胡桃山美月のままでいたら、きっとそうはならなかった。被害者なのにまるで加害者の娘のように扱われ、人々の視線に怯え、ひたすらに目立たぬよう、息を殺して過ごしていた日々は到底忘れられようはずがない。

 実際生きているのが嫌になって、何度自分を殺して楽になろうと妄想したか。

 せめて胡桃山の姓を捨てれば解放されるかもしれないと思ったものの、母親を説得するには至らず、最後の最後――私は逃げ出した。胡桃山という姓からも、母親からも。

 でも――何の因果か、まもなくその胡桃山美月に戻ることになる。そう考えるだけで心が重い。

 そういえば母はどうしているのだろう。ふとそんなことを考えてしまって、慌てて首を横に振る。
 
 田中伊織になった時、母と私は赤の他人になった。胡桃山美月に戻るといっても、私はずっと胡桃山美月でいるつもりはない。佐藤の不手際が招いた事態だ。しっかり落とし前はつけてもらう。
 そんな一時的なことで母を気にするなんて、それこそ傲慢だ。しかも佐藤に頼んでチラシを入れてもらった。母もまた全く新しい人生を歩んでいてもおかしくない。

 S字を描いた道の片側に防波堤の壁が突然現れた。やがてそれも途切れ、コンクリートで固められた岸壁が広がり、すぐ向こう側に海が見える。