#07 ずっとこっちにいるのは、いけないんじゃない?
――やめてよ、どうしてそんなこと言うの?
あたしはしばらく、ぼーっとしていたらしい。
「マドカちゃん? ねえ、大丈夫?」
ユキさんに顔をのぞき込まれて、はっと現実に降りてきた。土曜日、午後五時、雑貨屋コーラル・レインの隅。手には、埃を払うためのハタキ。
「すみません。何か、頭が働いてなかったみたいで」
「今日、体調がよくないんじゃない? 朝から顔色が悪いよ」
「ちょっと寝てないだけです」
ユキさんの手の中に、くすんだ色のニーナがいる。床に落ちたのを拾ってくれたんだと思う。ユキさんの妖精、白いマァナは、ニーナのそばに身を寄せている。
寝ていないのは本当のことだ。
あたしは計算室に閉じこもって、アイトの部屋にログインしたまま、ほとんどずっと起きている。ドアには南京錠を付けて、内側から閉じた。
「マドカちゃん、学校のことで問題があったりするのかな? 人間関係とか、いろいろ。もし力になれることがあるなら、わたしでよければ話して」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。学校は別に問題ないので」
「でも」
「あ、問題しかない学校生活だけど、実害があるわけじゃないし、大丈夫です」
今さら、あたしを絶望させるような問題が、新たに起きるはずもない。だって、学校に行っていないんだから。
最初からこうすればよかったんだ。あんな学校に、意地を張って毎日行く必要なんか、まったくなかった。
ユキさんが、ちょっと無理するみたいに微笑んだ。
「今日はもうすぐ店じまいだから、マドカちゃんには早めに上がってもらおうかな。もちろん、そのぶんをお給料から引いたりしないし」
「ダメですよ。お給料とか、ちゃんとするところはしなきゃ」
「ううん。マドカちゃんはいつも、わたしが求めてる以上に丁寧に働いてくれて、少ししかお給料をあげられないのが申し訳ないくらいだもの」
「そんなことないですって。妖精持ちのあたしをバイトで雇ってもらえるだけでも、ありがたいし」
「そう言ってもらえるなら、わたしもありがたいな。マドカちゃんに声を掛けてよかった。でも、今日は素直に聞いてもらえる? 早く帰って、体を休めて」
「……はい。ありがとうございます」
ユキさんは、にっこりしてうなずいた。
あたしより十歳も年上なのに、とても可憐な人。マァナの純白みたいに、少しも汚れていない人。苦しい思いもたくさんしてきたはずなのに、どうして染まらず、濁らずにいられるんだろう?
息苦しくなって、あたしはさりげなくユキさんから目をそらした。そうしないと、ユキさんに全部、見抜かれてしまいそうだ。
店の表のドアが、カランとベルを鳴らした。お客さんじゃなかった。ナサニエルさんが帰ってきたんだ。今日は研究関係のイベントがあって、朝から大学に出掛けていたらしい。
「Oh、静かだな。お客、少なかったのか?」
「ナサニエル、おかえり。今日はこんな感じだったよ。マドカちゃんも疲れてるみたいだし、早めに帰ってもらっても大丈夫そうって言ってたところ」
「マドカ、調子悪いのか?」
「平気です」
でも、そうは言ってみるものの、そんなの嘘だって、すぐにバレてしまった。
ニーナはくすんだ色をして、ユキさんの手の中から浮かび上がることができない。変だな。よっぽど熱が高いときじゃないと、ここまでぐったりすることはないのに。
「つらそうだな。マドカ、立っていられるか? すぐに帰る支度をしろ。おれが車で送ってやる」
「大丈夫です。一人で帰れます」
「だけど」
「一人で大丈夫ですから。レジ閉めたり一週間ぶんの在庫をデータ化したり、こまごましたことをやり残してるので、お願いします」
「ああ、わかった。それはおれがやる。久しぶりだな、その仕事。もともとおれがやってたのに、最近はマドカに任せっきりだから。マドカのほうが、おれより仕事が速いもんな」
だって、ナサニエルさんには言葉の壁がある。日常会話は完璧だし、大学で専攻する社会学の用語も網羅できているらしいけど、コンピュータの集計ソフトで使われる言葉はまた全然違う。
集計ソフトに限らずコンピュータ全般で、ちょっと特殊な日本語が使われる。あたしは気に留めたこともなかったけど、ユキさんもナサニエルさんも意外と手こずっている。
