくなっていた。
「…………」
ショックが大きすぎて、すぐに言葉が出てこないのだろう。じわじわと、大きな目に涙がたまっていく。
その様子に気付かない筈がないくせに、青さんはさらに追い打ちをかけた。
「とてもとても……長く生きたからな。唯一の心残りは赤、お前で果たせたことだし、悔いは無い」
悔いは無いなんて、ずいぶんと清々しい言葉だ。
きっと本人的には、満足なのだろう。
でも、目の前にいる子供の心は、置き去りのままだ。
「なんじゃそれ? 分からん、おれ、ばかじゃから、むずかしいこと、分からん……」
震えた声が、なんとかそれだけ口にする。きっと考えて考えて、ようやく出てきた言葉のはずだ。
けれど、大事な友達であるはずの青さんは、もう口を開かない。開く気は無いと、態度が語っていた。
――ふざけるなよ。
「……なんですか、それ。小さい子を泣くほど心配させておいて、はいさよならってのは……大きいお友達として、どうなんですか?」
頑なさに苛立ちを覚えた俺は、よせば良いのに口を出してしまった。
とたん、鋭い眼光がこっちを向く。
(うわ、怖……!)
立ち入るなという圧を感じる。勘違いではない事は、突き刺さる視線で証明済み。
けれど散々巻き込まれ振り回された俺にだって、言いたいことがある。
「子供だから言っても分からないだろうって、侮るのはやめて下さい。その子は、貴方の事が心配だからって、たったひとりで、この人のところまで来たんですよ?」
この人――と、安倍を指せば、青さんは驚いたように目をみはり、子供を見た。
「お前……まさか、ひとりでこの男に……!?」
「だ、だって、おれ、青がしんぱいじゃったから……! お父とお母みたいに、きゅうに消えちまったんじゃないかって……だから……!」
そうか。必死だったのは、両親の前例があったからなのか。
急に消える。
それが、どういう事なのかは分からない。子供を置いての失踪なのか、また別の何かなのか……全ては想像の域を出ない。
ただ、この子が必死だったことだけは俺にもよく分かる。
それだけは、俺が肯定できる真実だ。
「褒めてあげて下さい、怖いお兄さんのところに、大事な友達を探してくれってひとりで来たんですから。さすが男だとか、勇気があるとか……言ってやって下さいよ、頑張ったんですから。それで、ちゃんと向き合ってあげて下さい。友達に、理由も告げられずそっぽを向かれるなんて……悲しすぎますから」
「…………」
眉間に皺を寄せたまま、青さんは目を閉じた。言うべきかどうか迷っているようだった。
けれど、やがて観念したようにため息を吐き、眉間のシワがとれる。
「……昔、遠い昔の話だ。……私は当時、調子に乗った荒くれ者で、あちこちを荒らし回っていた。だが、不注意で傷を負ってしまい、逃げ込んだ先で……人の夫婦に出会った」
青さんの目が、苔むした丸い墓石に向けられた。鮮やかな花が手向けられていた、あの墓石だ。
「底抜けに善良なふたりでな、怪我をした私を厭い追い払うどころか、手当をしてくれたんだ。……当時は、私達のような存在と人の間には大きな溝があったから、ひどく驚いたものだ」
懐かしむように語る彼は、そっと丸い墓石に触れる。
「……一方的に世話になるなんて、気持ちが悪い。なによりも、人間なんぞに借りを作りたくは無い。だから、恩返しを申し出た私に、ふたりは言った。――だったら、いつか貴方の前で困っている誰かがいたら、同じように手を差し伸べて助けてあげて欲しい……と」
「……だから青、おれをたすけてくれたんか?」
「親のいない、はぐれ鬼だったお前は、人に化ける術も知らなかった。寿命が尽きるその前に、自分に出来うる限りのことを教えてやろうと思った。……今ではこうして、お前はひとりで人里に降りられるようになるまで成長した。一人前だ。もう、大丈夫だ。私などがいなくても、平気だろう……?」
「――っ、だいじょうぶじゃねぇ!」
勢いよく抱きつかれた青さんは、目を丸くした。
「ぜんぜん、だいじょうぶじゃねぇよ……! そんなの、青はさみしいままじゃねぇか……! おれにも、おんがえしをさせてくれよ!」
