普段なら、あまりこういうことはない。
こんな風に止まったりすることもなく、お互い自転車を走らせたまま、じゃあねと分かれてきた。
「どしたの?駿」
いつもと違う駿の行動を不思議に思いながら、そう聞いた。
すると視線をこちらに向けた駿は、私を真っ直ぐ見つめて。
「もう、いいかな」
と、突然そんな言葉を口にした。
「な、何がいいの?」
言葉の意味が全然わからなくて、すぐにそう聞き返した。
「三年」
「えっ?」
「今日で三年。海斗がいなくなって、もう三年が経った」
「…うん」
「だからもう、海斗のことは忘れないか?」
「っ?な、なんでそんなこと…」
予想外の言葉と、やけに落ち着いた声とその表情に、戸惑いを隠せず言葉に詰まった。
「あいつがいなくなってからの三年。夕海はずっと、苦しんできた。今日だってそうだ。海斗を思い出して、泣いて、苦しんで。でも…そんなおまえをずっと見てきた俺も、そろそろ限界なんだよ」
「限界?どういう意味?」
「海斗がいた頃も、ぶっちゃけ切ない想いはしてたけど。いなくなってからはもっと、その気持ちがどんどん大きくなって」
「ちょっ、だから、何を言っ…」
「夕海は気付いてなかったと思うけど、俺、ずっとおまえのことが…好きだった。海斗と夕海が、付き合うようになる前からずっと」
何を、言ってるの?
駿の言葉に、頭が真っ白になっていく。
「わかってたよ、おまえ達がずっとお互いに好き同士だったてことは。いつも一緒にいたからこそ、昔からわかってた」
「…うん」
「それに俺は、海斗も夕海も二人のことがめちゃくちゃ好きだったし、大切だったし…だからこそ、おまえ達二人の邪魔はしたくない、一生黙ってりゃそのうち夕海への想いも変わるときがくる。そう思って、自分の気持ちには蓋をし続けてきた」
言葉を選ぶように繋がれていく、知らなかった駿の想い。
「駿…あのね」
「まだ、何も言わないでほしい」
なんとか声を出した瞬間、冷静な駿の声が私の口の動きを止めた。
「急にこんなこと言って、夕海を困らせてしまうことはわかってた。ただ、わかっててほしかったんだ。夕海が海斗を想うように、俺もおまえを想ってたってこと」
真剣な眼差しに、心臓がバクバク鳴る。
私が海斗を想うように、駿は私を想ってくれていた?
それも、私たちが付き合うようになったあの頃よりも前からだと、さっき駿は言っていた。
だとしたら駿は…いつも私たちのそばにいながら、どんな想いで普通に振る舞ってくれてたんだろう。
「この三年、ぼろぼろになってた夕海を俺なりに支えてきたつもりだ。支えながら、ずっと考えてきた。これから先も、海斗を想い続けるおまえを黙って見ているのか?って。だとしたらもう、俺には夕海を支え続けるのは無理かもしれないって、今日はっきりと思ったんだ」
掠れるような切ない声に、胸がぎゅうっと、締め付けられる。
痛くて痛くて、たまらない。
「海斗がいなくなった、高校生だった頃の俺たちももう、十九歳だ。大人になっていくんだ。生きてる俺たちはずっと、これから先もずっと、どんどん歳を重ねていく」
でも、と駿は言う。
そして少しの間を空けて。
「海斗の時は、止まったままだ。どんどん大人になっていく夕海とは違う。変わっていく夕海のそばには、あいつはいない。だから…もう、前を向いていかないか」
そう言って、私に答えさせるタイミングを作った。
たしかに、止まったまま。
私の中では、海斗はあの頃のまま変わってない。
あの頃よりも顔の丸みはなくなり、身体つきは少し痩せ、髪も長く伸び…少し変わってしまった私とは違う。
でも。
ひとつだけ、変わっていないものがある。
「ごめん、駿」
一向に薄れない、変わらない海斗への想い。
「正直、駿の気持ちを知って驚いた。知らなかったぶん、申し訳なくも…なった。でも、それでもね」
忘れることなんて出来ない。