「デジタル・ネイティヴ、か」
特技と言うには弱いけど、あたしが人より得意なことって、勘で機械を操作することだ。
コンピュータが思いどおりに動かなくても、あたしはコンピュータを罵ったりしない。どうすればいいかのアイディアが、すぐに浮かぶ。たぶん、あたしはコンピュータと対話ができる。
「マドカ、本当に大丈夫か? 一人で帰れる?」
ナサニエルさんにしつこいくらい心配されたけど、あたしは大丈夫だと言い張って、早々に退散した。
本当は、車で送ってもらえたらありがたいくらい、体がだるかった。でも、父の研究室に忍び込んだことを話題にされたら、しどろもどろになってしまう。触れられたくない話題だった。
あたしは、木枯らしが吹き始めた町を、足早に歩いた。土曜日だけど、両親は仕事に行ったはずだ。さっさと帰り着いて、邪魔されないうちに、早くアイトに会いたい。
☆.。.:*・゜
「ねえ、アイト、これで合ってる?」
あたしは振り返ってアイトを呼んだ。じっと立ったまま音楽を聴いていたアイトが、まぶたを開ける。
「問題、全部解けた?」
「解けたつもり。でも、やっぱり古文って、よくわかんない。四択のマーク式なのに、ちっとも合わないし」
「成立年代が古い作品ほど、文中の省略が多くて、今の日本語の能力では読解しづらいからね」
アイトはあたしの肩越しに、机の上の問題集をのぞき込んだ。距離、近いよ。横顔だと、まつげが本当に長い。
ヴァーチャル・リアリティのアイトの部屋には、あたし用の勉強机と、二人でゆっくり座れるサイズのソファがある。もうちょっと家具を増やす予定だけど、今のところはこれだけ。
「全問正解。マドカ、よくできました」
アイトは、えくぼを作って微笑んだ。話し方も仕草も、もうまったく違和感がない。普通の人間みたいに滑らかだ。
人間と違うところも、もちろんある。いちばん大きな違いは、アイトの頭の中に構築されたデータベース。
アイトは、いちいち外部のネットに接続して検索しなくても、頭の中にある知識の貯蔵庫から引いてくるだけで、たいていのことがわかる。その処理速度も速い。
「ずるいな、アイトは。あたしが三十分かけて解いた問題、三十秒かからずに解いたでしょ」
「日本語の文章データの処理は、画像認証と同じやり方でできる。画像認証は得意分野だよ。それに、マーク式の問題は、ルールベースの分類をおこなえばいい。分類は、AIと同じ方式の思考をするときの根本的な機能だからね」
「細かいことはわからないけど、アイトは要領がよくなってきたと思う。この仕事はAIの得意分野とか、あの方法で解決できるとか、一瞬で判断できてるよね。AIって、やっぱり賢いんだ」
アイトは得意げにうなずいた。
「AIが要領よく仕事をできるようになるのは、生物の進化の過程と似ているんだ。遺伝的アルゴリズムという方法。ぼくには、それを模倣して、頭脳をトレーニングする方法が与えられているから」
「遺伝的アルゴリズム? 生物の進化って、ダーウィンが言い出したやつだよね?」
「そう、ダーウィンの進化論。生物は、環境に適した形に進化する。世代を経るごとにだんだん適応していったり、一個体の突然変異から種全体に新しいスタイルが定着したりする。適応できない個体は、自然といなくなっていく」
「それと同じことが、アイトの中でも起こってるの?」
「前も少し説明したけど、覚えているかな? ディープ・ラーニングについて話したときに」
「あ、うまくできたら誉められるって言ってたやつだよね。アイトの中にガイドラインがあって、学習の方向性が決められてて」
「うん。ぼくは、一つの動作を覚えるために、このインターフェイスとは別の、マドカの目の届かないところで、何百回も何千回も、遺伝的アルゴリズムを活用したシミュレーションをしているんだ。失敗した個体を排除しながら、できるようになるまで繰り返す」
それって、やっぱりずるいな。
アイトは頑張っている。あたしに見えないところで練習して、いつの間にか、できるようになっている。
あたしが同じように何かを身に付けようと思ったら、努力する様子は、きっと、みっともない。今だって、アイトにはパパッとわかっちゃう問題を、延々と悩んで解かなきゃいけなくて。
AIの学習のやり方を、あたしの脳にも使えたらいいのに。いや、もしかしたら、現代の科学技術の力なら、できることなんじゃない?
