「私になりたい人間なんているんでしょうか……?」 
「そりゃあ、分かんなぇな。でもな、嬢ちゃんの境遇はまだどん底じゃねぇんだ。現状よりマシになるなら、新しい人間として生きたいと思う奴は絶対にいる」

 どん底じゃないと聞いて、どこか釈然としなかった。

「言っとくけど、今すぐのことは分かんねぇよ。でも、将来、もしヤクザに命を狙われていたとしたらどうだ? 殺人犯の娘として世間から白い目で見られた方が幾分かマシじゃねぇか?」

 浮いた人生には当然、生年月日も紐付けされる。仮に数年、この世から胡桃山美月が消えたとしても、年だけは重ねていくのだ。

 ただしすぐにはその人生は使えない。ほとぼりを冷ます必要があり、その間は、リストに"使用不能"と表示されるのだという。

「嬢ちゃん、"神隠し"って言葉、知ってるか?」

「言葉くらいは……知ってます」

「これも神隠しの一種だ。今の人生を捨てて、違う人間として生きていく。一定期間はその人生は誰も背負わない。場合によっては10年くらいは宙ぶらりんってこともある。家族がどんだけ探しても、本人は見つからない。全く違う人間として、遠い場所で新しい生活を始めてんだからな。でも、こんなこと理屈で説明がつくはずがねぇ。納得できねぇんだ。人間は自分たちの想像を超えるものは認められない生きもんだ。結局は、神様のせいってことにして幕引きをしちまう。神様の仕業なんだから、人間ごときがどんだけ悩んだところで仕方がねぇって考える。そこで折り合いをつけてるんだな」