♪side:樋口翔太 三月九日

「時を超えることが出来るのは、きっとタイムマシンだけじゃないと思うんだ」

卒業式の日に、一筋の涙も流れなかったのは、きっと思い出が無いからとかそんな理由じゃないと思いたい。だって、少なくとも僕は「思い出」と呼べるモノを心の中に持っていなかったと思うから。もしも心にアルバムなんてものがあるのなら、全ページに写真なんか貼られていないし、白紙だと思う。
僕らの卒業式のテーマソングは誰もが知っているあの曲に決まっていた。卒業生全員が歌う、いや、全員じゃないな。僕だけは歌わなかった。だから、やっぱり涙は流れなかった。学校生活だけじゃなくて、僕の人生の中で、音としての思い出が無いせいでもあるのかも知れない。そんなことを思い返していた。『瞳を閉じればあなたが瞼の裏にいることでどれほど強くなれたでしょう、あなたにとって私もそうでありたい』そんな歌詞が、恋をしていた僕にはぴったりだったような気がした。いつか奇跡か何かが起きて、音が聞けるようになったら、この歌を聞いてみたいと思うんだ。きっと、この日のことを思い出して、じっくりと聴こうと思うんだ。
そう。僕は耳が聞こえないんだ。厳密に言えば補聴器を使えばなんとかうっすらと聞こえるという感じだった。だけど日常生活がスムーズにいくはずがなくて、友達と話す時は筆談だったし、みんなによく助けてもらっていた。大丈夫なのかとか怖くないのかとか聞かれたことも多くあったけど、そのたびに心配をかけたくなくて、「別に」だとか「大丈夫」だとか答えてきた。冷たく接しているように見えたかもしれないけど、みんなの気遣いは僕の心を温めてくれていた。
卒業生の合唱が終わる頃にも一切涙は流れず、悲しい気持ちにすらあまりならなかった。一体なぜなんだろうって、そんな気持ちのまま自分の席に戻った。
どんよりとした鉛色の雨雲みたいな、もやもやした気持ちで卒業証書の入った筒を握る手に少しだけ力を込めた。別に、周りから白い目で見られるのを気にしなければそのまま握り潰してしまってもよかった。ただここに3年間通いつめた証明の紙切れなんだから。
「送辞、在校生代表、逢瀬駿一」
「はい」
少し前の生徒会役員選挙で信任投票の結果、生徒会長に就任した彼は、迷いのない足取りで登壇した。見馴れた形に折られた紙に書かれた聞きなれたような時候の挨拶でも言っているのだろうか。読唇術が使えたら少しは言っていることが分かったかもしれないのに。
「寒さも和らぎ、今日という晴れた良き日に卒業を迎えられた卒業生の皆様、ご卒業おめでとうございます。先輩方には、様々な場面でお世話になりました。行事、勉強、挙げればキリがないほどにたくさんの思い出を頂きました……」
 十分ほどの話が終わったのか、手に持っていた紙を元の形に折り曲げて包み、手元に置いた。彼が降壇し、席に戻るとすぐに答辞が始まる。音を失った僕としては卒業式なんか退屈で仕方が無い。それよりも、三つほど斜め前に座っている後ろ姿を眺めている方がずっと気が紛れて良かった。凛とした後ろ姿に、いつものように見とれてしまっていた。
目から入ってくる情報がほとんど全ての僕は、その子の魅力の半分も知らないのかもしれない。それでもその子のことがどうしようもなく好きだ。愛していると言っても大げさではないと思う。だからこそ怖い。話したこともない、こんな僕を受け入れてくれるのかがどうしようもなく不安だ。というかそもそも、筆談でしか話せない僕の話を聞いてくれるかさえも分からない。一方通行で届かない想いなら秘めておきたいとすら思ってしまってる。本当の本当に好きな人と結ばれない偽物の赤い糸なんか小指から切り離してしまって、どこかを漂わせていた方がいい気がしていた。そしたら誰かがまた、その赤い糸を見つけて結び付けてくれるかもしれないから。
