耳の駄菓子屋

 州をいくつもまたいだ出張先の仕事が終わり、男はホテルに戻ろうとタクシーに乗り込んだ。

 行き先を告げ、ぐったりと疲れて座席に座れば、腹がグルルと騒ぎ立てた。


 腹が空いている事に、この時初めて気が付くように、男は自分の腹に手を置きながら夕食の事を考えた。

 具体的に何が食べたいのかわからないが、とにかく美味しいものが食べたい。

 そう思うや否や、男はタクシーの運転手にお薦めの店はないかと軽く訊いた。


「それならいい店がこの近くにありますよ」

 タクシー運転手が答えると、男は具体的な事も訊かず行き先をそこに変えた。



 喧騒な街を離れ、広大な乾いた大地が広がる中をタクシーは進む。

 夕日がそろそろ落ちようとしていた。

 セピア色に包まれた夕暮れ時。

 トワイライトの微睡に男は穏やかな気持ちに身を包んでいた。


「着きましたよ、ここです」


 そこにはウエスタンスタイルの建物が静かに佇んでいた。

 まるで古き時代の西部劇を見ているようだ。


 一日の終わりの黄昏時にその店は馴染み、癒されるように懐かしさがこみ上げる。

 暫しの日常生活を忘れさせてくれる、どこか別の次元に来たようだと男は思った。


「バーベキューと美味しい地ビールが有名で、地元では人気の場所ですよ」

 人懐こい笑顔でタクシー運転手は、自信たっぷりに言った。


 男がタクシーから降りようとすると、運転手は運転席から身を乗り出して、慌てて付け加える。

「帰りもこの辺りを走っているから、電話をくれたら迎えに来ますよ。だからゆっくり食事を楽しんで下さい」


 運転手はビジネスカードを差出した。

 男はそれを受けとる。

 ちらりとそれに目を通してから「ありがとう」と言ってタクシーを降りた。


「それじゃ、また後で」

 ドアを閉め、去っていくタクシーに一度手を掲げて、男は店に向かった。


 店の中はまだ客がまばらで、空いていた。

 年季が入ったテーブルや椅子。

 古くとも温かな親しみが感じられ、その店に合っていい雰囲気だった。

 地元に愛されているのが伝わってくる。


 好きな所に座っていいと、他のテーブル客の相手をしていたウエイトレスが男に簡単に伝えた。

 男は敢えてカウンターのスツールに腰掛けた。

 酒の扱いに手馴れてそうな貫録のあるバーテンダーが、明るく迎えてくれる。


「初めて見る顔だね。仕事でこの土地にきたのかい?」

「そうです」


「よそから来て、この店を見つけたのは、すごい幸運だ。ここはちょっと隠れた名店だからね」

「タクシー運転手が教えてくれました」


「もしかして、サムか?」

 渡された名刺にそのような名前が書いてあったのを、男は思い出し頷いた。


「サムのタクシーに乗ったとならば、それは運命的に導かれたって事だ。あいつもここの常連だからな」

 バーテンダーは太い声で笑った。


 それは男をリラックスさせ、気分を良くした。

 大らかさが感じられ、心をほぐしてくれる。

 この店にいる誰もがいい笑顔で語らい、男も自然と顔が綻んでいた。


「何か飲むかい?」

 バーテンダーに訊かれ、男はこの店の自慢のビールを注文する。

 それが正解だと言わんばかりに、バーテンダーの粋なウインクが返ってきた。

 バーテンダーの太い指先がグラスを掴み、カウンターの裏で並んでいたケグの一つを手前に引いて、ビールを注いでいく。


 慣れた手つきで注がれる黄金色の液体と白い泡。

 見るからに旨そうで、喉の渇きがたまらなくそれを欲する。


 目の前にグラスを置かれ、それを男が手にしようとしたとき、腹がでっぷりと出た中年の男性が突然横から現れた。


「俺も、同じのを貰おう」

「あれ、珍しく今日はビールかい?」


 バーテンダーは、それを言うやすぐさま、グラスを掴んでビールをグラスに注ぎだした。


「ああ、この客人を見てたら急に飲みたくなってね」

 男のせいでもあるかのように、わざとらしい笑みを飛ばした。

 バーテンダーは何も言わず、ビールが注がれたグラスをカウンターに置き、新たに注文が入った他の客の酒を作るためにどこかへと行った。


太った男は、男と向き合い、

「あんた一人だろ。ここ座っていいかい?」

と、無遠慮に言った。


「もちろんどうぞ」

 男も歓迎した。


「ありがとな。俺はジムだ。よろしく」

 自己紹介をされ、男も自分の名を言った。


 そしてその後は挨拶代わりにお互いグラスを重ね、ビールを口にする。

 男がビールを飲む様子をジムはじっと見つめていた。


「いい感じに飲むね。なんだかイーサンを思い出すよ」

「イーサン?」


「ああ、高校の時の友達だ。あんた俺の友達のイーサンに似てる」

「そうですか、それは光栄かも」


 男は笑みを浮かべ、ジムに付き合う。

 どうせ一人での食事。

 話し相手がいるのは悪くなかった。


 タクシー運転手がここを紹介し、その繋がりでバーテンダーも男を歓迎し、そこに常連のジムが自分を友達のイーサンに似てると言う。

 その繋がりがとても楽しい。

