ある日のこと。

 夫の国であるアメリカに来て日本人妻は何をしていいのか思案していた。

 永住権があるからここでは外国人であっても法的に働けるが、いまいちアメリカン社会に出るのが気乗りしない。

 そんな時、アメリカン夫がコミュニティサービスの冊子を日本人妻に見せた。

「面白そうだよ」

「何々?」

 日本人妻はそれを手に取りざっと目を通した。


 この街に住んでる者なら受けられるクラス──習い事──が沢山書いてあった。

 真面目に勉強できるものから、遊びで楽しく習えるものまで様々な種類があった。

 地域の住民と関わるにはもってこいだった。

 日本人妻はその中でも人工呼吸のクラスに興味を持った。

 安くて、たった一度の受講。

 しかも2時間程度で終わる。


 受講後は、終了証明書まで発行してもらえるとあった。

 資格になりうるかもしれないし、もしものときに役立ちそうではあるし、受講料も安いし、知っていて損はないと、暇を持て余していた日本人妻は申し込んだ。



 そしてそのクラスがある当日、バスに揺られて10分。

 下車すれば、すぐ目の前にコミュニティセンター。

 ドキドキしながらそこに向かう。


 見かけは古く、こじんまりとして小さいが、板張りの廊下がギシギシと音を立て、昔の小学校の校舎を思わせどこか懐かしい雰囲気がした。


 アルファベットと数字が組み合わさった番号が各クラスの入り口に示されている。

 指定された教室を見つけると、日本人妻は入るのに少し怖気ついてしまった。


 ここはアメリカだ。

 全てが英語。

 ちゃんとできるのか、日本人妻は躊躇う。


 しかし、負けてなるものか。

 背筋を伸ばし気持ちを奮い起こして、教室に足を入れた。


 すでに待機していたインストラクターが、明るく挨拶をする。

 日本人妻も笑顔でそれに応えた。


 インストラクターは、なかなか若くて優しそうな、いい男だ。

 万が一、間違った事をしてもなんとかなるだろうと、日本人妻は覚悟を決めた。


 受講生の中では一番のりではあったが、教室はすでに混み合ってる雰囲気がする。

 なぜなら、その床には十数体の一般の人間と変わらない大きさの人形が寝かされていたからだった。


 しかしそれは頭と胸の部分のみ。

 簡素なマネキン──これが人工呼吸の相手だ。


「どれでもいいから人形の側に座って」

 インストラクターに言われ、遠慮がちに端に向かい、直に床に腰を下ろす。


 日本人妻は目の前の人形をじっと見下ろした。

 練習とはいえ、これとキスをする。

 なんだか変な気分だった。


 ポツポツと人が教室に入って、その度にインストラクターとのやり取りが耳に入る。

 やはり来る人は皆アメリカン、人種も様々。


 参加者が全員集まると、インストラクターは陽気に話しだした。


「ようこそ、それでは今から始めます。まずは自己紹介から。名前と職業、そしてなぜ人工呼吸を学ぼうと思ったかその理由を聞かせてください」


 大人しく見よう見まねで、黙って過ごそうとしていた日本人妻だったが、いきなりインストラクターに手を向けられて自己紹介を強制され、慌てた。

 ドキドキとしながら、たどたどしく答える。


 自分の名前、そして職業──主婦──を言った後、

「知っていたら、いつか誰かを助けられるかもしれない」

 必死に答えた。


 インストラクターは愛想よく「その通り」と肯定してくれたことが、日本人妻をほっとさせた。

 お陰で、いきなりの山場を越えた後は、リラックスできた。


 それぞれが自己紹介をしていく。

 何をしている人なのか、どういう理由で受講したのか、聞いているとそれは面白かった。


 皆、和気藹々として、和やかに事が進んで行ったその時、白いポロシャツを着たまじめそうなおじさんが自己紹介を始めた。


「私は医者です」


 日本人妻はその人を二度見してしまい、周りも意外だと少しざわつく。

 インストラクターもここに医者が来ている事が信じられない様子。 

 思わずインストラクターは言ってしまった。


「なんで医者がここに?」


 教室に緊張が走った。
 みんな固唾を飲む。


 人工呼吸のやり方は医者が知っていて当たり前だと思い込んでいるから、ここに医者がいるのが不思議で仕方がない。


 だが、医者だけが落ち着いていた。
 そしてにっこりとして口を開いた。


「私は眼科医です」


 皆、一様に体の力が抜けて「oh」と納得したように小さく声が漏れた。

 日本人妻もなるほど、なんか笑けてきた。

 インストラクターは自分の失礼な失態を、笑いに変えてごまかしていた。


 まるでいたずらを仕掛けて楽しいと言わんばかりに、その眼医者は皆のやり取りに微笑んでいた。