わたしは一人ではなかった。夢飼いのマスターもバイト仲間も、わたしが笹山に違和感や危機感を持っていることを話したら、わかってくれた。笹山がストーカーと化するかもしれないと、わたしもまわりも思っていたから、夢飼いはわたしにとってシェルターだった。
竜也は部活仲間を連れて、よく夢飼いに来てくれた。一緒に食事をするという約束も、わたしがまかないを食べる席を弓道部のテーブルに用意してくれた。恥ずかしくもあった。でも、弓道部のマイペースな空気は案外、居心地がよかった。
笹山と別れた十一月が、精神的にも身体的にもいちばん壊れて沈んだ時期だったとすれば、そこからゆっくりと時間をかけて、わたしは、まともな世界へとよじ登っていった。
弓道部のつながりから、笑い合える顔見知りが増えた。竜也を含むカラオケ好きの人たちに誘われて、初めてオールのカラオケに行って、ふらふらになりながらファーストフードの朝ごはんを食べた。ゲーセンにも映画にも誘ってもらって、一緒に遊んだ。
この関係を、友達と呼んでいいのかもしれない。この感情を、楽しさだと認めていいのかもしれない。
声を上げて笑うことが、わたしは下手だ。おもしろいと感じることがあっても、口元を覆って声を殺しながら笑う。
でも、そんなふうではあってもわたしが笑っていることに初めて気付いたとき、竜也はじっとわたしを見て、泣き出しそうな目をした。
「そうやって笑ってる顔が、やっぱりいちばん好きです」
竜也はわたしを、まずは友達として、仲間として受け入れようと決めていたみたいだ。笹山の恋愛感情なのか何なのかわからないものに振り回されたばかりのわたしにとって、遊び仲間の距離感はありがたくて優しかった。
少しずつ、わたしはまともな形を取り戻した。書くこと、弾くこと、歌うこと。自分を表現するための言葉や音や声をたぐり寄せるため、集中力をキュッと高める。その緊張感が、だんだんと自分の中によみがえってくる。
何のために、やせたいと思ったのか。キレイでいたかった。カッコよくなりたかった。
じゃあ、キレイって何だろう? カッコいいって何だろう? 食べて吐いて、劣等感と吐瀉物でどろどろに汚れている姿なんかじゃ、絶対にないよね。
吐いた後の喉では、うまく歌えない。そんな当たり前のことを、竜也たちと行くカラオケで、今さらながらに実感した。BUMP OF CHICKENをもっとキレイに歌いたい。だったら、きちんと喉を開いて声を出せるように、もう吐いちゃいけない。
バラバラに壊れたものを一つずつ拾ってつなぎ合わせていくみたいに、おぼつかない足取りでゼロから歩き出したばかりみたいに、そんなふうにして、十代最後の冬を過ごした。
笹山からは逃げ回った。見方次第では、わたしはとんでもなく薄情だったと言えるだろう。でも、笹山の立場に考えをめぐらせるような余裕は、わたしにはなかった。四年生の笹山が卒業して響告市からいなくなる日を、ただ待ち望んでいた。
その卒業式の日が来るより前に、わたしは竜也と付き合い始めた。恋愛感情というより、信頼があった。
竜也の前でなら、カラオケで男性歌手の曲も歌えるし、短い髪にジーンズでも平気だ。笹山が相手だと、そんな自分らしい自分ではいられなかった。かわいい女にならないといけないみたいな、形のない圧力を感じていた。
違うんだ。わたしは、生物学的に女であることは否定しないけれど、女であるという事実を一つの記号にして、その記号にハマるものを与えられたり集めたりなんて、マニュアルどおりの進み方はできない。そんなんじゃ一歩も進めなくなる。
そのままでいいと、竜也は言ってくれる。
「蒼さんが男だったとしても、おれは蒼さんに惚れてたと思う。家族になりたいって言ったと思う。一緒に住んで、一緒に暮らしていきたいって」
竜也の、ちょっと冗談っぽく笑いながらの言葉は、わたしにも理解できた。
わたしは、女としてキレイになりたいと目指しているわけじゃないんだ。女だ男だって、そういうのはどっちだっていい。人間としてカッコよくなりたい。
竜也を好きな気持ちは確かにあって、でも、それが恋なのかどうか、わたしにはわからなかった。でも、初めて肌を重ねた後の、相手のことを全部許せるような安心感。痛みも苦しみもなくて、ただ一生懸命になって、気持ちよくて幸せだった。
だから、名前の付かない感情だとしても、これで正解なんだと思った。わたしも竜也も大人になって、年を重ねて、どんどん変わっていくだろう。けれど、わたしと竜也の間にあるものは変わらないんだろう。
大学二年生の冬、わたしは二十歳になった。永遠に終わらない迷路のようにも感じていた十代は、終わってしまった。いつ自分で自分を殺してしまうだろうかと恐れていたはずなのに、未来らしきものを手に入れてしまった。