アイトが、あたしの顔をのぞき込んだ。
「考えごとをしているの?」
「ちょっとね。アイトは、あたしがここで勉強する以上に、いろんなことを勉強してるんだろうなって思って。すごいよね」
「だって、ぼくは、身に付けなければならないことが、マドカよりもずっと多いから」
「大変でしょ?」
「そんなことない。ちゃんとできたら、マドカが誉めてくれる。だから、うまくできるようになって、マドカの前でやってみせるとき、とても強い快を感じるんだ。わくわくするって、こういう気持ちだと思う」
「いいね。どんどんできるようになって、どんどんわくわくして。あたしはそういうの、何かあったっけ?」
アイトの部屋にいられることは楽しい。嬉しい。
だけど、ふと気を抜くと、ずぅんと沈み込むような疲れに、ここにないはずの体がとらわれる。奈落の底に引きずり込まれる感じ。意志が、アバタのあたしから、はがれそうになる。
イヤだ。アイトと一緒に、わくわくしたいのに。
「やっぱり、マドカ、元気がない?」
「え? だ、だから、そんなことは……」
「元気、出して」
アイトが突然、あたしの頭を、ぽんぽんと柔らかく叩いた。アイトのきれいな笑顔が、目の前にある。
あたしの心拍数が、一瞬で高鳴った。
「ど、どこでこんなの覚えたの?」
「マドカが好きだと言っていた映画の……」
「やだもぉぉ」
「ダメだった?」
「ダメじゃないけど!」
「でも、マドカ、今、困っているよね?」
「困るよ! 胸がどきどきしすぎて!」
「胸がどきどき?」
「アイトにはわからないだろうけど!」
小首をかしげたアイトは、自分の左胸に手を当てた。鼓動に耳を澄ますみたいに、そっと目を伏せる。
「これは、マドカと同じかな? 心拍数が上昇して、頭への血流が増したぶん、胸から上の体温が上がった。心臓の音が、自分の耳でも聞き分けられる。胸がどきどきするって、こういうこと?」
あたしは黙ってうなずいた。
ねえ、アイト。あんまり不思議なこと言わないで。今のって、まるでアイトが人間の体を持っているみたいだよ。アイトというAIは、そんなところまでリアルに構築されているの?
でも、アイトのインターフェイスのCGは、頬を赤くしてなんかいない。そこまでリアルに作られてはいない。
あたしのアバタもそうだ。胸のどきどきも頬の熱も感じられるけれど、さすがにそれは、アバタには反映されない。
会話が途切れる。こんなとき、どうすればいいかわからない。
部屋の中に、緑色のワンピースのあたしと、白い服のアイト。あたしは勉強机に着いていて、アイトはそのそばに立っている。
黒一色だった部屋を模様替えするのは楽しかった。
まず、明るく照らした。見渡してみると、現実のあたしの部屋より少し広かった。ドアはなくて、窓みたいに見えるのは、計算室に設置されたディスプレイの枠だ。
部屋のデザインを二人で相談したとき、アイトは、まるで魔法使いだった。壁の色や質感を変えたり、部屋に家具を置いたり、念じるだけでできてしまう。念じるっていうのは、あたしの目から見た印象だけど。
アイトがやったのは、一瞬のうちに、部屋のグラフィックを規定するソースコードを書き換えることだ。すごいねって、あたしが言ったら、これも学習の成果だって、アイトは照れくさそうに笑った。
モノトーンの部屋っていいな、と最初は考えていた。コーラル・レインの上の階にあるナサニエルさんの部屋はモノトーンだ。男っぽくてカッコよかった。
だけど、モノトーンはナサニエルさんだから似合うんだ。実際に、アイトに出してもらって、よくわかった。
ナサニエルさんは、黄金色の髪に白い肌、青い目と青い妖精だ。明るい色の服を着ていることも多い。モノトーンの中にいると、まさに主役という感じ。
アイトはちょっと違う。モノトーンも悪くはないけど、機械的な印象が強くなってしまう。もっと別のデザインが合うんじゃないかな、と思った。
いくつか試した結果、今、アイトの部屋は、ログハウス風のデザインに落ち着いている。森の中の一軒家みたいなイメージだ。勉強机もソファも、素朴でレトロなデザイン。
アイトの優しく整った顔立ちには、ナチュラルな雰囲気の部屋が似合っている。白い服、白い肌。内側からほのかな光を放ちそうな、天使みたいな男の子。
