死にたがりティーンエイジを忘れない

 問題が起こったのは、バイトが終わった後だ。
 夢飼いの裏手の駐輪場に、笹山がいた。まともな状態でないと、一目でわかった。笹山の目は異様にギラギラしていた。ひどく酔っているのかと、一瞬、思った。でも、酒の匂いはしない。

「蒼、うちに来い」
 押し殺した低い声に、酔っているのではないとわかった。激怒しているのだとわかった。いつだったかカフェでグラスを叩き割ったときと同じだ。

 肩をつかまれたと思ったら、背中が壁に打ち付けられた。息のかたまりが肺の中で弾けて、呼吸が止まる。
 キスをされた。いや、噛み付かれた。唇に。舌に。歯を立てられた箇所はもともと、吐いてしまうせいで荒れていた。笹山の口が離れていった後、口の中に血の味が広がった。

 笹山がつばを吐いた。血の味を消すように、何度も。
 胸に痛みと圧迫感があった。笹山の手がわたしの胸をつかんで押さえているせいだ。
 頭が真っ白になって、その後は、手首をつかんで引っ張られる痛みのほかは覚えていない。笹山の手は爪が伸びていて、わたしの腕にはいくつもの引っ掻き傷ができた。

 笹山の部屋は広かった。わたしの部屋の倍くらいありそうだった。
 わたしの背後で、笹山は玄関の鍵を閉めてチェーンロックまで掛けた。わたしはいつ靴を脱いだんだろう? 呆然と立ち尽くしていると、笹山はわたしの真正面に立った。

「どうしてボクとの約束が守れない? 夕方に会ってたやつ、誰? ずいぶん親しそうだったけど?」

 言ってはいけない、と直感的に思った。竜也のことを知られるのが気まずいとか、そういうなまやさしいものではなくて。
 この人が竜也の連絡先を知ったら、竜也に対してどんな言い方をするか、わからない。それが怖い。

 笹山はわたしに右手を差し出した。
「ケータイ、見せて」
「……イヤです」

「確かにね、恋人のケータイをのぞき見するのは、なかなかひどいことだ。でも、そんなことをボクに言わせる蒼が悪いよね? 蒼がボクとの約束を無視したせいなんだよ」
「ごめんなさい」
「ねえ、どうして? 自覚が足りないの? それとも寂しいの? 蒼はボクの彼女だよ。わかってる?」
「ごめんなさい」

「謝ってばっかりじゃわからないよ。蒼、どうしてほしい? ボクは蒼を愛してるのに、蒼がそんなふうじゃ安心できない」
「ごめんなさい……!」
「ああ、もう、そうだよ。ほんと、もどかしいよ。何で伝わらないかな? もっとしっかり、体に覚え込ませたほうがいいかな?」

 笹山の顔を見るのが怖かった。わたしは目をそらしていた。笹山の呼吸も語調も荒くなっていくのを、ただ固まったまま聞いていた。
 手加減のない力で、ベッドの上に押さえ込まれた。壊されて奪われることへの絶望感。わたしの心は凍り付いて砕けた。

 抵抗できなかった。声すら上げられなかった。他人の身に起きている出来事みたいに思えた。でも、体の上を這い回る湿った手のひらや、ぬめぬめした舌を、確かに自分の肌の上で感じた。体ごと引き裂かれるような痛みも、確かに自分のものだった。

 長い長い長い時間、痛くて苦しくて重たくて。泣き叫びたいのに声が出なくて、体を動かすこともできずにいた。
 体が動いたのは、明け方だった。まず、メガネを探して掛けた。それから、重たい体を引きずるようにして服を着た。

 笹山のほうはパジャマを着て眠っていた。シャワーを浴びに行く音が、そういえば聞こえていた。わたしは目を開けて、天井を眺め続けていたように思う。睡眠を取ったという感覚は、少しもない。
 ゴミ箱を見ると、血の色にまぎれて、避妊具がキレイに処理されて捨ててあった。笹山が避妊をしたのは優しいからでも気配りがあるからでもないと、わたしは感じた。用意周到さが不気味だった。怖かった。

 わたしは泣かなかった。怒りも憎しみもなかった。もちろん、喜びなんかあるわけなかった。心を凍らせておかなければ、と身構えるまでもなく、死んでしまったかのように、何も感じなかった。
 ただ、体の内側が傷だらけになったみたいで、痛かった。
 雅樹から電話が掛かっていた。何度も何度も。
 大学一回生の冬だ。後期の授業もテストも全部終わって、長い春休みに入っていた。雅樹からのメールや電話は、年が改まったころからときどきあった。メールは、来るたびにすぐ消去した。笹山に見られる前に。

 雅樹からの電話に出てしまったのは、うっかりしていたからだ。ちょうどメールの作成中で、文字変換の確定ボタンを押したつもりが、通話になってしまった。

〈もしもし? 蒼だよな? 生きてる?〉
 そんなこと言って、間違い電話だったらどうするつもりなんだろう?
「生きてるけど」
〈掛けても掛けても電話に出ないのは、あんまりだろ。どうかしたのかよ? 大学は行ってんのか?〉
「授業は出席してたよ。おもしろいし」

〈だよな。そういや、合格発表、昨日だったろ? 去年の今ごろは、響告大に落ちたおれは、さんざんな気分だったけど〉
「今は楽しいの?」
〈クラスの連中もサークルの仲間も、すごくいいよ。うちの専攻はほとんど男子校状態なんだけど、こういうのは楽だな〉
「そう」

〈蒼がたまに連絡取ってた一個下の、ホームステイで一緒だったっていう受験生は? 前に宣言してたとおり、響告大、受けたのか?〉
「合格したって」

 竜也は自宅で合否の連絡を待っていたらしい。今はウェブで合否がわかるけれど、それが全国的に始まったのは、確か二〇一〇年ごろだ。わたしや竜也のころは、合否を告げる速達郵便が自宅のポストに届くシステムだった。
 合格の通知を受け取った竜也は、まずわたしにメールをして、それから学校に電話を掛けたらしい。夜になって、改めて竜也から電話が掛かってきて、弾んだ声でそんなことを言っていた。

〈ひとみとは連絡取ってないの?〉
「取ってない」
〈あいつのとこ、都会すぎてきついって。おれら、もともと木場山のド田舎育ちだからな。ひとみはけっこう精神的に参ってるみたいで、春休みはずっと地元にいるって言ってた。新学期から本当に大学に復帰できんのかな?〉
「一人じゃいられない子だからね」

