死にたがりティーンエイジを忘れない

 昼休み、わたしは文芸部室がある校舎裏の細長いプレハブを訪ねた。マイナーな部や同好会が使用が認められた部屋がずらりと並んでいる。
 お堅いと評判の進学校である日山高校も、昼休みとなれば、にぎやかだ。校舎のほうから、しゃべったり笑ったり叫んだり騒いだりする声が聞こえてくる。

 部室のプレハブは静かで、ほったらかしの木々の影になって暗い。木漏れ日の影がコンクリートの地面にまだら模様を作っている。
 この場所は悪くないな、と思った。とりあえず放課後、来てみてもいいかもしれない。

 まだ活動の始まっていない文芸部の部室は、出入口の引き戸にカーテンもない。授業中に何度も見て、すでに文面まで覚えてしまったチラシが、引き戸のガラス窓に貼ってある。
 わたしはガラス窓に近付いて、昼間でも薄暗い室内をのぞき込んだ。長机とパイプ椅子、移動式の黒板。部屋の隅に段ボール箱が置かれていて、その中に過去の部誌らしいものが入っている。

 ふと、ガラスに人影が映った。男子だ。見覚えのある背格好の人物。わたしは振り返る。
 やっぱり上田だった。上田の手にも、わたしと同じ文芸部のチラシがある。

「こんにちは。ちょっと久しぶり。蒼さんも、尾崎さんのスカウトで?」
「まあ、うん」
「ぼくも尾崎さんから声を掛けられたんだ。ぼくは小説要員じゃないけどね。表紙や挿し絵が描ける人、探してたらしくて」
「知り合い?」

「尾崎さんは同じ小学校だったんだよ。彼女、中学は国立大学附属の優秀なところに行っちゃったから、会うことがなくなってたんだけど。相変わらずの勢いのすごさに圧倒されたよ。蒼さん、文芸部、入るの?」
「決めてない」
「尾崎さんにロックオンされたら逃げられないよ。ぼくは入ることになると思う」

 上田は無邪気そうに微笑んだ。わたしはその笑顔に応えられない。ひとみや雅樹が相手のときと同じだ。いや、上田のほうが、もっとやりにくい。
 過去を切り離すことってできないんだろうか。上田は中学時代のわたしのことを知りすぎている。智絵のことも知っている。
 上田を見ると、どうしても智絵のことを思い出してしまう。完成しなかった文化祭の絵のことも、好きな人や物を好きと感じられなくなってぼんやりとした表情のことも。

 わたしはため息をつくために大きく息を吸った。ときどきこうして意識しないと、呼吸のやり方を忘れていることがある。
 ため息を聞き付けたらしい上田は、肩をすくめて小さな笑い声を立てた。

「文芸部のメンバーなら、そう心配することもないと思うよ。尾崎さんの基準で選ぶんだから。あの人はね、縛られるのが大嫌いなんだ。同じ部屋の中にいても別々に集中していられるような、そういう人ばかりに声を掛けてると思う」

 そうじゃないんだと、わたしは言ってしまえばよかっただろうか。
 同じ部屋の中にいること。すぐそばに人の気配があること。それだけで圧迫感を覚えるんだ。胃がキリキリして、胃の裏側に当たる背中がビシリと緊張して、肩がこる。わたしには一人の時間がたくさん必要なんだ。

 上田は腕時計を見た。昼休みがもうすぐ終わる。次は何だっけ。確か、社会。世界史を楽しみにしていたのに、一年生で習うのは現社だ。世界史と日本史と地理の選択授業は二年生からだという。
 わたしは部室から離れた。上田が、智絵が憧れたあのきれいな声で、ささやくようにわたしに訊いた。

「途中まで一緒に、隣を歩いてもいい?」
 上田の慎重さを、智絵だったら、優しさだと感じただろう。智絵はおずおずとうなずいて、緊張して真っ赤になって、長いまつげを震わせながらまばたきをするだろう。

 わたしは舌打ちしたくなった。上田が勝手に隣に並ぶのなら、そんなふうに強引で自分勝手なやつが相手なら、こっちだって意地悪なことができるのに。無視して振り切ってしまうこともできるのに。

「好きにすれば」
 いいよとも言えないし拒絶もできないわたしは、中途半端な言葉を吐いて歩き出す。隣というには離れた位置で、上田も歩き出した。

 不毛な妄想をする。これがまともな青春ドラマなら、この場面を智絵が目撃してしまうんだ。智絵は勘違いをして、「身を引かなきゃ」だなんて、陰で泣く。最後には誤解が解けて、わたしと智絵は仲直りができる。
 ありふれたストーリーを想像して、そんな小説が書けるもんかと思う。甘酸っぱい学園ものの青春ドラマなんか、わたしは書かない。書けないよ、絶対に。学校っていうこんな世界、大嫌いなんだから。

 上田は無言だった。自分のクラスのところで「じゃあ」と言っただけだ。話すわけでもないなら、隣に並ぶ必要もなかっただろうに。
 その日の放課後、尾崎が待ち受ける文芸部室に行ったわたしは、入部届に名前を書いた。突進してくる尾崎のハグを全力で回避して、家路に就いた。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 わたしはプライドが高い。それを痛感したのは、プライドがガラガラと崩れる経験をしたからだ。崩れて初めて、自分が何を大事にしていたのかを知った。

 高校生活、二週間目。健康診断があった。もともと背の高いわたしは、また少し身長が伸びていた。体重がひどく増えていた。保健室の鏡に映った自分の肉付きのよさにギョッとした。こんなに太っていたのか。こんなぶよぶよな体で、平気で人前に出ていたのか。

 やせたい。でも、どうやったらやせられるんだろう? 食べなければいいのか。中学の給食のころより、高校に入ってからの弁当のほうが量が多い。これをやめたほうがいいのか。

 体重が増えていたことを知った日と前後して、顔じゅうが妙にかゆくなった。鏡を見れば、明らかに赤く腫れている。
 最初は、じんましんかと思った。でも違った。ニキビだった。本当にあっという間に、いきなり顔じゅうがニキビだらけになった。一週間前にはまっさらだった額は、赤いブツブツで埋め尽くされている。

 鏡が憎い。嫌いどころじゃなくて、憎い。登下校のバスの窓に自分の姿が映るのさえ、猛烈にイヤになった。こんな汚い肌を人目にさらして歩かなければならないことが苦痛で仕方がなかった。
 サイドに分ける癖のあった前髪を下ろした。授業中にしか掛けていなかったメガネを、朝から晩まで掛けるようになった。どうにかして少しでもニキビを隠したかった。