 これもまた不思議な気分だった。


 旨いビールと一緒に名物のバーベキューを囲んで、暫しのジムとの語らい。

 とにかくジムは良くしゃべった。


 そして何かあるごとに、男がイーサンに似てるという。

 ジムもそれが懐かしいのか、高校生に戻ったように調子に乗って楽しく語らう。


「その、笑い方、ほんとにイーサンだ」

「そのメガネもイーサンが掛けていたのとそっくりだ」

「その髪型もイーサンだ」


 何かあるごとに『イーサン』を付け加えた。


 アルコールが入ったせいもあるだろし、ジョークでもいうようなちょっとしたノリでもあったのだろう。

 男を自分の友に似てると囃し立てた。


「あんた、ほんとはイーサンじゃないのか?」

 ほんの少し期待した目でジムは言った。

「いえ、私は違います。そんなに似てるんですか」


 ジムと比べたら男の方が年が若い。

 年齢から考えれば、ジムの同級生であるイーサンのはずがなかった。

 それでもジムの瞳はそうあって欲しいと物語っていた。


「イーサンとはちょっとした喧嘩をしてな、最後まで謝れずにそれっきり会ってないんだ」

 ジムは宙に瞳を漂わせ、しんみりとしてしいまった。


 どちらも若気の至りの衝突に違いない。

 よくあることだ。

 ジムは謝れなかったことをずっと後悔していたのだろう。


 そこへ似ている男が現れて、箍が外れてつい声を掛けてしまった。

 その気持ちはわからなくともない。


 この店に入ったのも何かの縁だとしたら、男はイーサンに似てると思われても良かった。


「もう大丈夫ですよ。あの頃はどちらも若かった。私がイーサンだったら、気にしてませんよ」

「……そうか」


 ジムは男を見て微笑んだ。

 その後、視線を逸らし、遠い目つきで物悲しげに虚空を見ていた。


「さあ、もっとビールを飲みましょう。ジム」

「そうだな」


 二人はまたグラスを重ね合せ乾杯する。

 どちらも気分よく、それは気持ちいい酔い方だった。

 一人で食事をしていたらこうはならなかった。

 それにここのビールは本当に旨かった。


 不意に時計を見れば結構な時間が過ぎていた。

 そろそろホテルに戻らなければならない。

 いつまでもここで飲んでる訳にはいかなかった。


「もう行くのかい?」

 ジムも名残惜しそうに問いかける。


「明日、早いのでそろそろホテルに戻らないと」


 男はビジネスカードを見ながらスマートフォーンで、タクシー運転手のサムに連絡した。

 サムは5分で迎えに来ると、弾んだ声で言った。

 男はさっさと、勘定を済ませ、バーテンダーにチップをはずんだ。


 椅子から腰を上げれば、ジムは何か言いたそうに男を見つめていたが、男の方から潔く手を差し伸べる。


「ご一緒できてとても楽しかった」

「こちらこそ、ありがとうな」


 ジムと固い握手を交わし、男は店を出た。

 外の冷たい風が、酔って火照った体に気持ちいい。


 暗い夜空の星を見上げ、いい夜だと思った時、後ろから自分を呼ぶ声がする。

 振り向けばジムが追いかけて来ていた。


「お前さんをしつこくイーサンに似てるって言ってすまなかった。急に謝りたくなって」

「別にいいですよ。お陰で楽しかったですし。これを機会にイーサンと連絡でも取って下さいよ」


「できる事ならそうしたいんだが、イーサンは高校卒業後、事故で天国に行って以来、こっちに戻ってこられないみたいだ」

「えっ」


「だから、お前さんが今夜ここに来た時、ドキッとするくらい驚いたよ。やっと俺に会いに戻って来たんだって思ったくらいだった」

「……」

 男は、言葉に詰まってしまった。


「あんたが気にすることじゃない。本当にすまなかったな。だけど今夜はありがとうな」

「いえ、そんな」

「あっ、タクシーが来たようだ。それじゃ気を付けてな」


 ジムは踵を返す。

 男はどうすることもできなく、ただジムの背中を見送った。


 タクシーが目の前に停まり、男はドアを開けてそれに乗りこむ。

 窓の外を見れば、店の明かりに照らされたジムが振り返り、手を上げて別れを告げていた。


「あっ、ジムと一緒に飲んだんですか? もしかして付き合わされてテキーラショット何杯もやりました?」

 タクシー運転手のサムが訊いた。


「いや、ビールだ」

「えっ、ジムとビール飲んだんですか? へぇ、珍しいな」


「なぜだい?」

「地元なのにジムだけはここのビール絶対飲まなかったんですよ。地元にとって、ここのビールを飲んでこそ一人前って認められるだけあって、成人したら仲いい友達と集まって飲みあかすのがここのしきたりなんです。ジムだけはそれをしなかった人で有名だから」


 男はその意味を考えた。


「……じゃあ、今夜は特別だったんだろう」

「そうですね。とにかく、ビールの美味しい、いい店だったでしょ」


「ああ、いい店だった。来てよかったよ」


 男は深くシートに腰掛けた。

 車は静かに動き出し、店を後にする。

 最後に振り返れば、ジムはまだ店の前でじっと立ち、手で顔を拭ってるところだった。