死にたがりティーンエイジを忘れない

 オープンキャンパスの開会式は長くて、体育館いっぱいの人混みのせいで暑くて息苦しかった。立ったままで、高校の校長先生の話を聞いているうちに、だんだんめまいがしてきた。

「蒼?」
 肩を揺さぶられてハッとしたとき、わたしはしゃがみ込んでいた。立っていたはずなのに。
 わたしを呼んだのは雅樹だ。ひとみと雅樹が床に膝を突いて、わたしの顔をのぞき込んでいた。

「蒼ちゃん、貧血? 琴野中の先生、呼んでくる?」
「蒼、昨夜は眠れなかったんだろ? 無理すんなよ」
 大丈夫、とだけ答えた。タイミングよく、会場じゅうの人が座って話を聞く流れになったから、わたしは目立たずにすんだ。

 寒気がする。鼓動が変なふうに高鳴っていた。ひとみと雅樹に、知られたくないことを知られてしまう。わたしがおかしいってことに気付かれてしまう。それがイヤで、怖くて、暑いのに鳥肌が立った。壇上で誰かが話す言葉には、まったく集中できなかった。

 オープンキャンパスのメインイベントは、体験授業だ。適当な人数ごとに、希望する科目を受けられる。
 ひとみと雅樹のリクエストで、わたしたちは特進科の数学を受けた。内容もスピードも高校の授業そのままだという事前説明どおり、めちゃくちゃ難しかったし速かった。

 わたしは基本的に文系だ。数学も理科も授業の内容を完璧にしているから定期テストでは点が取れるけれど、実力テストは点数が落ちる。計算も遅い。
 高校レベルだという数学の授業に、わたしは不安を覚えた。わたしとは裏腹に、出された課題を真っ先に解いたのは、雅樹だった。指名されて黒板に完璧な正答を書いたのは、ひとみだった。

 やっぱりというか相変わらずというか、美形の雅樹は注目の的だった。雅樹自身も当然、周囲の視線には気付いている。「めんどくせえ」とつぶやくのが聞こえてしまった。
 ひとみもまた人に好かれるタイプだ。数学の先生は、四十歳くらいとおぼしき背の高い男の人で、黒板に書かれた計算問題の位置がひどく高かった。おかげで、当てられて答えを書くことになった小柄なひとみは、黒板の前で背伸びをした。

「すみません、全然、届きません」
 笑いが起こった。バカにする感じではなくて、ごく普通の笑いだ。先生も、メガネを掛けた顔をクシャクシャにした。
「ごめん。届くところに書いてもらっていいですよ」

 声のいい、丁寧な物腰の先生だった。優しいおじさんといった感じで、ちっともカッコよくはないけれど、ひとみはその先生を気に入ったらしい。うちの母が作った三人おそろいの弁当を広げているとき、ひとみはずっとハイテンションだった。

「あたし、絶対に日山高校に通う! あの先生の授業、受けたい!」
 オープンキャンパスの中学生用に開放された教室でのことだ。外からは、部活終わりの高校生の声が聞こえてくる。オープンキャンパスに参加中の後輩に先輩が会いに来る、という場面も見かけた。

 先に食べ終わった雅樹は、さっさと席を立った。
「適当にうろついてくる。ここにいるだろ?」
「たぶん」
 午後は校内見学があって、体育館に移動して在校生の学校紹介を聞いて、それから閉会式だ。

「面倒だな、もう……」
 思わず文句を言ったら、ひとみが眉をハの字にして、シュンとしおれた。
「ごめんね。蒼ちゃんは体調があんまりよくないみたいなのに、あたしたちに付き合わせちゃって」
「体調悪いってほどのこともないんだけど」
「でも、顔色が悪いよ。無理してるみたい」
 無理はしている。かなり。そんなこと言えないけれど。

 遠巻きに見られている感じがあった。琴野中の人たちだ。わたしに声をかけたいのか、ひとみと話してみたいのか、それとも雅樹狙いなのか。
 弁当の味がしない。匂いだけが鼻を刺激する。作り立ての料理とは違う、保冷剤でどうにか鮮度をキープした、弁当特有の匂いが。空腹だったら嬉しいはずのその匂いなのに、わたしの胃はいつも痛くて不快で、食べ物をおいしそうだと感じることができない。

 のろのろと弁当を食べ終えたとき、雅樹が戻ってきた。
「蒼と同じクラスの男子に声かけられて、ちょっとしゃべってきたんだけど」

 ゾクッとして、わたしは顔を上げた。
 眉間に少ししわを寄せた雅樹は、まるで初めて会う人みたいだった。大人びた表情。怒っているわけではなく、でも、ひどくクールな印象というか。

 たぶんだけど、と雅樹は言った。
「さっき話してきたそいつさ、蒼のこと好きなんだと思う。何かすっげー微妙な表情してて、おれが蒼とどういう関係なのか聞きたがってた」
「何て答えたの?」
「幼なじみ」
「って呼べるほど一緒にいたわけじゃないでしょ」

 雅樹はわたしの言葉には応えずに、ため息をついて、短い髪をクシャクシャと掻いた。
「都会の空気ってやつ? いろいろ、進んでそうな人が多いなーって感じるんだけど」

 ひとみは小首をかしげた。
「進んでそうって?」
「付き合っててどこまで行ってるとか、そういう話。よくそんなに露骨に話せるよなって。わざわざオープンキャンパスに来て、そんなんばっかしゃべってるグループとか、けっこうあってさ」

 そういうグループのほうが琴野中では普通だ。むしろ、純粋に高校の見学と体験に来たひとみと雅樹のほうが変わっている。
 もしもわたしが木場山にいるままだったら、二人と一緒に、まじめにオープンキャンパスに参加しに来たんだろうか。そして、都会の空気に違和感を覚えたんだろうか。