〈だよな。新しいとこでも、蒼みたいな相手ができりゃいいのに〉
「わたしはあの子のこと支え切れないと思った」
〈蒼と正反対だよな。蒼はもっと誰かに支えてもらえよって感じ〉
「いらない」
 雅樹は低い声で笑った。
〈変わってねぇな〉

 それは間違っている。わたしは変わった。「勉強すること」を軸に、いびつな形をどうにか保っていた「わたし」という人格が、もうバラバラになってしまった。
 小説を書いていない。ギターを弾いていない。本を読んでも、食べ物のことが頭をちらついて、すぐに集中力が切れる。じっとしていることが苦痛で、食べたい吐きたいという衝動に、あっという間に呑み込まれる。

 毎日、食べて吐いている。「これを食べたらやせる」というダイエットの知識が増えて、その反面、口にしても吐かずに済むものの数がどんどん減っている。もうめちゃくちゃだ。空腹感も満腹感も、あるはずがない。

 笹山と会うのは週末。別にどこかに出掛けるというのでもなく、あの広い部屋で過ごすだけだ。悲劇的な結末、後味の悪い結末を迎えるサスペンスの洋画をずっと観ていることが多い。不幸に浸り込む体験は刺激的なエンターテインメントなのだと、笹山は言う。

 わたしはそんなもの観たくない。映像は、文章と違って、情報を取り入れようと努力しなくても、絵も音も動きながら脳に飛び込んでくる。拷問や殺戮のシーンも、人が人を憎んで放つ呪詛のセリフも、鮮烈なインパクトでわたしの中に入ってくる。

 笹山がそれを楽しめるのは、今まで生きてきた中で何も不幸なことがなかったからなのか。わたしは、自分のぶんだけで精いっぱいなのに。
 洋画のDVDの後は、抱かれる。いつもまったく同じ流れだ。終わったら、笹山は必ずシャワーを浴びて服を着る。この儀式は何なんだろうかと、わたしはいつも思う。

 電話口で黙っているわたしに、雅樹は尋ねた。
〈あのさ。彼氏とか、できた?〉
「……うん」
〈そっか……どういう人?〉
「……どういう人なんだろ?」
〈何だよ、それ?〉
「いや、何ていうか……」

 雅樹がため息をつくのが、ハッキリと聞こえた。
〈おれらさ、あんまりマメに連絡取り合う間柄じゃないけど、蒼が妙に電話に出ないよなって、変に思ってたんだ。その何かよくわかんねぇ彼氏のせいってこと?〉

 どうなんだろう? 笹山のせいだけではないと思う。食べて吐いて食べて吐いて、やせることだけが気になって、集中力がなくなっている。こんな自分を、必死で突っ張って生きていた以前のわたしを知る人に、見せたくない。

 雅樹が、変に明るい声で言った。
〈もしおれが響告大に受かってたら、おれと蒼、なし崩し的に付き合ってたんじゃないかって気がするんだよな。昔から家族ぐるみで、お互いよくわかってんじゃん? 結婚とか、簡単にそこまで行っちゃったかもなって〉
「そう、かもね」

〈でもまあ、道はそんなふうに伸びてなかったわけで。おれ、入学前は、大学院で響告大に行きたいって思ってたけど、こっちの大学で最高におもしろい教授と出会っちゃった。この人んとこに行って、やってみたかった研究をやるよ〉
「もう将来のこととか考えてるの?」
〈そんなまじめなもんじゃねーよ。その教授、五十過ぎてんのに、研究の話をするときは小学生みたいなんだ。その楽しそうな様子見てたら、おれも一緒に楽しんでみたくなった。そんだけ」

 雅樹はクスクス笑った。
 楽しいって、何だろう? わたし最近いつ笑ったっけ? 営業スマイルさえ、作ると頬が痛む。中学のころも同じようなことがあって、全然笑わなかったから、頬の筋肉が動かなくなっていた。

 それからすぐに雅樹は電話を切った。
〈変な話になって、ごめん。まあ、会えるときがあったら、会って飯でも食おう。それじゃ〉

 わたしは、沈黙したケータイをしばらく見つめていた。そして、雅樹からの着信履歴を選択した。
 消去しますか? はい/いいえ。
 はいを選んで、誰かからの着信やメールを消去するとき、むなしくなる。むなしくて、自分がどうでもよくなって、頭の中がカッと真っ赤になって。

 食べたい吐きたい壊れたい暴れたい。
 衝動に勝てない。食パンを丸ごと一斤とか、スーパーの弁当を三つとか、ファミリーパックのフライドチキンとか、それを胃に流し込みながらジュース一リットルとか。異様な量を食べて食べて食べて、そして吐く。

 大学の授業がなくて暇なぶん、食べて吐く時間が増えた。苦しくてたまらない。みじめで、顔を上げて歩けない。吐いた後は体重計に乗る。減ることはもうなくなってしまって、増えてさえいなければ、とりあえず自分を許しておける。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 胃液で傷んだ喉に、パンに入っていたクルミが引っ掛かった。ザクリと裂けた感触。吐くと、パンのなれの果てと一緒に、血があふれてきた。
 傷の痛みも血も、なかなか止まらなかった。食べたい、吐きたい、でも痛い。つばを飲み込むだけで、ひどく痛い。血の味が口のほうへ上がってくるのがキモチワルイ。

 三日間くらい、イライラしながらも食べられなくて、鎮痛剤を飲みながら、じっと過食嘔吐について考えていた。
 食べたい吐きたい。その狂った衝動を満たすために、かなりの金額をつぎ込んでいる。バイトで稼いだお金で食べ物を買って、それをトイレに捨てる毎日。食べなければ、お金はたまるのに。

 吐いたものに含まれる消化液のせいなのか、便器には変な垢がこびり付いている。以前ネットで読んだ過食嘔吐の実話小説によると、その著者は、胃酸のせいで下水管がボロボロになるほど毎日吐いていたらしい。このマンションは大丈夫だろうか。