 ニキビの薬を探してドラッグストアに入った。ギャルみたいな店員に声を掛けられた。
「何かお探しですか?」
 アイメイクもネイルも完璧な店員の目に、ニキビだらけの顔で塗り薬のコーナーをウロウロするわたしは、どんなふうに映るんだろう?
 猛烈な劣等感が起こった。悲しくて悔しくて、八つ当たりの怒りのようなものさえ抱いて、わたしが何も買わずにドラッグストアから飛び出した。

 ずっと後になった今、肌のトラブルに心底悩んだ当時の自分を振り返ってみると、いくつものアドバイスができるのにと思う。
 まず、基本のスキンケアの仕方を覚えること。習慣づいてしまえば、特別なことも難しいこともない。きちんと泡立てた洗顔フォームで顔を洗う。泡を丁寧に洗い流す。化粧水を肌に染み込ませる。その上から乳液で肌を整える。

 洗顔フォームと化粧水と乳液は、同じメーカーの同じラインのものをそろえること。ニキビ肌の若い人向けのものを使ってみて、もし何も変化がないのなら、敏感肌用のものを使ってみること。
 というのも、ニキビは肌に脂の多い人ができるというけれど、乾燥しがちなタイプにもできるものだから。乾燥して水分が足りない肌は、水分の代わりに脂を出して肌の潤いを保とうとする。その結果、肌に脂が多くなりすぎて、ニキビの原因になってしまう。

 高校一年のころにニキビがひどくなってからずっと、二十代前半まで、わたしは肌トラブルに悩み続けた。特に二十歳ごろまではひどかった。精神的な理由と食べ物による原因と、何よりスキンケアや美容に対する知識のなさが、トラブルを長引かせた。

 わたしのニキビは、乾燥しがちの敏感肌が原因だった。当時のわたしにはそれがわからない。日を改めてドラグストアに行ってニキビの薬を買ったけれど、ニキビの原因菌を殺すその塗り薬は、わたしの肌には刺激が強すぎたみたいだ。ニキビは少しも治らなかった。

 健康診断があって以来、クラスの女子は体形のことや美容のことを話題にするようになった。
「やせたい。ダイエットしたい。でも、甘いもの、めっちゃ食べたい!」
「どうせ肉がつくなら、尾崎さんが理想だよね」
「わかるー! 尾崎さん、どこでブラ買ってるの? ていうか、何カップ?」

 尾崎はあけっぴろげだった。
「F75。でも、ここまでデカいと、おばさんみたいなデザインしか売ってないんだよ」
「じゃあ、バストサイズは一メートル近くあるんだ。巨乳!」
「っつっても、あたし、ほかもけっこう肉が付いてるから」
「尾崎さんのカラダはそれがいいんじゃん! くびれてて、お尻もあって!」
「まーね。家系なんだわ、これ。姉貴のほうがすっげーの。妹のあたしから見てもヤバい」

 教室の空気は、中学時代よりマシだ。悪口や陰口は誰も言わない。でも、わたしはその空気にも付いていけない。
 ひとみも尾崎も教室の真ん中にいる。わたしは隅っこにいる。ほっといてくれればいいのに、ひとみも尾崎もときどき、わざわざわたしのところまで話しに来る。

 ニキビだらけの顔を見ないでほしい。太ったことは気にしている。でも、一緒になってダイエットの話なんてできない。わたしはこの体が嫌いでキモチワルくて、傷付けたいし捨て去りたい。楽しいおしゃべりの話題になんかできない。

 ひとみや尾崎を拒絶したい。そう思ってしまう自分の性格の悪さが、心根の暗さが、本当にイヤだ。自分が嫌いだ。憎い。
 性格のこと、体形のこと、肌のこと。ふと気が付くと、悩んでばかりいる。メガネを掛けた顔を上げられない。

 授業中に当てられた。答えは合っていた。でも、声が小さいと言われた。ちゃんと声を出したつもりだった。唄を歌うのが得意だったはずのわたしの喉は今、弱り切っている。
 数学が難しい。予習に時間がかかる。練習問題の間違いが多い。ひとみは誉められている。わたしは取り残されている。劣等感が募る。

 中学時代よりも小説を書く時間は減った。配られたプリントの裏や、筆箱の中に忍ばせたメモ帳に、休み時間や授業中の隙を突いて書く。家に帰ってそれをパソコンに打ち込んで、フロッピーディスクに保存する。書式を整えてホームページにアップする。

 智絵はホームページを見てくれているだろうか。アクセスカウンターはポツポツと回っている。誰が訪れてくれた痕跡なのか、わたしにはわからない。それが智絵だったらいいと願うだけだ。
 電話してみようか。手紙をポストに入れてみようか。チラリと頭をかすめるアイディア。でも、実行には移せない。思い切ったことをするには、わたしは疲れすぎている。
 ふさいだ気分のまま過ごして、四月も終わりが見え始めた放課後だった。尾崎が文芸部員に招集をかけた。
「ゴールデンウィーク明けに、最初の文芸部誌の製本したいと思う。それまでに原稿を書いてくること」

 文芸部誌の春号の内容について話し合うため、わたしたちは文芸部室に集まった。総勢五人。
 話し合うというほどのこともなかった。テーマを決めて競作しようか、という案もチラッと出たけれど、誰がどんなもの書くのか、まだよくわかっていない。最初は好きなものを持ち寄ろうということになった。

 挿し絵を描く上田からリクエストがあった。
「清書する前のものでいいから、早めに原稿を見せてもらえないかな? やっぱり実際に読んだ上で描きたいんだ」

 了解、と尾崎が答えた。
「ついでにさ、上田、誤字脱字や言葉の間違いのチェックもやってよ」
「仕事が増えるなあ。いいよ。放送部での本読みで、正確な日本語表記には日ごろからなじみがあるしね」
「サンキュー、助かるよ」

 上田は油絵が得意だけれど、マンガも描けなくはないらしい。でも、今回は表紙と挿し絵を描いて、編集や校正まで請け負うことになるから、自分の原稿を上げる余裕はない。
「自分のオリジナルを描くのは、部員が増えて仕事の分担が楽になってからだね」
 上田はそう言った。

 わたし以外の全員が部活や委員会との掛け持ちで忙しそうだった。話し合いが終わると、部長の尾崎が真っ先に部室を飛び出していった。顔と名前を知らなかった別のクラスの二人も続いて出ていって、部室にはわたしと上田が残される。
 上田は相変わらず放送部との掛け持ちだ。今日は練習も当番もないらしいけれど。

「お疲れさま。蒼さん、今日はもう帰るだけ?」
「そうだけど」
「少し時間を取ってもらうこと、できない? 三十分くらい、そこに座っててもらうだけなんだけど」
「どうして?」