 そんな「もしも」なんて、思い描いたって、どうしようもないけれど。わたしは、今は琴野中の生徒だ。違和感だらけの大嫌いな空気の中で生きなければならない、琴野中の異分子だ。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 オープンキャンパスが終わった、その夜。順番にシャワーを浴びて、ひとみが最後に風呂場に向かった直後だった。お客さん用の寝室にいた雅樹が、わたしの部屋に入ってきた。

「何か用でもあるの?」
「用っていうか、話。ひとみから木場山中のこと、恋バナ関係、聞いた?」
「恋バナ?」

「一年のころとはやっぱ全然違っててさ、誰かと誰かが付き合ったりとか、別れてギクシャクしたりとか。まあ、琴野中の人らに比べたら、子どものままごとみたいなもんなんだろうけど」
「ひとみからは何も聞いてないし、あんまり聞きたい話でもない」

 木場山という場所は、わたしの中ではきれいな思い出のまま、壊れないでいてほしい。きれいすぎて近寄れない、そのままでいてほしい。
 雅樹はため息をついて、わたしの隣に座った。ベッドを背もたれ代わりにして、畳の上で膝を抱えるような格好だ。

「聞いてよ。ちょっとでいいから」
「何? 悩んでんの?」
「おれもさ、付き合ってる子がいる。蒼は知らない子だよ。よその学校出身の、一つ下の子」

 イヤな気分になったのは、どうしてだろう? 嫉妬とか、そういうのじゃなくて。あせりというのでもないし。
 雅樹が変わってしまった。恋愛なんて興味ないみたいに子どもっぽくてサバサバしたやつだったのに、それをやめたんだ。そう思うと、大人になることを拒みながら何かにしがみ付いている自分が、ひどくバカバカしい人間に感じられた。

 いや、当たり前のことなのに。時間が流れれば、人は変わる。雅樹は背が伸びて声が低くなって、そのぶん、内面も。
 わたしだって変わってしまった。違う方向へと変わっていく誰かを、雅樹やひとみを、非難したり遠ざけたりする正当な理由なんて、どこにもない。

「なあ、蒼。好きな人いねぇの? 今日の昼に話した琴野中の男子が、蒼は一匹狼の優等生で、相手にしてもらえないって言ってた。前の学校に彼氏がいるんだろうって噂があるらしいけど、そういうんじゃないよな?」
「興味ないだけ。好きな人とか恋愛とか、意味わかんない。学校は勉強しに行ってる。それ以外、ないよ」

「そっか。まあ、意味わかんないってのは、おれも同感だけどね」
「彼女いるんでしょ?」
「いるけど、妹の友達と大差ないっていうか。おれんち、妹の友達が来て遊んだり勉強したりって、昔からよくあるだろ。おれが全員のにいさん役。
付き合ってる子もさ、後輩だし、感覚がそれと一緒なんだよ」

「一緒に帰るとか手をつなぐとか、しないの?」
「手をつないだことならあるって程度。向こうからコクってきて、委員会つながりで。嫌いじゃないし、おれのことをすごい好いてくれてて、正直かわいいなとは思うんだけど、何ていうか……何か違う。思ってたのと、違う」

「違うって? 相手の子に対して失礼なこと言ってるって、わかってる?」
「わかってる。でも、どうしようもないんだよ。だって、やっぱ違うんだ」
「何が違うっていうの?」
「好きで付き合ってたら、普通、もっと何かしたいって思うようになるもんだろ? キスしたり抱きしめたり、したくなるはずで。でも、それがないんだ。彼女相手だと、そういうのしたいって思えない」

 わたしは横目で雅樹を見た。雅樹は眉間にしわを寄せて、抱えた膝の頭を見つめている。

「好きになってないの、彼女のこと?」
「その好きっていう感覚がわかんないんだって。そりゃ、おれだって男だし、その……性欲っていうか、そういうのはあるけど。違うじゃん。恋と単なる性欲って、違う」

「やめてよ、そんな話」
「さわってみたいってのはあるんだよ。女の体とか、どうしても見ちゃうような衝動って、男だったらやっぱあるから。でも、彼女を前にすると、違う気持ちが働く。潔癖症、みたいなやつ」

「潔癖症?」
「変なことしたら、自分が汚れる気がする。自分の経歴に傷が付くのがイヤというか。失敗したくないって気持ちがある」
「女の子みたい」
「男だって、別に、おれみたいなやつくらいいるよ。経験人数が多けりゃカッコいいみたいなの、わからなくはないけど、自分がそれをできるかっていうと無理。汚れたくない」

「彼女に対して失礼すぎるよ。汚れるなんて言葉」
「でも、そうしたいって気持ちがないのにそういうことするのも、ひでぇじゃん。おれはそこまで悪くなれない。ガキだよなって思うけど、純粋なものがいいっていうこだわりが強すぎる」

「じゃあ、何で付き合うことにしたの? その時点で、もう……」
「わかってるよ。わかってんだよ。あのときは好奇心が勝って、手を出してみたいとか思って。でも、向こうは本気だから、おれは逆に何もできなくなった。遊ぶとか試すとか、できない」
 雅樹は頭を抱えて髪を掻きむしった。

「バカだね」
「知ってる。彼女のこと、嫌いじゃないからこそ別れたいって思ってて、こういう論理的じゃないことをやろうってのも、かなりバカだよなって」
「別れたい?」
「別れたいよ。続けんのがつらい」

「バカすぎ。別れるほうがいいかもね。彼女のためにも」
「なあ、蒼。吹っ切れたいから、ちょっと協力して。おれと蒼だったら、恋っていうの、まずないだろ。男同士みたいな感覚ってとこ、おれにはあって。たまたま蒼が生物学的に言えば女だったってだけで」