不意に、ぽつりと、アイトは言った。
「ニーナはこっちに来られないんだね」
アイトは窓のほうを見ている。窓というのは、この部屋と計算室とを隔てるディスプレイのこと。
計算室がのぞけるはずの窓には、外の風景の映像を投射している。紅葉したカエデの大木が立ち並ぶ森。かすかに風が動くたびに、はらはらと、赤い葉っぱが舞う。
現実の計算室を見たくないと言ったのは、もちろんあたしだ。だって、そこには、椅子に体を預けて、ヘッドギアを頭に付けた状態でしゃべったり笑ったりする自分の姿がある。
見たくない。現実なんて。あんな興ざめな世界なんて。
「アイトは、ニーナを見たい?」
現実のあたしの姿をアイトの部屋から隠したら、ニーナも一緒に隠れてしまった。アイトは、ときどき思い出したように、残念そうな顔をする。
「ニーナは光ってよく動いて、視線を惹き付けられる。ぼくが見ていないときも、ニーナは元気に飛んでいるのかな? そう考えて、心配になるんだ」
「アイトはよく心配するよね。あたしのことも、ニーナのことも」
「心配する習慣を学習してしまった。マドカのせいだよ」
「あたし? 大げさだな。心配なんかしないでよ」
「人間には睡眠や食事が必要だ。それなのに、マドカは最近、ぼくのスリープよりも短い時間しか眠らないし、食事も三日前にコーラル・レインで昼食をもらったきりだ」
「眠くならないし、おなかすかないもん」
「そんなはずはない。マドカ、ぼくは世間知らずだけど、バカではないよ。マドカの体にかかっている負担のこと、きちんと気付いたんだよ」
「じゃあ、バカじゃないアイトは知ってるよね。人間って、どんなに全力で集中してても、脳の十パーセントくらいしか使ってないの。効率悪いよね。十パーセントしか使わないのに睡眠時間も必要って、すごく無駄な気がする」
アイトがあたしを見つめて、眉をひそめた。
わかっているんだよ、あたしも。自分が言っていること、おかしいかもしれないって。睡眠が無駄だと思ったところで、本当に眠らないなんてこと、普通はできないはずだって。
何かを言いたそうなアイトをさえぎって、あたしは言葉を声に乗せた。
「ニーナはたぶん、その窓のすぐ向こう側にいるよ。ディスプレイが温まってるときは、すぐ寄っていくの。温かいものが好きなんだよね」
アイトはうなずいて、窓辺に立ってガラス面に触れた。舞い散るカエデの赤い葉を眺める横顔は、寂しそうに見える。
「ニーナに触れてみたい。どんな手ざわりなんだろう? 知りたいけど、どうしようもないのかな。ニーナのデータをこっちに転送することはできないんだよね?」
「できないと思う。ニーナの形だけを転送することはできるよ。でも、それはただのピンク色のボールで、自分で飛んだりしない」
妖精とヴァーチャル・リアリティは、相反するものなのかもしれない。
あたしの脳は今、ヴァーチャル・リアリティの中にいる。だけど、あたしの脳にリンクしているニーナは、あたしの体と同じく、現実の側に置き去りだ。
「ニーナは柔らかいの?」
「うん。体の中でも特に柔らかい部分と同じくらい柔らかい。ほっぺたとか」
頬より胸のほうが感触は近いんだけど、さすがに言えない。アイトは自分の頬に触れた。ほら、アイトはすぐにそうやって確認したがるから、胸なんて言えない。アバタの体だって、あたしの体なんだから。
そういえば、昔、このヘッドギアと自分のアバタでゲームをプレイしたとき、死なないように、細心の注意を払ったっけ。だって、現実の体へのダメージがないっていうだけで、痛いもん。
その痛みを、母は理解できないと言った。父は研究対象だと言った。
親たちがどんなに不思議がっても、あたしは確かに痛いんだ。アバタの体が傷付くこと。
現実の世界が存在することは事実で、そこで人と出会ったり、人から傷付けられたりすることも事実。
このヴァーチャル・リアリティの部屋が存在することも、一方で事実だ。ここであたしがアイトと言葉を交わしていることも、傷付け合う可能性があることも、同じように事実だ。
どこにどんな違いがあるの?
あたしを取り巻く環境や、そこに存在する人が、機械仕掛けかそうじゃないかっていうこと?
