夏休みに入るまでに、担任が何度か家庭訪問に来た。そのうちの最後の一度は、同じクラスの人を三人、連れてきていた。家が近所らしい。担任がわたしの親と話す間、三人はわたしの部屋に来て、あれこれ楽しそうにおしゃべりをした。
 おしゃべりの内容は、相変わらず、悪口と陰口と下ネタの恋バナ。わたしは口を挟まずに、あいづちすら打たずに、黙って聞いていた。本当は耳をふさぎたかった。

 担任は無神経な男の先生だった。帰り際、お節介なクラスメイトたちを示して、わたしに言った。
「一緒に登校すればいい。朝、迎えに来てくれるそうだ」
 わたしは丁重にお断りした。自分で学校に行けると言った。その言葉を嘘にしたくなかったから、かなり具合が悪い朝も無理やり登校した。

 終業式の最中、体育館の蒸し暑さと人混みの密度のせいで、耐えられなくなった。列を離れて、トイレに駆け込んで、吐いた。そのまま教室からエスケープして、通知表はホームルームが終わった後、保健室で受け取った。
 通知表を開いてみると、一学期の出席日数は規定ギリギリだった。五教科の評定はオール5。副教科は4だった。所見欄の文章は、読む気がしなかった。

 何はともあれ、どうにか夏休みに入った。ホッとした。
 急に視界に明かりが差したように思った。頭も胸も重苦しい闇にふさがれていたのが、突然、もとに戻った。

 最近は何もできていなかったと、改めて、そう感じた。本を読んでいなかった。唄を歌っていなかった。CDを聴いていなかった。小説を書いていなかった。
 まともなところに戻ろう。夏の間だけでも。

 わたしは毎日、出掛けた。バスや電車に乗って、隣の町の図書館やショッピングモールに行って、そこで勉強をしたり本を読んだり小説を書いたりした。
 父はわたしの行動に何も言わなかった。母はいくらか安心した顔をしながらも、警戒するような目で、毎日わたしに尋ねた。
「今日はどこで何をしてたの?」

 琴野中二年生の悪評は、両親の職場にまで聞こえているらしかった。母は、わたしが変なグループと付き合いを持つんじゃないかと、不安を覚えていたらしい。
 バカバカしい。うわべだけで仲良しのふりをした人たちとなんて、わたしは一緒にいたくもない。
 わたしは正直に「図書館に行って、課題を終わらせてから本を読んだ」「ショッピングモールのフードコートで勉強した」と、母に答えた。

 八月に入ったある日のことだ。ショッピングモールの本屋で新刊の文庫を買って、フードコートでそれを読み始めた、そのときだった。

「あ、あの……蒼ちゃん、だよね? 琴野中の、二年の……」
 遠慮がちな女の子の声に呼ばれた。

 琴野中二年という言葉に、わたしは自分の顔がこわばるのがわかった。振り返りながら、彼女のことをにらんでしまったと思う。
「誰? 何か用?」

 長い髪をみつあみにした女の子が、そこに立っていた。琴野中の野暮ったいセーラー服で、スケッチブックが入っているらしい大きなバッグを肩に引っかけている。青白いくらいに色白な顔には、化粧をしていない。とてもやせた女の子だった。

「あたし、あの、同じクラスなんだけど……智絵《ちえ》っていって、美術部で、遠い席にしかなったことないから、しゃべったことないよね。なのに、いきなり声かけちゃって、その……」

 智絵は、か細い声をつむぎながら、スケッチブックのバッグの肩ひもをいじっている。わたしをチラチラ見るけれど、うまく目を合わせられないらしい。
 その瞬間、どうしてだろう、わたしは安心感を覚えた。
「座れば? わたし、一人だし」
 気付いたら、智絵にそうすすめていた。

 智絵は、ビックリしたように目をパチパチさせた。カールしたまつげが濃くて長いから、まばたきが目立つ。
「じゃあ、えっと……お邪魔します」

 智絵はわたしの向かいの席に座った。わたしは、テーブルの上のカフェオレや荷物を自分のほうに寄せながら、智絵に訊いた。
「何でわざわざ、わたしに声かけたの?」
 しゃべったこともない相手に話しかけるなんて、智絵にそんなことができるとは思いにくい。智絵は、見るからに内気そうだ。

 智絵は、わたしがしおりを挟んで閉じた文庫を指差した。
「その小説ね、あたしも、読んでるから」
「えっ、これ? ほんと?」
「うん。電撃文庫やスニーカー文庫のゲーム小説や冒険小説、好きなの。現代の日本が舞台の、超能力の話とかSFっぽいミステリーとかも好きだし……いちばん好きなのは、やっぱり、異世界が舞台のファンタジーだけど」

 一九九八年当時、ライトノベルという言葉はまだなかった。ひとまず「ゲーム小説」という呼び方があった。ロールプレイングゲームで主流の、少し昔のヨーロッパのような世界観の小説、というニュアンスだった。