「まあ、それはたぶん正しい感覚だけど」
「じゃあ、あの、十秒くらいじっとしてて」

 変な予感がした。次の瞬間には、息が詰まっていた。
 硬い、細い、力強い体が、きつくわたしを抱きしめている。雅樹の髪と肌の匂い。体温、汗、呼吸の音。
 わたしはゾッとして身動きがとれない。背筋に寒気が走る。鳥肌が立つのがわかる。相手は雅樹だ。雅樹なのに、こんなにも怖くて、キモチワルイ。

 雅樹はつぶやいた。
「こういう感触なんだ。すげー。ちょっと想像できなかったな、これは」

 雅樹の鼓動の音が、そのやせた胸板から伝わってくる。速い。雅樹は何を感じているんだろう?
 顔を背けながら、雅樹はわたしから離れた。

「ぶん殴ってくれていいよ。こうしてみたいっていう衝動を、ただテストするだけのために、失礼だってわかってても彼女と別れずにきたんだけど。おかげさまで、これで別れられる」

 雅樹が傷付きたがっているのがわかった。だから、わたしは雅樹の頭を思いっ切り叩いた。いや、思いっ切りのつもりだったけれど、震える腕にはあまり力が入らなかった。

「あんたがここまでバカとは知らなかった」
「どんどんバカになってってるよ。頭と心と体がバラバラに動く瞬間って、ない? おれ、そんなのばっかりだ。今のもかなり最低だよな。自分でも意味わかんねえ」

 雅樹が低い声で吐き捨てたとき、ひとみが風呂場から出てくる音が聞こえた。わたしも雅樹もそれっきり、ひとみと雅樹が木場山に帰っていくまで、一度も目を合わせないままだった。
 智絵のいない二学期が始まった。わたしは今年、体育大会には出ないと最初から宣言していた。親はイヤそうな顔をしつつも、あきらめた様子でわたしの欠席を認めた。

 文化祭は、去年とはやり方が変わっていた。去年の文化祭の準備期間は、智絵だけに限らず、ほかのクラスでもたくさんの問題が起こったらしい。クラス単位で縛るのはうまいやり方ではない、と先生たちは判断したらしい。

 今年の文化祭は、初めからクラスを解体した状態で企画を進めていく。ステージ企画は劇と合唱とバンド演奏、展示企画は工作と学習まとめと校舎内の階段アート、店舗企画はお化け屋敷と喫茶店、といった具合で、やりたい企画を選んで参加するスタイルだ。

 やりたいものなんてなかった。文化祭も欠席してしまいたかった。でも、担任がわたしに先手を打った。
「今年はね、教員も企画をやることになってて、ぼくはわくわく科学教室的なのをやるんだけど、アシスタントやってもらえない?」

 午前と午後に一回ずつ、見た目の派手な実験をしてみせるんだそうだ。担任は若い男性で、けっこうカッコいいと評判で、授業もわかりやすい。そんなキャラクターだから、白衣を着て実験をするだけの企画で観客を呼べる見込みなのだそうだ。

「わかりました。やります」
 そう答えたのは、気楽だなあと思ったから。当日、実験教室に関わる間は理科室にいられる。人混みの中にいなくてすむ。事前の準備期間にも、人間関係にわずらわされずにすむだろう。

 わたしが「やる」と言ったことで、担任はホッとしたようだった。
「面倒くさいって思ってるでしょ。行事や集会」
「そうですね」
「授業じゃないイベントを楽しんでる生徒とそうじゃない生徒と、両極端なんだよね。楽しんでない生徒がどんどん増えてるのも事実だし。保健室がパンクしてるんだよ、最近」

 保健室登校になっている人は、三学年を合計すると、一クラスぶんの人数と変わらない。同じくらいかそれ以上の人数が、そもそも学校に来たがらない。
 智絵は、そんな大勢のうちの一人だ。わたしにとっては特別でも、まわりはそうは思っていない。智絵はあんなに苦しい思いをしているのに、学校の話題の中では不登校というテーマの中にひとくくりにされて、智絵という一人の人間としては扱われない。

 いっそのこと、不良が多いとか授業が完全に崩壊しているとか、それくらいめちゃくちゃな学校なら、わかりやすかったかもしれない。琴野中は中途半端だから、問題だらけなのに、表立っては見えにくい。
 髪を染めている人、化粧をしている人、服装の規定を守っていない人はいる。授業中にしゃべる人、不要なものを持ってきている人、こっそりお菓子を食べる人はいる。その程度だ。暴力を振るうとか、ガラスが割れるとか、そういうのはない。

 フツーの人たちばっかりだ。そのフツーの人たちが、フツーの会話として、誰かの悪口や陰口を楽しんでいる。フツーの遊びとして、他人のものを隠したり壊したりしてる。フツーの感覚として、クラス内で順番を付けて自分より下層の人たちをバカにしている。
 何も考えずにフツーになれたら、と思う自分がいる。そんな自分を想像して、吐き気を覚える自分もいる。

 文化祭の準備で盛り上がれる人たちは、日に日に浮かれていった。クラスが離ればなれになった友達と合流して、どの企画もすさまじく盛り上がっていたらしい。
 わたしは特に何の準備もせずにすんだ。担任から当日の実験メニューを教わって、それについて図書室で少し調べた程度だ。
 でも、図書室に寄った放課後、帰りがけにちょっと事件があった。階段アートの準備をする教室から、同じクラスの菅野が飛び出してきた。

「蒼さん! これから帰るの?」
「そうだけど」
「文化祭、何やるの? どの企画の班に訊いても、蒼さんはいないって言うから」
「理科の実験の手伝いをする」
「そうなんだ。確か、特別企画ってやつだよな? 先生たちが準備するって聞いてたけど、蒼さんはそっちやるの? やっぱ、頭いいからかな。すっげー」