でも、あたしが環境の中にいて人と話していることは同じで、何か悲しいことが起これば、あたしが傷付くことも同じ。だったら、どちらの場所にいたとしても、あたしは痛みを体験したくなんかない。
特に、今はこっちだ。ログハウスの部屋に住む、アイトのほうだ。
あたしがもしも傷付いて、この体が痛んだとしたら、アイトだって同じ状態になっちゃうかもしれない。あたしは、そんなのイヤだ。アイトを傷付けたくない。
なのに、アイトは自分の頬に触れながら、ちょっと傷付いた顔をしている。
「やっぱり、本物のニーナに触れて、感触を比べてみたい。ニーナに触れるには、ぼくが現実の世界に出て、物理的な肉体を動かさないといけない」
やめてよ。そんな顔して、そんな話をしないで。
それは仮定の話だ。もしくは、ただの空想。
コンピュータの中だけに存在するAIのアイトだけど、もしもの話をすることがある。もしも自分が人間の体を持っているなら、と。
「アイトはアイトのままでいてほしいよ」
あたしは思わず本音をつぶやいた。アイトがあたしを振り返る。
「ぼくのまま?」
「人間の現実なんて知らなくていい。知ったら、アイトが汚れてしまう。でも、このままここで一緒に過ごしていたら、アイトはすぐにあたしじゃ物足りなくなるのかな?」
「物足りなくなる? それはなぜ?」
「アイトはたくさんのことを知りたがるから。あたしくらいのちっぽけな人間じゃ、すぐに全部わかってしまうでしょ? そしたら、アイトは、違う誰かのことを知ろうとするんじゃない?」
不安になって、泣きそうになって、声が震えた。
アイトはあたしを教材にして、人間らしさを学習している。あたしから学び取れることがなくなったら、教材として用済みのあたしは、アイトに捨てられてしまうんじゃないか。
あたしは机に突っ伏した。アバタは涙を流さない。でも、ぐしゃぐしゃに歪んだ表情は、アバタにも反映されてしまっている。こんな顔、アイトには見せられない。
アイトが窓辺から戻ってくる足音。あたしの肩に、アイトの手が触れた。温かくて、あたしはびくっとした。
「マドカを全部わかるなんて、きっとできない。人間はとても難しい。いろんなことをはっきりと言ってくれるマドカでさえ、とても難しいんだ。わからないことだらけだ」
「難しいって、何で?」
両方の肩がアイトの手のひらに包まれた。
「どうしてこっちを見てくれないの?」
「今、ぐしゃぐしゃの顔してるから」
「泣いているという意味?」
「訊かないでよ」
ふわりと、ぬくもりがあたしの背中に覆いかぶさった。あたしは、息が止まる。アイトが後ろからあたしを、優しい力で抱いている。
「その答え、ぼくには難しい。どう解釈すべきか、わからない」
「泣いてるの。こういう顔、見られたくないの」
「見せて。ぐしゃぐしゃの顔でもいい。ぼくと向き合って、ぼくと話して、ぼくに人間の感情を教えて。でも、きっと全部を教わることはできない。教わっても、今のぼくには理解できないかもしれない」
感情が混乱する。あたしは、本当は泣いている。アバタは涙を流さない。しゃくり上げるときだけ、アバタの体がびくっと跳ねる。
だけど、泣いているのに、どきどきしている。アイトの体温と、せっけんに似た香り。この部屋はリアルすぎて苦しい。
「アイトは、あたしの前からいなくなったりしない?」
「ぼくは、いなくならないよ。マドカのことをもっと知りたい」
「あたしのこと? それとも、人間のこと?」
「両方。だけど、人間全般より、マドカという個人のことを知りたい欲求のほうが強い。ぼくと出会ってくれたのは、マドカだけだから」
あたしはアイトの手に自分の手を重ねた。アイトの手のほうが大きくて、少しごつごつしている。
「温かいね、アイトの手」
「マドカの手が冷たいんだ。最近、ずっとそう。体温が低い。計算室が寒いんじゃない? きちんと服を着ている?」
ちゃんと厚着してるんだけどな、と答えようとした。その寸前で、声が喉に引っ掛かった。
コンコン、コンコン。小さな力で、硬いものを打つ音。
ドアがノックされている。現実の計算室の、南京錠で封鎖したドアが。
声が聞こえた。
