「……良かったわけが、ない」

 ようやく出てきた玲の言葉に、西松は小さく息をはく。
 玲の声は、思っていた以上に綺麗だった。

「だって、五歳だったら、自分になにが起こったのか、なんとなくでも、わかったはずでしょ。だから、ものすごく、悲しかったでしょ? 今でもきっと、苦しいはずだよね」 

 ストレートな質問に、口にした玲自身が傷ついたような顔をする。
 玲は西松の気持ちを勝手に想像して、勝手に悲しくなっていた。

「なんでお前が泣きそうな顔をするんだよ。これは別に悲しい話じゃないからな。俺は名前の話をしたかっただけだ」

「どう考えても悲しい話だよ。あなたは悲しみを隠そうとしているの? それとも、もう割り切ってしまっているの? お母さんを恨んでないの? 恋しいと思うことは、全くないの?」

 一度口を開いて、玲はどんどん質問してくる。質問しながら、その答えを決めつけていた。

「割り切っているってのが、正しいんだろうな。そして恋しいとか、よくわからない。今更会いたいとは思わない。どこかで元気でやっていればいいと思うだけだよ」

 恋しく思った時期は確かにあった。捨てられたという事実を受け入れるのに長い時間がかかった。母親を強く憎んでしまったこともある。だけど西松は成長していくうちに、問題の根源は自分自身にあったことを知ってしまった。
 西松の母親は普通じゃなかった。それは西松が普通じゃないことが原因だった。
 西松が母親を喜ばせようとした行動が、結果的に母親を怖がらせていた。
 あの当時、西松は自分が普通じゃないことに気づいていなくて、母親の抱く恐怖の意味も理解していなかった。そして母親は追いつめられ、西松の前から姿を消した。
 西松は大人になった今も、当時どうすれば母親を傷つけずに済んだのかわからない。生まれなかったらと考えるのはくだらなすぎて、捨てられたからこそ訪れた現在に比較的満足している。今過去を思い出しても、やっぱり気持ちは沈まない。一方、玲は西松が普通の人間ではないことを知らない。責任はすべて母親にあると思っている。だから西松が母親を恨んでいないことを伝えても納得しなかった。

「……引き取ってくれた男の人は、良い人だったの?」

 玲は西松の本心を引き出すことを諦めて、救いを求めるようにたずねた。

「馬鹿みたいに良い人だった。今でも俺のことを気にかけてくれている。だから立派な大人になろうと思うんだけど、なかなか難しいもんだな。名前の話に戻るけどさ、俺の名前は、その人、今の父親がくれたんだ」

「戸籍上は羽鳥彼方で、本名は西松彼方?」

「名字はたぶん西松で合っている。だけど彼方は違う。それこそ父親がつけてくれた。父親に出会うまで俺はカナちゃんって呼ばれていて、カードにもカナちゃんって書かれていた」

「じゃあ本当の名前は、カナなの?」

「どうだろうな。カナは愛称で、本当はカナデとか、カナトという名前だったのかもしれない。俺の記憶は曖昧で、真相を知っているのは名づけた本人だけだろう」

「本当の名前を知りたい?」

「別に。俺は彼方という名前を気に入っているからな。羽鳥家も厳しいところがあるけど普通に好きだ。羽鳥家の人間になれたことに誇りを持っている」

「じゃあどうして西松を名乗っているの?」

「羽鳥を名乗って悪さはできないだろ? 迷惑はかけられねぇよ」

 西松が笑って言うと、玲は呆れたように肩を竦めた。

「あなたの話って、嘘なのか本当なのかよくわからない」

「雇っているアルバイトにもよく言われるよ。俺の八割は嘘でできている気がするってな」

「嘘ばかり言っていたら、信じてもらいたい時に信じてもらえないよ」

「そんな時はないから大丈夫だ。それに、ダンマリを決め込むよりもなにかをしゃべるほうがまだマシだと思わないか?」

 玲は口を閉じる。西松がじっと見つめると、観念したのか大きく息をはいた。