 もと野球部の菅野のボロボロのジャージには、アクリル絵の具がくっついている。
 階段アートは、巨大な絵だ。縦の長さは階段の高さの合計、横は階段の幅。その巨大な一枚絵を完成させた後、階段の高さに合わせて絵を切って、一段ずつ貼り付けていく。階段を正面から、少し離れて眺めたら、巨大な一枚絵がもとどおりつながって見える。

 廊下側の窓を全開にした教室の中に、上田がいるのが見えた。上田はわたしと目が合うと、チラッと微笑んで、うなずくような仕草をした。わたしはそっぽを向いた。

「あのさ、蒼さん。文化祭の日、どうすんの? 約束ある? もし空いてるんだったら、一緒に回ってもらえないかなって思って」

 視界の隅に、緊張して真っ赤な菅野の顔が映った。わたしは、何とも感じなかった。間の悪いやつだ、とだけ思った。ほかの人が聞いているはずの場所でそんな誘いをかけるなんて、バカにしてくれと言っているようなものだ。

 わたしは答えた。
「文化祭の日は理科室で仕事あるから、よそを見て回るつもりはない」
「あっ、そ、そっか。そうなんだ。じゃあさ、おれたちの階段アート、見て。
上田が下絵を描いたし、塗り方を教えてくれたりもするから、すげーんだよ。上田って、放送委員で声がいいってだけじゃなくて、美術部でもあって絵がうまくて」

 そのくらい、知っている。智絵が教えてくれたから。智絵にとって、上田は憧れの存在だったんだから。
 わたしは、声を出さずに会釈だけして、その場を離れた。とたんに、後ろからにぎやかな声が聞こえてきた。わたしを文化祭に誘った菅野を盛大にからかう声だ。

 バカバカしいけれど、階段アートの男子班は悪い雰囲気ではないんだな、と思った。女子班のほうはどうなのか、別の企画はどうなのか、わたしは知らない。興味もなかった。

 翌日には、菅野がわたしを誘った話は、尾ひれがついた形で、クラスの噂になっていた。わたしは、派手な女子からもフツーの女子からも同情された。
「あんな底辺のやつに誘われて、キモかったでしょ? あいつ、羞恥心がないから、サイテーだよね」

 底辺って、何なんだろう? 菅野は、体が小さいから野球部では不利だったらしいけれど、部活は誰よりも熱心だったらしい。成績はよくない。でも、提出物はちゃんとしていて、部活を引退してからは意外に健闘しているらしい。

 担任がそんな話をしていた。理科室で打ち合わせをしたときに、担任は、クラスの人たちのことを雑談として挟んできたんだ。わたしは、名前と顔が一致しない人が多くて、担任もそれを察していて、「こいつはわかる?」みたいなノリで。
 菅野は、顔と名前がわかるうちの一人。クラスの雰囲気からちょっと外れているおかげでわかるんだと思う。上田も去年からそうだったけれど。

 学校という世界そのものが嫌いなわたしにとって、文化祭を一緒に見て回ろうなんて誘いは、誰から受けたとしても筋違いなものに過ぎない。菅野をキモいとは思わなかったけれど、バカだなあとは思った。もっとちゃんと受け答えできる人を選びなよ、って。

 その放課後、ひとけのない靴箱のところで上田に声をかけられた。美術室に向かう途中らしかった。
「よかったら、美術部の展示、見てね。ぼくの絵もあるし、たぶんぼくも美術室にいるよ。放送の当番、今年はやらないことになったから、気楽でいい」
 でも、美術室に行ったって、智絵の絵はない。去年の、智絵の絵だけが展示されていないのを知ったときの絶望感を、美術室に行ったら思い出しそうだ。

 わたしは、上田に小さく会釈して靴を履いた。上田はわたしの背中に声をかけ続ける。
「ノートのこと、聞いちゃったよ。不登校の友達に届けるために、毎日きちんとノートのまとめ直しをしてるんだって」

 わたしは思わず振り向いた。
「誰から聞いたの?」
「よそのクラスの人。担任が昨日、クラス全員の前でその話をして、授業をちゃんと聞けとか友達を大事にしろとか、お説教したらしい」
「最悪……」

 上田はそっと笑った。
「感覚がずれてる先生、この学校には多いよね。今年のうちのクラスは当たりだと思うけど。去年が今の担任だったら、ちょっとマシだったかな?」
「今さらそんなこと言ったって仕方ない」
「確かに。引き留めてごめん。あの子によろしく。ぼくは何もできないから」

 上田はささやくように言った。智絵のことを気に掛けているのは本当なのかもしれない。文化祭が近付いてきたせいで、上田も去年のことを思い出してしまうのかもしれない。

 わたしは、ふと気が付いた。二学期に入ってから、智絵の家に行く回数が減っている。行事が多くて授業の進みが遅いせいもあるけれど。
 わたしは智絵のことを忘れようとしているんじゃないだろうか。時間が降り積もるにつれて、自分の感覚が鈍っていくのがわかる。去年はハッキリと感じていた拒絶を、今年はもうあきらめているところがあって、受け入れて耐えている。

 なじみたくない世界に埋もれていく。それはイヤだ。でも、智絵のところに一緒に沈んでいくわけにもいかない。わたしは、病みたくはない。それは智絵への裏切りに近い気持ちではない?
 電話をかけなきゃ。智絵と話をしなきゃ。胸にあせりを覚えて、わたしは家路を急いだ。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 朝からずっと吐き気があった。無理やり給食を胃に押し込んだら、昼休みに吐いた。胃液まで出尽くして、苦いようなすっぱいような味が喉から口にかけて残った。
 胃酸で焼けた喉の奥がヒリヒリして、声がしゃがれた。ああ、歌えないな。急にそんなことを思った。喉が無事だったとしても、歌いもしないくせに。

 キリキリ痛む胃を押さえながら保健室に行った。横になりたかった。
 保健室は満杯だった。教室に行けない子たちが、ベッドもソファも椅子もすべて占領していた。みんな、パッと見には普通にしている。笑い合っている人たちもいたけれど、わたしの入室に気付いたとたん、彼らは押し黙った。