 すぐ頭が痛くなるから、鎮痛剤はよく飲んでいた。残りが少なかったから、ドラッグストアに買い足しに行ったとき、睡眠導入剤を見付けた。使ってみようと思って、買った。

 ついでに、ドラッグストアの食品コーナーに回ったとき、金髪でガリガリの女性がいた。食べ物をいっぱいに入れたカゴを、指輪だらけの手で持っている。中指の付け根に、吐きダコがある。あの人もわたしと同じだ。食べて吐いている。
 でも、彼女のほうがわたしよりずっと細かった。一心不乱に食べ物を選んでカゴに入れている。たとえ声を掛けたとしても気付かないだろう、と感じた。常軌を逸した行動って、はたから見ると、あんなふうなんだ。

 彼女の金髪の隙間から、たくさんのピアスが見えた。チラッとのぞいた手首には、真っ赤な傷のラインがびっしりとあった。
 わたしはまだ、なまやさしい。それは安心感のような失望感のような、ぐちゃぐちゃした気持ちだった。わたしは彼女ほど壊れていないから、まだまともになれるかもしれない。わたしは彼女みたいにもなれない、中途半端な人間だ。

 食べ物を買う気が失せた。どうせ喉も痛むし。代わりに、ピアスホールを開けるための道具を買った。部屋に帰って、衝動に任せて両耳に穴をうがった。ガシャン、と耳元で音がして、ズンズンと芯まで響く鈍痛が生まれた。あごのリンパがたちまち腫れた。

 夜、眠れなくて寝返りを打って、耳の傷の痛みで跳ね起きた。傷口から血が染み出して髪にこびり付いていた。肩よりも長くなった髪は、毛先が荒れている。シャンプーを変えてみても髪質はよくならないし、フケも出ていた。
 髪の主成分はタンパク質だ。頭皮もそう。健康な髪や頭皮を望むなら、動物や植物、いろんな食品由来のタンパク質をバランスよく取る必要がある。豆乳とヨーグルトときなこを、変な宗教を信じるみたいに盲目的に摂取するだけのわたしが、キレイな髪を保てるはずもなかった。

 体はどんどん不健康になっていった。いつもだるくて寒くて、髪も肌も荒れていて。細いか太いかといわれれば、確かに細い部類だけれど、ファッションモデルみたいに脚は細くなかったし、つねに胃に鈍痛があったから背筋を伸ばせず、立ち姿はキレイじゃなかった。

 理想を言えば、食べたくないし吐きたくない。でも、喉の内側の傷が治ると、わたしはまた食べて吐いた。胃がどんどん大きくなってしまって、最初はストレス発散になっていた量を食べてもまだ物足りなくて、過食の度合いがひどくなっていく。

 そもそもわたしのストレス源って何だろう? 中学時代から引きずってきた心の闇みたいなもの? わたしと何もかも価値観の違う笹山の存在? 小説を書いたりギターを弾いたりしなくなった自分へのいらだち?
 わからない。食べたい食べたいと頭の中が暴走している間は、何が原因なのかなんて、本当にどうでもいいんだ。全部を忘れて、発作のただ中にいる。病んだ自分が情けなくて情けなくて、いっそのことどうして死んでしまわないのかと思う。

 そうだ。もう死にたい。

 ある日、衝動的に、買い置きの薬を全部飲んだ。睡眠導入剤と鎮痛剤と風邪薬と酔い止め薬をあるだけ全部、一気に。
 どうなるのか試してみたかった。しばらくは何ともなかった。腕にカミソリで赤い線を引いてみたりして、何かが起こるのを待った。

 三十分くらい経ったころから、だんだん体に力が入らなくなっていった。頭がボーッとして、呼吸が鈍くなっていく。まぶたが重く、体の芯がぐにゃぐにゃになった。座っていられなくなって、わたしは冷たい床に倒れた。

 眠い。このまま眠れば、それっきりになるのかな。
 怖いとか、そういうのはなかった。それを感じたり考えたりするにはもう、頭が鈍くなりすぎていた。

 わたしは眠った。どれくらい眠ったのかわからないけれど、吐き気が、わたしの意識を覚醒させた。自分で吐くときとは比べ物にならないくらいの、猛烈な吐き気。胃が裏返って暴れ出したかのような、どうしようもない気持ち悪さ。
 起き上がろうにも、体は脱力したままだった。無理やりトイレに這っていって、舌が痺れるほど苦い薬の残骸を、胃の中の消化液と一緒に吐いた。喉が焼ける感触。吐いても吐いても、気持ち悪さは収まらなくて、ひたすら苦しかった。

 体じゅうが冷えて、震えが止まらなかった。呼吸したいのに、うまく胸が動いてくれない。つらい。どうしてこうなった。何で吐き出してしまうんだ。ものを胃の中に留めておけない、いつもの衝動のせいなのか。

 吐けるものを吐き尽くして、どうにか状態が落ち着いた。わたしは疲れ果てて、胃液で傷んだ喉を潤すこともできずに、こたつに入って寝た。
 次に起きたときは、一日半が経過した昼間だった。体調はひどかったけれど、わたしは生きていた。何も考えず楽に死ぬ方法なんて、ないらしい。
 バイトは休みが続いていた。夢飼いは学生相手の定食屋だから、学生が春休みの期間には利用者が減る。バイトのシフトも当然、少なくなる。
 何も予定が入っていないのは、わたしにとっては休息にならなかった。一人の時間が増えると、食べて吐くか、ピアスを開けるか、腕を切るか、そんなことばかりしてしまう。

 薬を吐いてしまって以降、睡眠導入剤や鎮痛剤の効きが鈍くなったように感じた。一度に飲む薬の量が増えた。三月下旬だというのに、わたしはいつも寒くて震えていた。

 その日ドラッグストアに行ったのは、食べ物を買うためだった。カゴを手にして店内を徘徊し始めたときだ。
 唐突だった。音が、わたしの全身を貫いた。アップテンポな轟音の乱舞、爽やかに明るい曲調。

 その瞬間まで有線放送の店内BGMが流れていることさえ気付かなかったのに、曲が始まった瞬間に空気が変わった。音量が上がったわけではなかっただろうし、知っている曲だったわけでもなかった。けれど、なぜだか、その曲はわたしをとらえた。

 しなやかに伸びる、少年のように尖った、不思議な声だった。強がるみたいなロックサウンドを背景に「彼」は歌った。
 包帯で無理やり覆い隠したわたしの心に、ずかずかと踏み入ってくるような歌だった。