気づけば校長先生の話や在校生合唱も終わり、卒業式は第二部も終わっていた。卒業生退場の号令がかけられ、みんなに少し遅れて僕も立ち上がる。卒業生の列と流れているであろう音楽が僕らの背中を出口へと押していく。驚いた事に、退場の途中に少し前を歩くあの子の背中を見た時に少しだけだけど涙が流れた。友達から教えてもらって、進路が違うことも知っていたし、住む場所も遠く離れることも知っていたのになぜ今更涙なんか。と思った。決まりきっていた運命に逆らおうともしなかったのに、心はそれを認めたくなかった。ふざけんな。と自分の弱さを呪おうと思った。
教室に入った僕らは皆それぞれの卒業アルバムにメッセージを書いていた。僕もその輪に混ざっていった。クラスのみんなにデフォルメした猫のイラストと一言コメントを書いた。願わくばあの子にも一言書きたいと思ったけど、クラスが違うしそもそもそんな勇気もないので諦めた。彼女のいるクラスの窓の方を眺めながら、だれにも聞こえないように小さくため息をついた。
「ねぇ、翔太君?」
目の前にこう書かれたルーズリーフが出されて、自分が呼ばれていることに気づいた。見上げた先に、少しニヤけた顔をした雪乃原未咲がいた。
「ん、なに?」
その下に書いて返事をした。
「あんたさ、翼ちゃんの事好きでしょ?告んないの?」
「えっ」
正直言うと動揺した。というか心をハンマーでぶん殴られたような衝撃が走った。なんで未咲さんが、僕が翼さんのことを好きって事を知ってるんだろう。
「なんで、そのこと、知ってるの?」
少しだけ震える文字で書いた。動揺を隠しきれなかった。
「あ、やっぱそうなんだ。だってさ、翼ちゃんのこと見すぎ。誰だってわかるよ」
「そんなに見てた?」
「見てた見てた。ほんと、悔しいくらい視線そらさなかったよね」
「そっか、意識してなかったな」
「しかも鈍いからダメだね。翔太君は絶対そのうち詐欺にひっかかるよ。私が守ってあげるよ」
「それは困るな。女の子を守るのは男の役目なのに」
ルーズリーフ一枚が埋まった。そんな会話を終え、僕に手を振ってどこかに行く未咲さんの顔になんとなくだけど悲しみが取り憑いていた気がした。
 まさかな、未咲さんに気づかれてるなんて思わないよ。そんなに見てたかな。なんでバレたんだろ。なんていくら勘ぐっても分かるわけはないので放っとく事にした。
告らないのかと聞かれたけど、僕は告らない。他人から見ればそれは弱虫に見えるし、一種の逃げだと思う人もいる。そう言われても仕方ないだろうね。わかってる。だって、どうせ届かない。それなら僕は弱いまま、逃げていよう。それが一番いいと思うんだ。
未咲さんが戻ってきた。さっきどこかに行ったと思ったのに、すぐ戻ってきた。
「ごめん、紙をきらしちゃって」
「わざわざ取りに行ったの?」
「うん」
ルーズリーフをわざわざ取りに行っていたらしい。僕がルーズリーフとかなんかの紙を出せば済んだ話なのに。
「僕が紙を出せばよかったじゃない」
「いいの、大丈夫」
まっさらなルーズリーフに他愛もない会話がのびていく。
「ねぇ、樋口君。これ、見といてね?約束」
「なにこれ?」
未咲さんが渡してきたのは四つに折り畳まれた紙。色的にも、形的にもルーズリーフではなさそうだ。それを開こうとした時、止められた。
「私が樋口君の目の前からいなくなってから見て」
なんとなく書いてあることに予想がついてしまった気がして未咲さんに少し申し訳ない気になった。あぁ、やっぱそういうあれなんだなぁ。って真っ赤な顔の未咲さんを見て思った。よもや僕がこれを渡される日が来るとは思いもしなかった。
「ありが」
その五文字を書きかけたところで未咲さんはルーズリーフを持って行ってしまった。あと二文字書けなかった。
僕はもらったそれを開いてみた。予想は当たっていたが、書いたあった文面が完全に予想外だった。