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ホームステイをすることになった家は豪邸だった。客間が四つがあるらしい。わたしはケリーの部屋のすぐそば、竜也はブレットの部屋のそばの客間を使わせてもらうことになった。
スーツケースを引っ張って部屋に入ると、きれいにメイキングされたベットの上に、ブルーの包装のプレゼントが置かれていた。「開けてみて」と言われたから、「OK、ありがとう」とつぶやきながら包みを開く。
ブルーのラメがキラキラした表紙で、どっしりとした装丁のノートが現れた。
ケリーが緑色の目を輝かせてわたしに言った。
「あなたはとても勉強家だとイチローから聞いたの。勉強が得意なだけじゃなくてストーリーを書くとも聞いた。そうしたら、プレゼントもう、このノートしかないと思ったのよ。表紙を見ているだけで、ワクワクするストーリーを思い付きそうでしょ」
「ありがとう。すごく嬉しい」
「よかった。それともう一つ、プレゼントがあるの。あたしとブレットであなたのニックネームを考えたのよ」
「ニックネーム?」
「だって、ア・オ・イ、っていう名前、難しいのもの。日本語の名前は難しいわ」
十二歳のケリーの説明はあまりうまいとはいえなかったし、わたしの聞き取りの能力も高くない。蒼という名前が難しい理由を理解するのには、ちょっと時間がかかった。一言でまとめると、英語を話す人にとって母音が連続する単語はとても発音しづらいということだ。
「あなたの名前はここにいる間、サファイアよ。ア・オ・イ、はブルーという意味だと聞いたの。そうなんでしょ?」
「うん」
「青くて美しいものの中で何がいいかなって考えた。空.海、鳥、すみれ、リボン。でも、やっぱりサファイアよ。そして、あなたにこうして会って、サファイアで正解だったと思った」
「ありがとう」
くすぐったくて、恥ずかしくて、嬉しくて。胸の奥がギューッと締め付けられるように感じると、速まった鼓動が喉のあたりにせり上がってくるみたいで、頬や耳が熱くなった。
ケリーはキョロキョロして、わたしの部屋に誰も入ってこないことを確かめた。それから声をひそめて言った。
「サファイア、あなたとあたしだけの約束にしてほしいんだけど、二人でいるときは、あたしのことをダイアモンドって呼んで。あたしはダイアよ」
人の名前を呼ぶというのは、とてもくすぐったいことだ。でも、英語での会話なら、名前を呼び合うのは普通のことだ。思い切って、わたしは言う。
「OK、ダイア。わたしもそう呼ぶ」
「二人だけの秘密よ。ブレットにも言っちゃダメだからね」
「わかった」
夏の間、ミネソタでは日が沈むのがとても遅い。磨かれた窓から外を見るたびに、薄青色の晴れた空が淡く光っていた。
家の中を案内してもらったり、日本からのお土産をケリーたちに渡したり、たまたま家を訪れたご近所さんにあいさつをしたり、スーツケースの中身を生活しやすいように整理したり、そうこうするうち、あっという間に夕食の時間になった。
外が明るいから、夕食だと呼ばれて時計を見て、初めて午後七時だということに気が付いた。そんなに時間が経っているなんて思いもしなかった。
マーガレットの夫であり、ケリーとブレットの父親であるスティーブは、テレビ局の仕事をしているらしい。仕事が立て込んでいるときは、夕食の時間にしか家に帰れないそうだ。わたしと竜也は夕食の席で初めてスティーブとあいさつをした。
アメリカ人の四人家族と、わたしと竜也。広々としたダイニングのテーブルは、六人で囲むにも大きすぎるくらいだった。夕食のメニューはシンプルだ。大皿に盛られたトマトソースのパスタと、オーブンで焼いたチキンと野菜。飲み物はオレンジジュース。
お祈りをした後、それぞれが自分の皿に取り分ける。食べたいときにちょっとずつ取り分ける日本のやり方と違って、最初に一人前を作ってしまう格好だった。
ケリーが張り切ってお手本を見せてくれた。その後、ブレットが。おかげで何となく、取り分けるべき料理の量がわかる。量も、食べる速さも、どのくらいおしゃべりを挟んでいいのかも、一家の様子を注意深く観察して、わたしは真似をする。
マーガレットが少し心配した。
「日本では食事のとき、チョップスティックスを使うのでしょう。口にはナイフとフォークしかないの。食べにくいかしら?」
箸は、英語ではチョップスティックスっていうんだったっけ。そんなこと思いながら、首を縦に振るべきか横に振るべきか悩む。マーガレットの言葉は否定疑問文だった。日本語の感覚でこれに答えると、イエスとノーが逆になってしまう。
わたしは首を縦にも横にも振らず、たどたどしく説明した。
「日本人も、ステーキやヨーロッパの料理を食べるとき、ナイフとフォークを使います。パスタのときは必ずフォークを使います。だから、わたしたち、大丈夫です」
大丈夫というのは、all right。ホームステイの間、何度もその言葉のやり取りがあった。大丈夫かと聞かれて、大丈夫と返す。All right。わたしは大丈夫。
All rightは、日本語の大丈夫よりも前向きで明るいニュアンスのような気がした。わたしの個人的な感覚だろうか。
わたしがサファイアと呼ばれるようになったことについて、竜也が冗談っぽく大げさな膨れっ面で、いじけてみせた。
「蒼さんだけニックネームがあって、ずるいです」
それで、竜也にもニックネームを付けようという話になった。「竜」の字がドラゴンという意味だとわたしが言ったら、じゃあドラゴンに関係する名前にしよう、と。
