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 鹿島先生の提案は、ハッキリ言って、かなりめちゃくちゃだった。本当に高校教師が担任として受け持っている生徒に対してする提案だったのかと、わたし自身も思ったし、わたしの両親もそう言ったし、職員室でも何度となく聞くことになった。

 七月、夏休みの補習課題が配られると、わたしは誰よりも早くそれを仕上げて、各教科の先生に提出した。答え合わせをして、やり直しをして、再提出。
 一学期の終業式の日には、わたしは夏休みの補習課題をやり終えていた。これが条件だったんだ。わたしが夏の間、旅に出るための。

 同級生たちが一週間の勉強合宿に出かけたその日、わたしは大きなスーツケースを持って国際空港に向かった。ちなみに勉強合宿というのは、標高の高い避暑地にある旅館にこもって朝から晩まで一日あたり十一時間みっちり勉強する、という地獄のイベントだ。

 鹿島先生の紹介で知り合った、鹿島先生の大学時代の同級生という人は、英会話教室の経営者だった。イチロー先生という。彼がオーガナイズする夏のホームステイに、わたしは参加することになったんだ。

 これから飛行機で向かう先は、アメリカのミネソタ州。カナダとの国境に接した、夏でもとても涼しい州だ。森と湖の情景が美しいらしい。冬はアメリカでも屈指の豪雪地帯で、子どもを外に出したらそれだけで児童虐待の罪に問われるような、そんな土地柄だという。

 ミネソタ州は、銃社会のアメリカの中で最も安全な州とも呼ばれている。州の中枢機能を担うのは、ミシシッピ川を挟んだ双子都市のセントポールとミネアポリス。清潔で美しい町だそうだ。

 七月半ばに、ホームステイに向けたオリエンテーションがあって、ミネソタ州について説明を受けた。アメリカの一般家庭での習慣だとかマナーだとか、一ヶ月のホームステイに必要な基本的なあれこれも説明された。

 一緒にホームステイに行くメンバーと、そこで初めて知り合った。総勢十五人。大半は中学生で、高校生はわたしともう一人だけ。
 もう一人の高校生である一つ年下の男の子は、屈託のない笑顔でわたしにあいさつをした。

「初めまして。竜也《たつや》って呼んでください。おれ、英語は全然話せないので、役に立たない度合いで言ったら中学生と大差ないと思いますけど、よろしくお願いします」
「わたしも話せないよ。英語のテストでの成績はともかく、英会話は全然」
「ですよね。でも、たぶんおれたちがリーダー的なことやらされると思うんで、腹をくくっちゃいましょう」

 そこにいる全員が私服だった。学校という世界から切り離して見てみると、中学生という存在は怖くなかったし、キモチワルくもなかった。
 自己紹介をしたり雑談をしたり、そういう時間が少し設けられた。わたしは、話すことができた。竜也の目を見て、ちょっとだけ笑い返すこともできた。

 そして今日は、ついに迎えた出発の日だ。搭乗ゲートをくぐる前に集合写真を撮った。親たちが不安そうに見守っていた。
 わたしはイチロー先生の指示を受けて、あいさつの号令をかけることになった。何年かぶりに、人に聞かせるための声を張り上げる。

「行ってきます!」
 弾んだ声が重なった。
「行ってきます!」

 不安はなかった。ワクワクしていたわけでもない。心は凪いで、穏やかだった。毎日制服を着て学校に通わなければならない世界から解放されて、体が軽かった。肩や背中のこわばりが消えて、呼吸の仕方を忘れることもなくて。

 日本からミネソタ州のセントポールまで、フライト時間は十四時間。大半を眠って過ごした。クーラーが効きすぎていて、少し寒かった。
 夏時間の今、日本とミネソタ州の時差は十四時間だ。乾いた空気の空港に降り立つと、飛び立った時と同じ日の同じ時刻だった。日本では日付が変わった丑三つ時のはずだ。

 空港からバスに乗って、わたしたちがステイするセントポールの郊外へと移動する。アメリカでも夏休みの時期だ。この期間を利用して、ある高校の課外学習のような形で、日本から訪れたわたしたちとの交流学校がおよそ一ヶ月間開かれる。

 バスの到着地こそが、交流学校を主催する高校だった。その高校の先生の一人が、かつて日本に留学していたらしい。そのときイチロー先生と仲良くなったんだそうだ。彼が帰国した後、今度はイチロー先生がアメリカに留学して、そのときもよく会っていたらしい。

 芝生のグラウンドにホストファミリーたちが集まっていた。十五人の日本人は順番に名前を呼ばれて、ホストファミリーと引き合わされる。
 わたしが呼ばれたのは最後だった。竜也も同時に呼ばれた。ホストファミリーたちのリーダーを務めるマーガレットが、十二歳の双子のケリーとブレットの肩を抱いてやって来て、わたしと竜也に告げた。

「こんにちは、アオイ、タツヤ。ホストマザーのマーガレットよ。アオイ、日本からお手紙をありがとう。この子たちも喜んで読んだわ。あなたはきれいな英語を書くのね」
「ありがとうございます」

 わたしはそれしか言えなかった。こういうときに謙遜してはいけないということは、日本を旅立つ前に一郎先生から説明を受けた。謙遜するほどの語学力もないから、「サンキュー」しか言えないのは、むしろちょうどいいかもしれない。

 マーガレットはわたしと竜也に尋ねた。
「二人は友達なのかしら。日本では知り合いだった?」
 いいえ、とわたし達は答えた。竜也がゆっくりと、英語でわたしに説明した。

「おれの最初のホストファミリー、この夏に別の計画が入って、キャンセルしたんだ。だから、おれは別のホストファミリーのところに行くことになった」
 マーガレットが説明を引き継いだ。
「そうなのよ、タツヤ。あなたはわたしの家に来るの。わたしも夫も子どもたちもあなたを歓迎するわ。アオイ、いいでしょう?」

 わたしはうなずくしかなかった。竜也は、照れたような様子で、すべすべした頬を掻いた。
 竜也はわたしよりも少し背が低い。うらやましいくらいの、くっきりとした二重まぶた。顔の輪郭がほっそりとして、やせぎすで手足が長い。ハーフパンツからのぞく脚は、スポーツをしているんだろうなという印象。

「よろしくお願いします」
 改めて竜也はそう言った。わたしも「よろしく」と返した。そうしたら、双子も元気よく、日本語で「よろしく」と声をそろえた。ケリーという名前の女の子の方が、続けて英語でまくし立てる。

「あたしたち、日本語を少し勉強してるの。だって、日本のアニメってクールなんだもの。セーラームーンはセクシーでかわいいわよね。あたしね、日本語で日本のアニメを観たいのよ。だから、二人とも、あたしに日本語を教えてね」

 早口だった。どうにか聞き取れた内容は、たぶんそんなふうだった。男の子のブレットと目が合う。そばかすだらけの彼はチラっと笑うと、さりげなくそっぽを向いた。照れているらしかった。

 わたしたちはマーガレットの大きな車に乗って、素朴で美しい街並みの中を抜けた。左ハンドル、右車線。車はやがて、芝生と街路樹の緑が鮮やかな住宅地の一角、これからステイする家に到着した。

 短いドライブの間じゅう、わたしの目に映る景色は、何もかもが非現実的なほどに美しかった。自分とは違う誰かの人生を演じるかのようにキラキラと楽しい毎日が、そうやって始まった。