 上田は一つ深呼吸をしてから言った。
「描かせてもらえないかな? 横顔を描きたい。部誌の表紙にしたいなって」

 ゾッとした。三十分間もじっと見つめられなければならないなんて、怖い。キモチワルイ。イヤだ。
 わたしは美しくない。太った体もニキビだらけの肌も、前髪とはメガネで隠した表情も。顔立ちだって、たぶん、自分の理想ほどには美しくないんだと思う。わたしはきっと醜い。

「描かないで」
「気に障った?」
「見てほしくない」
 上田が息をつくのが聞こえた。ため息なのか笑ったのか、どっちだったんだろう?
「見てほしくないと言われてもね、ちょっとそれは難しい注文かもしれない」

 柔らかに鼓膜を打つ声は、初めて聴いた頃よりも落ち着いて、深みとツヤを増している。発声練習をしたり発音のトレーニングをしたり、声の仕事をしたいという目標に向かって努力をしているからだ。
 わたしの声も前はこんなふうだった。人に聞かせられる声だったはず。なのに今は、短い受け答えさえろくにできない。

 わたしは顔を背ける。上田の視線が付いてくるのがわかる。
「表紙のモデルなら、尾崎にすれば?」
「ぼくは基本的に人物画を描かないんだよ。課題以外では。蒼さんを描いてみたいと思ったのが初めてなんだけど、ダメかな?」

「わたしのことなんか見ないでほしい」
「それは聞けない。変なセリフを言うけど、勝手に視線を引き寄せられるんだよ。中学のころからずっと。何かが特別なんだ」
「やめて」
「迷惑?」

「わたしに近寄ったって、いいこともないのに」
「いいことがあるとか得をするとか、それだけで人付き合いを選ぶような器用な生き方は、ぼくにはできない。蒼さん自身がそれをわかっていそうだけどね。だって、ずっとノートを届け続けていたでしょう。それは……」

 わたしは乱暴な仕草で、椅子に乗せていたカバンを取った。ガタンと椅子が鳴る。上田の言葉が途切れた。
 得になるからノートを取り続けていたんだ。智絵のためと言いながら、わたしはわたしのために動いていた。上田にそれを教えてやるつもりはないけれど、上田の誤解が痛い。

「蒼さん」
 呼び止める声を振り切って、わたしは部室を出た。引き戸を閉めた途端、みじめな気持ちが胸にせり上がってきて、息ができなくなった。カバンを抱いて無理やり走る。

 うつむいた視界に長い影が伸びている。ウエストも足もほっそりとしている。こんなシルエット、嘘だ。
 みじめで仕方がなかった。智絵にノートを届けようと決めた去年みたいに必死になる理由が、今年はもうない。もうわたしは頑張れない。

 家に帰り着いて部屋に入って制服を脱ぎ捨てた。頭が痛くて仕方がなくて、晩ごはんに呼ばれたときも動けなかった。眠れない夜を過ごした。朝になっても、頭が痛くて胃が痛かった。

 その日、わたしは学校を休んだ。それが始まりだった。学校に行ったり行けなかったりする毎日。授業があっという間にわからなくなった。
 担任からは、義務教育じゃないんだからやめることもできるんだと言われた。やめたかった。智絵みたいに通信制の高校にすればよかったと、本気の後悔をし続けた。

 学校をやめたい。学校なんていう世界、わたしにはやっぱり無理だ。
 落ちていく。転がり落ちていく。
 血の赤を見るのが日常になった。どうしても引っ掻いてしまうニキビ。手にした文房具で衝動的に付ける傷。

 部屋の隅でほこりをかぶったケースを開けてギターを出してみると、弦が錆びて切れていた。キザギザした弦に傷口を押し当ててみる。痛みが皮膚の内側にザックリと入り込んできた。それが気持ちよかった。

 受験の合格祝いで買ってもらったプレステ2で、テイルズオブシリーズや『ドラゴンクエスト7』をした。誰もいない昼間、延々とやり込んだ。ゲームのレベルが上がるのと反比例して、勉強の仕方がわからなくなっていくみたいだった。

 どんどんいびつになっていく自分の中身を埋めるために、黒々とした言葉の連なる小説をひたすら書いた。
 小説の中でわたしの代わりにわたしの言葉を語ってくれる誰かは、わたしに似ているときがあっても、わたし自身よりずっと愛しい存在だった。彼らを殺さないために、あるいは美しく死なせるために、わたしは書くことをやめなかった。

 文芸部誌の原稿は、毎号きちんと提出した。だって、わたしには書くことしかないんだ。書いても書いても足りなくて、表現したい世界を作るにはわたしはまったくもって未熟で、それが悔しくてまた生きている。
 表現できたら、死んでもいいや。
 そんな毎日だった。高校一年生のころのことは、記憶が乏しい。
 一年生の出席日数はぎりぎりだった。大学の推薦入試はもう絶対に受けられない。まあ、そんなの別にどうだっていいや、と思ったけれど、
 学校では、二週間に一度は進路関係の集会や授業がある。月に一度は模擬試験がある。進学先の大学を決めろ決めろと、担任からも進路指導の先生からも口を酸っぱくされた。面倒だった。

 授業に出ない割に、模擬試験の成績はよかった。唯一どうしようもなかったのは、やっぱり数学だ。赤点こそ取らなかったけれど、百点満点のテストで英語と数学の点差が五十五点なんてこともあった。

 進路調査でも、模擬試験の志望校の記入欄でも、テキトーな大学名しか書かなかった。地元から離れたいという気持ち以外、希望することはなかった。住んでみたい場所もない。大学の文系の学部で何が学べるのか、それを調べてみたいとも思わなかった。

 年度が改まって、二年生になった。
 文系特進クラスはほとんどそのままメンバーも変わらなかったけれど、担任だけ変わった。三十代後半の国語の男性教師。細身やメガネを掛けていて、変わり者だった。

「鹿島といいます。さて、きみたちはこの言葉の意味を知っているか?」
 黒板に書かれた文字は「生徒」。鹿島先生の質問の意図がわからずに、クラス中がキョトンとした。
 鹿島先生は淡々と言った。
「生徒の『徒』の字は『無駄』という意味を持つ。生徒とはつまり『生きる無駄』だ」

 鹿島先生が言葉を切ると、教室じゅうがしんとした。みんな話に聞き入っていた。ひと呼吸入れた鹿島先生は、続けて言った。
「学校の勉強なんか何の役に立つんだと、きみたちもつねづね思っているだろう。確かに、受験のために覚え込まなければならない知識の大半は、事細かに記憶していたところで無駄になる。実生活の役には立たない」

 鹿島先生は教室じゅうをぐるりと見渡した。冷ややかに見えるポーカーフェイス。最後に少しだけ、唇の片方の端が持ち上がった。
「知識そのものは受験の役にしか立たない。だが、ここで身につける勉強のやり方は、必ず将来、きみたちの生活の役に立つ。仕事の役に立つ。生きることの役に立つ。だから、きみたちはこれからの高校生活、大いに無駄に過ごしなさい」

