その男はアメリカ旅行を終えて、これから日本に帰国しようとしていた。


 911のテロがあってから空港は、荷物検査が厳しく、ゲートに入るまでかなり時間がかかった。

 それを見込んで早めに空港に来ていたので、飛行機の搭乗までまだ時間がある。


 男は時計を見つめた。

 国際便は昼の出発。


 機内食が出るが、量は少なくメニューも期待できないし、碌に朝食も食べてなかった男は腹をすかしながら、これでは長時間のフライトを乗り越えられないと感じた。


 そこで目に付いた店に入り、食事をとる事にした。


 男はカウンター付近の壁に貼ってあったメニューを見る。

 空港内では何を買っても割高だ。


 食べ物もこれと言って特別に美味しい訳でもない。

 それでも、アメリカを発つ前にたらふく何かを食べてみたいという気持ちになった。


 そこにはメキシカン料理があり、量も多くてなかなか食べ応えがあるように思えた。

 それを注文し、いざ一口食べると、腹も空いていたこともあり、それがとても美味しく思えた。

 見事に皿の上には何も残らないほど、平らげてしまった。


 これなら、飛行機の中でも空腹にならない。

 飛行機の中でお腹が空くと、自分で何かを持ち込まない限り食べる物がないので、結構辛い。

 お腹が膨れてる方が男にはまだましだった。


 空腹を満たされ気分も良く男は搭乗時間を待っていた。

 ようやく、自分の乗り込めるときになり、男は搭乗口から飛行機へと進んでいく。


 席はエコノミークラス。

 ビジネスクラスの座席の間を羨ましいと思いながら通り、奥へと進めば、すでにたくさんの人たちが乗り込んでいた。


 日本行きの飛行機とあって、日本人が多かった。

 ちょうど真ん中の列、4人掛けの席になる通路側。

 周りは見知らぬ、一人旅。

 通路に接してる分、すぐに動けるので暫しの窮屈感も我慢ができた。


 頭上に荷物を入れ、すでに座っていた隣の人に軽く頭をさげて、男は座席に着いた。


 目の前には小さなスクリーン。

 映画も選び放題で、長いフライト時間を潰すにはいい娯楽だった。


 機内はスムーズに人が座り、時間通りに全てが進んでいる。

 離陸するのに、そんなに時間がかからなかった。


 全ては順調に、飛行機も離陸後は揺れることなく安定し、すぐさまフライトアテンダントが忙しく働き出した。

 飲み物が配られ、その後はすぐに機内食も配られた。


 お腹が一杯ではあったが、興味がてらに貰えば、やはり量は少なく、味もイマイチで食べられたものではなかった。


 乗る前に沢山食べていてよかったと男が思ったその時、下腹のあたりがグルグルと音を立てた。

 飛行機のエンジン音が強く、自分にしかわからない音だった


 気圧の変化で、高度が高い場所では、腸は膨らみ易い。

 少し下腹部が張るくらいで、お腹を壊したとかそういうものではなかった。


 もしもの時はすぐに立ってトイレに駆け込めばいい。

 だが、そういう前兆もなかった。


 体調はすこぶるいい。

 気圧や空気の変動で腸がそれに対応しているだけだと男は思っていた。


 食事が終われば機内は休みモードになり、窓も光を遮られ辺りは暗くなる。

 大体の人は映画を観て過ごしていた。


 男もその中の一人だった。

 時々通路を人やフライトアテンダントが通って行くが、飛行機は常に安定して、落ち着きがあった。


 このまま無事に日本について欲しい。


 男が時計に目をやれば、まだ半分も時間を消費してなかった。


 まだ先は長いと思ったその時、男の腸が動いてそれが尻の下あたりに力が溜まっていく。


 一発ぶちかましたい欲求が現れ、こんなところでそうするわけにもいかず、我慢しようとしたが、それが最大級に力が強くて尻から出たがった。


 ※


 我慢しようにも意識とは裏腹に、それはブワッと尻から放たれてしまった。

 ヤバイと思った時、自分でもびっくりするくらい濃厚なガスが広がった。


 やってしまった。

 あまりにも臭い。


 飛行機に乗る前に食べたメキシコ料理には、ピントビーンズと呼ばれる豆を潰したものがサイドに一杯ついて来ていた。


 豆は繊維を含み、これまた腸で分解されると非常に臭いガスを放出する。

 豆ほど、臭い屁を生み出す食べ物はない。

 不覚にも食べる前は気が付かなかった。


 臭いながらも、周りは文句も言えず、何かを感じてもぞもぞしながらも耐えていた。

 狭い空間の中で放たれた濃厚の臭い屁。

 もわーんと周りが霞んでみえるようだ。


 臭いが消滅するまでどれほどの時間がかかるのだろうか。

 濃厚過ぎて、空気の流れもなく、こもったままそれは中々消えてくれなかった。


 座席にまで染みつくような臭さ。

 かなりの長い時間、特に男の周りはその臭い屁で覆われていた。


 男は気が気でなかった。


 自分でも臭いとわかる屁。

 他人にはもっと臭いことだろう。


 特に隣の人、かなり動揺して手を鼻や口元に当てていた。

 謝れるものなら謝りたい。

 でも恥ずかし過ぎてカミングアウトできない。


 臭くても臭いと言えず、周りの人はどうしようもなくひたすら他人の屁を帯びた空気の中で過ごさなければならない。

 まさにガスチェンバーであろう。


 男はここでマッチを擦りたくなる。

 マッチを擦れば、一瞬で屁の匂いが消える。


 しかし、マッチは機内に持ち込むことはできないし、もし荷物検査をかいくぐってそれをやったとしても、大事件に繋がってしまう。


 過去に屁をして、それを誤魔化そうとマッチを擦った乗客がいたが、屁の匂いよりも、マッチの匂いがテロ事件に結びついて、大事になって飛行機が緊急着陸となってしまった出来事があった。


 一体何が起こったか、乗務員、乗客もハラハラとして、その原因究明に躍起になって、着陸するまで緊張感が漂い恐怖を感じていただろう。

 でもその時、屁をした乗客だけは原因を知ってるので、あまりにも馬鹿げた自分の行動のせいで、針のむしろだったに違いない。


 哀れだが、気持ちはわからなくもない。

 男はその乗客の葛藤が手に取るように感じられた。


 臭い屁もテロといったらテロになってしまうが、殺傷能力がない分まだましだ。

 気持ち悪くなる人はいるだろうが、我慢できない事もないだろう。


 男は自分に言い聞かせ、起こってしまった事は仕方がないと開き直るしかなかった。


 暫くは、男にとっても居心地が悪かったが、時間が経てば少しマイルドになり、そして鼻もなれてようやく気にならなくなるところまで来た。

 ここまでくれば周りも許してくれるだろう。

 本当に申し訳なかった。


 『直接謝れないのが残念ですが、本人はいたく反省しております』

 男は心の中で謝った。


 男ははっーと息を吐く。

 気持ちを和らげたその直後、安心しきって力が緩み、不意に第二弾をかましてしまった。


「嗚呼……」


 また振り出しに戻る。

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