♪高橋 翼

「あのね、ううん、なんでもない。」



樋口君が病室に運ばれてから少し経って、気持ちも落ち着いた。だから今度こそ勇気を出して病室に行こう。そしてもう一度、ありのままの気持ちを全部伝えよう。そうしてやっと決心できた。
もう既に暗くなった窓の外にポツポツとビルの明かりが見えている。百万ドルの夜景ってカッコよく言うけど、実際百万ドルの残業代の夜景なんだなって思う。そんな景色を眺めながらひっそりした廊下を病室に向かって歩いた。
二〇六号室の扉が段々と近くなってきて、もう少しで会えるんだと思いながら進んでいく。明かりのついた二〇六号室から出てきた看護師さんとすれ違った。少し笑ってた気がした。
いざ病室の前に来てみると、どうしても緊張がごまかせない。膝が笑いだしそうだし、取っ手を掴む手も震えそうだった。それでも少しだけ、勇気を出して扉を横にスライドした。樋口君が起きてて思い切り目が合ったらどうしようとか考えてて、部屋に入ったら布団をかぶってる樋口君がいた。どうしてこんな状況なんだろう。なんて思っても始まんないからとりあえず背中をつついてみた。一瞬びっくりしたようにも思えたけど、すぐに顔を出してくれた。途端に私も、樋口君も安心したように見えた。
私はもういてもたってもいられなくなり、部屋の隅にあった机で言いたいこと全部を書き出した。
『ねぇ、私、本当は樋口君のこと好きだったの。あの瞬間の感情に流されてごめんって言っちゃって、今になって今更だと胸を詰まらせて、すごいバカ。戻らない時間に後悔なんてもっともらしい名前を付けて、今からでも遅くないって思い込むけど、もう届かないことを知ったの。漠然と何かを期待していた自分の目の前で、感情が抑え切れずに私は私の為だけに泣きたくなった。情けないけど、それでも、今だから気持ちを樋口君で一杯にできた。ずっと我慢してた痛みが消えたんだ』
そうやってルーズリーフに0.3ミリのシャーペンで書かれた読みにくい震えた字を、樋口の目が追っている。でも、途中から涙が目に浮かんでて、読めてるのか分からなかった。でも、涙を流してくれたという事実はとても嬉しかった。私の言葉は決して無意味じゃなかったと、またしても自己満足だけど、そう思い込むことが出来た。
惚れやすいってことは、もしかしたら樋口君への気持ちも一時的なものなのかも知れない。だったらどうしようとか思ってた。今までもちょっとした事で誰かを好きになったりしたこともあったから。でもそれを美しくないなんて言われるのはなんとなく寂しい感じがしてた。たとえば、ぐちゃぐちゃに曲がりくねった一見醜い気持ちだとしても、たどり着く先がたった一つの愛ならそれは美しいって言えるんじゃないのかって理屈を捏ねたりしたかった。
でも結局ぐちゃぐちゃに折れ曲がった恋を続けて、失敗なんて嫌という程してるのに人ってなかなか変われないもんだなぁと痛感する。
さっきの殴り書きの告白が樋口君の手元に寄せられて、少しづつ文字が綴られていく。樋口君の手元は見ないようにしている。書いてるそばから読まれるなんて絶対に私なら嫌だから。
まぁたとえ世界が明日終わっても、気持ちを伝えたことを後悔はしないと思う。だって踏み出した勇気の結果がもしフラれたってなっても伝えないで後悔するよりマシだから。というかそもそも、地球が終わるなんて馬鹿なことはないと思うしやっぱり普通に明日は来るんだ。
いま考えた一瞬手元を覗いたことがバレた時の言い訳をくだらないって自分で蹴飛ばして無かったことにした。
手元の紙に書き続ける樋口君に「あのね」と声をかけてみた。もちろん一言も返事はなく、視線は手元に向いている。「ううん、なんでもない」と言っても当たり前だけど反応はなかった。分かってたことなのに、なぜか心に小さな悲しみが宿った。もしかしたら無意識にか、心の中で私の声が届いて欲しいとかそんなことを思っていたのかもしれない。 
実際に樋口君には私の声を聞いてほしかった。
ペン先がコツコツと机に当たってその度に文字の書かれる音が聞こえる。それくらいに二人きりの空間は静かだった。どうしようもなく幸せだしどうしようもなく怖かった。手元の紙に何が書いてあるのか、見てしまいそうになったけど、なんとか理性が抑えてくれた。
この部屋の中で変わらないのはたぶん、窓に張り付いた夜と樋口君の心だけなんだと思う。