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 智絵と待ち合わせをして登校するようになってから、わたしは授業を抜け出す回数が減った。休むことも減った。欠席するときは智絵にも電話しないといけない。それが面倒で、とりあえず朝は学校に行く。

 全校集会や学年集会は毎度、人の気配の多さに気分が悪くなって、最初からサボるか途中で抜けるかのどちらかだった。
 体育大会は休んだ。練習が始まってすぐ、わたしが異常な状態におちいってしまったせいだ。

 整列ができなかった。前の人との遠近感も、横の人との距離感も、とっさに目で測ることができない。どうにかしようと目をこらすと、眼球の奥がキリキリ痛んで、めまいと吐き気がする。
 わたしはうずくまった。残暑のせいで熱中症にかかったのだろうということで、保健室に送られた。保健室で、わたしは正直に言った。

「熱中症じゃないと思います。わたしはクラスの女子でいちばん背が高くて、いちばん後ろだから、人がたくさんいるのが見えるんです。イヤなんです。人がたくさんいて、その中の一つのピースにならないといけないのが、キモチワルイんです」

 世界はわたしに対して優しくない。わたしが世界に対してキモチワルイと思ってしまうことの鏡写しで。学校というものが、わたしにとって世界のほとんどだから。
 わたしは、世界に威圧される。直視できないくらいに。立っていられないくらいに。

 先生たちが話し合って、わたしの親とも話し合った。わたしは何度か体育大会の練習に出てみたけれど、整列はうまくいかないままだったし、ムカデ競争の練習で体に触れられると震えてしまった。どうしようもなかった。だから欠席が認められた。

 わたしは使い物にならないんだと思うと、情けないと同時に、せいせいした。こんなふうにやり過ごしていけたら、それでいい。
 やり過ごす? いつまで?

 体育大会が終わると、すぐに文化祭の準備が始まった。
 わたしたちのクラスは、実際のサイズの二.五倍の巨大なドラえもんを作ることになった。わたしが休んでいたホームルームで決まったらしい。そして、面倒な役割をわたしがやることも、そのときに決まっていた。

「設計図、作って? 蒼ちゃんなら、頭いいし、そういうの得意だと思って」
 勘違いしないでほしい。わたしは文系だ。設計図を作るために必要な考え方や知識は完全に理系のものだ。
 できない、と言える状況ではなかった。ドラえもんの材料となる竹や針金や模造紙は、すでに調達の段階に入っていた。

 琴野町の図書館にドラえもんがあるのを知っていたから、方眼紙に模写して寸法を書き入れた。
 設計図は、正面からと横から。身長と頭囲が両方とも一二九.三センチメートルで、これを二.五倍にした寸法が必要。厚みのバランスは、漫画に描かれた姿から推測して数字を出していく。

「立つのかな、これ?」
 細く割った竹を曲げて、針金で縛って、骨組みを作る。その上に模造紙を貼って、色を塗る。完成品がどれくらいの重さになるのか、予想できない。実物のドラえもんは一二九.三キログラムで、そこまで重くなることはないだろうけれど。

 文化祭の準備期間は二週間。放課後には、部活よりクラスでの準備を優先させる時間が設けられる。ロングホームルームが増えて、その時間も全部、文化祭の準備に当てられる。
 準備期間の初日で、わたしは感じた。ハッキリ言って、地獄だ。
 学校じゅうが浮かれている。調子に乗っている。作業はほとんど進まない。遊ぶための時間が増えた、と思っている人ばっかりだ。

 三日、四日。浮かれた空気が加速する。作業は、どちらかと言えば男子の手が必要だ。竹を割ったり曲げたりするには腕力が必要だから。
 でも、男子は、作業場である教室に寄り付かない。クラスのパワーバランスが女子にかたよっていることを、わたしは肌で感じた。女子が固まって、つるんで、しゃべって、笑って、はしゃいでいる。ほとんどの男子は、そこに入ってこられない。

 男子は放課後になるやいなや、部活に行ってしまう。準備優先の時間帯にキッチリ作業をして、それから部活に行ったり下校したりするのは、ほんの数人。
 淡々と仕事をこなす男子のうちの一人が、放送委員で美術部の上田だった。派手なグループに話しかけられれば、穏やかそうな笑顔で無難に受け答えする。そうしながら、つねに手を動かしている。

 軍手を付けて、竹を曲げて形を決める。竹の継ぎ目や交点を針金で縛る。目の粗いカゴを編むような作業。誰もやったことがない。うまくいかなくて、針金をペンチで切ってやり直すこともある。
 遅々として進まない作業のそばで、おしゃべりがうるさい。わたしの耳には、誰が何をしゃべっているのか聞き分けられない。ありとあらゆる声が混ざって、ただの一つの大きな音にしか聞こえない。鼓膜が熱くしびれている。

 智絵は教室の隅で、一人で竹の節を削っていた。曲げるときに邪魔になる硬い部分を、カッターナイフでそぎ落として、できるだけ平らにする。幅が一定しない竹があれば、それもならしていく。
 組み立てに関わる作業がメインの流れだから、智絵はそちらに直接関わることを避けていた。ふざけてばかりの派手な人たちは、智絵が加工した竹に触れようとしない。その竹が汚いものであるかのように押し付け合って遊んだりもする。