ブレットはアニメの『ドラゴンボール』が大好きだから、登場人物の名前を付けたがった。竜也もその話に乗っかって、わたしもケリーも『ドラゴンボール』ならだいたいわかるし、ああでもないこうでもないと話が盛り上がった。
話といっても、英文としてパーフェクトな文章なんてなかったと思う。単語がポンポンと飛び交うだけ。
間違いを恐れて頭の中で英作文をしていては、会話に乗り遅れた。思い付いた単語を、とにかく口に出す。そうして、聞いてもらう体勢を引き寄せる。黙り込んじゃダメだ。単語を口にする。そうしたら、ケリーもブレットも、わたしと竜也の下手くそな英語を補ってくれる。
竜也のニックネームは結局、決まらなかった。でも、四人でワイワイと『ドラゴンボール』のキャラクターのことを好きだとか嫌いだとかカッコいいだとか言い合って盛り上がって、わたしは気が付いたら笑っていた。
シャワーを浴びて、就寝。時間が飛ぶように過ぎるなんて、いつ以来だろう? 普段だったら、時間というものは、ねっとりと絡み付きながら重苦しく這っていくばかりなのに。
学校は午前九時ごろに始まって、午後三時ごろまで。途中に二回、長めの休憩がある。その二度ともで、持参したランチを食べていい。
ランチの内容は、簡単なサンドウィッチと丸ごとのリンゴやバナナ、ちょっとしたお菓子。わたしはポテトや野菜のチップスとか、クラッカーにチーズをディップして食べるパックとかを気に入ったから、わたしの甘いお菓子とほかの子のチップス系とで交換したりした。
日本を発つ前には、ホームステイの間に通うのは英語を教わる学校だ、と聞かされていた。実際のところ、確かに一応テキストブックがあって、先生であるマリーとクレアの説明を聞きながら穴埋め問題をやったこともある。
でも、中学生がメインのグループだから、高二のわたしと彼らの間には、どうしても習熟度に差があった。文法を教わるグラマーのテストの結果でいうと、わたしも竜也も高校生として申し分ないそうだ。
最初の三日間はお試しみたいな感じだった。イチロー先生とマリーとクレアで試行錯誤して、わたしたち十五人に何をやらせようかと作戦を立てていた。
その結果、普通の授業はほとんどなくなった。わたしたちは毎日のように、ホストファミリーの子どもたちと一緒に課外授業に出掛けることになった。もともと古戦場や動物園、古い教会、市役所、科学館を訪れる予定は組まれていた。それ以外の課外授業も増えたというわけ。
学校のまわりにある教会や、学校の友達と遊びに行くというショッピングセンター、ローラースケートやスケートボードができる運動公園、映画館とおしゃれなカフェ。
課外授業という名の、ただの街遊びだった。ただの、と言っても、ホストファミリーたちからの説明は全部英語だ。でも、中学一年生のメンバーでさえ、不思議なほどにちゃんと理解していた。
竜也がこんなふうに分析した。
「目の前に実物があるからわかるんだと思う。学校の教室で机に座って、CDでのヒアリングの問題だったら、こんなにちゃんとは英語が耳に入ってこない」
そのとおりだと思った。一つひとつの単語や文章がすべて理解できているわけでもないし、文法的にどうのこうのと解説なんてできない。それでも会話になる。わたしがどうにか意思を伝えたくて支離滅裂に単語を並べるだけでも、ケリーは先回りして理解してくれる。
「サファイア、あなたが言いたいのはこういうことでしょ」
テレパシーみたいなもの。人間同士の間には、そういう不思議なチカラがあるとしか思えなかった。英語を聞き取っているというよりも、英語という形を取った相手の意思を読み取っている。感じ取っている。そんなふうだった。
胃は少しも痛くなかった。ひどいはずの肩こりも感じなかった。毎日が楽しかった。充実していた。
わたしは、日本で通っている学校でははぐれ者だということを、誰にも悟られずにすんだ。それくらい自然に、わたしは笑ってしゃべって学校に通っていた。このひと夏だけの特別な学校に。
家の裏手には、近所の数軒の豪邸で共有する芝生の公園があった。大きな木々がほどよい木陰を芝生の上に落としていた。ふさふさの尻尾を持つリスがたくさんいた。
学校から帰ると、ケリーやブレットの体操や水泳の教室がない日は、はだしになって芝生の公園で遊んだ。まわりには白人の子どもしか住んでいなかったから、みんな、わたしや竜也に興味津々で、日本に関連する本を手に集まってきた。
日本のアニメがアメリカでも受け入れられていることを、わたしは知った。ただ、キャラクターの名前が日本のままとは限らないから、話が通じるまでにはちょっと時間がかかる。そうやって苦労すること自体が妙に楽しかった。まるで暗号の謎解きをするみたいだった。
忍者と刀と空手も大人気だった。特に空手は、どんな小さな町にも教室があるくらいアメリカ人の間で有名らしい。
日本の食べ物はヘルシーだというのも有名らしい。スシ、トーフ、ショーユ、ミソスープ、ラーメン。黒髪のアジア人を初めて間近に見たという子どもたちでさえ、代表的な日本の食べ物を知っていた。
チョップスティックスを使って食事をするのが、まるでマジックを見ているようだという子もいた。
「違うよ。マジックじゃなくて、忍術だ」
ブレットがそう言って、おどけてみせた。ブレットはシャイだけれど、頭の回転が速くてユーモアがある。
わたしが竜也としゃべるときは、さすがに日本語だ。でも、ケリーやブレットがそばにいるときは日本語を出さないように、というルールを決めた。だから、わたしと竜也の間にそれほど多くの会話はなかった。
