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 次に七緒と会ったのは、一月の半ばくらいだった。
 年末年始だったり、学校が始まったりで、お互い忙しかった。特に、七緒に至っては、受験をしないことが原因で、何度も呼び出しをくらっているらしい。就職する気ならまだしも、それすらないとなれば、やっぱり、話し合いの場を設けられてしまうのだろう。
 そんな訳で、かなりの期間が空いてしまった。会えない間に、こっそり死んでしまっても良かったが、それは僕のプライドが許さなかった。七緒もプライド高い人間だから、勝手に死んだりはしなかった。
 学校が終わって、七緒の通う高校まで迎えに行くことになっていた。僕は六時間授業だったのだけど、七緒は七時間目まであるらしい。距離もあるし、その一時間の間に移動しようと思っていたが、意外にも早く着いてしまった。
 いくら制服を着ているといっても、校門の前で何十分も待っていると不審者扱いされるのではないかと思い、近くのカフェで待つことにした。その旨を七緒に連絡すると『了解』と簡潔に返ってきた。
 しばらくすると、店内に、七緒と同じ制服の生徒が入ってきた。授業が終わったのだろう。場所も伝えてあるし、そろそろ来るだろうと思ったとき、携帯が鳴った。
『ごめん。また呼び出し。もう少しかかりそう』
 自業自得だろと思いながら、今度は僕が『了解』と返信した。
 七緒は変なところで真面目だ。進学や就職をしない理由なんて、適当にでっち上げてしまえばいいのにと思った。それこそ、絵の勉強がしたいのだと言えばいいのにと思った。
 けど、と頭の中で反論の声が聞こえる。
 七緒の家は、かなり厳しいのではないかと想像したことを思い出す。
 もしかして、七緒は絵を描くことを反対されているのではないだろうか。それどころか、イラストレーターという夢があるということすら言えていないのでは。親は、何処か有名な大学に進学させようとしていて、彼女はそれを拒んでいる。だから、こんなにも呼び出されているのではないかと思った。
 僕のこの予想が当たっていたとしたら、これも七緒の死にたい理由の一部なのではと思った。
 ただ、それを指摘してどうなる。
 そこは、七緒自身が自分で何とかしないといけないところだ。本気なのだとしたら、否定されても、主張し続けなければならない。それが出来ないのなら、諦めるしかない。
 けど、そうじゃないだろ?
 死にたくなるほど、本気なんだろ?
 なら、きっと、大丈夫だろう。どうしてもというときは、僕が背中を押してやってもいい。それこそ、七緒の信頼を得るいい作戦かもしれないと思った。でもまあ、僕は心優しい人間だから、見返りとかなしで、動いてやらんこともない。
 そんな冗談を脳内で考えるくらいには暇だった。
 結局、七緒が来たのは、それからさらに一時間後だった。
 予定では、電車に乗ってスケート場に行くことになっていた。ナイトスケートといって、イルミネーションや、プロジェクションマッピングなどでライトアップされたスケートリンクでスケートが楽しめるというものだ。受付時間が決まっていて、着いた頃に受付終了になりそうだった。ぎりぎり間に合うかもしれないが、間に合わなかったら面倒極まりないので、今日は諦めることにした。
 そのまま解散というのは、少し気が引けた。久々に会ったからというのもあるし、何も出来ていないからというのもあった。期限を設けたりはしていないが、あまりにも進展がないようだと、僕か七緒、どちらかが匙を投げて死を選んでしまうかもしれない。それを危惧したというのが、最大の理由だろう。
 でも、結局、僕達は駅の方へと歩いていた。
 日はほとんど沈みかけていた。真っ赤な夕焼けに、アスファルトのような色の雲が迫って来ていた。その陰りが、赤を侵食していき、やがて夜の闇へと変わっていくのだろう。
「綺麗だね」
 変わりゆく空の模様を見ながら、七緒は言った。
「私、空って結構好きなの。空は不変じゃない。同じ瞬間がない、そういうところが好き」
 でも、と七緒は続ける。
「同時に羨ましくなる。変われることが、羨ましくて、憧れる。そして悲しくなる。私は、変われないから」
