一年生の出席日数はぎりぎりだった。大学の推薦入試はもう絶対に受けられない。まあ、そんなの別にどうだっていいや、と思ったけれど、
 学校では、二週間に一度は進路関係の集会や授業がある。月に一度は模擬試験がある。進学先の大学を決めろ決めろと、担任からも進路指導の先生からも口を酸っぱくされた。面倒だった。

 授業に出ない割に、模擬試験の成績はよかった。唯一どうしようもなかったのは、やっぱり数学だ。赤点こそ取らなかったけれど、百点満点のテストで英語と数学の点差が五十五点なんてこともあった。

 進路調査でも、模擬試験の志望校の記入欄でも、テキトーな大学名しか書かなかった。地元から離れたいという気持ち以外、希望することはなかった。住んでみたい場所もない。大学の文系の学部で何が学べるのか、それを調べてみたいとも思わなかった。

 年度が改まって、二年生になった。
 文系特進クラスはほとんどそのままメンバーも変わらなかったけれど、担任だけ変わった。三十代後半の国語の男性教師。細身やメガネを掛けていて、変わり者だった。

「鹿島といいます。さて、きみたちはこの言葉の意味を知っているか?」
 黒板に書かれた文字は「生徒」。鹿島先生の質問の意図がわからずに、クラス中がキョトンとした。
 鹿島先生は淡々と言った。
「生徒の『徒』の字は『無駄』という意味を持つ。生徒とはつまり『生きる無駄』だ」

 鹿島先生が言葉を切ると、教室じゅうがしんとした。みんな話に聞き入っていた。ひと呼吸入れた鹿島先生は、続けて言った。
「学校の勉強なんか何の役に立つんだと、きみたちもつねづね思っているだろう。確かに、受験のために覚え込まなければならない知識の大半は、事細かに記憶していたところで無駄になる。実生活の役には立たない」

 鹿島先生は教室じゅうをぐるりと見渡した。冷ややかに見えるポーカーフェイス。最後に少しだけ、唇の片方の端が持ち上がった。
「知識そのものは受験の役にしか立たない。だが、ここで身につける勉強のやり方は、必ず将来、きみたちの生活の役に立つ。仕事の役に立つ。生きることの役に立つ。だから、きみたちはこれからの高校生活、大いに無駄に過ごしなさい」

 後で聞いたところによると、鹿島先生は、日本で屈指の偏差値の高い大学を出ているらしい。皮肉屋の変わり者。職員室でも教室でも、よく本を読んでいる。好きなものはタバコとコーヒー。

 型通りの進路指導の二者面談は五月に組まれていた。それよりも先、四月のまだ上旬のうちに、わたしは鹿島先生に呼び出された。
 職員室の隣にある進路指導室に入ると、鹿島先生はベランダに続く引き戸を開けた。ベランダには椅子が二脚、隣合うでも向かい合うでもない角度に置かれていた。

「部屋にこもって話をするより、外の方がいいだろう。お、ウグイスが鳴いてるぞ」
 鹿島先生の手には、わたしの進路調査票や成績一覧を挟んだファイルがあった。でも、それは二者面談の体裁を整えるだけのものだったらしい。鹿島先生はファイルの中身を見るでもなく、変な距離感で椅子にかけてそっぽを向いたままわたしに言った。

「おまえ、まだ勉強で本気出してないな。本気出したら、こんなもんじゃないだろ」
 何を根拠にそんなことを言い出すのか。変な先生だ。
「わかりません」
「だろうな。目標もなく本気を出せるやつなんかいない。志望校を決めればいい。そうしたら、自分のポテンシャルと向き合える」

「興味ないんです。家から出られれば、どこでもいいと思っていて」
「だったら、私の後輩になることだ。響告大学だったら、肌に合うだろう」
 耳を疑った。響告大学の文学部といえば、偏差値七十二から七十四。文学部の中では、日本で二番目に入試の偏差値が高い大学だ。

