「全てに感謝してるわ。特にあの日」


 聞いてないかもしれない夫に妻は構わず言った。


「仕事帰り、道を歩いていた時に受けた携帯電話。


突然の父の危篤で取り乱し、途方に暮れたあの夜、偶然自転車で通りかかったあなたが心配して振り返った。


目が合った時、誰かにすがりたい気持ちで涙が溢れ、あなたは声を掛けてくれた。


事情を話せば自転車の後ろに乗れと指図し、戸惑う私に『早く』と叱りつけた。


気が付いたらあなたの背中にしがみついて、風を受けていた。


止まった時、そこにはタクシーが待機していた。


私が降りると、あなたは自転車を放りだし、私をタクシーに押し込めた。


有難うも言えないままにタクシーは発車した。


あなたに会わなければ、私は父の死に目に間に合わなかった。


そしてあの後あなたと 恋に落ちる事もなかったわ」



 妻は照れたように微笑んだ。

 夫はちゃんと聞いていた。

 でも妻ときっちりと向き合えなかった。


 だけどあの時の事を振り返る。

 それは鮮明に、まるで傍で自分を見てるかのようにはっきりと見えた。


 自分は若く、そして妻は美人だった。


「何を迷ってる、早く彼女を助けるんだ」


 高ぶる感情のごとく、思わず若きしの自分に叫んだ。


 あの時も自分の中で、神のお告げの声を聞いた気がしていた。

 その後は一心不乱で自転車を漕ぐ自分の姿を見つめ、もう一度あのシーンに熱くなる。


 タクシーに彼女を放りこんだ後、ほっとした気持ちから疲れてへたり込んだ自分。

 若さゆえの無茶な行動。

 自分でありながら、それを見るのは微笑ましかった。


「よくやったな」

 思わず労いの声を掛けた。


「えっ、いえ、そんな。でも彼女間に合うかな」


 若き日の自分と向き合って会話している事にびっくりする。


 でも、確かにあの後誰かに労いを受けた事を思い出した。


 そうか、そういうことか。

 自分が今、あの場所に戻って、若き日の自分と話をしている。


「間に合うよ。そして君はまた彼女と出会うよ」

「そうだといいんですけど」


 照れた若き自分に、彼女の名前を教え、どこで再会するか日時と場所も伝えた。

 あの時は、変なおっさんだと不思議に思っていたが、それが自分だった。


 奇跡が起こって過去に戻っていた。

 いや、妻と会うために自分が用意した運命だった。


 自分の作り上げた人生に満足し、心のままに表情は安らかになる。

 君に会えてよかった。


 愛しているよ。

 夫は声に出さなくとも、妻に伝わると思った。


「あなた。ありがとう」


 ベッドに横たわる夫の手を握り、妻は涙を流す。


「幸せそうな表情ね。あなたもあの時の事を思い出してるのね」


 妻があの話を語り始めたその5分後のことだった。

 人生最後に時間旅行をすませた夫は、妻に看取られ静かに息を引き取った。