でも、図書室に寄った放課後、帰りがけにちょっと事件があった。階段アートの準備をする教室から、同じクラスの菅野が飛び出してきた。

「蒼さん! これから帰るの?」
「そうだけど」
「文化祭、何やるの? どの企画の班に訊いても、蒼さんはいないって言うから」
「理科の実験の手伝いをする」
「そうなんだ。確か、特別企画ってやつだよな? 先生たちが準備するって聞いてたけど、蒼さんはそっちやるの? やっぱ、頭いいからかな。すっげー」

 もと野球部の菅野のボロボロのジャージには、アクリル絵の具がくっついている。
 階段アートは、巨大な絵だ。縦の長さは階段の高さの合計、横は階段の幅。その巨大な一枚絵を完成させた後、階段の高さに合わせて絵を切って、一段ずつ貼り付けていく。階段を正面から、少し離れて眺めたら、巨大な一枚絵がもとどおりつながって見える。

 廊下側の窓を全開にした教室の中に、上田がいるのが見えた。上田はわたしと目が合うと、チラッと微笑んで、うなずくような仕草をした。わたしはそっぽを向いた。

「あのさ、蒼さん。文化祭の日、どうすんの? 約束ある? もし空いてるんだったら、一緒に回ってもらえないかなって思って」

 視界の隅に、緊張して真っ赤な菅野の顔が映った。わたしは、何とも感じなかった。間の悪いやつだ、とだけ思った。ほかの人が聞いているはずの場所でそんな誘いをかけるなんて、バカにしてくれと言っているようなものだ。

 わたしは答えた。
「文化祭の日は理科室で仕事あるから、よそを見て回るつもりはない」
「あっ、そ、そっか。そうなんだ。じゃあさ、おれたちの階段アート、見て。
上田が下絵を描いたし、塗り方を教えてくれたりもするから、すげーんだよ。上田って、放送委員で声がいいってだけじゃなくて、美術部でもあって絵がうまくて」

 そのくらい、知っている。智絵が教えてくれたから。智絵にとって、上田は憧れの存在だったんだから。
 わたしは、声を出さずに会釈だけして、その場を離れた。とたんに、後ろからにぎやかな声が聞こえてきた。わたしを文化祭に誘った菅野を盛大にからかう声だ。

 バカバカしいけれど、階段アートの男子班は悪い雰囲気ではないんだな、と思った。女子班のほうはどうなのか、別の企画はどうなのか、わたしは知らない。興味もなかった。

 翌日には、菅野がわたしを誘った話は、尾ひれがついた形で、クラスの噂になっていた。わたしは、派手な女子からもフツーの女子からも同情された。
「あんな底辺のやつに誘われて、キモかったでしょ? あいつ、羞恥心がないから、サイテーだよね」

 底辺って、何なんだろう? 菅野は、体が小さいから野球部では不利だったらしいけれど、部活は誰よりも熱心だったらしい。成績はよくない。でも、提出物はちゃんとしていて、部活を引退してからは意外に健闘しているらしい。

 担任がそんな話をしていた。理科室で打ち合わせをしたときに、担任は、クラスの人たちのことを雑談として挟んできたんだ。わたしは、名前と顔が一致しない人が多くて、担任もそれを察していて、「こいつはわかる?」みたいなノリで。
 菅野は、顔と名前がわかるうちの一人。クラスの雰囲気からちょっと外れているおかげでわかるんだと思う。上田も去年からそうだったけれど。

 学校という世界そのものが嫌いなわたしにとって、文化祭を一緒に見て回ろうなんて誘いは、誰から受けたとしても筋違いなものに過ぎない。菅野をキモいとは思わなかったけれど、バカだなあとは思った。もっとちゃんと受け答えできる人を選びなよ、って。

 その放課後、ひとけのない靴箱のところで上田に声をかけられた。美術室に向かう途中らしかった。
「よかったら、美術部の展示、見てね。ぼくの絵もあるし、たぶんぼくも美術室にいるよ。放送の当番、今年はやらないことになったから、気楽でいい」
 でも、美術室に行ったって、智絵の絵はない。去年の、智絵の絵だけが展示されていないのを知ったときの絶望感を、美術室に行ったら思い出しそうだ。

 わたしは、上田に小さく会釈して靴を履いた。上田はわたしの背中に声をかけ続ける。
「ノートのこと、聞いちゃったよ。不登校の友達に届けるために、毎日きちんとノートのまとめ直しをしてるんだって」

 わたしは思わず振り向いた。
「誰から聞いたの?」
「よそのクラスの人。担任が昨日、クラス全員の前でその話をして、授業をちゃんと聞けとか友達を大事にしろとか、お説教したらしい」
「最悪……」

 上田はそっと笑った。
「感覚がずれてる先生、この学校には多いよね。今年のうちのクラスは当たりだと思うけど。去年が今の担任だったら、ちょっとマシだったかな?」
「今さらそんなこと言ったって仕方ない」
「確かに。引き留めてごめん。あの子によろしく。ぼくは何もできないから」

 上田はささやくように言った。智絵のことを気に掛けているのは本当なのかもしれない。文化祭が近付いてきたせいで、上田も去年のことを思い出してしまうのかもしれない。

 わたしは、ふと気が付いた。二学期に入ってから、智絵の家に行く回数が減っている。行事が多くて授業の進みが遅いせいもあるけれど。
 わたしは智絵のことを忘れようとしているんじゃないだろうか。時間が降り積もるにつれて、自分の感覚が鈍っていくのがわかる。去年はハッキリと感じていた拒絶を、今年はもうあきらめているところがあって、受け入れて耐えている。

 なじみたくない世界に埋もれていく。それはイヤだ。でも、智絵のところに一緒に沈んでいくわけにもいかない。わたしは、病みたくはない。それは智絵への裏切りに近い気持ちではない?
 電話をかけなきゃ。智絵と話をしなきゃ。胸にあせりを覚えて、わたしは家路を急いだ。