 養護の先生が、困ったような顔をした。
「どしたの? 顔色よくないけど、具合悪い? 熱でもある?」
「胃が痛くて。吐きました」
「早退する?」
「今からロングホームルームで文化祭の準備ですけど、最後に数学があるので、抜けたくないです」

 ひとまず熱を測ってみたけれど、やや低めの平熱。教室に行けずに体調を崩している子たちを追い出してまで、ベッドやソファで横になるわけにはいかない。
 いや、養護の先生は「代わってもらってもいい」と言った。わたしは「いらない」と意地を張った。わたしだって教室にいたくない。彼らのつらさはわかるつもりだ。彼らがやっと見付けた世界に土足で入って、そこを奪いたくはない。

 先生用のクッションの利いた椅子を貸してもらって、保健室の隅で体を丸めて座っていた。何をするでもない時間がもったいなくて、何でもいいやと思って、棚に置かれていた本を手に取った。

 思春期の子どもが抱え得る精神的な病気についての本だった。付箋が貼ってある項目を開いたら、摂食障害についてだった。
 そういえば、保健室登校の子には極端な体型がけっこう多い。すごくやせている子と、すごく太っている子。

 本に書いてある。
「心のバランスが崩れると、当たり前のことがうまくできなくなる。食べることや眠ることに障害を抱えるようになる」
 わたしは、引き寄せられるようにその本を読んだ。実例を挙げながらの説明だったから、大人向けの専門的な本ではあっても、わかりやすかった。

 カーペンターズという、アメリカのミュージシャンがいた。兄妹で組まれたデュオだった。演奏担当は兄のリチャード、歌は妹のカレン。『トップ・オブ・ザ・ワールド』や『イェスタデイ・ワンスモア』など、誰もが聴いたことのある名曲を世に送り出した二人だ。

 一九八三年、カレン・カーペンターは亡くなった。直接の死因は心臓麻痺。彼女の心臓を弱らせたのは、長年にわたる拒食症だった。
 子ども時代から、カレンはぽっちゃりした体型だったらしい。脚光を浴びるようになってダイエットを始めた彼女は、やがて「もっとやせなきゃ」という衝動に駆られ、度を超した行動を取るようになっていった。

 拒食症は「食べることを拒む」と書く。ただ、それだけじゃない。「食べたことを拒む」でもある。
 例えば、下剤を飲んで、食べたものを体から追い出す。体はだんだん、薬に対する耐性を持ち始める。服用する量を増やさないと、薬が効かなくなる。それでも「食べたことを拒む」から、どんどん下剤の量が増えて、体への負担が重くなっていく。

 カレンもそうだったらしい。通常の十倍もの下剤や甲状腺の薬を飲んでいたという話もある。異常な量の薬によって、彼女の心臓には、途方もない負担がかかっていた。
 仲良しの兄と二人でデュオを組み、世界じゅうから愛される唄を歌ったカレン。でも、プライベートでは苦しんでいた。無茶なダイエット、電撃結婚した夫との不仲、両親の愛に飢えるアンバランスな心。

 最期に「ママ、抱いて」と寂しがりながら死んでいったというカレンの症例は、衝撃的だった。本には、ほかの症例も載っていた。回復した症例もあった。カレンのように合併症で亡くなった症例もあった。自殺してしまう症例もあった。

 わたしは中途半端だ、と思った。今、胃が痛くてたまらない。でも、拒食症になるほどの苦しみではないし、家の食事はきちんと取っている。睡眠のバランスはよくないけれど、病院にかかるほどでもない。

 本から目を上げると、養護の先生と視線が合った。
「胃が痛いのはね、受け入れてないからよ。心がきちんと苦しみを感じられる状態。苦しいから反発しよう、受け入れるもんかって頑張っている状態。心が何も感じられなくなって体だけに響くようになると、腸だとか、もっと奥にある内臓が傷んでしまう」

 その日、読んだ本の内容と養護の先生の言葉は、妙に深くわたしの中に刻まれた。今のこの苦しい気持ちのもっと先があるんだと、穴の淵から真っ暗な奥のほうをのぞいてしまった気分だった。
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 智絵の家にはインターネットができるパソコンがあった。今でこそネットなんて当たり前のもので、パソコンを起動するまでもなく、スマホで簡単にオンライン空間に接続できる。でも、一九九九年にはまだ、ネット環境のある家はそう多くなかった。
 電話回線を利用したネットをつなぐ間、家の固定電話が使えなくなる。当時はそういう不自由さもあった。

 ネットに接続するまでの一つひとつのプロセスも遅かった。月末にスマホの通信制限がかかったら、動作がひどく遅くなるけれど、あんな感じ。パソコンがダイヤルする音を聞きながら、ネットの世界に入っていくまでの時間を、本を眺めながら待った。

 わたしの家にも、ネットのできるパソコンがあった。学校の技術の授業でも、ネットについてチラッと習った。でも、使い方は智絵の家で覚えたようなものだ。
 智絵がネットを使ってみたいと言った。それで、二人で試してみたのが最初だった。智絵が何かをしたいって望むなんて、めったにないことだったから。

「二次創作の絵が、たくさん見られるんだって。即売会とか、イベントに行かなくても、同じ趣味の人を見付けられる。掲示板で話すこともできるらしいから、そこでなら、あたしも、人と話せるかなって」

 説明書に載っているとおりの順番で、毎度いくつかの手続きをしながらダイヤルアップして、検索エンジンのページにたどり着く。そこから、智絵の好きな小説や漫画やゲームのタイトルを冠したサーチエンジンに行って、気になるサイトに進む。
 データ量の重たい絵は、なかなか表示されない。時間をかけてやっと表示されても、拍子抜けすることがよくあった。だって、智絵の描く絵のほうがずっとうまい。