 感情なんてないふりをして、そのくせ本当はひそかに傷付いている寂しがりやの女の子。怖がらずに、正直な笑顔や涙をどうか見せてほしい。受け止めるから。
 そんなふうに「彼」は歌う。

「何、言ってんの……?」
 ふざけんじゃないよ、と思った。怒りが湧いた。

 何を勝手なこと言っているんだろう? 何さまのつもり? 優しさのつもり? あんたに何がわかる? 一人で平気だって、必死で心を凍らせてきた。そうやってどうにか自分を守ってきたのに、何で全部明かしてみせろなんて言う?
 煮えくりかえる感情が、涙になってあふれた。全身を揺さぶる音と声に、あらがえなかった。我を忘れるほど衝撃的な歌だった。

 わたしは、気付いたら部屋にいて、ネットで調べていた。
 二〇〇四年三月リリース。BUMP OF CHICKEN『アルエ』。すでにリリースされていたアルバム『FLAME VEIN』からのシングルカット。彼らの通算七枚目のシングル。

 BUMP OF CHICKENの曲を片っ端から聴いた。素裸の心をさらして歌う痛みが、わたしの胸に突き刺さった。
 そうだったのか。「彼」のほうこそ、生きる意味を探して苦しんでいる。孤独の形を知ろうとして、音と言葉を求めている。だから、心の包帯をほどいて血の赤さを目撃したいと望むんだ。その赤色が、自分の心の流す赤色を同じであるかどうか、見てみたいから。

 彼らの唄を聴きながら、わたしは、悲しいわけではなかった。何を感じているのか、わけがわからなかった。でも、わたしは声を上げて泣いた。
 わたしも言葉を綴りたいのに。唄を歌いたいのに。物語を描きたいのに。誰かの心と共鳴したいのに。
 どうしてわたしは、自分で掘った暗い穴の底に落ちていくような、こんな毎日を送っているんだろう?

 みじめだった。でも、わたしはBUMPを聴き続けた。聴いている間は、過食や自傷の衝動は起こらなかった。彼らはわたしにとって、ようやく出会った小さな救いだった。
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 大学二年生に進学して、十九歳。十代の自分というものがあと一年も存在しないのだと思うと、ただ不思議だった。どうしてわたしはまだ生きているんだろう?

 入学したばかりの竜也から「一緒に食事でも」とメールをもらっていた。断ったほうがいい。いや、断るべきだ。わたしは笹山と付き合っている。ほかの男と会うべきではない。本当は連絡を取ることだって、よくない。竜也の連絡先も消したほうがいい。

 でも、わたしは竜也とのつながりを断つことができなかった。笹山に見付かったらまずいのに、四月の終わり、大学から離れたエリアにあるカフェで竜也と会った。
 お昼時だった。竜也はちゃんとランチを頼んだけれど、わたしは飲み物だけにした。竜也は眉をひそめた。

「蒼さん、体調悪いんですか?」
「食欲がないだけ」
「ほんとに? 食べられるものだけでもつまんだら?」
「平気。朝ごはん、遅かったし」

 カフェのメニューは、バターやドレッシングや生クリームなどの脂肪分がたっぷり入ったものばかりだ。食べたら吐いてしまう。
 吐くことは、わたしにとって、みじめで病んでいて汚い。竜也と一緒に食事をして、その食事を吐いてしまったら、竜也を汚すことになるような気がした。それはイヤだった。

 竜也はサークルではなく、正規の部活に入ったらしい。高校時代にやっていたという弓道。バイトは個別指導塾。

「塾のバイトをさっさと決めといてよかったんですよ。おれ、変な宗教の勧誘を真に受けちゃって、引き込まれかけたんですけど、塾のバイトの先輩が救出してくれたんです」
「毎年一定数の新入生が入信しかけるんだって。お人好しがそういうのに引っ掛かる」
「お人好しってのは、自分でもわかってるんですけどね。バイトにも部活にも法学部の先輩がいて、次また『命懸けのお願い』を赤の他人にされたときは、ひとまず自分に相談しろって」

 苦笑いする竜也は、新生活での発見を生き生きと語ってくれる。わたしは笑ったし、自分のときの話もした。すぐに喉が嗄れた。咳払いを繰り返すと、竜也は食事の手を止めて真剣な顔つきになった。

「やっぱり体調悪いんじゃないですか?」
「何でもない」
「でも」
「普段あんまりしゃべらないから、何か喉が疲れた」
「歌ったりとかは、もうしてないんですか?」

 痛いところを突かれて、わたしは竜也から目をそらす。
「まあ……聴くほうが多い。BUMP OF CHICKENってバンド」
「あ、軽音部の友達が、すげーいいって言ってたバンドだ」
「この間、初めて聴いたの。聴き始めたばっかりって感じ。二〇〇一年にリリースした『天体観測』で一気に有名になったらしいんだけど、わたし、高校時代はテレビもラジオも触れてなかったから」

 わたしはまた声がかすれて、咳払いをした。夢飼いでのバイト中もよくこんなふうになるから、大丈夫なのかと、マスターや先輩たちに訊かれる。大丈夫です、というわたしの返事はとても空っぽだ。

 竜也が食事を終えて、セットドリンクのミルクティーをもらった。わたしは二杯目のブラックコーヒー。わたしは、大丈夫かと訊かれて大丈夫と返すときみたいに、空っぽな気持ちで竜也に言った。
「もう食事とか誘わないで。わたし、彼氏いるから」

 竜也がどんな顔をしたのか、わたしは見ていない。知りたくなかった。竜也は少しの間、黙っていた。
 固まっていた空気が、再び動き出す。竜也は、乾いた声で笑った。

「そうだったんですね。じゃあ、今日、迷惑だったですよね。すいません。彼氏さんに謝っておいてください。あの……彼氏さんって、どんな人なんですか?」
「どんな人、なんだろ……」
「え? えっと、共通の趣味があって知り合ったとか、何か、どんな感じなのかなって思って」
「あの人の部屋、本がない。音楽もなくて、学部も違って。あの人が好きな映画、わたしは、どこがおもしろいのかわからない」

 つい今しがたまで笑っていられたのに、もうダメだ。笹山のことを話し始めたとたん、竜也と二人で食事をしているという今の状況が、たまらなく苦しくなった。苦しみをできるだけ抑えるために、わたしは急いで心を凍らせて、その動きを止める。