「それなら、困っている誰かを助けてやれ」
「いちばんの友だちのために、なにもできねぇのに、他のだれかの役になんて、たてるわけねぇ!」
わんわんと声を上げて泣きじゃくる子供の頭を、青さんは困り顔で撫でる。けれど、その手は優しいから、きっと内心では嬉しいに違いないのに。
「やれやれ。観念すれば良い。どうせ、泣く子には誰も勝てないのだからね」
やりとりを黙って見守っていた安倍が、そんな事を言う。途端、青さんはくわっと目を剥いて「黙れ」と低く唸った。
すると、面倒だと言いたげに安倍がこっちを見た。その視線は、まるで「パス」と言っているような気がしてならない。
奴から無言の催促を受けた俺は、足踏みしたまま踏み出せない駄目な大人に向かって、生意気ながら言わせて貰った。
「他の誰かを助けなさいって言ったとしても、一緒にいられない理由にはなりません。そもそも、ふたりは友達じゃないですか。……恩返しだとか、小難しい理屈は置いて、考えて下さい」
「…………」
「一回親切にしたら、二度としちゃいけないなんつー決まりは無い。同じ相手に優しくする事は、おかしい事じゃない。友達ってそういうものでしょう? ……ふたりはお互いのことを思いやって、色々行動してるんだから――損得抜きのそんな関係、親友みたいじゃないですか」
親友、と青さんが呟いた。
泣いていた子供が顔を上げる。
「お、おれ、むかし青に、友だちがたくさんほしいって言ったぞ。みんなと、なかよくあそぶのが、夢じゃったから……! でも……でもな? おれの、いちばんの友達は、青じゃ……! 青が困ってたら、一番先にかけつけて、力になりたいんじゃ……!」
「……そうか」
「青は?」
真っ直ぐな目に見上げられた青さんは、笑った。
子供の成長を目にした親のように、とても誇らしげで、それでいて優しい笑顔。子供から目をそらす事なく答えた彼の両目は、怒りや悲しみ以外の感情で潤んでいる。
「……私も、赤が困っていたら、きっと一番に駆け付けたいと、願うだろうな……。なにせ……そこの御仁の言葉をかりれば……我らふたりは、親友だからな」
「――うん!」
これでもう、一安心。
仲直りだと、俺は息を吐く。
ちらりと安倍を見れば、奴はなんとも言えない表情でふたりを見ていたが、俺の視線に気づくと、顎をしゃくる。
「……親友というより、家族みたいだな」
こっそり呟かれた一言に、俺は「たしかに」と頷いた。
――消えた友達を探して欲しい。
そんな、奇妙な頼み事から端を発した人捜しは、こうして幕を閉じたのだった。
無事に、あの子供の探し人を見つけた後は、墓参りをした。
その後、ふたりとは積もる話があるからと別れたが、あの様子だと大丈夫だろう。
こうして依頼を終えた俺達は、春夏冬に戻る途中だった。
「しっかし……一時はどうなることかと思ったけど、無事に話がまとまって、よかったですね」
「そうだな。……あの様子からして、今日明日死ぬと言うわけでは無さそうだし……向こう十年は持つんじゃないか」
「……それは、長いんですかね……?」
嘘か真か、青さんは自分の寿命が尽きると言っていた。
それが十年先の出来事だとすれば、あの子はまだまだ青さんと一緒にいられるが、十年後には悲しい別れが決定付けられている事になる。
「狐、君はどうだい? 大切な人といられる十年は、長いか短いか」
手放しでは喜べない幸せに、複雑な気持ちを持ったところで質問され、俺は何とはなしに空を見上げた。
「……俺は……」
雲ひとつ無い青空を眺め、問われたことを考える。
「――俺は、短いと思いますよ」
「……そうか。だったら、どれくらいがいい?」
どこかピントのずれた安倍の問いに、数字で測れる問題では無いと首を横に振る。
「きっと、何年あっても、最後はもっと一緒にいたかったって泣くと思います」
「泣くのか」
くすりと、安倍が笑った。
腹が立たなかったのは、嫌味っぽくない……穏やかな笑い方だったからだ。
「うらやましいな」