「ホームページ、やってみたら?」
「あ、あたしが?」
「うん。一番になれるよ」
「む、無理無理。ホームページ作るには、HTMLだっけ、そういうプログラムを書かなきゃいけないでしょ? あたし、そういうの、できない」
「そうかな?」
「蒼ちゃんならできそう。二次創作の小説、ホームページで公開されてるのより、蒼ちゃんのほうが上手だし」

 わたしがホームページを作ったら、智絵はこうして見てくれる? 家から出られない体調でも、寝込んでいる日でも、わたしに会いたくないときでも、ネット回線越しなら読める? わたしの小説を楽しんでくれる?
 もしも、智絵がそうやって、新しい形で楽しみや自由を手に入れることができるのならば。それはとてもいいことだと思った。健全で、ささやかだけれども幸せなことだと思った。

 高校受験が終わったら、やってみよう。高校に上がったら、きっと、どうしたってわたしは智絵と縁が切れてしまうだろうから。
 わたしは今、ノートを届けるという名目があるから智絵の家に来る。それがなくなったとき、どうすればいいのか。どうしようもないんじゃないか。

 届けたノートが智絵の役に立っているようには、あまり感じられない。むしろ智絵の負担になっている気がする。智絵の「ありがとう」が何だか心苦しい。
 自己満足。たぶん、それだ。智絵のためにやっていることのように見せかけて、わたしはただ自分のために動いている。

 だって、キッチリ授業に出てノートを取るようになって、成績がめちゃくちゃ上がった。だから続けたいって思ってしまうところが、やっぱりある。すごく汚い人間だなって、自分のことが嫌いになる。

 智絵が、机の上にあった一枚のチラシを手に取った。
「今日、文化祭だったんでしょ」

 どんな感情のこもった言葉なのか、とっさにわからなかった。わたしは智絵の顔を見た。真っ白でやせて、目がひどく大きな顔は、何の表情も浮かべていなかった。

「わたしは、自分の仕事が終わってすぐに早退してきた」
「理科の実験?」
「実験補助。あと、会場の案内。実験の準備や片付けは結局、先生が自分でやってた。液体窒素とか、扱いが難しいものを使ってたから」
「液体窒素?」
「すごく冷たい液体で、バラの花を漬けたら、何秒かのうちに完全に凍ってしまう。花をつかんだら、グシャッて。破片になってた」

 理科っておもしろいんだな、と単純に思った。教科書や科学の本に書かれていることを再現したら、必ず同じ結果になる。シンプルなその構図が新鮮に感じられた。
 日常生活、学校生活は、そうはいかない。似たような場面が、前回と同じ結果を招くとは限らない。法則性なんて、あってないようなものだ。

 智絵は、文化祭のプログラムの隅を指でなぞった。
「美術室は行ってみた?」
「うん」
「上田くんの絵、今年は何だった? 静物画がすごくうまいんだよね。去年のビー玉の絵、きれいだった。あたしが知ってるのは、美術室で描いてる途中のだけどね。今年も見たかったな」

 わたしは、理科室以外どこにも行かないつもりだった。でも、智絵が美術部の展示を見てほしいと言ったから、美術室にだけは行った。
「バラバラに割れたガラスの置物だったよ。もともとイルカの置物だったのかな。尖った破片の描き込みが、すごく迫力あった」

 血のしずくが伝う破片がいくつかあった。美術室で、思わず見入ってしまった。そしたら、いつの間にか上田がそこにいて、きまりの悪そうな笑顔でわたしに絵の解説をした。

「うっかり割っちゃったときのやつだよ。掃除しようとして、指、切ったんだ。けっこう血が出て、でも、それが妙にきれいで。とっさに写真に撮った。その写真をもとに描いたんだ。赤と黒はあんまり使ったことなかったんだけど、悪くないね」

 血に深い意味はない。壊れたものを描いたことにも。上田はそう言ったけれど、本当だったんだろうか。
 上田も小学校のころにはいじめられていたと、菅野がこぼすのを聞いたことがある。菅野自身も、いじめなのか、いじりなのか、きわどい扱いを受けることが多い。だから二人とも、ちょっと独特の雰囲気がにじみ出ている。
 特に上田だ。あの人はときどき、わたしと同じものを同じ視点から見ている。

 不意に智絵が言った。
「好きって気持ち、忘れちゃった」
「え?」
「好きな人、好きなキャラ、好きな小説、好きなこと。もう何もわからない日のほうが多いの。忘れちゃうほうが楽」

 わたしは言葉を失った。智絵はわたしと目を合わせてくれなかった。わたしは、視界が真っ暗になっていくみたいだった。どうしてこんなことになってしまうんだ。
 好きな小説が同じで、目指す方向が似ていて、だからわたしと智絵は友達になったのに。

 智絵から好きなものを奪った世界が、学校という世界が、わたしは憎くてたまらない。
.:*゚:.。:. ☆.。.:*・゜

 冬が目の前までやって来て、受験と卒業が近付いてきた。中学校という世界がもうすぐ終わる。さっさと過ぎてくれればいい時間なのに、じりじりと、ひたすら長い。
 受験に必要な主要教科は、次々と教科書の内容を終えていった。授業は、入試問題を想定した課題やテストばっかりになった。

 もうわたしが智絵のためにノートを清書する必要はない。わたしと智絵の志望校は違うから、わたしが受ける入試対策の授業は、智絵にとっては不要だ。
 わたしは、何か重たいものを降ろした気分になった。重たいものの内訳は、きっと罪悪感がいちばん大きい。智絵のためだなんてきれいな建前で、それを利用して自分の成績と出席率と周囲からの評価を上げたわたしは、卑怯者だ。