 笹山の部屋には、金曜、土曜、日曜の夜に泊まりに行く。来いと言われるから、抱かれに行く。掃除や洗濯を少しする。昼間から夕方にかけては、笹山が出掛けることも多いから、わたしも自分の時間を過ごす。たいていバイトを入れる。

 いつ、どんな会話があるだろうか。何もしゃべっていないかもしれない。やるべきことが決まっているから、その流れに従うだけだ。安定感はあるんだと思う。抱かれても気持ちよくはない。最初のころほどの痛みはなくなったから、それでよしとしている。

 口数の少なくなった竜也は、別れ際になって、わたしに尋ねた。
「蒼さん、彼氏さんとうまくいってます?」
「たぶん」
「じゃあ、何でそんな、笑わないんですか? 彼氏さんと一緒にいて楽しいですか?」
「楽しいって、何?」
「え?」
「……ごめん。今の、忘れて」

 カフェの前で竜也と別れた。それから半年くらい、竜也との音信は途絶えた。夏のホームステイの誘いもなかった。
 わたしは何の変化もなく笹山と付き合っていたし、食べたい吐きたいの衝動はどんどんひどくなっていった。体の傷もピアスホールも、ふと我に返ると増えているという、そんな精神状態だった。

 書けないし歌えないし弾けないし、こんなんじゃ生き続ける価値もない。BUMP OF CHICKENのひりひりして優しくて傷だらけなサウンドを聴いて正気に戻るたび、あまりにみじめな自分が情けなくて、ひたすら泣いた。
 中学時代、いじめのはびこる中で闘わなければ生きられなかったときは、必死で涙を封じてきた。なのに、志望校に合格して、念願の一人暮らしで、彼氏もできて。はたから見たら決して不幸なはずのない今、わたしは病んで涙が止まらなくなっている。

 壊れるなら、もういっそのこと、発狂して何もかもわからなくなってしまいたい。
 胸に傷を刻んでみても、なかなか心臓には届かない。届かないのがわかっていて、また傷を重ねてしまう。睡眠導入剤や鎮痛剤は、耐性がついたようで、普通の量を飲んでも効かなくなった。ますます死ににくくなってしまったのかな、なんて思う。

 死にたかった。死にたかった。死にたかった。
 だったら死ねばよかったけれど。
 ただ何となく生き続けてしまった。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 次に竜也から連絡があったのは、確か十一月だ。学園祭が十一月下旬に開催されるから、クラスで出店の話し合いをしている時期だった。
 竜也は、十五分でいいからと電話口で言って、わたしを学食に呼び出した。切羽詰まった口調なのが気になって、わたしは竜也の呼び出しに応じた。

 顔を合わせるやいなや、竜也は一枚の紙をわたしに見せた。
「蒼さんの彼氏さんって、この人ですよね?」
 A4サイズの用紙に、写真がカラー印刷されている。写っているのは確かに笹山だ。オシャレな居酒屋のテーブル席で、笹山は、酒の入った赤い顔で笑っている。

「何でこんな写真を?」
「蒼さんが彼氏さんといるところ、何度か見掛けたことあったんです。たぶん彼氏さん、おれのマンションのすぐ近所に住んでますよ。顔、すぐ覚えました」
「そう」

「この写真は、部活の先輩経由です。おれがだまされやすいからって、変なサークルに引っ掛からないように、からかい交じりなんですけど、ヤバいサークルを教えてくれてて」
「ヤバいサークル?」

 笹山が入っているのは、格闘技をテレビやDVDで観戦する緩いサークルだ。そのはずだ。確か、LOVEコングというサークル名で。

「このサークル、しょっちゅう合コンしてますよ」
「合コン?」
「女の子と会って、その、どこまでやってるのかとか、おれはわかんないですけど、会ってるのは事実で。サークルの掲示板、あるんです。写真のリンクも貼ってあって、それで」
「この写真も、掲示板で?」

 当時の掲示板というのは、今でいうラインやツイッターなどのSNSだ。LOVEコングの連絡用掲示板は裏サイトでもパスワード制でもなかったから、ツイッターの公開状態で内輪の話し合いをしていたようなもの。
 竜也は本当に十五分で話を切り上げて、顔を曇らせながら自転車で走り去った。わたしにこのこのを伝えるかどうか、一週間くらい悩んだらしい。

「おれでよければ、話とか、聞きますから」
 竜也がわたしに言ったのは、それだけだった。笹山に対して何を思ったか、そういうことは一言も口にしなかった。

 家に帰って、竜也が言ったとおりのアドレスをURLバーに打ち込んでみると、あった。アカウントの一つが、笹山の好きな映画監督の名前だった。椎名林檎の歌詞みたいな漢字変換の癖から見ても、笹山で間違いない。

 ぷつん、と何かが切れた。自分の単純さがバカバカしいけれど。何というか、本当にもう、どうでもよくなった。
 合コンに行ったことが浮気なのかどうかわからない。浮気だとしたら別れればいいのか、その適切な対応のやり方もよくわからない。そもそも浮気の定義って何なのか、わからない。

 笹山とおぼしきアカウントは、掲示板に「彼女に傷付けられた話」を書いていた。わたしが竜也と会ったり連絡を取り合ったりしたことだとすると、時期的に一致する。掲示板ではそれが浮気だと断言されている。
 わたしは、できるだけシンプルでいたい。ゼロでよかったのに笹山が現れて、竜也もいて、そこからまた悩まなければいけないことが増えて。

「いらないんだってば」
 面倒くさい。本当に面倒くさい。
 誰とも会いたくない。誰とも関わりたくない。もう何も期待されたくない。誰かの理想どおりになんて動きたくもない。失望させないようになんて、そんなに優しくなれるはずもない。

 わたしは衝動に任せて、LOVEコングの掲示板に書き込んだ。
〈彼女がいるのに合コンに行く人って何なんですか? 浮気って、異性と話をしたら浮気になるんですか? 彼氏彼女はどこまで相手を束縛していいんですか? 束縛されなければならないという義務はあるんですか?〉

 恋愛なんて、意味がわからない。答えの出ないこんなものに振り回されたくない。
 わたしは、目に付いた美容室に駆け込んで、背中まで伸びた髪をバッサリ切った。

 頭が軽くなると、笹山の言いなりになっていた自分が、あまりにもくだらなく思えた。嘲笑ううちに胃がキリキリ痛くなって、食べてもいないのにコンビニのトイレで吐いた。吐いて吐いて、疲れ果てて顔を上げると、頭がガンガン痛んだ。
 たまたまバイトのない日だった。鎮痛剤と睡眠導入剤を飲んで、何も食べずに寝た。