毎朝、目が覚めるたびに、自分のものとは違うシーツの匂いに包まれている。メガネなしの視界にぼんやりと映る部屋は広くて、ブルーとピンクの花が咲く壁紙が優しい色ににじんでいる。
よかった、と安心するんだ。わたしは今日もまだ、こっちの世界にいる。
世界は一つしかないと、かたくなにそう考えていた。違ったんだ。
わたしが世界だと思っていたものは、学校という世界は、小さな小さな鳥かごに過ぎなかった。鳥かごには扉が付いていて、鍵は掛かっていなくて、出ようと決心すれば外に出られた。羽ばたきながら振り返ってみれば、鳥かごは本当に、とてもとても小さかった。
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日曜日は教会に行った。最初は何のコンサートかと思ったくらい、教会で演奏されていたのはノリノリのゴスペルで、わたしが想像していたような堅苦しさは全くなかった。学校は休みだけれど、ホームステイの仲間のほとんど全員が、そのコンサートのようなミサに来ていた。
ミサのときは普段より少しきれいな格好をするようにという指示だったから、わたしは光沢のある生地のブラウスとズボンだった。この服は、ケリーには不評だった。
「スカートやドレスにすればいいのに」
わたしは苦笑いで辞退した。ドレスなんて、がらじゃないから。
竜也は、カッターシャツにネクタイに革靴で、ひどく大人びて見えた。わたしは似合うと思ったのだけれど、中学一年の女の子たちはいつにも増しておませで、竜也をさんざんからかって遊んでいた。
「カッコつけてるー! 似合わなーい!」
「はいはい、勝手に言ってろよ」
竜也は怒りもせず、女の子たちの大騒ぎを右に左にかわしていた。
冬が長くて厳しいミネソタでは、遊園地さえ屋内にあった。町が丸ごと一つ入っているかのように大きな大きなショッピングセンターがあって、その真ん中が遊園地になっていた。学校の課外授業で、一日かけてショッピングセンターと遊園地で遊んだ。
遊園地なんて、いつ以来だろう? そもそも観光のために外出するなんて、いつ以来だろう? 毎日私服で出掛けるなんて、いつ以来だろう? こんなに楽しいのなんて、いつ以来だろう?
週末を利用して、学校の休みも一日もらって、湖のそばへ家族でキャンプに行った。寝泊まりするのはテントではなくて、スティーブが誰かから借りてきた大きなキャンピングカー。
途中で昼食のために寄ったハンバーガーショップに、わたしは電子辞書を置き忘れてしまった。キャンプ場に着くころになってそれに気付いて慌てたけれど、マーガレットがすぐにハンバーガーショップに電話をして、電子辞書が無事にそこにあることを確認した。
「帰りの日のランチもそこに決定ね。悩む必要がなくなったわ」
マーガレットは冗談っぽく笑って言った。
到着した日は暖かかった。スティーブとマーガレットは、キャンピングカーのセッティングをする間に湖で遊んでおいで、とわたしたちに告げた。
わたしたちは湖で泳いだ。水は冷たかった。水底は砂だった。少し波があった。川と似た匂いがした。ゴーグルを付けて潜ったり、岸辺まで泳ぐ速さを競ったり、浮き輪を抱えて深いところに行ってみたり。
体が冷えてきて湖から上がるころには、髪がキシキシした。ケリーもちょうど同じタイミングで同じことを考えたらしい。
「シャンプーとコンディショナーが必要ね。今すぐ」
ケリーは膨れっ面になった。
夕食はバーベキューだった。ホットドック用のパンを肉の隣であぶって、ソースに漬け込んでおいた肉と玉ねぎが焼けたら、パンに挟んで食べる。
それから、インスタントのコンソメスープもあった。クルトンを浮かべて、乾燥ハーブを振って、キャンプ用のプラスチック製のカップでいただく。
夕方の薄闇がずっと続く湖畔は、どんどん気温が落ちていった。バーベキュー用の火は焚いたままで、それが暖かかった。
次の日は湖に船で出て、魚釣りをした。夜は釣った魚をソテーして、パスタに添えて食べた。
日が落ちると、その夜は本当に寒かった。わたしと竜也とケリーとブレットはコートを着込んで、キャンプ場の真ん中に焚かれた火のそばで、何を話すでもなく、でも何となく笑い合いながら過ごしていた。
「It's so cold」と震えたケリーが、不意に目をキラキラさせてわたしに尋ねた。
「日本語でこういうとき、何て言うの?」
「coldは、寒い。さ・む・い、だよ」
「サ・ム・イ、サムイ。よし、覚えた! そろそろキャンピングカーに帰らなきゃいけない時間よ。それでね、帰る途中で人とすれ違うと思うんだけど、そのときは英語をしゃべっちゃダメ。サムイって言って、アメリカ人じゃないふりをするの」
OK、と返事をする声が重なった。わたしたちは、ホットレモネードが空っぽになったカップをそれぞれ手に持って、キャンピングカーのほうへと歩き出した。
若いカップルとすれ違ったとき、予定どおり「サムイ」と言い合ってみた。すれ違う二人が不思議そうなく目をする。わたしたちは何食わぬ顔で歩いて、距離が開いてから、声を殺して笑った。たったそれだけの、いたずらとも呼べないことが、なぜだかひどく楽しかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎるって、それは本当だ。
学校では、日本人とホストファミリーが別々に過ごす時間が設けられるようになった。フェアウェルパーティー、つまりお別れ会ではそれぞれが相手のために出し物する。その準備の時間だ。