 智絵のところに行くことが減って、受験勉強で忙しいからなんて嘘の理由で自分をごまかした。まわりは、進学先が別々の人同士の間でいろんな騒動が起こって、うるさかった。休み時間のたびにアドレス帳が回ってくるのも面倒だった。
 目も耳もふさいでしまいたかった。教室にいるのが億劫で、理科準備室や図書室に逃げ出すこともあった。

「蒼ちゃんが受けるのは、日山高校だけ? 滑り止め、受けないの?」
 いろんな人から、繰り返し、同じことを訊かれた。わたしは滑り止めを受けない。わたしの成績で、日山高校に落ちるはずがないから。わざわざお金を払って、面接まである私立高校を受けに行くなんて、そんな労力は使いたくなかった。

 あるときふっと思ったのは、どうして県外だとか、もっと遠いところの高校を感がなかったんだろう、ということ。一人で、わたしを知っている人が誰もいない場所で、生きてみたら楽になるかもしれないのに。

 中学生には、そんな選択、無理なのかな。でも、ひとみや雅樹は高校進学のために木場山を出て、こっちで下宿生活を送るつもりだ。そういう選択肢がわたしにもあればよかった。今さらだけれど。

 ひとみと雅樹は、受験のときはうちに泊まらず、ホテルを利用した。旅行代理店が手配する受験生パックというのがあって、列車の切符とホテルと学校までの送迎タクシーが格安で利用できるらしい。
 受験会場となった日山高校では、ひとみや雅樹に会うことはなかった。二人はすでにケータイを持っていて、わたしが公衆電話から連絡すれば、会うことができたのだけれども。

 自分のまわりには殻のような膜のようなものがあって、周囲の空気から切り離されている。そんな感覚がつねにあった。おしゃべりの声を聞いても、それを言葉として認識しない。単なる雑音として聞き流す。そんな能力が身に付いたみたいだった。
 受験の日も淡々と終わって、合格発表も淡々としていて、わたしは無事に日山高校の文系特進クラスに合格した。ひとみも同じクラスだった。雅樹は理系の特進クラス。

 幸い、琴野中から文系特進への進学者はほかにいなかった。わたしの所属する学年は、どうやら歴代の琴野中でも特に勉強のできない学年だったようで、志望校に落ちる人がけっこういた。琴野中では成績が悪くなかった人でも、だ。

 合格発表の後、菅野がわざわざわたしに報告に来た。
「おれ、落ちました。上田は受かってた。いや、おれはもともと無理だろうなって思ってたんだけど。それに、野球やりたいから、滑り止めで受けた男子校のほうで全然いいんだけど。まあ、うん、ちょっと残念」

 何て返せばよかったんだろう? わたしが何も言えずにいたら、菅野は照れ笑いをして走っていってしまった。
 まわりの女子がまた、にぎやかに菅野をこき下ろしていた。ああいうところがいちいちキモいんだとか、ガキすぎるとか。

 うるさいよ。わたし自身、どっちかっていうと菅野の側に近いと思う。あんたたちの側よりも、あいつのがマシだと思うよ。
 そう言ってやりたくても、わたしの喉は動かない。歌う声を張り上げることができたはずの喉は、しゃべり方さえ忘れている。ときどき引き絞るような痛みとともに上がってくる胃液のせいで喉の奥が焼けて、いつもイガイガ、ざらざらする。
 卒業式はさすがにサボれなかった。練習とか準備とか、かったるいことに時間を使ってまで、式典なんてやる意味があるんだろうか。
 当日、仕事が忙しいはずの母が卒業式を見に来た。卒業生も親も泣いている人がけっこういたけれど、わたしにしてみれば、殻の向こうの出来事だった。

 卒業生の名前が呼ばれて、返事をしなければならなかった。智絵の名前が呼ばれたとき、応える声はなかった。
 そんなふうに空白の時間を置いて次の名前が呼ばれるシーンは、しょっちゅうだった。それでも平然と、卒業式は進行した。

 体育館での式典の後、クラス別のホームルームがあった。感動的な時間が演出されて、息苦しくて、逃げ出したかった。
 一人ひとりが前に出て、クラスメイトや親への感謝の言葉を述べる。ありふれた言葉が続いて、拍手をして、泣き出す人がいて。わたしもあっち側だったら楽なのになと思いながら、時計の針がさっさと進んでくれることを願って。

 突然、ちっともありふれていない言葉を発したのは、菅野だった。
「かあちゃん、今までありがとう! これからもよろしく! 甲子園に連れていきます!」
 クラスが沸いた。菅野は嬉しそうで、菅野のおかあさんらしき人はしきりに涙を拭っていた。

 わたしの番が回ってきた。人前に立ってるのに、わたしは少しも緊張しなかった。目の前に並ぶ顔と顔と顔が、生きているように思えなかった。モノみたいに思えた。
 手に持っているのが卒業証書じゃなくて銃だったら、簡単に犯罪者になれそうだな。少年犯罪って、こういうことか。わたしは口を開く。

「わたしは学校が嫌いでした。今日、別のクラスですが、友達が卒業式に出席していません。彼女はいじめられて、学校に来なくなりました。
こんな学校が嫌いでした。卒業するまで変わりませんでした」

 教室は、しんとしていた。わたしは冷めた目でクラスじゅうを見た。顔と名前が一致しない人たちを眺める。
 胸に罪悪感がある。智絵のことを友達と呼ぶことへの罪悪感。そばにいることすらしなかったくせに、わたしは何を言っているのか。わたしは裏切り者じゃないか。友達のふり、善人の顔をした、卑怯な裏切り者だ。

 苦しくなって表情が歪みそうなのを、頭を下げてごまかした。
「変な話をして、すみませんでした」

 わたしが席に戻る間に、担任が解説を加えた。わたしが智絵のためにノートを清書して届けていた、と。
 拍手が沸いた。

 わたしは自分がみじめで、何もかもがバカバカしくて、叫びたくなった。美談なんかじゃない。
 そもそも、あんたたちが智絵をいじめなければ、智絵はちゃんと学校に来ていた。わたしがノートを届ける必要なんてなかった。
 わたしは、智絵を苦しめたこの学校という世界が、大嫌いだ。