 後で聞いたところによると、鹿島先生は、日本で屈指の偏差値の高い大学を出ているらしい。皮肉屋の変わり者。職員室でも教室でも、よく本を読んでいる。好きなものはタバコとコーヒー。

 型通りの進路指導の二者面談は五月に組まれていた。それよりも先、四月のまだ上旬のうちに、わたしは鹿島先生に呼び出された。
 職員室の隣にある進路指導室に入ると、鹿島先生はベランダに続く引き戸を開けた。ベランダには椅子が二脚、隣合うでも向かい合うでもない角度に置かれていた。

「部屋にこもって話をするより、外の方がいいだろう。お、ウグイスが鳴いてるぞ」
 鹿島先生の手には、わたしの進路調査票や成績一覧を挟んだファイルがあった。でも、それは二者面談の体裁を整えるだけのものだったらしい。鹿島先生はファイルの中身を見るでもなく、変な距離感で椅子にかけてそっぽを向いたままわたしに言った。

「おまえ、まだ勉強で本気出してないな。本気出したら、こんなもんじゃないだろ」
 何を根拠にそんなことを言い出すのか。変な先生だ。
「わかりません」
「だろうな。目標もなく本気を出せるやつなんかいない。志望校を決めればいい。そうしたら、自分のポテンシャルと向き合える」

「興味ないんです。家から出られれば、どこでもいいと思っていて」
「だったら、私の後輩になることだ。響告大学だったら、肌に合うだろう」
 耳を疑った。響告大学の文学部といえば、偏差値七十二から七十四。文学部の中では、日本で二番目に入試の偏差値が高い大学だ。

「わたし、数学の偏差値が二十ぐらい足りないんですけど」
「しかし、国語と英語はいける。授業を聞いていないから、定期テストの点数は伸びないが、模擬試験では突き抜ける。底力があるんだ。やればできる。確実に」

 やろうという気が、わたしにはない。集中できない。勉強している合間にも、不意に暗闇に引きずり込まれるように、終わりのない葛藤に絡め取られてしまう。わたしは、ねっとりとした沼の底の生き物だ。明るい場所とも美しい景色とも縁遠い。

 鹿島先生がニヤリと笑った。
「おまえを見ていると、昔の自分を見ているみたいなんだ。私もよく授業から抜け出していた。私は図書館で本ばかり読んでいたんだが、おまえは学校にいないとき、何をしてる?」

「家にいます。家族の手前、申しわけなくて、息を潜めるようにしています。一応勉強したり、本を読んだりゲームをしたり」
「文章を書くだろう。小説を。文芸部誌に載っている」
「……はい」

 気まずくて言葉の詰まるわたしに、鹿島先生は、思い掛けないことをサラリと言った。
「異世界のファンタジーを描いているのに、見てきたように書くんだな。世界に描き方が美しい。入学前のアンケートでは、世界史が楽しみだと書いていただろう? それも小説のためか?」

 小説を書くことを平然と認めてくれる大人がいるなんて。学校の先生がわたしの小説を、授業で書く文章でもないものを誉めてくれるなんて。
 驚いてしまって、わたしはただ正直な答えを出すことしかできなかった。

「歴史を知らないと自分独自のファンタジーの世界を創れないと感じているので、勉強したいです。世界史」
 わたしは何を話しているんだろう? 相手は高校の先生だ。この時間は、進路指導の二者面談のはずだ。なのに、どうして、小説を書く話を?

「知ってるか? 『指輪物語』の映画がもうすぐ公開になる」
「はい」
「楽しみだな。翻訳版の文章が読みにくくて仕方ないが、あの世界観、あの物語はすばらしい。ああいう世界を作れたらと憧れる気持ちは、私にもわかる。私もそういう高校生だった」

「……先生も書かれていたんですか?」
「まあな。だが、書くより読むほうが好きだと、大学時代に気付いた。書ける人間はすごいものだと思う。書きたいという気持ちが、まず素晴らしい」

「わたしにはこれしかないんです。小説を書くことは、わたしにとって唯一、手応えの感じられることで。書けば書くほどうまくなる、まだ伸びていけるって感じられる。だからまだここでは終われないって、そう思って、どうにか生きてるんです」

 声が震えた。めったに人と話さない喉は、これだけの言葉を発するだけで疲れてしまって、表現したい思いの半分も声にすることができない。
 鹿島先生は低い声で笑った。四月の少し肌寒い風が動いて、タバコのにおいがわたしへと流れてきた。

「やりたいことがあるなら、それにすがり付いて、しがみ付いて、どうにかして生きてこの高校を卒業しろ。おまえには退学を勧めたくない。おまえは通信制の高校に移りたいと、去年はチラッとこぼしてたそうだが、そっちには行くな」
「でも、わたしはまた休むと思います。中学のころからずっと、わたし、こんなふうなんです」

「休んでいい。サボっていい。それは罪なんかじゃない。自分という存在が壊れないようにバランスを取って、どうにか踏みとどまれ。そしてな、家に引きこもるんじゃなくて、外へ逃げ出せ」
「逃げ出す?」

「旅に出ろ。知らない場所に行ってみろ。自分の可能性を試してみろ。いい案がある。私の大学時代の同級生に、おまえを紹介しよう。この夏、飛び出してしまえ」
「はい?」

 わたしは思わず、鹿島先生をまじまじと見た。鹿島先生は、唇の片方の端を持ち上げる笑い方をした。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 鹿島先生の提案は、ハッキリ言って、かなりめちゃくちゃだった。本当に高校教師が担任として受け持っている生徒に対してする提案だったのかと、わたし自身も思ったし、わたしの両親もそう言ったし、職員室でも何度となく聞くことになった。

 七月、夏休みの補習課題が配られると、わたしは誰よりも早くそれを仕上げて、各教科の先生に提出した。答え合わせをして、やり直しをして、再提出。
 一学期の終業式の日には、わたしは夏休みの補習課題をやり終えていた。これが条件だったんだ。わたしが夏の間、旅に出るための。

 同級生たちが一週間の勉強合宿に出かけたその日、わたしは大きなスーツケースを持って国際空港に向かった。ちなみに勉強合宿というのは、標高の高い避暑地にある旅館にこもって朝から晩まで一日あたり十一時間みっちり勉強する、という地獄のイベントだ。

 鹿島先生の紹介で知り合った、鹿島先生の大学時代の同級生という人は、英会話教室の経営者だった。イチロー先生という。彼がオーガナイズする夏のホームステイに、わたしは参加することになったんだ。