総勢十五人の日本人は何組かのグループに分かれて、自分たちの得意なことをやるという流れになった。
一人で空手の型を披露する子もいる。四人でチームを作って、日本から持ってきたCDに合わせてダンスをする子たちもいる。桃太郎の紙芝居をするのだと言って、イラストとシナリオを書き始めたグループもある。
CDプレーヤーやピアノやギターは自由に使っていいと言われた。わたしはちょっと考えた。人前での出し物って、どうしようか。わたしにできることはある。今なら、歌とギターを思い出せるんじゃないか。
竜也がわたしに訊いた。
「蒼さんは何をするんですか?」
「思い出せたらね、ギターを弾こうかなって。弾き語り、前はできてたから」
「えっ、すごい。聴いてみたいです」
わたしはギターを構えてみた。ピアノの練習をしている子に音をもらって、六本の弦のチューニングをする。
ここに楽譜はない。丸ごと覚えている曲は、たった一曲。わたしが初めて覚えた曲だけなら、英語の歌詞もギターを弾く指も、忘れることもなく身に付いている。
カーペンターズの『トップ・オブ・ザ・ワールド』。中学一年生のころ、英語の単語も文法もわからないまま丸暗記した。シンプルなコード進行をつたない指遣いで覚えて、どうにか最後まで弾けるようになった。
何年ぶりだっけ? わたし自身も意外だったけれど、わたしは完璧に『トップ・オブ・ザ・ワールド』を覚えていた。
運指にちょっとつまずきながら最後まで弾き語ると、竜也が手を叩いて提案してきた。
「この曲だったら、おれ、ハモれますよ。中学のころ、音楽の先生の趣味で、この曲の合唱をやったんです」
「じゃあ、フェアウェルパーティー、二人でこれやる?」
「おれが一緒で蒼さんの負担にならないんなら、ぜひよろしくお願いします」
「負担とかはないよ。つっかえないように練習しなきゃ」
「おれも、ちゃんとハモれるように頑張ります。蒼さんの声、すごいきれいですね。今さらですけど。もともときれいな声だなって思ってましたよ。だけど、歌ったら本当にきれい」
「そうかな?」
「そうですよ」
「……久しぶりに歌った。歌い方、忘れてなくてよかった」
ミネソタに着いてすぐの数日間は喉がかれてしまった。いつの間にか回復して、今は歌い方まで思い出している。
「蒼さんは音楽系の部活とか、やってないんですか? まあ、進学校でしたっけ。忙しいですよね」
「そうだね」
「おれのところもけっこう忙しいんですよ。あ、うちも進学校なんですよ」
「ホームステイ、許可が下りにくかったんじゃない?」
「それなりに苦労しました。でも。どうしてもおれ、外国っていう場所に触れてみたくて。もう必死で先生たちを片っ端から説得して、やっとのことでここに来たんです」
「わたしは担任の先生の勧めでね。ほかの先生たちに対しては、説得っていうか、夏休みの課題を出発前に全部やるっていうのを条件に、無理やり納得してもらったけど」
竜也は肩をすくめた。
「高校生って不自由ですよね。大学生になったらやりたいことがもっと自由にできるのかなって思います」
「大学か」
「蒼さんの志望校、どこですか?」
「まだ決めてない。でも、担任やイチロー先生からは、響告大学の文学部に行けって言われる」
「響告大学。すごいですね。って言っても、実はおれも狙ってるんですけど。そっか。蒼さも目指すことになるようだったら、おれも本気出して頑張らなきゃな」
竜也は内緒話みたいに声をひそめながら笑った。
大学生になるというイメージが初めてわたしの中に生まれたのは、竜也と話したこのときだ。大学に受かって家を離れるときは、ギターケースの埃を拭って持っていこう、と決めた。そこでわたしはもう一度わたしに戻れるかもしれない、と思った。
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フェアウェルパーティーは楽しかった。ケリーとブレットは、息の合ったダンスを披露してくれた。二人とも体操の習っているから身のこなしが機敏で、本当にみごとだった。
わたしと竜也の歌もうまくいった。ブランクのあったギターは完璧とは言えなくて、それが悔しくはあった。高校を卒業したら練習しよう。また弾いて歌えるようになろう。
フェアウェルパーティーの翌日は、朝早くから空港に向かわなければならない。パーティーが引けて家に帰った後、夜眠るのが惜しくて、わたしたち四人はケリーの部屋に集まって、ずっとボードゲームをして遊んだ。
別れ際、バスに乗る直前、ケリーがギュッとわたしに抱き付いてきた。涙交じりにいくつもの優しい言葉をつぶやいてくれながら。
わたしはうまく応えることができなかった。伝えたい思いはあった。話したいという気持ちがあった。でも英語が出てこなかった。ケリーをぎゅっと抱きしめ返すことしかできず、黙って唇を噛んだ。
英語を話せるようになりたい。英語のテストの点数をよくするんじゃなくて、話し言葉としての英語を身に付けたい。
ついに出発してしまったバスの中で、グスグスと鼻をすすり上げる中学生たちも、わたしがいだいた思いと同じことを言った。英語をしゃべれるようになりたい、と。
空港に着いて、一つひとつが時間のかかる手続きを何度も経ながら、やがて飛行機に乗り込んだ。来たときの便と同じで、クーラーがよく効いていた。