穏やかな顔のまま、安倍はそんな言葉をこぼした。
「誰がです」
「君もだが……あの鬼達もだ。――僕には、無縁の話だからね」
「……安倍さん……」
かける言葉なら、色々ある。
中でも、分かったような言葉をかけるのは、とても簡単な事に違いない。
けれど、俺の口から飛び出したのは、その場しのぎの慰めの言葉では無かった。
「――さらっと言ってますけど、鬼とか訳分からないこと言うの、やめてもらえます?」
そんなものを必要としていない奴に、上っ面の言葉を投げたって意味が無い。だから俺は、自分の本音をぶつけてみた。
最初は、意表を突かれたのか、きょとんとしていた安倍だったが、徐々に唇を持ち上げ、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべる。
「まだ言うか。ガチガチの石頭め」
「その言葉、もう今日だけで聞き飽きました」
「事実なんだから、仕方が無いだろう」
言い合っていると、いつの間にか店の前に到着した。
「狐」
引き戸に手をかけると、開ける前に呼び止められる。
「なんですか?」
狐呼ばわりも、もう慣れてきた感があるのが嫌だななんて思って振り返れば、安倍は薄く笑っていた。
「これからも、僕の仕事を手伝え」
「…………は?」
「今日で分かっただろう? 僕は、妖連中に嫌われている。その点、君がいれば話がスムーズだ」
真意を読ませない男に「分かっただろう?」 なんて言われても、俺がいれば話がスムーズに進むなんて、少しばかり持ち上げられても、返す答えはひとつと決まっている。
「嫌です」
「なぜだ?」
即答したのに、安倍は引き下がらない。
俺は、この期に及んで「なぜ?」だなんて、分かりきったことを聞くなという内心を、そのまま、言葉にした。
「なぜだって、言われても……。俺……オカルトとか信じてないんです。そういう用語を聞くだけで、鳥肌もんなんで。アンタの手伝いとか、絶対無理です」
丁重なお断り文句だというのに、安倍はふんと鼻で笑った。
「このウソツキめ」
「――言ったはずですよ、俺は肉眼で見たものは信じないって」
「なら、眼鏡をしている今、上を見てみろ」
「上……?」
見上げれば、店の看板がそこに掲げられている。
「読み上げろ」
「はあ? ……ええと……さぼう、あきなし……」
なんなんだよと思いつつ、やる気も無くだらだら読み上げていると、味のある太字の下に、小さく何かが書かれていた。
目をこらし、その文字を声に出す。
「……うせものさがし……うけたまわります……!?」
「そう、この店自体が失せ物探しの依頼を受け付けているという事だ。――つまり」
にんまり。
企みが成功したかのように、安倍があくどい笑みを浮かべる。
「僕の手伝いは、従業員の仕事のひとつという事になるな。……今後も、励みたまえよ狐くん」
ぽんっと気安く俺の肩を叩いた安倍は、さっさと店内へ入っていく。
取り残された俺は、青い空の下で呆然としていたが、通りがかった車から、思い切り水たまりの水をかけられ、我に返った。
(今朝もあったよな、こういうこと! ……なんだよ、なんなんだよ……!)
また嫌味を言われるに違いない。
「ほんとにもう、何なんだよ……!!」
この状態を目にした奴の顔が容易に想像ついて、悔しいやら情けないやらで八つ当たりめいた独り言が口をつく。
すると、店内からマイペースな常連様が、俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
「狐、はやく来たまえ。店主が首を長くして雑用係を待っていたぞ」
「ああもう、今行きますよ!」
後を追うように店内に一歩踏み入る。
「おかりなさい、稲成くん。……さっそくですが、着替えてきなさい」
「……狐、君は本当に残念な男だな。学習能力が無いのかね」
「……スミマセン、キガエテキマス」
呆れた視線をふたりから向けられた俺のすぐそばで、風が悪戯したのか鈴が鳴る。
高く澄んだその音は、広い天井にのびのびと響き渡り、どこまでも伸びていくようだった。