 これから飛行機で向かう先は、アメリカのミネソタ州。カナダとの国境に接した、夏でもとても涼しい州だ。森と湖の情景が美しいらしい。冬はアメリカでも屈指の豪雪地帯で、子どもを外に出したらそれだけで児童虐待の罪に問われるような、そんな土地柄だという。

 ミネソタ州は、銃社会のアメリカの中で最も安全な州とも呼ばれている。州の中枢機能を担うのは、ミシシッピ川を挟んだ双子都市のセントポールとミネアポリス。清潔で美しい町だそうだ。

 七月半ばに、ホームステイに向けたオリエンテーションがあって、ミネソタ州について説明を受けた。アメリカの一般家庭での習慣だとかマナーだとか、一ヶ月のホームステイに必要な基本的なあれこれも説明された。

 一緒にホームステイに行くメンバーと、そこで初めて知り合った。総勢十五人。大半は中学生で、高校生はわたしともう一人だけ。
 もう一人の高校生である一つ年下の男の子は、屈託のない笑顔でわたしにあいさつをした。

「初めまして。竜也《たつや》って呼んでください。おれ、英語は全然話せないので、役に立たない度合いで言ったら中学生と大差ないと思いますけど、よろしくお願いします」
「わたしも話せないよ。英語のテストでの成績はともかく、英会話は全然」
「ですよね。でも、たぶんおれたちがリーダー的なことやらされると思うんで、腹をくくっちゃいましょう」

 そこにいる全員が私服だった。学校という世界から切り離して見てみると、中学生という存在は怖くなかったし、キモチワルくもなかった。
 自己紹介をしたり雑談をしたり、そういう時間が少し設けられた。わたしは、話すことができた。竜也の目を見て、ちょっとだけ笑い返すこともできた。

 そして今日は、ついに迎えた出発の日だ。搭乗ゲートをくぐる前に集合写真を撮った。親たちが不安そうに見守っていた。
 わたしはイチロー先生の指示を受けて、あいさつの号令をかけることになった。何年かぶりに、人に聞かせるための声を張り上げる。

「行ってきます!」
 弾んだ声が重なった。
「行ってきます!」

 不安はなかった。ワクワクしていたわけでもない。心は凪いで、穏やかだった。毎日制服を着て学校に通わなければならない世界から解放されて、体が軽かった。肩や背中のこわばりが消えて、呼吸の仕方を忘れることもなくて。

 日本からミネソタ州のセントポールまで、フライト時間は十四時間。大半を眠って過ごした。クーラーが効きすぎていて、少し寒かった。
 夏時間の今、日本とミネソタ州の時差は十四時間だ。乾いた空気の空港に降り立つと、飛び立った時と同じ日の同じ時刻だった。日本では日付が変わった丑三つ時のはずだ。

 空港からバスに乗って、わたしたちがステイするセントポールの郊外へと移動する。アメリカでも夏休みの時期だ。この期間を利用して、ある高校の課外学習のような形で、日本から訪れたわたしたちとの交流学校がおよそ一ヶ月間開かれる。

 バスの到着地こそが、交流学校を主催する高校だった。その高校の先生の一人が、かつて日本に留学していたらしい。そのときイチロー先生と仲良くなったんだそうだ。彼が帰国した後、今度はイチロー先生がアメリカに留学して、そのときもよく会っていたらしい。

 芝生のグラウンドにホストファミリーたちが集まっていた。十五人の日本人は順番に名前を呼ばれて、ホストファミリーと引き合わされる。
 わたしが呼ばれたのは最後だった。竜也も同時に呼ばれた。ホストファミリーたちのリーダーを務めるマーガレットが、十二歳の双子のケリーとブレットの肩を抱いてやって来て、わたしと竜也に告げた。

「こんにちは、アオイ、タツヤ。ホストマザーのマーガレットよ。アオイ、日本からお手紙をありがとう。この子たちも喜んで読んだわ。あなたはきれいな英語を書くのね」
「ありがとうございます」

 わたしはそれしか言えなかった。こういうときに謙遜してはいけないということは、日本を旅立つ前に一郎先生から説明を受けた。謙遜するほどの語学力もないから、「サンキュー」しか言えないのは、むしろちょうどいいかもしれない。

 マーガレットはわたしと竜也に尋ねた。
「二人は友達なのかしら。日本では知り合いだった?」
 いいえ、とわたし達は答えた。竜也がゆっくりと、英語でわたしに説明した。

「おれの最初のホストファミリー、この夏に別の計画が入って、キャンセルしたんだ。だから、おれは別のホストファミリーのところに行くことになった」
 マーガレットが説明を引き継いだ。
「そうなのよ、タツヤ。あなたはわたしの家に来るの。わたしも夫も子どもたちもあなたを歓迎するわ。アオイ、いいでしょう?」

 わたしはうなずくしかなかった。竜也は、照れたような様子で、すべすべした頬を掻いた。
 竜也はわたしよりも少し背が低い。うらやましいくらいの、くっきりとした二重まぶた。顔の輪郭がほっそりとして、やせぎすで手足が長い。ハーフパンツからのぞく脚は、スポーツをしているんだろうなという印象。

「よろしくお願いします」
 改めて竜也はそう言った。わたしも「よろしく」と返した。そうしたら、双子も元気よく、日本語で「よろしく」と声をそろえた。ケリーという名前の女の子の方が、続けて英語でまくし立てる。

「あたしたち、日本語を少し勉強してるの。だって、日本のアニメってクールなんだもの。セーラームーンはセクシーでかわいいわよね。あたしね、日本語で日本のアニメを観たいのよ。だから、二人とも、あたしに日本語を教えてね」

 早口だった。どうにか聞き取れた内容は、たぶんそんなふうだった。男の子のブレットと目が合う。そばかすだらけの彼はチラっと笑うと、さりげなくそっぽを向いた。照れているらしかった。

 わたしたちはマーガレットの大きな車に乗って、素朴で美しい街並みの中を抜けた。左ハンドル、右車線。車はやがて、芝生と街路樹の緑が鮮やかな住宅地の一角、これからステイする家に到着した。

 短いドライブの間じゅう、わたしの目に映る景色は、何もかもが非現実的なほどに美しかった。自分とは違う誰かの人生を演じるかのようにキラキラと楽しい毎日が、そうやって始まった。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 ホームステイをすることになった家は豪邸だった。客間が四つがあるらしい。わたしはケリーの部屋のすぐそば、竜也はブレットの部屋のそばの客間を使わせてもらうことになった。

 スーツケースを引っ張って部屋に入ると、きれいにメイキングされたベットの上に、ブルーの包装のプレゼントが置かれていた。「開けてみて」と言われたから、「OK、ありがとう」とつぶやきながら包みを開く。
 ブルーのラメがキラキラした表紙で、どっしりとした装丁のノートが現れた。

