ふさいだ気分のまま過ごして、四月も終わりが見え始めた放課後だった。尾崎が文芸部員に招集をかけた。
「ゴールデンウィーク明けに、最初の文芸部誌の製本したいと思う。それまでに原稿を書いてくること」

 文芸部誌の春号の内容について話し合うため、わたしたちは文芸部室に集まった。総勢五人。
 話し合うというほどのこともなかった。テーマを決めて競作しようか、という案もチラッと出たけれど、誰がどんなもの書くのか、まだよくわかっていない。最初は好きなものを持ち寄ろうということになった。

 挿し絵を描く上田からリクエストがあった。
「清書する前のものでいいから、早めに原稿を見せてもらえないかな? やっぱり実際に読んだ上で描きたいんだ」

 了解、と尾崎が答えた。
「ついでにさ、上田、誤字脱字や言葉の間違いのチェックもやってよ」
「仕事が増えるなあ。いいよ。放送部での本読みで、正確な日本語表記には日ごろからなじみがあるしね」
「サンキュー、助かるよ」

 上田は油絵が得意だけれど、マンガも描けなくはないらしい。でも、今回は表紙と挿し絵を描いて、編集や校正まで請け負うことになるから、自分の原稿を上げる余裕はない。
「自分のオリジナルを描くのは、部員が増えて仕事の分担が楽になってからだね」
 上田はそう言った。

 わたし以外の全員が部活や委員会との掛け持ちで忙しそうだった。話し合いが終わると、部長の尾崎が真っ先に部室を飛び出していった。顔と名前を知らなかった別のクラスの二人も続いて出ていって、部室にはわたしと上田が残される。
 上田は相変わらず放送部との掛け持ちだ。今日は練習も当番もないらしいけれど。

「お疲れさま。蒼さん、今日はもう帰るだけ?」
「そうだけど」
「少し時間を取ってもらうこと、できない? 三十分くらい、そこに座っててもらうだけなんだけど」
「どうして?」

 上田は一つ深呼吸をしてから言った。
「描かせてもらえないかな? 横顔を描きたい。部誌の表紙にしたいなって」

 ゾッとした。三十分間もじっと見つめられなければならないなんて、怖い。キモチワルイ。イヤだ。
 わたしは美しくない。太った体もニキビだらけの肌も、前髪とはメガネで隠した表情も。顔立ちだって、たぶん、自分の理想ほどには美しくないんだと思う。わたしはきっと醜い。

「描かないで」
「気に障った?」
「見てほしくない」
 上田が息をつくのが聞こえた。ため息なのか笑ったのか、どっちだったんだろう?
「見てほしくないと言われてもね、ちょっとそれは難しい注文かもしれない」

 柔らかに鼓膜を打つ声は、初めて聴いた頃よりも落ち着いて、深みとツヤを増している。発声練習をしたり発音のトレーニングをしたり、声の仕事をしたいという目標に向かって努力をしているからだ。
 わたしの声も前はこんなふうだった。人に聞かせられる声だったはず。なのに今は、短い受け答えさえろくにできない。

 わたしは顔を背ける。上田の視線が付いてくるのがわかる。
「表紙のモデルなら、尾崎にすれば?」
「ぼくは基本的に人物画を描かないんだよ。課題以外では。蒼さんを描いてみたいと思ったのが初めてなんだけど、ダメかな?」

「わたしのことなんか見ないでほしい」
「それは聞けない。変なセリフを言うけど、勝手に視線を引き寄せられるんだよ。中学のころからずっと。何かが特別なんだ」
「やめて」
「迷惑?」

「わたしに近寄ったって、いいこともないのに」
「いいことがあるとか得をするとか、それだけで人付き合いを選ぶような器用な生き方は、ぼくにはできない。蒼さん自身がそれをわかっていそうだけどね。だって、ずっとノートを届け続けていたでしょう。それは……」

 わたしは乱暴な仕草で、椅子に乗せていたカバンを取った。ガタンと椅子が鳴る。上田の言葉が途切れた。
 得になるからノートを取り続けていたんだ。智絵のためと言いながら、わたしはわたしのために動いていた。上田にそれを教えてやるつもりはないけれど、上田の誤解が痛い。

「蒼さん」
 呼び止める声を振り切って、わたしは部室を出た。引き戸を閉めた途端、みじめな気持ちが胸にせり上がってきて、息ができなくなった。カバンを抱いて無理やり走る。

 うつむいた視界に長い影が伸びている。ウエストも足もほっそりとしている。こんなシルエット、嘘だ。
 みじめで仕方がなかった。智絵にノートを届けようと決めた去年みたいに必死になる理由が、今年はもうない。もうわたしは頑張れない。

 家に帰り着いて部屋に入って制服を脱ぎ捨てた。頭が痛くて仕方がなくて、晩ごはんに呼ばれたときも動けなかった。眠れない夜を過ごした。朝になっても、頭が痛くて胃が痛かった。

 その日、わたしは学校を休んだ。それが始まりだった。学校に行ったり行けなかったりする毎日。授業があっという間にわからなくなった。
 担任からは、義務教育じゃないんだからやめることもできるんだと言われた。やめたかった。智絵みたいに通信制の高校にすればよかったと、本気の後悔をし続けた。

 学校をやめたい。学校なんていう世界、わたしにはやっぱり無理だ。
 落ちていく。転がり落ちていく。
 血の赤を見るのが日常になった。どうしても引っ掻いてしまうニキビ。手にした文房具で衝動的に付ける傷。

 部屋の隅でほこりをかぶったケースを開けてギターを出してみると、弦が錆びて切れていた。キザギザした弦に傷口を押し当ててみる。痛みが皮膚の内側にザックリと入り込んできた。それが気持ちよかった。

 受験の合格祝いで買ってもらったプレステ2で、テイルズオブシリーズや『ドラゴンクエスト7』をした。誰もいない昼間、延々とやり込んだ。ゲームのレベルが上がるのと反比例して、勉強の仕方がわからなくなっていくみたいだった。

 どんどんいびつになっていく自分の中身を埋めるために、黒々とした言葉の連なる小説をひたすら書いた。
 小説の中でわたしの代わりにわたしの言葉を語ってくれる誰かは、わたしに似ているときがあっても、わたし自身よりずっと愛しい存在だった。彼らを殺さないために、あるいは美しく死なせるために、わたしは書くことをやめなかった。

 文芸部誌の原稿は、毎号きちんと提出した。だって、わたしには書くことしかないんだ。書いても書いても足りなくて、表現したい世界を作るにはわたしはまったくもって未熟で、それが悔しくてまた生きている。
 表現できたら、死んでもいいや。
 そんな毎日だった。高校一年生のころのことは、記憶が乏しい。