そしてわたしは、それから十数年が経っても、まだ生き続けている。
竜也は部活仲間を連れて、よく夢飼いに来てくれた。一緒に食事をするという約束も、わたしがまかないを食べる席を弓道部のテーブルに用意してくれた。恥ずかしくもあった。でも、弓道部のマイペースな空気は案外、居心地がよかった。
笹山と別れた十一月が、精神的にも身体的にもいちばん壊れて沈んだ時期だったとすれば、そこからゆっくりと時間をかけて、わたしは、まともな世界へとよじ登っていった。
弓道部のつながりから、笑い合える顔見知りが増えた。竜也を含むカラオケ好きの人たちに誘われて、初めてオールのカラオケに行って、ふらふらになりながらファーストフードの朝ごはんを食べた。ゲーセンにも映画にも誘ってもらって、一緒に遊んだ。
この関係を、友達と呼んでいいのかもしれない。この感情を、楽しさだと認めていいのかもしれない。
声を上げて笑うことが、わたしは下手だ。おもしろいと感じることがあっても、口元を覆って声を殺しながら笑う。
でも、そんなふうではあってもわたしが笑っていることに初めて気付いたとき、竜也はじっとわたしを見て、泣き出しそうな目をした。
「そうやって笑ってる顔が、やっぱりいちばん好きです」
竜也はわたしを、まずは友達として、仲間として受け入れようと決めていたみたいだ。笹山の恋愛感情なのか何なのかわからないものに振り回されたばかりのわたしにとって、遊び仲間の距離感はありがたくて優しかった。
少しずつ、わたしはまともな形を取り戻した。書くこと、弾くこと、歌うこと。自分を表現するための言葉や音や声をたぐり寄せるため、集中力をキュッと高める。その緊張感が、だんだんと自分の中によみがえってくる。
何のために、やせたいと思ったのか。キレイでいたかった。カッコよくなりたかった。
じゃあ、キレイって何だろう? カッコいいって何だろう? 食べて吐いて、劣等感と吐瀉物でどろどろに汚れている姿なんかじゃ、絶対にないよね。
吐いた後の喉では、うまく歌えない。そんな当たり前のことを、竜也たちと行くカラオケで、今さらながらに実感した。BUMP OF CHICKENをもっとキレイに歌いたい。だったら、きちんと喉を開いて声を出せるように、もう吐いちゃいけない。
バラバラに壊れたものを一つずつ拾ってつなぎ合わせていくみたいに、おぼつかない足取りでゼロから歩き出したばかりみたいに、そんなふうにして、十代最後の冬を過ごした。
笹山からは逃げ回った。見方次第では、わたしはとんでもなく薄情だったと言えるだろう。でも、笹山の立場に考えをめぐらせるような余裕は、わたしにはなかった。四年生の笹山が卒業して響告市からいなくなる日を、ただ待ち望んでいた。
その卒業式の日が来るより前に、わたしは竜也と付き合い始めた。恋愛感情というより、信頼があった。
竜也の前でなら、カラオケで男性歌手の曲も歌えるし、短い髪にジーンズでも平気だ。笹山が相手だと、そんな自分らしい自分ではいられなかった。かわいい女にならないといけないみたいな、形のない圧力を感じていた。
違うんだ。わたしは、生物学的に女であることは否定しないけれど、女であるという事実を一つの記号にして、その記号にハマるものを与えられたり集めたりなんて、マニュアルどおりの進み方はできない。そんなんじゃ一歩も進めなくなる。
そのままでいいと、竜也は言ってくれる。
「蒼さんが男だったとしても、おれは蒼さんに惚れてたと思う。家族になりたいって言ったと思う。一緒に住んで、一緒に暮らしていきたいって」
竜也の、ちょっと冗談っぽく笑いながらの言葉は、わたしにも理解できた。
わたしは、女としてキレイになりたいと目指しているわけじゃないんだ。女だ男だって、そういうのはどっちだっていい。人間としてカッコよくなりたい。
竜也を好きな気持ちは確かにあって、でも、それが恋なのかどうか、わたしにはわからなかった。でも、初めて肌を重ねた後の、相手のことを全部許せるような安心感。痛みも苦しみもなくて、ただ一生懸命になって、気持ちよくて幸せだった。
だから、名前の付かない感情だとしても、これで正解なんだと思った。わたしも竜也も大人になって、年を重ねて、どんどん変わっていくだろう。けれど、わたしと竜也の間にあるものは変わらないんだろう。
大学二年生の冬、わたしは二十歳になった。永遠に終わらない迷路のようにも感じていた十代は、終わってしまった。いつ自分で自分を殺してしまうだろうかと恐れていたはずなのに、未来らしきものを手に入れてしまった。
そしてわたしは、それから十数年が経っても、まだ生き続けている。