 翌日のことだ。普段は週末にしか会わないのに、平日の夜のバイト上がりに笹山から部屋に呼ばれた。用件はもちろん掲示板のことだ。
 わたしが部屋に着くなり、笹山は不機嫌そうな顔で言った。
「どうして髪を切ったの? ボクは、伸ばしてほしいって言ったよね?」
 わたしは答えなかった。言葉が、笹山の前では形を持たない。

 自分の気持ちを相手に伝えることは、どんな場面であってもエネルギーを使う。わたしは、笹山のためにエネルギーを使おうと思えずにいる。いつからだろう? 最初はもうちょっとまじめに努力していたはずなのに。

 笹山が好きな映画を、わたしは同じように楽しむことができない。不幸なサスペンスを「楽しむ」という行為に対して、嫌悪感を覚えてしまうことさえある。「このおもしろさがわからないなんて」と笹山に言われたせいで、引け目を感じてもいる。
 そう、つまり感性が全然違うから、何を話したとしても、会話が成立しない気がする。だからわたしは、笹山の前では言葉を放棄している。

 笹山は不機嫌そうに、それでもわたしを抱いた。儀式のように、いつもとまったく同じ流れで。その行為にどんな意味があるのか、麻痺し切った感覚では、もう何もわからない。
 全部終わってシャワーを浴びた笹山が眠りに就いた後、わたしは服を着て部屋を出た。真夜中と夜明けのちょうど中間のころ。歩道の信号機は光を消して、車道の信号機は赤や黄色の点滅を繰り返していた。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 竜也から「ごめんなさい」だらけのメールが届いた。ハッキリとは書いていなかったけれど、わたしが掲示板に書き込んだコメントを見たらしいと、文面から推測できた。
 水曜日の夕方だった。わたしが唯一、午後をまるまる全部空けている曜日。ほかはビッシリと授業でコマを埋めているのだけれど。

 普段なら、食べて吐いて食べて吐いてを繰り返しているころだ。でも、その日は何だか頭がふわふわする感じで、体はひどく重たくて、何もしたくなかった。カーペットの上に転がって、ぼんやりしながら、竜也に電話を掛けた。

 竜也の慌てた声が聞こえた。
〈も、もしもし? 蒼さん、どうかしました?〉

 どんな受け答えをしたんだったか。少しの間、一応まともな会話をしたことは何となく覚えている。その直後、急に、異様な状態が始まった。心臓の打つリズムがおかしくなって、何かすごくキモチワルイ大きなモノが背筋を這い上っていく感触があって。

 わたしは、竜也がしゃべっているのをさえぎった。
「竜也」
 名前を呼ぶ舌がもつれる。竜也が返事をしたみたいだけれど、言葉がわからなかった。
「竜也、来て。おかしい。頭が……」

 背筋を這い上がってきたモノが頭に達して、脳みそごと、ぶわっと膨れ上がった。そんなふうな、猛烈にキモチワルイ感触。
 手足の先から順に、体が痺れながら硬直していく。わたしはケータイを取り落とした。背筋がビシビシ音を立てながら、腰から首のほうへ向けて固まっていって、そして。

 バチン! 頭の中で何かが弾ける音を聞いた。
 悲鳴を上げたと思う。凄まじい頭痛に襲われた。痛みが拍動する。脳みそが熱暴走しながら膨れ上がって、今にも頭蓋骨を破裂させてしまいそうな、激痛と異物感。

 視界にある光がひどい刺激になって、頭痛を増幅させる。自分の体の中の音が、鼓膜の内側で爆発的に鳴り響いている。吐き気がする。体じゅうの強烈な違和感に付いていけず、あまりにもキモチワルイから、胃がのたうっている。

 とにかく頭がどうしようもなく痛くて、わたしは床の上で、もがいていた。痛みには波があった。耐えられないほどの大波に呑まれて、こんなに痛いならさっさと死にたいと思って、頭を抱えて体を丸めて、痛みが緩んで、また次の大波が来て。

 たびたび気が遠くなりながら、玄関に這っていって、ドアの鍵を開けた。外に出ないと死んでしまう気がして、何かから逃れたくて必死だった。
 玄関フロアと廊下とキッチンが一緒になった狭くて冷たい空間で、わたしはそのまま倒れていた。しばらく気を失っていたらしい。

「……さんっ、蒼さん! 蒼さん!」
 呼ばれて、目が覚めた。拍動する激痛は、まだ頭の中に居座っている。
 竜也がそこにいた。わたしの肩に手を掛けて、見たことのない切羽詰まった表情で。

 わたしはきつく目をつぶった。まぶたの隙間から刺さってくる光が、頭痛を増幅させる。吐き気がする。いつの間にか手に握りしめていた台所用のタオルを口に当てて、こみ上げてきた胃液を吐いた。

 竜也が何かを言って、それがまともな言葉だとはわかるのに、わたしはまともでない言葉を返してしまう。それをどこか離れた場所から見ている自分がいるような、異様な状態。そして、ひたすらに頭が痛い痛い痛い。

 結局どんな受け答えを経てそうなったのかわからないけれど、気付いたら、わたしはタクシーで病院に向かっていた。竜也に支えられながら、途中のコンビニでもらったレジ袋の中に何度も吐いて、病院に着いてからはストレッチャーに乗せられた。

 血液検査、尿検査、MRI検査、聴診、胃カメラ。その場でできるひととおりの検査をして、痛み止めと水分補給の点滴を打たれた。検査の結果は、胃が荒れていることのほかは、特に異常なし。
 検査を受ける途中から、頭の激痛はだんだんと引いていった。痛みに備えて体にギュッと力を入れていたせいで、全身が疲れ果てていた。関節をあちこち傷めて、その痛みがじわじわとつらかった。
 しばらく眠って、目を覚ましたら、竜也がベッドのそばのパイプ椅子に腰掛けて、じっと床を見ていた。眉間にしわを寄せた難しい顔。一緒にミネソタの夏を過ごしたころに比べて、ずいぶん大人びた。
 わたしが目を開けたことに、少し経ってから竜也は気が付いた。竜也は笑みを作った。目元にも頬にも、クシャッとしわができた。