 ケリーが緑色の目を輝かせてわたしに言った。
「あなたはとても勉強家だとイチローから聞いたの。勉強が得意なだけじゃなくてストーリーを書くとも聞いた。そうしたら、プレゼントもう、このノートしかないと思ったのよ。表紙を見ているだけで、ワクワクするストーリーを思い付きそうでしょ」

「ありがとう。すごく嬉しい」
「よかった。それともう一つ、プレゼントがあるの。あたしとブレットであなたのニックネームを考えたのよ」
「ニックネーム?」
「だって、ア・オ・イ、っていう名前、難しいのもの。日本語の名前は難しいわ」

 十二歳のケリーの説明はあまりうまいとはいえなかったし、わたしの聞き取りの能力も高くない。蒼という名前が難しい理由を理解するのには、ちょっと時間がかかった。一言でまとめると、英語を話す人にとって母音が連続する単語はとても発音しづらいということだ。

「あなたの名前はここにいる間、サファイアよ。ア・オ・イ、はブルーという意味だと聞いたの。そうなんでしょ?」
「うん」

「青くて美しいものの中で何がいいかなって考えた。空.海、鳥、すみれ、リボン。でも、やっぱりサファイアよ。そして、あなたにこうして会って、サファイアで正解だったと思った」
「ありがとう」

 くすぐったくて、恥ずかしくて、嬉しくて。胸の奥がギューッと締め付けられるように感じると、速まった鼓動が喉のあたりにせり上がってくるみたいで、頬や耳が熱くなった。
 ケリーはキョロキョロして、わたしの部屋に誰も入ってこないことを確かめた。それから声をひそめて言った。

「サファイア、あなたとあたしだけの約束にしてほしいんだけど、二人でいるときは、あたしのことをダイアモンドって呼んで。あたしはダイアよ」
 人の名前を呼ぶというのは、とてもくすぐったいことだ。でも、英語での会話なら、名前を呼び合うのは普通のことだ。思い切って、わたしは言う。

「OK、ダイア。わたしもそう呼ぶ」
「二人だけの秘密よ。ブレットにも言っちゃダメだからね」
「わかった」

 夏の間、ミネソタでは日が沈むのがとても遅い。磨かれた窓から外を見るたびに、薄青色の晴れた空が淡く光っていた。
 家の中を案内してもらったり、日本からのお土産をケリーたちに渡したり、たまたま家を訪れたご近所さんにあいさつをしたり、スーツケースの中身を生活しやすいように整理したり、そうこうするうち、あっという間に夕食の時間になった。

 外が明るいから、夕食だと呼ばれて時計を見て、初めて午後七時だということに気が付いた。そんなに時間が経っているなんて思いもしなかった。
 マーガレットの夫であり、ケリーとブレットの父親であるスティーブは、テレビ局の仕事をしているらしい。仕事が立て込んでいるときは、夕食の時間にしか家に帰れないそうだ。わたしと竜也は夕食の席で初めてスティーブとあいさつをした。

 アメリカ人の四人家族と、わたしと竜也。広々としたダイニングのテーブルは、六人で囲むにも大きすぎるくらいだった。夕食のメニューはシンプルだ。大皿に盛られたトマトソースのパスタと、オーブンで焼いたチキンと野菜。飲み物はオレンジジュース。
 お祈りをした後、それぞれが自分の皿に取り分ける。食べたいときにちょっとずつ取り分ける日本のやり方と違って、最初に一人前を作ってしまう格好だった。

 ケリーが張り切ってお手本を見せてくれた。その後、ブレットが。おかげで何となく、取り分けるべき料理の量がわかる。量も、食べる速さも、どのくらいおしゃべりを挟んでいいのかも、一家の様子を注意深く観察して、わたしは真似をする。

 マーガレットが少し心配した。
「日本では食事のとき、チョップスティックスを使うのでしょう。口にはナイフとフォークしかないの。食べにくいかしら?」

 箸は、英語ではチョップスティックスっていうんだったっけ。そんなこと思いながら、首を縦に振るべきか横に振るべきか悩む。マーガレットの言葉は否定疑問文だった。日本語の感覚でこれに答えると、イエスとノーが逆になってしまう。

 わたしは首を縦にも横にも振らず、たどたどしく説明した。
「日本人も、ステーキやヨーロッパの料理を食べるとき、ナイフとフォークを使います。パスタのときは必ずフォークを使います。だから、わたしたち、大丈夫です」

 大丈夫というのは、all right。ホームステイの間、何度もその言葉のやり取りがあった。大丈夫かと聞かれて、大丈夫と返す。All right。わたしは大丈夫。
 All rightは、日本語の大丈夫よりも前向きで明るいニュアンスのような気がした。わたしの個人的な感覚だろうか。

 わたしがサファイアと呼ばれるようになったことについて、竜也が冗談っぽく大げさな膨れっ面で、いじけてみせた。
「蒼さんだけニックネームがあって、ずるいです」

 それで、竜也にもニックネームを付けようという話になった。「竜」の字がドラゴンという意味だとわたしが言ったら、じゃあドラゴンに関係する名前にしよう、と。
 ブレットはアニメの『ドラゴンボール』が大好きだから、登場人物の名前を付けたがった。竜也もその話に乗っかって、わたしもケリーも『ドラゴンボール』ならだいたいわかるし、ああでもないこうでもないと話が盛り上がった。

 話といっても、英文としてパーフェクトな文章なんてなかったと思う。単語がポンポンと飛び交うだけ。
 間違いを恐れて頭の中で英作文をしていては、会話に乗り遅れた。思い付いた単語を、とにかく口に出す。そうして、聞いてもらう体勢を引き寄せる。黙り込んじゃダメだ。単語を口にする。そうしたら、ケリーもブレットも、わたしと竜也の下手くそな英語を補ってくれる。

 竜也のニックネームは結局、決まらなかった。でも、四人でワイワイと『ドラゴンボール』のキャラクターのことを好きだとか嫌いだとかカッコいいだとか言い合って盛り上がって、わたしは気が付いたら笑っていた。

 シャワーを浴びて、就寝。時間が飛ぶように過ぎるなんて、いつ以来だろう? 普段だったら、時間というものは、ねっとりと絡み付きながら重苦しく這っていくばかりなのに。
 学校は午前九時ごろに始まって、午後三時ごろまで。途中に二回、長めの休憩がある。その二度ともで、持参したランチを食べていい。

 ランチの内容は、簡単なサンドウィッチと丸ごとのリンゴやバナナ、ちょっとしたお菓子。わたしはポテトや野菜のチップスとか、クラッカーにチーズをディップして食べるパックとかを気に入ったから、わたしの甘いお菓子とほかの子のチップス系とで交換したりした。