わたしは薄手のパーカーをリュックサックから出して羽織った。これはミネソタで買ったものだ。ケリーが選んでくれた。白地で、さりげない位置にい花が描かれている。フードに通してある紐の末端に、青い大きなビーズが留められている。
日本に着いたら、ケリーとブレットに手紙を書こう。いつかまたミネソタを訪れよう。
いつかって、いつになるんだろう? わたしはそれまで生きていられるだろうか。
生きて、もう一度ケリーとブレットに会いたい。もっと上手にケリーをダイアモンドと呼んで、二人で話をしたい。そのときは、今よりも英語の話せる自分になっていたい。
ああしたい、こうしたい。ミネソタにいる間、やりたいことがたくさん見えた。壊れてしまったと思っていたわたしの胸の奥には、まだ希望が残っていた。熱をともす力があった。感情は死なずにいてくれて、動いてほしいときにちゃんと機能した。
だって、わたしが生きていい世界は、学校という小さな鳥かごだけじゃないんだ。わたしはそこから飛び立っていい。遠くへ行って冒険したっていいんだ。
ミネソタで過ごしたのは、夏の三週間だった。ケリーにもらったサファイアという名前の、その青い輝きのようにキラキラとした三週間だった。
ねえ、ケリー。わたしのダイヤモンド。いつかまた必ず会おう。そのときわたしは、この夏には話せなかったことをたくさん話すよ。
十四時間のフライトでは結局、一睡もしなかった。考えごとをして眠れなかった時間もあったし、寝ている子をインスタントカメラに収めるといういたずらにも加わった。お互い手紙を出そうと言って、住所を教えあった。そんなことをしていたら、あっという間だった。
最後に空港で、竜也と握手をして別れた。
「写真もいっぱいあるし、手紙、絶対出しますね」
飛行機の中で、初めて竜也とちゃんとしゃべった。竜也は、中学まではサッカー部だったそうだ。高校では何となく弓道部に入ったそうだ。
わたしは、幽霊部員気味だけれども文芸部であることを教えた。今回のホームステイのことも小説にしたいと口にしたら、竜也はそれを読みたいと言った。それで、次号の文芸部誌を一冊、竜也のところにも送る約束をした。
家に帰り着くと、強烈な時差ボケで丸一日眠った。
眠りは浅かったようだ。長い長い夢を見た。ミネソタでの思い出をなぞるように、森と湖と芝生と教会と学校が順繰りに現れる夢だった。わたしはギターを弾いたり買い物に出たりした。ケリーがいて、ブレットがいて、竜也がいて、みんな笑顔だった。
目が覚めたら一人ぼっちで、わたしは呆然とした。寂しいっていうのは、きっとこの気持ちのことだ。
寂しさに気付かなければよかったとは、わたしは思わなかった。寂しいと感じることは、苦しいことだ。でも、これは未来につながる寂しさだ。
もう一度ミネソタに行くまでは、ちゃんと英語を使ってケリーたちと話をするまでは、わたしは死ねない。生きていてやる。ちょっとだけでもいいから、今よりもカッコいい自分になってやる。
いつの間にか流れていた涙を拭いながら、わたしは高校に進学してから初めて、ちゃんと前を向いた。わたしは、二学期が始まってすぐに提出する進路調査票の第一志望校の欄に「響告大学文学部」と書いた。
挑戦してやる。こんなところでリタイヤするもんか。負けるもんか。
夏休み明けすぐに、文芸部誌の秋号の原稿の締め切りがあった。わたしは竜也たちに宣言したとおり、ミネソタでのホームステイを舞台にした小さな恋物語を書いた。
日本人の中一の女の子が、ミネソタの同い年の男の子と恋をした。言葉もろくに通じないのに、ふざけ合って笑い合って本当に楽しそうに恋をして、フェアウェルパーティでは大泣きしながら、「ご縁が続きますように」と願いを込めて五円玉をキーホルダーにして贈っていた。
初稿を部長の尾崎や挿絵係の上田に確認してもらったときから、今回の短編は評判がよかった。尾崎は鼻歌交じりで、ご機嫌だった。
「蒼が明るいトーンの話を書くのは珍しいけど、あたしはこういうのが読みたかったんだ。蒼の心理描写はえぐいじゃん? 畳み掛けてくるリズムに乗せられて、こっちも感情を引っ張り回される。それが作用するのが暗い方向だけじゃなくて、ハッピーなのもいけるってのは貴重だよ」
尾崎の言葉にはうなずける。文芸部誌に寄せられた作品はたいてい、「闇と病みが特殊な能力を引き出す。オレの眼帯を外そうとするな」みたいな雰囲気だ。癖のあるものがカッコいいと誰もが考えていて、万人受けするものや正統派と呼ばれるものは誰も書こうとしない。
上田がホッとしていた。
「似たり寄ったりの挿絵にならざるを得なかったんだ。蒼さんの作品のおかげで、今回は違うものが描ける」
異能や邪眼の設定は癖があってカッコいいと思っているのは本人だけで、結局のところ、多くの人が似たり寄ったりのことを考えている。それが滑稽で、わたしはできるだけ違うものを書こうと決めていた。それが今回、本当の意味で成功した。
自分とはまったく違う、明るく恋する女の子を書いている間、わたしは本当に自分自身から離れていた。普段は聴かないような恋の歌を聴きたくなった。ハッと気付くと、笑いながら書いていた。
何者にでもなれるんだ、と実感した。本を読むとき、自分とは違うタイプの登場人物にも感情移入することがある。小説を本気で書くときは、読むときの比ではないほどに深く、わたしは主人公の中に入り込む。
原稿を仕上げて提出して、上田の描く挿絵を下絵の段階から三回ほど確認して、印刷が上がったら製本をする。部誌の制作過程にフルに関わったのは初めてだった。わたしはその間、一度も学校を休まなかった。一ヶ月皆勤なんて、何年ぶりだろう?
