佐藤の嘘つき。二人の田中伊織のことも、哲史のゲイのことも。 

 哲史の手が私の胸を鷲掴みにしてくる。揉まれる度に涙が溢れる。

 逃げ出したくて、手を伸ばす。何でもいいからつかみたい。体を引き上げたい。逃げ出したい。この場から去りたい――消えてしまいたい。

 手が何度か空を切り、やがて冷たくて硬いものにぶち当たった。

 何度か角度を変えて触れ直し、それが先程までココアの入っていたマグカップだと分かった。

 ためらっている余裕はなかった。私はマグカップをつかみ、哲史の頭に振り下ろした。

「ぐぉ!!」

 体勢が体勢なだけに大した勢いはつけられない。それでも鈍い音とともに哲史の悲鳴が聞こえた。マグカップは一度では割れず、もう一度振り下ろした。

 今度はこめかみの当たりに当たったもののクリーンヒットには程遠い。それでも私からの攻撃に意識が向いた哲史の体が少し浮いたところを私は見逃さなかった。

 全身で哲史の体を押しのける。

 火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、哲史の体が床に転がった。その際、ローテーブルの角に背中をぶつけ、哲史が顔をしかめたのが見て取れた。