車椅子を押されながら、一般入院病棟の端まで来た。また別の建物へと、あたしは連れていかれる。こっちも入院病棟ではあるみたいだけど、静かだ。雰囲気が違う。

「ここは、重要な臨床試験に協力してくださってる患者さんの入院病棟なの。アイトくんもここにいるわ」
「アイトに会えるって、何で? どういうこと? あたし、まだ意味がわからない。あたしが今から会う人は、本当に、あのアイトなの?」

 今度は父が口を開いた。
「ぼくの専門であるヴァーチャル・リアリティが何のために研究されているか、マドカには話したことがあったかな?」

「えっと、シミュレーション。現実の世界で実行に移す前に、コンピュータの中に現実そっくりの空間を作って、そこでテストする。新しいロボットがちゃんと歩けるかとか、事故の危険はないかとか。あと、機械学習をするための空間でもあるよね」

「百点満点の答えだね。机上の理論をもう一歩、現実に近い条件で実験するための装置が、ヴァーチャル・リアリティだ。ゲームや映画のためだけに技術が開発されているわけじゃない」
「AIのアイトも、何かのシミュレーションだったの?」

 答えを急かすあたしの早口に、父は、楽しそうに表情を輝かせた。まるで子どもみたいな顔は、父が科学者だからだ。

「想像してごらん。生まれて十七年にして初めて目を覚ます彼が、いきなり立って歩けるだろうか? 目で見ることや耳で聞くことができるんだろうか?」
「できない、と思う」

 生まれてすぐの赤ん坊は、体が小さくて柔らかい。加速度的に成長しながら、筋肉やバランス感覚を獲得して、立って歩けるようになる。
 目で見たり耳で聞いたり、そういう五感の機能も、赤ん坊はだんだん身に付けていく。それができるように、脳が環境に順応しながら発達するんだ。

 でも、眠ったまま十七歳になったアイトは、その時期をとっくに過ぎている。体は大きくなっているけど、それを支える筋肉はない。目を開けたことがないから、ものがどんなふうに見えるか、その感覚的な理解も追い付かない。

 父の声に熱がこもった。
「ぼくがヴァーチャル・リアリティの中に造ったアイトくんのアバタには、高度な身体性を持たせていた。マドカにはわかるよね。アバタを操作するには、現実の体を動かすのと同じ、脳から全身への命令が必要だということ」

 そっか。それなら、全部、腑に落ちる。
 アイトは初め、立って動くだけでもぎこちなかった。視界の焦点を合わせるための、目の筋肉の使い方も知らなかった。言葉もたどたどしくて、笑い方も練習して身に付けた。

「つまり、アイトは、ヴァーチャル・リアリティで体の使い方を練習してたの?」
「そのとおり。シミュレーションを積むことで、実際のリハビリの効率も格段に上がるからね」

「でも、機械学習みたいなことをしてるって言ってたよ。計算も、情報の検索も、まるで本物の機械だった」
「時間短縮のためだよ。だから、AIの機械学習のやり方を活用した」

「じゃあ、ヴァーチャル・リアリティのアイトは、人間の脳という本体を持ったアバタだったけど、AIと同じ方式の学習法を利用して、どんどん賢くなっていってて」
「学習は完了したと、ぼくは判断している。想定以上の充実度だったと思うよ。あんなに情緒豊かな少年に成長するとは、驚いた。全部、マドカのおかげだ」

 アイトは人間に近付きたがっていた。人間であるあたしの主観や感性のあり方を知りたがって、たくさんの会話と質問を重ねてきた。
 それは、アイトが人間として目覚めるための準備だったんだ。

「でも、それじゃあ、無事だったの? アイトのAI的な部分はロボット三原則に従って動いてて、人間のあたしの脳が壊れそうになったとき、アイトが自分を犠牲にして……」

 涙で声が詰まる。
 あたしを守るため、あたしの脳の修復のために、アイトは自滅を選んだ。あんなに優しい存在が人間だなんて、信じられない。アバタを自滅させたアイトには、本当に、何もなかったの?

 ニーナが、あたしの膝の上に、すとんと落ちてきた。父の手がひょいと伸びてきて、ニーナを抱え上げた。
「ロボット三原則は、アイトくん自身のために組み込んだんだ。つまり、あくまでアイトくんは人間であって、機械学習をおこなうアバタは、決して本体ではない。その順序付けを明確化するための、ロボット三原則だった」

「人間としてのアイトが、機械の世界からきちんと帰ってこられるように?」
「そう。自滅修復もその考え方に基づいていてね。それがまさかあんな形で発動するとは、予測を超えていたわけだが」

「ごめんなさい」
 ぐしゃっと、謝罪の言葉はよじれて歪んだ。目の奥が熱くて痛い。泣きそうなのに涙が出ないのは、意識を失っていた体に水分が足りないせい?