「もう落ち着いたみたいですね」
「うん。迷惑かけた。ごめん」
「びっくりしました。おれの高校時代に蒼さんと何度か手紙をやり取りして、おかげで住所がわかってたんで、駆け付けられましたけどね」
「ああ、そっか」

「死ぬほど心配しました。ほんとに。何の病気かと思ったら、数値的には異常なしって……何もわからないって、それはそれで怖くて」
 竜也の声は途中から震えて、微笑んだばっかりの目元に涙がにじんだ。

「原因、ないわけじゃないと思う」
「どこか悪いんですか?」
「きっと、自分で自分の体をボロボロにしてきたせいだ」

 白い天井。まだ終わらない点滴。遠くで人の行き交う足音。今、何時なんだろう? カーテンで仕切られた向こう側にも、わたしと同じように点滴を受けている人がいるんだろうか。
 喉が渇いていた。つばを飲み込むと、さっき吐いた胃酸で荒れた食道と、ピアスホールを開けたせいで腫れた喉のリンパが、別々の痛み方をした。

 竜也が、点滴につながれたわたしの腕を見下ろした。
「体をボロボロにって、腕の切り傷のことですか? 耳も、ピアスがいっぱいになってて」
「……うん」

「誰も何も言わないんですか?」
「いつも長袖で、傷を人に見せないようにしてる」
「でも、彼氏さんは見るんでしょう? 叱られませんか?」
「何も言われたことない。傷も、ピアスも」

「変でしょう、それ。おれなら蒼さんのこと叱りますよ。何で自分を傷付けてしまうのか、話を聞かせてほしいって言いますよ」
「何も言われないの。この傷も何もかも、もう癖になってて、自分ではどうしようもない」

 天井がにじんだ。息が苦しかった。まぶたを閉じたら、目の上に無理やり乗っかっていた涙が、目尻から流れて落ちた。

「蒼さん、次に腕を切りたくなったら、おれを呼んでください。おれの腕、貸すから。ボロボロにしてくれて、全然いいから」
「そうじゃない。違う」
「どこが、何が違うんですか? 人を傷付けたくない? 自分の傷はよくても、おれの腕を切るのはイヤだ?」

「だって、人を傷付けたいなら、とっくに暴れて、事件とか起こして……何でそうならなかったのか、自分でも不思議だけど」
「おれもイヤなんですよ。蒼さんの腕がそんなふうに傷だらけなの、イヤです。好きな人が苦しんでるのを知ってて、そのまま見て見ぬふりって、絶対イヤです」

 点滴の管が刺さっていないほうの腕で、わたしは自分の目元を覆った。竜也はしばらく黙っていて、それから、わたしの手のひらに硬く四角いものを触れさせた。ケータイだ。

「ここ、響告大の附属病院なんで、医学部の先輩たちが検査の助手とかしてて、蒼さんの実家に連絡入れたほうがいいってアドバイスもくれて、おれ、勝手に蒼さんのケータイいじりました。すいません」
「……うん」
「ご両親、今度の休みに様子見に来るっておっしゃってました。後でまた連絡してみてください」
「わかった」

 竜也はちょっと言いにくそうに続けた。
「彼氏さんにも連絡したほうがいいかなって思ったんだけど、迷ってるうちに、連絡しそびれて」
「あの人には何も言いたくない」
「何で?」

「さあ……何でだろう? 何で、こんなにねじれてるんだろう?」
「ねじれてる?」
「あの人といても、しゃべらない。笑わない。あの人の部屋で家事とセックスだけして、わたしはそのためだけの存在みたいで、こんな自分がけがれてるように感じられて。何かもう、イヤだ」

 初めて声に出して言った。わたしを好きだと言った竜也の前で、わたしはひどい言葉を吐いている。

「けがれてないですよ。傷付いてるだけでしょ」
「違う。わたし、めちゃくちゃなんだよ。リスカやピアスだけじゃなくて、体がおかしくなった直接の原因はたぶん、睡眠導入剤とか大量に飲み続けてきたせいだし、摂食障害で、まともな食事が取れてなくて……」

 限界だった。今まで誰にも言えずにきた、壊れた毎日のことを、わたしは竜也に明かした。
 病んでいる、狂っていると、自分を責め続けてきた。みじめなところから這い上がりたくても、食べたい吐きたいという衝動に、すぐに呑まれた。そうじゃなかったら、ナイフで腕に赤い線を引いて、流れる血をじっと見ていた。

 やせたいとか、美しくありたいとか、醜い自分は認めたくないとか。ダイエットから摂食障害におちいった、目に見える理由はそのあたりにあるとしても。
 そもそもわたしは、自分で自分を許していないから、自分を追い込んで自分を傷付ける。なぜ許せないかというと、何一つ楽しくない学校という世界があったから。

 中学二年のとき、智絵がいじめられるのを止めることができていたら、その後のわたしの人生も大きく変わっていただろう。でも、そんな「もしも」を言ったところで、何の実りもない。
 現実はこうだ。死にたい死にたいと中途半端なことを願いながら、薬を飲んで眠っても、激痛で病院に運ばれても、生きている。みじめだけれど、痛みが去ったことにホッとして、助けを求めて竜也にすがって。

「蒼さん、ギターの練習、再開してくださいよ。言えずにいたけど、おれ、大学の入学祝いで、カホン買ったんですよ。ドラムの一種のカホン」
「え?」
「カホンとギターだったら合わせられるから、蒼さんと一緒にできることが何かあればいいなと思って、ちょっと練習してて。だから、蒼さんもギター弾いてくださいよ」
「……もう忘れた」

「ギターも、小説も。やりたいことやったらいいじゃないですか。今の蒼さん、楽しむことを恐れてるみたいだ」
「怖いよ。楽しいって気持ちに、罪悪感がある」

「楽しいは正義ですよ。楽しめばいい。過去にとらわれないで。蒼さんが今、苦しんだとして、それで蒼さんの大事な人が救われるんですか?」
「わかってる。理屈はそうだと思う。でも……」
「苦しいほうへ苦しいほうへ、わざわざ行かないでください。一緒にいて楽しくない人となんて、一緒にいなくていいと思います。別れて、おれと付き合ってください」