休まないことが偉いことだと思ったわけではない。後ろめたさを抱えたまま生きたくないと思った。じゃあどうしたらいいんだろうって、それは悩むまでもないことで、錆び付いた武器を研ぎ直してみせようと決めたんだ。
中学時代、わたしの武器は勉強だった。知識が身に付く実感は、わたしが生きている中で数少ないポジティブな刺激だった。ただの刺激だったら、体を傷付ければ簡単に手に入るけれど、傷だらけの体にはときどき嫌気が差す。ほしいのはこれじゃないんだと苦しくなる。
傷じゃなくて、ほしいのは武器。わたしに必要なのは武器なんだ。
勉強という武器、知識という武器を効率よく手に入れるには、やっぱり学校という場が便利だった。便利だから行くだけ。あの人間関係とか嫌いな空気とかに妥協したわけでも迎合したわけでもなくて、わたしはわたしの目的のために。
部誌が配布されたのは文化祭の日だった。一年のころの文化祭は、クラスで何をしたっけ? 記憶にない。わたしは確か欠席した。
今年は一応、お化け屋敷だ。とはいえ、きっちり準備するほどの時間なんて進学校には用意されていないから、模造紙に世界各国のお化け事情をまとめて教室内に展示した。
教室内の飾り付けには、私物の黒猫やこうもりのぬいぐるみが動員された。それの盗難を防ぐため、教室で見張りをする当番が組まれた。わたしはくじ引きで負けたせいで、午後の最後のコマに教室に張り付くことになった。
わたしの当番の時間帯は、目玉となるステージ企画のタイミングと重なっていた。おかげで来場者はほとんどいなくて、わたしはガランとした教室で本を読んで過ごした。
もう少しで時間終了というころになって、雅樹が一人でふらりと教室を訪れた。
「蒼、これ読んだよ」
雅樹は文芸部誌を手にしていた。
「普段、漫画しか読まないくせに」
「文章の本も読むよ。ノンフィクションばっかだけど。で、これはノンフィクション?」
「何でそんなこと訊くの?」
「すげーリアルに書いてあるから。今までの蒼の小説は作り物って感じがあったけど、今回のは違う。あっちで出会いでもあった?」
からかうような薄い笑みが雅樹の頬に浮かんだ。陸上部だから、よく日に焼けている。雅樹の口元にうっすらとしたひげの剃り跡があることに、わたしは初めて気が付いた。
雅樹は、背丈はそう高くない。でも、一つ下の竜也よりは高い。竜也は、細く締まった筋肉の感じも、まだちょっと幼かった。制服だったら、きっと肩回りなんかがぶかぶかだろう。
とっさに頭に浮かんだ竜也の姿を、かぶりを振って追い払いながら、わたしは雅樹に答えた。
「ノンフィクションだけど、わたしじゃないよ」
「ふぅん。だったら別にいい」
「いいって、何が?」
「両想いでも国境またいでるとか、どう考えても悲惨だろ。時差もあるから、電話だってかけにくい。あと半年で受験生になるってのに、遠距離恋愛なんてやってる余裕ないじゃん」
「急に変なこと言い出さないでよ」
「変かな」
「変だよ。何かあったわけ?」
雅樹は奇妙に明るい表情で大げさに肩をすくめた。
「今日、おれ、デートだったんだよ。部活の先輩の女子に約束させられてたわけ。一緒に展示を見て回ったりして。で、予想はしてたんだけど告白されて、半年後には遠距離になる見込みだけど付き合いたいって。ちょっと考えて、ごめんなさいっつって泣かせてきた」
「笑顔で報告することじゃないでしょ」
「じゃあ、どんな顔しろってんだよ? 好きも嫌いもなく普通の距離感だと思ってた先輩で、もう部活に来ないから会わなくなって三ヶ月でさ、このタイミングでいきなり、実は好きだったとか言われて。どういう表情すればいいかわかんないときって、顔、笑えてこない?」
「そうかもしれないけど」
「あのさ、おれって客観的に見てそんなにカッコいい? この顔、そんなにモテる要素ある? 顔とか容姿とかのせいで、おれ自身が知らないおれが部活の女子の間で独り歩きしててさ、何人泣かせたのって言われて。何人と寝たのって。んなわけねぇだろ、バーカ」
雅樹は笑ったままだ。ケラケラ笑いながら、いら立ちを吐き出している。
「おれはただ、誰ともぶつからないように、敵を作らないように、全体的にみんなといい感じの距離でやってけるように、それだけ考えて立ち回ってる。八方美人かもね、うん。それは否定しないけど、まさかプレイボーイの両刀使いなんて言われるとはな」
「それ、告白を断ったら言われたの?」
「そう。泣かしちゃった、しまった、って思ったら、次の瞬間には態度変わってんの。顔がよくてモテるのをいいことに好き放題してんじゃねーよ、みたいな。被害者の会でも作る気かね、あの人は」
「想像つくかも。中学時代、女子の人間関係って、そういうのがけっこうあった。目の前にいる相手に合わせて、陰口や悪口のターゲットを変えたり方向性を変えたり」
「女子って、わけわからん生き物すぎる。付き合うとか、もう、おれ絶対に無理だ。とか思ってたんだけど、蒼が書いたような恋愛なら意味わかるし、わかるからこそ痛々しいし。これが蒼のノンフィクションだったらちょっとあれだな、と」
「あれって何?」
顔をクシャクシャにするほど笑ってみせていた雅樹は、ふっと表情を消した。どういう表情をすればいいのかわからない、という言葉に正直な空っぽの顔がそこにあった。
「やめとけよ、って。転校してからの蒼は、どっかすげー遠くに行っちゃった感じがあったけど、国境の向こうまで見始めたら、ますますだろ。幼なじみで、友達で、親戚より近い相手だと思ってたのに」