 ホームルームの後、母が涙ぐんでわたしに告げた言葉が、わたしの琴野中での学校生活のすべてを表していたと思う。
「ちゃんと生きててくれて、卒業式にも出てくれて、ありがとう」
 その言葉を聞いた瞬間、わたしはハッキリと理解した。わたし、死にたがりなんだな、と。

 帰りに母は職員室にあいさつに行った。わたしは付いていかずに、先に帰ることにした。
 にぎやかな校舎を抜けて、靴を履き替える。写真を撮ったり、友達や後輩に囲まれたり、寄せ書きを書いたり、そんな人たちから顔を背けて、一人で。

 足音が追い掛けてきて、同時に名前を呼ばれて、わたしは立ち止まった。菅野が真っ赤な顔でわたしの前に立った。
「最後に、握手してください!」
 何で握手なんだろうって思った。でも、胸の奥に押し込めた感情が、久しぶりにざわざわと、ぬくもりを帯びて動くのがわかった。

 菅野はまだわたしより背が低くて、声変わりも完全じゃなくて、中一でも通用するくらいの容姿だ。けれど、差し出された右手は、ゴツゴツした形だった。男っぽい手だった。
 わたしは菅野の右手を握った。力強く握り返してくる手は温かった。野球で鍛えられて、皮がザラザラに厚い。

「蒼さん、手、冷たいね」
 笑顔と正面から向き合ったのは、たぶん初めてだった。菅野の奥二重で切れ長な目の形が意外にきれいなことを、不意に知った。
 菅野の手が離れていく。
「ありがとうございました!」
 菅野は頭を下げて、走っていった。菅野と会ったのはそれが最後だった。

 卒業式のその日を最後に会わなくなった人は多い。その全部を把握することは、わたしにはもうできない。卒業アルバムも買わなかったから、同じ学年に所属していた人の名前も顔もまったくわからない。
 卒業アルバムは、出来上がったときに担任が見せてくれた。初めのほうに掲載された集合写真の時点で、もうつらかった。微笑むことのできない智絵の顔写真が、クラスの集合写真の隅に浮かんでいた。

 もういい。もう終わった。やっと終わったんだ。
 終わった、終わったと繰り返しながら、わたしは、二度と足を向けることのない琴野中からの帰り道を歩いた。家に帰り着いて制服を脱ぎ捨てたとき、わけのわからない涙があふれた。
 高校生活は、入学前からつまずいていた感じがある。入学式より前におこなわれたオリエンテーションで早速、課題のテキストが配られた。三教科の、中学のおさらいと高校の予習。

 数学の課題は、文系理系の特進クラスだけ特別仕様だった。中学の範囲は全部できることが前提の、高校で習う範囲の予習課題だ。
 因数分解の練習問題が、計算の遅いわたしにとってはあまりにも多かった。公式の意味だとか効率的なやり方だとかが全然わからないまま、ちまちまと進めたけれど、ギリギリまで終わらなかった。見直しなんて、とてもじゃなかった。

 ひとみと雅樹の引っ越しの手伝い、制服の採寸、教科書の購入、そして入学式。日山高校は一学年四百人の規模だから、琴野中のころよりも大人数だ。体育館に詰め込まれた人混みのすさまじさに、めまいがした。
 入学式が終わって、ホームルーム。担任は、目つきのきつい美人の英語教師。誰の名前も覚えられない単調な自己紹介があって、課題の回答が配られた。

 担任が命じた。
「課題は明日までに答え合わせとやり直しをして提出すること。明日から授業が始まるけど、各教科で予習用の課題が配られるはずよ。予習をおろそかにすると、授業の内容に付いていけない。一年の一学期から落ちこぼれる生徒も毎年いるからね。しっかりやりなさい」
 ここは軍隊なんだな、と思った。

 文系特進クラスは六対四の割合で女子のほうが多い。一方、理系特進は三対七で女子が少ない。体育の授業は文理の特進クラスの合同になるらしい。ほかのクラスも、男女の割合を見ながら二クラス合同でやるんだそうだ。

 わたしは気が重かった。同じクラスのひとみだけじゃなく、せっかく別のクラスになった雅樹とも結局、接点ができてしまうなんて。
 胃に鈍痛を覚えるわたしとは裏腹に、ひとみの滑り出しは好調だった。自己紹介で、ひとみだけはクラスの全員に顔と名前を覚えてもらったはずだ。

「木場山という山奥のいなかから来ました! 下宿生です。平日と土曜日の朝ごはんと晩ごはんとお昼のお弁当は、下宿屋のおばちゃんに作ってもらいます。日曜日はごはんがないので、勇気を出してコンビニやファミレスに入ってみたいと思います」

 担任が呆れたように笑った。
「コンビニもファミレスも入ったことないの?」
「木場山にはなかったんです。家族旅行もしたことないので、よその土地って、修学旅行を除けば初めてで。この琴野町はそんなに都会じゃないって、みんな言いますけど、あたしにとっては便利すぎて、都会だなって感じです」

 笑いが起こった。どこか張り詰めていた教室の空気がなごんだ。ひとみは癒し系というか愛され系というか、マスコットや小動物みたいに、場の緊張を解きほぐす力がある。本人は自覚していないようだけれど。
 雅樹も隣のクラスで同じように、いなかから出てきた純朴な努力家って感じのキャラづけを獲得したのかな。あいつは絶対つまずいたりしないだろうな、と思う。

 家に帰って、春休みの課題の答え合わせをした。数学は間違いだらけだった。やり直しの量がものすごくて、睡眠時間が削られた。自己採点のスコアの低さが衝撃的で、現実としてちょっと受け入れられなかった。おかげで、悶々として眠れなかった。