 七緒が、そういった話をするのは、少し珍しいような気がした。自分について話すという点では、普段と変わらないようにも思うが、それとはまた違った、いつものとは形をしているように思った。
「何かあった?」
 さすがに気になって。聞いてみる。
「別に。ただ、そういう気分なだけ」
 十中八九、嘘だった。けど、それを追求するものどうかと思った。しつこい人間は嫌われる。こういうとき、話を聞いて欲しいのだったら、自然と話し始めるものだ。七緒は、時と場合によって違うように思う。だから、待つしかなかった。違う話をしたら、それはそれでいいし、話すようであれば、付き合ってあげればいい。
「私は、シリウスなのかもしれない」
「どういう意味?」
「星座とか、わかる?」
「一般常識くらいなら」
 シリウスは、冬の大三角の一つだ。他の二つは、ベテルギウスとプロキオン。また、冬のダイヤモンドの一つでもある。僕が知っているのはこれくらいで、小中学生レベルの知識しかない。
「シリウスは、おおいぬ座の恒星なの。そのシリウスは、プロキオンっていう、こいぬ座が昇った後に昇る。人が敷いたレールの上を歩くしか出来ない私のようだなって思ったの」
 その言い草からして、きっと、彼女にはプロキオン的な人がいるのだろう。その人との実力差だとかで悩んでいるのかもしれないと思った。
 僕達は、決して先駆者にはなれない。七緒はなれるかもしれないけど、少なくとも、僕は絶対になれない。そう断言出来る。何かをやり遂げたこともないし、そもそも何もやっていない。そのことを考えると、余計に死にたくなる。ああ、やっぱり、僕には椎名しかなかったんだなと思う。
「死は平等に訪れるけど、長さまでは平等じゃないよね。それなのに、私達のように死にたいと思う人も一定数いるんだよね。結局さ、そのときが来るのを待つのか、そのときを自分で作るかの違いでしかないんだよ」
「今日はやけにニヒリズム的だね」
 七緒の言っていることは、よくわかる。僕も同じことを考えたことがある。
「少し、疲れてるのかも」
「何に?」
「人生以外の何があるの?」
 返す言葉もなかった。
「私達は、その一定数に片足を踏み込んでいるよね」
「人生投げてるからね」
 空気をぶち壊すように言うと、七緒が呆れたような溜め息を吐いた。
「出口に言った私がバカだった」
 その声は怒っているようにも聞こえた。でも、ようやくいつもの七緒に戻ったような気もして、少し安心した。調子が狂うんだよ。普段気が強いくせに、急に弱々しい感じになったりすると。
「何で、貴方は一人の人間しか見れないんだろうね」
「わからないよ」
「すぐそうやって誤魔化す」
「うるさいな」
 僕だって、色々あるんだよ。
「もっと、私を見て」
「これでも、必死なんだ」
 そんな急に心が動いていたら、こんなにも苦労していない。死のうとすら思わなかっただろう。それくらい、椎名の存在は大きい。そこだけは、覆しようがない事実だ。
 七緒は、椎名に会ったことがないからわからないんだ。椎名の、あの危うさを知ってしまえば、誰だって惹かれてしまう。人を引き寄せる魅力がある。だから、今の僕の状況は、必然であると思う。
 もし、あの日、僕がノートを忘れていなかったら。ベランダの淵に座っている彼女を、教師がみつけて生徒指導行きになっていたら。教師ではなく、別の誰か彼女を知っている人がみつけてしまっていたら。
 どれか一つでも上手くいっていなかったら、僕は椎名と関係を築くことはなかった。そう思うと、ぞっとする。
 今の僕があるのは、間違いなく椎名のおかげだ。椎名がいたから、今、僕はここにいる。椎名と友達になっていなかったら、僕はとっくの昔に死んでしまっていたかもしれない。まあ、現在進行形で死にたがっているのだけど。
 早く、駅に着いて欲しかった。
 空気はいつも通り最悪だったし、これ以上話しても何も得られないと思った。喧嘩になりそうだった。なったところで、何かが変わるわけでもないけれど、関係が悪化した状態で互いのために動けるかと聞かれたら、微妙なところだった。
 駅に着くまで、僕達は無言だった。何も話す気になれなかった。
「じゃあ、また」
「うん」
 愛想の欠片もない別れ方だった。

