支癸にとって。咲乃は何にもかえがたい大事な宝物だった。

 もう20年も昔、近くの山中で行き倒れていた母子を助けたのが、咲乃の父、光彰(みつあきら)だった。母親は既にこときれた状態で、4つか5つと思われる幼子が遺された。

 子に恵まれなかった光彰は、その子供に支癸と名を与え、我が子として育てた。その三年後に実子である咲乃が生まれたが、光彰は支癸を長子として別け隔てることは一切なかった。

 どこの誰とも知れない自分に愛情を注いでくれた養父母。事実を知っても変わらずに兄と慕ってくれる咲乃。
 気丈でしっかり者の『妹』が氷凪の許嫁に選ばれた時も、その実、氷凪を好いていたことも支癸はずっと見守ってきた。

 彼女がわざと氷凪に上から物を言ったりするのも、三つ歳上なのをあからさまにすることで周囲の関心の矛先が氷凪ではなく、自分に向けられるようになのだ。
 『氷の姫』の呼び名も本意ではないだろうに、言いたい者には言わせておけばいいと毅然として、妻たらんとしていた。

 『お兄様。どうしても西宝寺に行けと言うなら、わたくしはこの場で自害いたします』

予想どおり、咲乃が懐刀を手に脅してきた時には、支癸の中でも覚悟はついていたのだった。
 咲乃の望み、それは氷凪が無事に戻ること。その為に自分の命を盾にする。
 氷凪に何かあればすぐに後を追うだろう。ならば答えは簡単だ。
 

「何が何でも死なせねぇからな、氷凪・・・」
 
 通り抜けの風に、支癸の微かな呟きは浚われていった。