 日本を発つ前には、ホームステイの間に通うのは英語を教わる学校だ、と聞かされていた。実際のところ、確かに一応テキストブックがあって、先生であるマリーとクレアの説明を聞きながら穴埋め問題をやったこともある。
 でも、中学生がメインのグループだから、高二のわたしと彼らの間には、どうしても習熟度に差があった。文法を教わるグラマーのテストの結果でいうと、わたしも竜也も高校生として申し分ないそうだ。

 最初の三日間はお試しみたいな感じだった。イチロー先生とマリーとクレアで試行錯誤して、わたしたち十五人に何をやらせようかと作戦を立てていた。
 その結果、普通の授業はほとんどなくなった。わたしたちは毎日のように、ホストファミリーの子どもたちと一緒に課外授業に出掛けることになった。もともと古戦場や動物園、古い教会、市役所、科学館を訪れる予定は組まれていた。それ以外の課外授業も増えたというわけ。

 学校のまわりにある教会や、学校の友達と遊びに行くというショッピングセンター、ローラースケートやスケートボードができる運動公園、映画館とおしゃれなカフェ。
 課外授業という名の、ただの街遊びだった。ただの、と言っても、ホストファミリーたちからの説明は全部英語だ。でも、中学一年生のメンバーでさえ、不思議なほどにちゃんと理解していた。

 竜也がこんなふうに分析した。
「目の前に実物があるからわかるんだと思う。学校の教室で机に座って、CDでのヒアリングの問題だったら、こんなにちゃんとは英語が耳に入ってこない」

 そのとおりだと思った。一つひとつの単語や文章がすべて理解できているわけでもないし、文法的にどうのこうのと解説なんてできない。それでも会話になる。わたしがどうにか意思を伝えたくて支離滅裂に単語を並べるだけでも、ケリーは先回りして理解してくれる。

「サファイア、あなたが言いたいのはこういうことでしょ」
 テレパシーみたいなもの。人間同士の間には、そういう不思議なチカラがあるとしか思えなかった。英語を聞き取っているというよりも、英語という形を取った相手の意思を読み取っている。感じ取っている。そんなふうだった。

 胃は少しも痛くなかった。ひどいはずの肩こりも感じなかった。毎日が楽しかった。充実していた。
 わたしは、日本で通っている学校でははぐれ者だということを、誰にも悟られずにすんだ。それくらい自然に、わたしは笑ってしゃべって学校に通っていた。このひと夏だけの特別な学校に。

 家の裏手には、近所の数軒の豪邸で共有する芝生の公園があった。大きな木々がほどよい木陰を芝生の上に落としていた。ふさふさの尻尾を持つリスがたくさんいた。
 学校から帰ると、ケリーやブレットの体操や水泳の教室がない日は、はだしになって芝生の公園で遊んだ。まわりには白人の子どもしか住んでいなかったから、みんな、わたしや竜也に興味津々で、日本に関連する本を手に集まってきた。

 日本のアニメがアメリカでも受け入れられていることを、わたしは知った。ただ、キャラクターの名前が日本のままとは限らないから、話が通じるまでにはちょっと時間がかかる。そうやって苦労すること自体が妙に楽しかった。まるで暗号の謎解きをするみたいだった。
 忍者と刀と空手も大人気だった。特に空手は、どんな小さな町にも教室があるくらいアメリカ人の間で有名らしい。

 日本の食べ物はヘルシーだというのも有名らしい。スシ、トーフ、ショーユ、ミソスープ、ラーメン。黒髪のアジア人を初めて間近に見たという子どもたちでさえ、代表的な日本の食べ物を知っていた。

 チョップスティックスを使って食事をするのが、まるでマジックを見ているようだという子もいた。
「違うよ。マジックじゃなくて、忍術だ」
 ブレットがそう言って、おどけてみせた。ブレットはシャイだけれど、頭の回転が速くてユーモアがある。

 わたしが竜也としゃべるときは、さすがに日本語だ。でも、ケリーやブレットがそばにいるときは日本語を出さないように、というルールを決めた。だから、わたしと竜也の間にそれほど多くの会話はなかった。

 毎朝、目が覚めるたびに、自分のものとは違うシーツの匂いに包まれている。メガネなしの視界にぼんやりと映る部屋は広くて、ブルーとピンクの花が咲く壁紙が優しい色ににじんでいる。
 よかった、と安心するんだ。わたしは今日もまだ、こっちの世界にいる。
 世界は一つしかないと、かたくなにそう考えていた。違ったんだ。

 わたしが世界だと思っていたものは、学校という世界は、小さな小さな鳥かごに過ぎなかった。鳥かごには扉が付いていて、鍵は掛かっていなくて、出ようと決心すれば外に出られた。羽ばたきながら振り返ってみれば、鳥かごは本当に、とてもとても小さかった。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 日曜日は教会に行った。最初は何のコンサートかと思ったくらい、教会で演奏されていたのはノリノリのゴスペルで、わたしが想像していたような堅苦しさは全くなかった。学校は休みだけれど、ホームステイの仲間のほとんど全員が、そのコンサートのようなミサに来ていた。

 ミサのときは普段より少しきれいな格好をするようにという指示だったから、わたしは光沢のある生地のブラウスとズボンだった。この服は、ケリーには不評だった。
「スカートやドレスにすればいいのに」
 わたしは苦笑いで辞退した。ドレスなんて、がらじゃないから。

 竜也は、カッターシャツにネクタイに革靴で、ひどく大人びて見えた。わたしは似合うと思ったのだけれど、中学一年の女の子たちはいつにも増しておませで、竜也をさんざんからかって遊んでいた。
「カッコつけてるー! 似合わなーい!」
「はいはい、勝手に言ってろよ」
 竜也は怒りもせず、女の子たちの大騒ぎを右に左にかわしていた。

 冬が長くて厳しいミネソタでは、遊園地さえ屋内にあった。町が丸ごと一つ入っているかのように大きな大きなショッピングセンターがあって、その真ん中が遊園地になっていた。学校の課外授業で、一日かけてショッピングセンターと遊園地で遊んだ。
 遊園地なんて、いつ以来だろう? そもそも観光のために外出するなんて、いつ以来だろう? 毎日私服で出掛けるなんて、いつ以来だろう? こんなに楽しいのなんて、いつ以来だろう?

