♪side:高橋翼 三月九日


「光の速さで人生を歩んでも、君には追いつけない気がする」

授業の前、廊下を歩く地学の先生にいつかこんな話を聞いた時のことを思い出す。
「オリオン座のあの大きい星さ、ベテルギウスっていうんだけど、もう爆発しちゃったんだって。それなのにこれから先五百年くらいは光を放ち続けてるんだよ」
「え、なんでですか?」
「ベテルギウスからの光が僕らの目に届くまでに時間が五百年かかるからなんだよ。五百光年っていう距離を隔てて、あの星の光を僕たちは見てるわけなんだよね」
 そんな途方もない美しい話を聞いた私は少なからず感動した覚えがある。消えてしまった星の光が未だに私たちの瞳に届いている。なんて素晴らしい、途方もない話だろう。そんな話の中で、何故か、何の関係もない話なのに、違うクラスに耳が聞こえない人がいるというのを思い出した。耳が聞こえないということは入ってくる情報の多くは光による情報ということだ。音がない分、そういった星の光とか、見えているものは幾分か美しく感じることが出来るのだろうか。
実を言うと、彼のことはなんとなくだけど知っていた。耳が聞こえないということも知っていたし、言ってしまえば少し気になってもいた。優しいし顔もかっこいい。抱えたハンディキャップは私が支えてあげたいとさえ思った時もあった。なんとなくじゃないじゃないかと言われそうだ。
「それでだ、オリオン座ってサソリ座から逃げるように冬の空に現れるんだ。サソリ座が沈めばオリオン座がサソリから逃れて昇ってくる。面白いだろう」
「星座って、そういう話とか神話とかと照らし合わせて考えると面白いですね」
「そうだよ、だから星を見るのはやめられないんだ」
寒い夜ほど星はとても美しく輝く。私にとっての一等星は、もしかしたら樋口君なのかもしれない。シリウスか、カストルかポルックスかな。カストルとポルックスって一等星だったかな。
音の無い世界で生きている彼に世界はどう見えているのだろう。そんな素朴な疑問と少しの好奇心が私を恋に陥らせた。傍から見たら、ちょっと変な恋の陥り方だとは思うけど。
卒業式も終わって教室でみんながアルバムになにかしらの絵やメッセージを書いている時、私は何もせず、ただ卒業アルバムを机に開いて廊下で窓の外を眺めていた。そうしたら背中の方から声をかけられた。振り返ってみると、クラスのムードメーカーという言葉がぴったりなちょっとおちゃらけた男子が立っていた。
「高橋さん、ずっと好きでした。俺と付き合ってください」
彼は真っ赤な顔をして大きい声で叫んだ。その言葉が周りのクラスメイト達を一斉に振り向かせた。傍観者たちは口々に言いたいことを言っている。私はとりあえずあっけにとられることしかできなかった。
「えっと、ごめん。私、好きな人、いるんだよね」
なんかヒロインの目がとんでもなく大きく描かれているどっかの小学生向けの少女漫画にありそうな、無理やり紡いだ決まり文句みたいで、こう言ってしまった自分が自分に納得できなかったけど、目の前の彼はもっと悲しそうな顔をしていた。「そっか、ありがとう」と言って立ち去る彼を見て、これも青春の一つか。と年増のババアみたいなことを思って、また窓の外に向き直る。
私が好きになったのは、音を知らないが故にいつも人一倍臆病に見えて、でもきっと誰よりも強くて、光の速さで生きてもきっと追いつけない人なんだと思う。願わくば、彼の過去を見てみたいと、そう思う。でも、昔読んだ猫型ロボットが出てくるマンガに描かれてた机もなければ、その引き出しに入って過去に戻ることもこんな世界じゃ出来はしない。でも、だけど、それでも時を超えることが出来るのはきっとタイムマシンだけなんかじゃないと私は思う。
鳴り始めたチャイムを左から右に聞き流してぼやっとしていると、雪乃原さんが少し悲しそうな顔で歩いていた。と思ったら私の所へ来た。
「翼ちゃん」
「ん?なに?」
あまり話したことがないのでそう呼ばれたことに少し驚いたが、普通に返事をした。次の言葉にはもっと驚いた。
「ねぇ私のクラスにいる樋口翔太君って知ってる?」
「えっ知ってるけど。どうして?」
「いや、なんとなくだけど。ごめんね、ありがとう」
そう言ってどこかへ行ってしまった。なんか通り雨みたいな人だなと思って、自分の喩えの下手くそさに少し笑みがこぼれた。
あ。突然そんなことを聞いてくるってことは、まさか雪乃原さんは樋口君のことを好きなんじゃないか。なんて発想になってしまったのには心底後悔した。もし本当にそうだったとしたら私なんかに勝ち目は無い。断言できる。だって、雪乃原さんはかわいくておしゃれでスポーツもできて、しかも料理も出来る。挙句の果てに頭もいい。なんて噂を男子からよく聞くけど、もしそうなら女子として完璧だし私ですら魅力的に感じる。そんな人がライバルになったりしたら。なんて考えるのも怖い。だって、勝てない。
鳴り終わったチャイムの残響の中、私は樋口君のいるクラスに向かった。教室二つ分の距離がとても長く感じた。実際には数10メートルの距離を隔てた扉を開け、樋口君を探したが、その姿はなかった。他のまだ残っている人に聞いてみたら、もう帰ったと言われた。そんな、いくらなんでも早いでしょ。
「ごめん、ありがとう」
そう言って私は玄関に向かって走った。途中階段でコケそうになる。そこら辺の高校と比べると少し多めな全校生徒の人数の割には比較的狭い玄関に息を切らしながら着くと、目当ての人がいた。その正面にいてほしくなかった人もいた。これはよくある、いわゆる告白のシーンだ。立ち聞きでもしようかなどと思ったがそれも無理だ。彼は音が聞こえないからいつも筆談だ。
自分の靴を出そうにも出せず、見てしまったのがバレたら気まずいので少し離れた。私のしていることはどう考えても覗きだ。視線の先で筆談が進んでいる。そんな中で、雪乃原さんが泣き始めたように見えた。樋口君はどう答えたのだろう。
彼は優しいから女の子を泣かそうとしてして泣かすことはないと思う。ということは断ったということだろうか。いや、「誰が好きなの?」「お前だよ」のパターンで嬉し泣きか。どっちだろうか。出来れば前者であってほしいと思った私は少し最低なのかもしれない。
雪乃原さんがいなくなって樋口君も帰ろうとしていた。私は樋口君のとこに行こうと思った。でも足が動かなかった。ゴルゴンに睨まれたみたいに、足が動かなかった。