わたしは首を左右に振った。
「国境の向こうを知ったとき、わたしは、自由だったころの自分を思い出した。狭い世界でがんじがらめになってた自分を、どうやったら解き放てるのかがわかって、目指すべきものを見付けた」
「そっか。人がどんどん変わってくのは仕方ないんだな」
「あんたが言うことじゃないと思うけど。あんただってだいぶ変わった」
「変わりたくないのに、まわりが勝手に、カッコいい雅樹くんのイメージを作り上げてくれるからさ。おれ自身、あっと気付いたら、何か変わってるんだ。ほんと、変わりたくないのに」
雅樹は壁に背を預けると、そのままずるずる沈み込むように座った。文芸部誌を開いて、読んでいるのかいないのか、視線を紙面に落とす。
わたしも手元の文庫に意識を戻した。文化祭の全日程の終了を告げる放送が鳴るまで、わたしと雅樹は言葉を交わさず、そうしていた。
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ひとみと雅樹は、日曜日には下宿で食事が出ない。日曜日の夜に二人を家に呼んで食事を振る舞うことは、頻度を落としながらも続いていた。
欠席ばかりの一年生の間、わたしはその席でしゃべらないのが定番になっていた。ひとみと雅樹がしゃべり、わたしの母がしゃべる。それで十分、食事会らしい形になっていた。
ミネソタから買ってきた、変わった形のパスタと知らない名前のパスタソースが食事のメインだった日。
食後にわたしは自分の部屋に引っ込んで、焼き増しした写真の仕分けと送り先の宛名書きをした。ひとみはわたしと一緒に部屋に来て、数学の先生から勧められたという科学の本を読んでいた。
「さすがにちょっと難しいな。先生も、理系の大学生が読む本って言ってたし」
途中で集中力の尽きたひとみが、並べて分けた写真をのぞき込んだ。
わたしが撮った写真は風景が多かった。でも、誰のカメラの前でも笑顔になってピースサインをするタイプの子が何人かいて、そういう子は周りも巻き込んでにぎやかな写真を撮ろうとする。
最初、わたしは面食らった。わたしはノリノリで「はい、チーズ」なんて言えないし、どうしていいかわからなかった。照れくさいような恥ずかしいような思いをしながら、でも結局は変なペースに巻き込まれて、作り笑顔でシャッターを切った。
はいチーズには、言う側でも言われる側でも、最後までうまくなじめなかった。けれど、こういう写真を撮っておいてよかったと、写っている人数に合わせて焼き増しの枚数を数えながら、そう思った。
場所があって人がいて、その日の空の色が写っていて。そうすると、そこにどんな空気が流れていたかを、わたしは鮮やかに思い出すことができる。この写真を撮りながらどんな会話をしたか、わたしは覚えている。
こうやってみると、竜也と一緒に撮られている写真が意外に多い。一緒に行動した印象はあまりなかった。ただ、最年長のわたしと竜也がいる場所に年少の子たちが寄ってくる傾向があったから、招集の目印として、並んで立つことがしばしばあった。
ひとみは、写真から目を上げた。
「蒼ちゃんはいつもズボンだね。髪も短くて、隣に写ってる男の子より背が高い。何かカッコいいよね」
「スカート持ってないから。制服以外は」
「男になりたいみたいな気持ち、もしかして ある?」
「なりたいわけじゃない。女子でいたくない。それだけ」
「なるほどね。蒼ちゃんがそう考えてるっていうの、わかるよ。蒼ちゃんのそういうところやっぱりカッコいい」
ひとみはニコニコして、スカートをふわっと広げながら、わたしにくっついた。
ハッキリとした違和感がわたしの中に生まれ始めたのは、たぶんそのときだったと思う。ひとみの様子が、ひとみの態度が、ひとみの目の輝き方が、木場山に住んでいたころと比べて何だか変わった。
その何日か後、ひとみからデートしようと誘われた。カラオケに行って買い物をして晩ごはんを食べて帰ろう、と。わたしは断らなかった。断る理由を見付けられなかったから。
珍しく補習も模試もない日曜日、ひとみの下宿の近所のバス停で待ち合わせて、繁華街に行った。
まずファミレスでお昼を食べて、カラオケ、本屋、アクセサリーショップ、アパレルショップ。最後に、デートの定番として有名なチェーンのイタリアンに行って、カップル向けの二人前のセットを食べた。
小柄なひとみは、レトロでふわふわしたワンピース姿。わたしは男女兼用のネルシャツに、飾り気のないジーンズとスニーカー。
「身長差十五センチって、ちょうどいい感じだよね」
はしゃいでわたしの手を取るひとみに、わたしの中の違和感は膨らんでいった。カラオケで、ひとみはラブソングを歌った。わたしは男性の曲を入れることがもともと多いのだけれど、その日はひとみのリクエストがあって、それに従っていたら全部が男性の曲になった。
どのアクセサリーが似合うか選んで、と言われた。服の試着にも付き合った。買いたいもののないわたしはぼんやりしながら、とりあえず一日、ひとみのやりたいとおりにやらせていた。
ひとみはずっとわたしの手を握ったり、わたしの腕に自分の腕を絡めたりしていた。帰りのバスで嬉しそうに言った。
「デートらしいデート、してみたかったんだ。またこういうことできるかな?」
「別にいいけど」
「じゃあ、これからは蒼ちゃんがあたしの王子さま係ね」
わたしは失笑してしまった。顔のニキビは、ミネソタにいる間に少し引いていたのに、帰国してまた赤く腫れ出した。王子さまなんていえるようなスリムな体型でもない。