「わたし、数学の偏差値が二十ぐらい足りないんですけど」
「しかし、国語と英語はいける。授業を聞いていないから、定期テストの点数は伸びないが、模擬試験では突き抜ける。底力があるんだ。やればできる。確実に」

 やろうという気が、わたしにはない。集中できない。勉強している合間にも、不意に暗闇に引きずり込まれるように、終わりのない葛藤に絡め取られてしまう。わたしは、ねっとりとした沼の底の生き物だ。明るい場所とも美しい景色とも縁遠い。

 鹿島先生がニヤリと笑った。
「おまえを見ていると、昔の自分を見ているみたいなんだ。私もよく授業から抜け出していた。私は図書館で本ばかり読んでいたんだが、おまえは学校にいないとき、何をしてる?」

「家にいます。家族の手前、申しわけなくて、息を潜めるようにしています。一応勉強したり、本を読んだりゲームをしたり」
「文章を書くだろう。小説を。文芸部誌に載っている」
「……はい」

 気まずくて言葉の詰まるわたしに、鹿島先生は、思い掛けないことをサラリと言った。
「異世界のファンタジーを描いているのに、見てきたように書くんだな。世界に描き方が美しい。入学前のアンケートでは、世界史が楽しみだと書いていただろう? それも小説のためか?」

 小説を書くことを平然と認めてくれる大人がいるなんて。学校の先生がわたしの小説を、授業で書く文章でもないものを誉めてくれるなんて。
 驚いてしまって、わたしはただ正直な答えを出すことしかできなかった。

「歴史を知らないと自分独自のファンタジーの世界を創れないと感じているので、勉強したいです。世界史」
 わたしは何を話しているんだろう? 相手は高校の先生だ。この時間は、進路指導の二者面談のはずだ。なのに、どうして、小説を書く話を?

「知ってるか? 『指輪物語』の映画がもうすぐ公開になる」
「はい」
「楽しみだな。翻訳版の文章が読みにくくて仕方ないが、あの世界観、あの物語はすばらしい。ああいう世界を作れたらと憧れる気持ちは、私にもわかる。私もそういう高校生だった」

「……先生も書かれていたんですか?」
「まあな。だが、書くより読むほうが好きだと、大学時代に気付いた。書ける人間はすごいものだと思う。書きたいという気持ちが、まず素晴らしい」

「わたしにはこれしかないんです。小説を書くことは、わたしにとって唯一、手応えの感じられることで。書けば書くほどうまくなる、まだ伸びていけるって感じられる。だからまだここでは終われないって、そう思って、どうにか生きてるんです」

 声が震えた。めったに人と話さない喉は、これだけの言葉を発するだけで疲れてしまって、表現したい思いの半分も声にすることができない。
 鹿島先生は低い声で笑った。四月の少し肌寒い風が動いて、タバコのにおいがわたしへと流れてきた。

「やりたいことがあるなら、それにすがり付いて、しがみ付いて、どうにかして生きてこの高校を卒業しろ。おまえには退学を勧めたくない。おまえは通信制の高校に移りたいと、去年はチラッとこぼしてたそうだが、そっちには行くな」
「でも、わたしはまた休むと思います。中学のころからずっと、わたし、こんなふうなんです」

「休んでいい。サボっていい。それは罪なんかじゃない。自分という存在が壊れないようにバランスを取って、どうにか踏みとどまれ。そしてな、家に引きこもるんじゃなくて、外へ逃げ出せ」
「逃げ出す?」

「旅に出ろ。知らない場所に行ってみろ。自分の可能性を試してみろ。いい案がある。私の大学時代の同級生に、おまえを紹介しよう。この夏、飛び出してしまえ」
「はい?」

 わたしは思わず、鹿島先生をまじまじと見た。鹿島先生は、唇の片方の端を持ち上げる笑い方をした。