 家に帰って、僕は今日の会話を思い出していた。
 ネットで、シリウスとプロキオンについて調べた。確かに、七緒の言っていた通りのことが書かれていた。
 さっきは、あんな態度を取ってしまったけど、どうにかして慰めてやりたいと思った。七緒の気持ちはよくわかるし、目指すものが茨の道だから、余計にそう思ってしまうということも理解出来た。
 けど、僕は根本的なところが、本当の意味ではわかってあげることが出来なかった。だって、僕には、そういう同じ分野においての憧れの人物というのがいないから。そのことを、七緒だって知っているはずだ。だから、僕の言葉なんて、意味がないのではと思ってしまう。
 それでも、何とかしたいと思った。放置してはいけないことのように思えた。このまま、何も言わずにいたら、いつか後悔するような気がした。
 そう思ったのは、たぶん、七緒のニヒリスティックさが、何処か椎名に通じるものがあったように感じたからだろう。
 僕に、何が出来るかはわからないけど、出来る限りのことはしよう。上手くいくかはわからないけど、例え上手くいかなくても、僕達はたぶんやっていける。出会ってからの今までがそうだったのだから、きっと大丈夫だ。
 一晩中、七緒のことを考えた。
 言った言葉の意味を汲み取って、どうにか、僕の言葉を作り出した。
 その間、椎名の顔が浮かぶことはなかった。
 気付いて、僕はどうしようもない気持ちになった。

 次の日も、七緒は遅れた。
 けど、今日は話があると言って引き留めた。それで、七緒の提案で近くの公園に行くことになった。
 公園は、歩いて五分くらいのところにあった。何処にでもあるような、普通の公園だった。砂場、滑り台、ブランコ。子供の頃、よく遊んだなと懐かしくなる。
 僕は、砂場で一人、黙々とトンネルとかを作っているタイプの子供だった。暗くなってきて、他の子供が帰りだしたところで、ようやく遊具で遊び始めていた。順番とかで揉めるのが、どうしても嫌だったからだ。人がいなければ揉めることもない。それに、遊びたい放題。賢い、というよりずる賢いというべきだろうか、そういう子供だった。今思えば、僕の性格の悪さは、ここから始まっていたのではないかと思う。
 誰もいない公園のベンチに、二人で並んで座った。
「それで、話って何」
 七緒は、何処か不機嫌そうだった。警戒しているようにも見えた。
「昨日の、星の話なんだけど」
「シリウスとかの話?」
 僕が頷くと、七緒の表情が少しだけ解れたような気がした。もっと、何か別の話をされると思っていたらしい。話の内容がわかって、それで安心したんだろうなと思った。
「七緒は、自分のことをシリウスだと言った。プロキオンを追いかけるしか出来ないと、そう言った。でも、そんなの当たり前だと思う。憧れがいない人なんて、きっといない。誰かは、必ず自分より先にいて、その先の人がいるから、僕達はその道を辿ることが出来るんだ」
 誰かが開拓しないと、そこに道は出来ない。絵という道だって、ずっと昔に誰かが作り出したものだ。だから、その道を歩く限り、追いかけることになるのは、仕方がないことなのだ。
「きっと、道を歩いている間に、自分の道をみつけるんだよ。いつか、分かれ道が現れて、その道が自分の道なんだよ。それで、その自分が開拓した道を、また誰かが歩いていく。そうやって、世界は広がっていくのだと思う。だから、七緒はシリウスなんかじゃないよ。今は、そうかもしれないけど、きっと、君もプロキオンになるときが来る」
 言っているうちに、僕は恥ずかしくなってきた。こんなふうに、自分の考えを相手に伝えることは、あまり得意ではなかった。
「だから、その、頑張れよ」
 上手く伝わっただろうか。七緒の顔からは、何も読み取ることが出来なくて、余計に不安になった。
 僕は、待った。
 七緒の言葉を待った。
 少しして、七緒は空を仰いだ。
「そっか。私も、プロキオンになれるんだ」
 そう呟いた七緒の顔は、見たことのない顔をしていた。毒気が抜けたような顔だった。これまで見た、どんな彼女よりも、等身大の女の子だった。