でも、ひとみは本気だった。
「あたし、この間、告白されたんだよね。雅樹くんと同じ理系クラスの男子に。あたし、数学のことを聞きに先生のところに行くでしょ? そのときにチラチラ話す相手ではあったんだけど、告白されたとき、怖かった」
「怖かった?」
「余裕がない目をしてた。本気で力を出したら、男子ってすごく強いよね。あたし、ちっちゃいし、男子はみんな大きくて、その体格差だけですごく怖いんだよ」
「告白、断ったの?」
「断った。そしたら、すごく寂しい気持ちになった。好きじゃない男子とは付き合えないよ。怖いと思った相手と付き合えない。でも、デートとか、してみたい。寂しいのは嫌なの」
「だから、わたし? 他に頼める相手いなかったの? 雅樹とか」
「蒼ちゃんしか考えられなかった。それで、今日の一日デートしてみて、正解だったと思った。また誘うね?」
わたしは答えない。答えられない。拭えない違和感の正体を探そうとして、窓ガラスに映る自分とにらみ合いながら、じっと考える。
ひとみはご機嫌でバス降りていった。わたしのモヤモヤはこの日に始まって、ずっとまとわり付き続けることになる。
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ホームステイに一緒に行った竜也たちに、手紙と写真を送った。ミネソタに住むケリーとブレットにも。もちろん全部郵送だ。
メールもあるにはあったけれど、自由に使える人はいなかった。もし使えたとしても、写真を添付しようがない。
写真はインスタントカメラで撮った。その写真をデジタルデータにするためのスキャナは持っていなかった。それに、当時のメールでは何枚もの写真のような大きなデータは添付できなかった。
国内の文通でも、手紙を書いて送って相手に届いて、相手が手紙を書いて送ってわたしに届くまで、最速でも一週間くらいかかった。ミネソタの手紙はもっとだ。片道でも一週間? 二週間? 途中で事故にあわずに、本当に届いてくれる?
竜也からもほかの子たちからも写真と手紙が届いた。いつの間にこんなに写真を撮られていたのかなというくらい、たくさんあった。数年ぶんを夏のひと月だけで撮ったみたいなものだ。
ミネソタから帰ってきて二学期が始まってから、わたしは一つ新しい習慣を作った。学校帰り、三キロの距離を歩いて帰ること。歩くときがいちばん考えごとがはかどるから。小説のネタを思い付くのも、歩いているときが多い。
歩きながらわたしがやったのは、頭の中でケリーやブレットに話し掛けることだ。その日あった出来事や、自分の考えていること、受注の小説の筋書き。それらを全部英語で、頭の中のケリーやブレットに報告する。
わからない単語、直訳するだけでは作れない文章に、しょっちゅう出くわす。わからなくても、私はどうにか伝えようとする。違う単語を探したり、簡単な文章をいくつもつなげてみたり。
次にいつケリーたちと会えるかわからない。もしかしたら一生会えない可能性もある。
でも、もしも会えるなら。次に会うときには、わたしはもっと話をしたいと思っているから。
夏服が中間服になって、残暑が秋風になって、日が暮れるのが早くなって、どんどん寒くなっていった。最初はポツポツと途切れてばかりだったわたしの頭の中の英語は、稚拙な言葉ばかりではあっても、だんだんきちんとした形を取るようになった。
そんな日々の中で、ケリーとブレットから手紙が来た。分厚い封筒の中には、夏の思い出の写真、ケリーたち家族の写真、ミネソタのポストカードが同封されていた。
ブレットの手紙はドラゴンボールのカードの裏に、アッサリと短く書かれていた。ケリーの手紙はピンク色の封筒の中に入れられて、しっかりと糊付けされていた。
「ほかの誰にも見せないでね」
封筒の表にはそう書かれていた。わたしは封筒の端をハサミで切って、丸っこい癖字の手紙を取り出した。
こっちはみんな元気だよ、でもサファイアがいなくて寂しいよ。手紙の冒頭はそんなふうだった。それから、家族の近況報告。続いて、飛び跳ねるような字でケリーのビッグニュースが書かれていた。
「彼氏ができたの! この間、デートをしたの! 実はあたし、最初は彼のことはあまり好きじゃなかったけど、一緒にいるうちに好きになったんだ」
微笑ましいようなラブストーリーだった。私は文面を目で追って少し笑って、最後の一文に固まってしまった。
「サファイア、竜也をどう思う? 竜也はきっとあなたのことが好きよ」
まさか、そんなことあるわけない。竜也はいい子だよ。そんなやつがわたしを?
わたしは恋なんか無縁でいい。彼氏なんて一生いらない。
キスをすることもハグをすることも、体を汚すことのような気がしていた。そんなものを欲しくなかった。わたしにはたぶん、恋より大事なものがある。
ピンク色の封筒の中には、手紙のほかにもう一つ、タロットのような体裁の天使のイラストのカードが入っていた。幸せな恋人のためのカード、というタイトルが添えられている。
ケリーが知っているサファイアと、日本でくすぶっている本物のわたしの間には、大きな隔たりがあるのかもしれない。幸せなんて程遠いんだよと、わたしは正直に言うべきなんだろうか。
クリスマスの時期には郵便が混み合って、手紙や荷物の到着が遅れるらしい。少し早いけれどクリスマスカート送ろうと、わたしは決めた。街に買い物に行かなくちゃ。