 週末を利用して、学校の休みも一日もらって、湖のそばへ家族でキャンプに行った。寝泊まりするのはテントではなくて、スティーブが誰かから借りてきた大きなキャンピングカー。

 途中で昼食のために寄ったハンバーガーショップに、わたしは電子辞書を置き忘れてしまった。キャンプ場に着くころになってそれに気付いて慌てたけれど、マーガレットがすぐにハンバーガーショップに電話をして、電子辞書が無事にそこにあることを確認した。
「帰りの日のランチもそこに決定ね。悩む必要がなくなったわ」
 マーガレットは冗談っぽく笑って言った。

 到着した日は暖かかった。スティーブとマーガレットは、キャンピングカーのセッティングをする間に湖で遊んでおいで、とわたしたちに告げた。
 わたしたちは湖で泳いだ。水は冷たかった。水底は砂だった。少し波があった。川と似た匂いがした。ゴーグルを付けて潜ったり、岸辺まで泳ぐ速さを競ったり、浮き輪を抱えて深いところに行ってみたり。

 体が冷えてきて湖から上がるころには、髪がキシキシした。ケリーもちょうど同じタイミングで同じことを考えたらしい。
「シャンプーとコンディショナーが必要ね。今すぐ」
 ケリーは膨れっ面になった。

 夕食はバーベキューだった。ホットドック用のパンを肉の隣であぶって、ソースに漬け込んでおいた肉と玉ねぎが焼けたら、パンに挟んで食べる。
 それから、インスタントのコンソメスープもあった。クルトンを浮かべて、乾燥ハーブを振って、キャンプ用のプラスチック製のカップでいただく。
 夕方の薄闇がずっと続く湖畔は、どんどん気温が落ちていった。バーベキュー用の火は焚いたままで、それが暖かかった。

 次の日は湖に船で出て、魚釣りをした。夜は釣った魚をソテーして、パスタに添えて食べた。
 日が落ちると、その夜は本当に寒かった。わたしと竜也とケリーとブレットはコートを着込んで、キャンプ場の真ん中に焚かれた火のそばで、何を話すでもなく、でも何となく笑い合いながら過ごしていた。

「It's so cold」と震えたケリーが、不意に目をキラキラさせてわたしに尋ねた。
「日本語でこういうとき、何て言うの?」
「coldは、寒い。さ・む・い、だよ」
「サ・ム・イ、サムイ。よし、覚えた! そろそろキャンピングカーに帰らなきゃいけない時間よ。それでね、帰る途中で人とすれ違うと思うんだけど、そのときは英語をしゃべっちゃダメ。サムイって言って、アメリカ人じゃないふりをするの」

 OK、と返事をする声が重なった。わたしたちは、ホットレモネードが空っぽになったカップをそれぞれ手に持って、キャンピングカーのほうへと歩き出した。
 若いカップルとすれ違ったとき、予定どおり「サムイ」と言い合ってみた。すれ違う二人が不思議そうなく目をする。わたしたちは何食わぬ顔で歩いて、距離が開いてから、声を殺して笑った。たったそれだけの、いたずらとも呼べないことが、なぜだかひどく楽しかった。
 楽しい時間はあっという間に過ぎるって、それは本当だ。
 学校では、日本人とホストファミリーが別々に過ごす時間が設けられるようになった。フェアウェルパーティー、つまりお別れ会ではそれぞれが相手のために出し物する。その準備の時間だ。

 総勢十五人の日本人は何組かのグループに分かれて、自分たちの得意なことをやるという流れになった。
 一人で空手の型を披露する子もいる。四人でチームを作って、日本から持ってきたCDに合わせてダンスをする子たちもいる。桃太郎の紙芝居をするのだと言って、イラストとシナリオを書き始めたグループもある。

 CDプレーヤーやピアノやギターは自由に使っていいと言われた。わたしはちょっと考えた。人前での出し物って、どうしようか。わたしにできることはある。今なら、歌とギターを思い出せるんじゃないか。

 竜也がわたしに訊いた。
「蒼さんは何をするんですか?」
「思い出せたらね、ギターを弾こうかなって。弾き語り、前はできてたから」
「えっ、すごい。聴いてみたいです」

 わたしはギターを構えてみた。ピアノの練習をしている子に音をもらって、六本の弦のチューニングをする。
 ここに楽譜はない。丸ごと覚えている曲は、たった一曲。わたしが初めて覚えた曲だけなら、英語の歌詞もギターを弾く指も、忘れることもなく身に付いている。

 カーペンターズの『トップ・オブ・ザ・ワールド』。中学一年生のころ、英語の単語も文法もわからないまま丸暗記した。シンプルなコード進行をつたない指遣いで覚えて、どうにか最後まで弾けるようになった。
 何年ぶりだっけ? わたし自身も意外だったけれど、わたしは完璧に『トップ・オブ・ザ・ワールド』を覚えていた。
 運指にちょっとつまずきながら最後まで弾き語ると、竜也が手を叩いて提案してきた。

「この曲だったら、おれ、ハモれますよ。中学のころ、音楽の先生の趣味で、この曲の合唱をやったんです」
「じゃあ、フェアウェルパーティー、二人でこれやる?」
「おれが一緒で蒼さんの負担にならないんなら、ぜひよろしくお願いします」
「負担とかはないよ。つっかえないように練習しなきゃ」

「おれも、ちゃんとハモれるように頑張ります。蒼さんの声、すごいきれいですね。今さらですけど。もともときれいな声だなって思ってましたよ。だけど、歌ったら本当にきれい」
「そうかな?」
「そうですよ」
「……久しぶりに歌った。歌い方、忘れてなくてよかった」

 ミネソタに着いてすぐの数日間は喉がかれてしまった。いつの間にか回復して、今は歌い方まで思い出している。

「蒼さんは音楽系の部活とか、やってないんですか? まあ、進学校でしたっけ。忙しいですよね」
「そうだね」
「おれのところもけっこう忙しいんですよ。あ、うちも進学校なんですよ」
「ホームステイ、許可が下りにくかったんじゃない?」

「それなりに苦労しました。でも。どうしてもおれ、外国っていう場所に触れてみたくて。もう必死で先生たちを片っ端から説得して、やっとのことでここに来たんです」
「わたしは担任の先生の勧めでね。ほかの先生たちに対しては、説得っていうか、夏休みの課題を出発前に全部やるっていうのを条件に、無理やり納得してもらったけど」

 竜也は肩をすくめた。
「高校生って不自由ですよね。大学生になったらやりたいことがもっと自由にできるのかなって思います」
「大学か」

「蒼さんの志望校、どこですか?」
「まだ決めてない。でも、担任やイチロー先生からは、響告大学の文学部に行けって言われる」
「響告大学。すごいですね。って言っても、実はおれも狙ってるんですけど。そっか。蒼さも目指すことになるようだったら、おれも本気出して頑張らなきゃな」

 竜也は内緒話みたいに声をひそめながら笑った。
 大学生になるというイメージが初めてわたしの中に生まれたのは、竜也と話したこのときだ。大学に受かって家を離れるときは、ギターケースの埃を拭って持っていこう、と決めた。そこでわたしはもう一度わたしに戻れるかもしれない、と思った。