 月明かりに照らされたその顔は、とても綺麗だった。元々の造りがいいというのもあったけど、そういうのではなくて、例え七緒が、この世で一番の不細工だったとしても、その顔だけは絶対に綺麗だと感じたと思う。
 七緒が、僕の方に顔を向ける。そして、ほんの少しだけ笑った。普通に可愛いと思った。
「ありがとう。少し、元気出た」
「それは良かった」
「何だかんだ言って、私のこと見てたのね。もしかして、私のこと、椎名さんより特別に思ってるんじゃない?」
「まさか。君に死なれたら困るからに決まってるじゃないか」
 その会話は、いつも通りの僕達だった。七緒が、普段の調子を取り戻してくれたことに、僕は喜んでいた。まあ、ほんの少しは、僕の中で彼女の存在が大きくなっていた。そうだな。例えるなら、スーパーボールがピンポン玉になるくらいには、大きくなった。
「なら、出口はベテルギウスってところかしら」
「ベテルギウス? 何で?」
 冬の大三角の内の二つを調べたのだから、当然、ベテルギウスについても調べていた。
 ベテルギウスは、オリオン座の星。意味は『巨人の腋の下』もしくは『巨人の肩』だったはずだ。しかも、近いうちに超新星爆発を起こすと言われている。何で、僕をその星だというのか、全くもって理解出来なかった。
「さあ、どういう意味でしょうね」
「いいから教えろよ」
「絶対に秘密」
 そう言って、七緒は立ち上がる。もう帰る雰囲気だった。何だかバカにされたような気分になって、少し腹が立った。家に帰ったら、もっと調べて、絶対に意味を理解してやろうと思った。
「ちなみに、調べても無駄だから」
 まるで、お前の考えなんて見透かしてるとでも言いたげな顔だった。事実、その通りだったので、僕は何も言い返すことが出来なかった。
「本当、そういうとこだって」
 代わりに、その性格の悪さを非難してやろうと思った。
「ねえ、あれ」
 しかし、七緒は僕の話を聞かず、何処かを指さす。
 話を逸らされたと思った僕は、初め無視をしていた。けど、七緒が何度も僕の制服を引っ張るので、さすがに本当に何かあったのだと思って、僕は彼女の指さす方を見た。
 街灯の、フェンスを挟んですぐ隣に木が生えている。七緒が指をさした理由が、灯りのおかげでよくわかった。木の上に子猫がいた。どうやら、降りられなくなってしまったらしい。
「助けないと」
 そう言って、七緒は猫の元へ駆けていく。
 その光景を、僕は以前にも見たことがあった。中学生のとき、同じように公園の木から降りられなくなった猫を、椎名が助けたことがあった。容姿のせいで、そのときの椎名と重なる。
 僕は溜め息を吐いた。どうしようもなく似ていないのに、どうしようもなく似ている彼女の行動に。
 そのまま置いて帰る訳にも行かないので、僕は七緒の後を追いかける。
 七緒は、フェンスをよじ登り、猫に手を伸ばしている。よく、細い足場でそんなことが出来るなと感心する。きっと、運動神経がいいのだろう。いや、この場合はバランス感覚か。
 七緒が動くたびに、スカートがひらひらと揺れる。椎名と似た彼女に、そういった感情は一切湧いてこないが、スカートの中というのは、男ならいつだって興味をそそられる。その情をなるべく遠ざけるように、僕は七緒の顔をみつめた。
 本当、よく似ている。世界には似ている人物が三人いるというが、そのうちの二人が僕の生活範囲にいるなんて、案外、世界は狭いのかもしれない。
 なんて、呑気に考えているときだった。
 七緒が、足を滑らせたのは。
 その瞬間、全てがスローに感じた。
 僕は咄嗟に、地面と七緒の間に滑り込み、彼女を受け止めようとした。
 七緒のスカートが翻り、太腿の付け根まで露になる。そして、僕は、ただ一点に釘付けになった。男の劣情なんて比ではない。もっと強い衝撃だった。それが見えた瞬間、僕は言葉を失った。
 だって、それはありえないことだった。偶然という言葉では、到底片付けることが出来ない。
 考えられる答えは、一つしかなかった。
 僕の身体と彼女の身体がぶつかる。刹那、鈍い痛みが全身を襲ったが、今は、それどころではなかった。
「出口、ごめん」
「七緒、お前」
 彼女の言葉を遮るように、僕は言う。
 次の言葉を口に出すのは、かなり勇気が必要だった。
 深呼吸をして、僕は告げる。
「お前、椎名だろ」