 クスクス笑う声が聞こえる。
「グズ」「バカ」「ゴミ」「キモイ」「うざい」「くさい」「死ねばいいのに」「ちえって名前のくせに、ちえおくれ」

 ふざけんな。
 血の気が引いていく。怒りと悲しみと憎しみが一斉に湧き出して、それが途方もなく大きくて、わたしは自分で自分の感情が制御できない。動作も制御できない。

 へし折りそうなほど強く握っていた竹の枝を、わたしの震える手は取り落とした。
 どうして震えているんだろう? どうして寒気を感じるんだろう?
 怖い? 違う、怒っている。でも、それ以上に混乱している。

 教室のあちこちに、楽しげな悪意が渦巻いている。ぐるぐると渦巻いて、激しさを増しながら、悪意はひそやかに、ただ一人へとぶつけられる。智絵へと。
 智絵はどうしている? 独りぼっちで、逃げ出しもせずに、どうしてそこにいるの?

 誰かの声がわたしを呼ぶ。
「蒼ちゃん、こっちおいでよ」
 わたしは悪意の側なの? 呼ばれる先はそっちなの?
 智絵は声を上げられない。わたしは智絵のほうへ行かないといけない。
 意志を示さないといけない。

 わたしは口を開く。
「このままじゃ、作業、終わらない」
 言えたのは、それだけだった。

 一瞬、少しだけ静かになった気がした。次の瞬間、作業時間の終わりを告げる合図の放送が流れた。だらだらと空気が崩れていった。
 何のためにわたしはここにいるんだろう?
 誰だかわからない人たちが、わたしに「一緒に帰ろう」と言う。わたしは「もうしばらく残る」と言う。

 智絵が逃げるように教室を出ていく。美術部の展示作品も仕上げないといけないらしい。本当はクラスの展示の準備なんてやりたくないはずだ。
 わたしだって、こんな教室にはいたくない。クラスのために時間を使うのはバカバカしい。でも、今はタイミングが悪い。作業の手を止めたら、誰かと一緒に帰る流れになる。

 そのとたん、左の手のひらいっぱいにチクチクとした痛みが走った。危うく声を上げそうになって、ギリギリで呑み込む。
 ボーッとしていたのか混乱していたのか、わたしはいつの間にか軍手を外していた。素手で竹を握りしめて、ギュッとたわめた瞬間、ささくれだった硬い繊維が手のひらに突き刺さった。とっさに竹を手離す。痛む左手を見る。

 血が赤い玉のように、ぷくぷくと、あちこちに膨れ上がった。裂けたり折れたりした竹の繊維がいくつも、皮膚に刺さったままになっている。指には、軍手越しに針金が刺さってできた傷もある。
 わたしは左手を握りしめて教室を出た。幸い、誰かがついてくる気配もない。

 保健室で治療してもらった。消毒液がしみたのは最初の瞬間だけで、後は、かゆいようなもどかしいような変な感触になった。そのむずむずする感触も、刺さったままの竹の繊維も、傷ごと全部、握りつぶしてしまいたい衝動に駆られた。
 針金でできた傷が化膿しかけていたらしい。道理で腫れているわけだ。痛がゆくて、思わず噛み付いてしまうことがよくあった。

 保健室の先生からクラスの様子を訊かれて、わたしは正直に話した。いじめがあること。居心地が悪いこと。作業が進まないこと。
 その状況を担任が知らないことも話したら、伝えるべきだと言われた。職員室に話しに行くのは面倒だった。紙に書いて伝えようと思った。

 左手に包帯を巻かれて保健室を出ると、ちょっと行ったところの廊下で上田と鉢合わせした。上田はわたしの顔と手を見比べて、声をひそめた。

「さっきケガしたんだよね? 大丈夫?」
「見てたの?」
「手が離せない作業してたから、気になったんだけど、声もかけられなくて。傷はどう?」
「たいしたことない」

「そっか。二学期が始まってから、疲れるよね。琴野中の行事の雰囲気って、こんな感じなんだ。去年もそうだったし、先生たちが言うには、毎年こんなふうなんだって」
「期待してなかったし、別にいい。でも、まじめにやってる人だけがバカを見るようなのは嫌いだから、担任に伝えるつもり」

 上田はうなずいたと思う。わたしは上田の顔を見ていなかったから、ハッキリとはわからない。

「教室にいた女子、もう帰ったよ」
「そう」
「いじめ、だよね。ああいうのって。ぼくは今から美術室に行くから、フォローできるところはフォローしようかなって思う。お節介かもしれないけど」

 上田にかばってもらったら、智絵は喜ぶんだろうか。それとも、迷惑をかけると感じて、縮こまってしまうんだろうか。

「文化祭とか休み時間とか、なければいいのに。学校なんか、なければ」
 思わず漏らした本音を途中で止めて、わたしは、上田の横を通り過ぎてその場を立ち去った。上田の制服から、竹の削りカスの匂いがした。

 自分の左手を見る。右利きだから、そう不自由はない。でも、何か大切なことができなくなった気がする。何だっけ?
 教室で帰り支度をしながら、何ができなくなったのか、ようやく思い至った。左手が使えないと、ギターが弾けない。

「別に、いいか」
 左手が無事だとしても、どうせ弾かないんだから。