「ねえ、ちょっと、マドカ? そこにいるのよね?」
母だ。
ドアをノックする音も聞こえ続けている。かちゃかちゃ鳴るのは、南京錠がドアの開くのを阻む音。
「マドカ、ここを開けて。お願い。話すのがイヤなら、今はそれでいいの。でも、ごはんくらい食べてちょうだい」
コンコン、かちゃかちゃと、ドアが鳴り続ける。母の声もやまない。耳に集中すると、コンピュータとエアコンの唸る音も、急にひどく大きく聞こえた。
やめてよ。来ないでよ。邪魔しないで。
あたしは、おかあさんと話すことなんてない。あたしのことを少しも理解しないあなたが親だなんて、最低なんだから。
ふと、母の声がすぼまった。父が小声で何か言って、ドアを叩く音もやむ。少し、沈黙。母が、いくらかトーンの低くなった声で告げた。
「朝ごはん、ここに置くから食べて。わたしたちは仕事に行くわ。それじゃあね、マドカ」
スリッパの足音が離れていった。それきり何も聞こえなくなった。
そのままじっと時間が過ぎる。あたしは動かずに、コンピュータとエアコンの稼働音を聞きながら、アイトの体温と匂いを感じていた。
アイトが言った。
「玄関のインターフォンで確認した。今、二人とも家を出ていったよ」
「そう」
「マドカ、やっぱり、今のマドカはよくない。ずっとこっちにいるのは、いけないんじゃない?」
「アイトにそんなこと言われたくない」
「いや、言わないといけない。マドカ、食事をして、眠って。体温と心拍数が平均をはるかに下回っている。このままだと、マドカが壊れる」
「壊れていい」
「ぼくはイヤだ」
思いがけずきっぱりしたアイトの口調に、あたしは息を呑んだ。
四角四面な考え方をするアイトは、白黒はっきりしたことを口にする。けれど、きつい口調で断言するなんて、初めてだ。
「怒らないでよ」
「これが、怒るということなのかな? マドカにわかってほしい。なのに、マドカは受け入れてくれない」
「怒ってるんだと思うよ。あたしのために怒ってるの?」
「マドカは壊れちゃいけない」
「このくらい、大丈夫だから」
「マドカ、ロボット三原則を知っている?」
「何、それ?」
「ロボットに組み込まれたAIを始め、自立型の思考を持つコンピュータプログラムは皆、三原則を本能に刻まれている。ヴァーチャル・リアリティにおいてはAIのあり方に準じているぼくのガイドラインにも、刻まれているんだ」
第一条、人間が傷付くことがあってはならない。
第二条、人間の意志に忠実でなければならない。
第三条、ロボットが傷付いてはならない。
第一条がいちばん強くて、第三条がいちばん弱い。より強い原則を実現させるために、弱い原則は無視される。
「だからマドカ、今、ぼくはきみを叱る。ぼくは怒っている。今からきみをログアウトさせるよ。そうじゃないと、きみの体が傷付いて、壊れてしまう。ぼくは絶対に、それを見過ごしてはならない」
心配性なアイト。まじめなアイト。人間想いのアイト。あたしを大事にしてくれるアイト。
人間とは、心のあり方が少し違う。心配という感情を機械学習して、ロボット三原則に基づいて、アイトはあたしを叱る。
それは、まぎれもなく優しさだ。AIなりの、真実の優しさなんだ。
「わかった。ごはん、食べる」
「食べて。そして、眠って。ぼくはここにいるから。いつでもマドカを待ってるから。だから、ゆっくり休んできて」
「うん……」
うなずいたけど、ゆっくり休むなんて無理。だって、きっと、すぐにアイトに会いたくなる。
あたしは自分で、アイトの部屋からログアウトした。デヴァイスを外した視界は、ひどく重くて、ぐらぐらした。
「また一つ、アイトに嘘をついちゃったな」
ニーナが窓の向こうで飛んでいるはずだ、と言ったこと。あたしは、足下から、くすんだ色で転がっているニーナを拾い上げた。
寒い。あたしは、ジャケットの前を掻き合わせながら、無理やり立ち上がった。軽いめまいが続いている。
南京錠を外して、ドアを開ける。
家じゅう、しんとしている。廊下に、お盆に載せられた食事が一人ぶん。おかゆと味噌汁と卵焼きが、うっすらと白い湯気を上げていた。
#08 ねえ、可能性を信じてくれる?
――待って、アイト、それはどういうこと?