 竜也は正しい。当たり前で、だからこそ残酷だ。わたしには当たり前の判断ができないんだと、それをハッキリと突き付けてくる。
 痛い、痛い、痛い。血と膿がたまって腐りかけた傷に、ざっくりとナイフを刺し込むみたいに。

 でも、その鮮やかな痛みが、まぶしいくらい明白に示している。わたしはこれからどうするべきなのか。
 どうせ痛むのならば、病んだところを全部切り落とすための痛みを選びたい。ずるずると病みを深めていくだけの、そんなみじめなぬるま湯は、もうイヤだ。

 点滴が終わると、タクシーで家まで帰った。治療の費用は、親の口座から引き落としてもらう手続きを取った。竜也はわたしを部屋まで送って、自転車に乗って帰っていった。
 わたしは、ぐったり疲れ果ててベッドに沈みながら、笹山にメールを送った。

〈大事なお話があります。どこか外で会って話したいです〉
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 笹山と外食をしたことなんて、何度あっただろう? 一緒に食事をすること自体、めったになくて、それはわたしにとっていいことだったのか悪いことだったのか、よくわからない。

 竜也は、わたしがうまく食事を取れないと打ち明けたとき、すぐに言った。
「一緒に飯食いに行きましょう。蒼さんが食いたくないものは、おれが食うから。食事の時間が合うときは全部、一緒に食いましょう」

 人目のある間は、例えば大学では、わたしは吐かずに済んでいる。部屋で一人になるのがダメだ。だから一緒にいればいいだろうと、竜也の出したシンプルな答えこそがすべてだった。わたしは誰かに助けてほしかった。

 精神的におかしいと自覚していても、わたしは病院に行かなかった。風邪をひいたら抗生物質を飲めば治るみたいな、そんな簡単な薬なんて、摂食障害の治療には存在しない。入院して管理してもらえるなら別だけれど、わたしはそこまで重症ではないと、自分でわかっていた。

 笹山を呼び出した先は、一度だけ二人で入ったことのあるカフェバーだった。平日の夜で、食事がメインではないその店は、がらんとしていた。
 カクテルを注文した笹山は、不機嫌そうに切り出した。
「大事な話って、何?」

 わたしはブラックコーヒーだった。未成年とはいえ、アルコールが飲めないわけではない。中学時代から、家に引きこもりながら、隠れて父のお酒を飲むことがよくあった。大学に上がってからはますますそのあたりがめちゃくちゃになっていた。
 でも、今はブラックコーヒーだった。しらふでなければならなかった。

「別れたいんです」
 わたしは笹山の部屋の合鍵をテーブルに置いた。笹山は目を見開いた。
「どうして?」

 一般的な基準で言えば、笹山をふる理由なんてないだろう。国内で指折りの難関校に通うイケメンで、四月からの就職先ももう決まっている。何に付けても、そつのないタイプ。
 でも、わたしはこの人のスペックになんて何の魅力も感じない。そんな自分の気持ちをハッキリと理解した。ずっと苦しみ続けてきた間も、具合の悪い予兆があったときも、実際に倒れてしまったときも、わたしはこの人には助けを求めなかった。それが答えだ。

 わたしは笹山の目を見た。いつ以来のことか。
「あなたといても、つらいだけなんです。同じ映画を好きになれない。あなたは小説を読まない。音楽の趣味も違う。会話もほとんどない。何のために一緒の空間にいるのか、わからない」

「他人同士なんだから、趣味が違ったりするのは当たり前だろう。会話って、蒼はもともとあんまりしゃべらないじゃないか。そんな、ボクを責められても」
「わたしも、こんなふうでも、楽しいときは笑います。大学のクラスメイトとはしゃべります。でも、あなたの部屋では、そういうのが全然ない。やるのはセックスだけで」

 店の照明は薄暗かった。ひどく陰った笹山の顔は、おびえるようにこわばっていた。
「蒼がしゃべらないし笑わないから、抱き合う以外のコミュニケーションが取れなくて、どうしようもなくて」
「イヤだった。そういう目的でしか求められてないんだと思った。黙って、人形になってる気分だった」

「人形……ボクがただ自分のために蒼を抱いてると思ってたってこと? 違う。全然違う。性欲のためとかじゃなくて、いや、何ていうか……ボクは蒼にしか欲情しない。そういうの、蒼には伝わってなかった?」
「わかるわけない。暴力と何が違うんだろうって、いつも考えてた。その程度のものでしかなかった。キスも何もかも、最初から、全部」

 冷静に話しているつもりだった。でも、わたしの手は細かく震えていて、声まで震えてきて、それで気が付いた。わたしは激怒している。マグマみたいな感情を無理やり抑えているせいで、震えてしまう。
 笹山もまた震えていたけれど、わたしとは理由が違った。笹山は涙声だった。

「蒼は、ほかに好きな男がいるんだろう? だからボクを捨てるんだろう? どうしてそんなひどいこと……浮気なんかするんだ? ボクが蒼を愛してる気持ちは、少しも伝わってない?」

 愛してる、と。こんなタイミングで告げられても、ゾッとするだけだ。この人はわたしと別れる気がない。あきらめてくれない場合、どうなる?
 竜也の身の危険を、まずわたしは心配した。次に、夢飼いという場所が壊されることを。そして、笹山の善意も良心もまったく信用していない自分を、改めて知った。だって、笹山はわたしを追い込むばかりで、手を差し伸べてはくれなかった。

「わたしは腕にも肩にも胸にも傷があるのに、あなたは何も言わなかった」
 精神がボロボロになっていても、外から見れば何ともない。そのアンバランスがつらくて、体の表面を傷付けた。それはきっとサインだった。誰かに見付けてほしかった。なのに、笹山は。

「言えなかった。何て言えばいいかわからなかった。言葉よりも、抱きしめるほうがいいと思ってた」
 笹山に誠意があるのだとしても、わたしにはそれが見えない。
「もう解放してください。別れてください。わたしは、あなたを好きになれませんでした」

 呆然と見張られた笹山の目から涙が落ちた。
「……蒼は、ボクの名前、本当に覚えてる? 呼んでって、ボクが求めるときしか、呼んでくれなかったよね。それって結局、そういう……感情が少しもないから……」

 わたしはテーブルの上に千円札を置いて、席を立った。
「さようなら」
 笹山に背中を向けることは怖かった。何かされるんじゃないか、と。店を出るや否や、わたしは自転車に飛び乗って、夢飼いを目指して一目散に走った。