駿の気持ちを知ってもなお、今でも私は海斗が好きなんだ。
そう、口にしかけた。
「待つから、俺」
だけど続きを口にする前に、駿が先にそう言って。
「別に、焦ってない。ずっと片思いしたんだぜ?そんな、今すぐ夕海に好きになってもらいたいとか、そんなことは考えてないから」
私に優しく微笑んだ駿は、ゆっくり前を向いてくれたらいいと、笑った。
「いってきます」
翌日の午前十一時。
おじさんはお昼に漁港市場の食堂に来てと言っていたけれど、約束の時間よりも少し早く身支度を整えた私は家の中に向けそう言うと、一人で家を出た。
「あっつ…」
カンカンと照りつける太陽の光に目を細め、自転車にまたがる。
そして家の前の通りから裏道に抜けると、力一杯ペダルを漕ぎだした。
漁港までの近道になる細い裏道は、少し傾斜がかかっていて普通に進んでいくとスピードが弱まって遅くなるし余計に疲れる。
だから気を抜かず、足に力を入れながら自転車を走らせた。
見上げた青空は目にしみるほど痛く、ものの数分で額には汗が浮かんでいた。
ジリジリと肌が焼かれていくような感覚。
夏本番の猛暑という言葉が相応しい、そんな日だった。
関東と関西圏の中央に位置する、ここ静岡県の港町は、全国有数の遠洋沖合漁業の基地として有名な場所だ。
近年は、水揚げ量や水揚げ金額で全国二位にもなった。
カツオやマグロの水揚げを主とした遠洋漁業が盛んで、海斗のお父さんはそこで漁師さんをしている。
海が近いこの町には、いつも強い潮の香りが漂っていて漁港に近づくにつれ、その匂いはより一層強くなっていく。
嗅ぎ慣れた私なんかは、それをなんとも思わないけれど。
慣れない人の中には、この潮風の匂いが苦手に感じる人もいるかもしれない。
でも、それにさえ慣れてしまえば本当にいい町だと思う。
都会にはない、ゆったりとした時間が流れる港町。
細い裏道を抜けると、目の前に広がるのは太平洋の海だ。
青い空に青い海。
同じ青でも、決して交わることのないそれぞれの色。
そんな青一色の景色が見られるこの町が…ずっと好きだった。
沿岸沿いの道まで出ると、海はもう、ずっと目の前にある。
キーッと鳴る、錆びたブレーキ音。
私はおもむろに自転車を止めると、漁港に行く前に少し浜辺に立ち寄ることにした。
浜辺といっても、特別大きいわけではない。
岩場もあるし小石もゴロゴロしている小さな浜辺だ。
夏場でも海の家なんて洒落たものはないこの場所は、夏以外の寒い季節はもちろんのこと、こんな暑い日でもやっぱりひと気が少ない。
海水浴に行くなら、それこそ皆海の家があるような大きなビーチに行くんだと思う。
どうせ今日も誰もいないかと思っていたけれど。
浜辺の端っこの岩場にバケツとスコップを手にした小さな子供二人と、そのお母さんらしき人の姿が見えた。
先客がいたか…そう思いながら静かに浜辺に腰をおろす。
太陽の光に照らされた海面がキラキラしながら揺れているのを見つめ、そっと目を閉じた。
打ち寄せる波の音と、時折聞こえる子供たちのはしゃぐ声。
ふと、遠い昔を思い出した。
今よりもずっと、小さく幼かった頃。
私と海斗も、岩場で小さなカニや魚を探したりしていたっけ。
波打ち際で水を掛け合った。
疲れたら、浜辺に寝っ転がった。
この浜辺には、海斗との思い出がたくさんある。
幼かったあの頃だけじゃない。
小学生の頃も中学生の頃も、私の隣にはいつも海斗がいた。
生まれた家がお向かい同士で、物心がつく前から当たり前のように私のそばにいた幼なじみの海斗。
毎日顔を合わせては一緒に町中を駆け回り、釣りも虫捕りも、自転車の練習も。
初めての体験は、いつだって二人一緒だった。
この港町で一緒に…大きくなってきた。
そして、詩織と駿、それから陽ちゃん。
今では親友と呼べるような存在になっている三人と出会ってからというもの。
私たちは五人で一緒にいることが増えて。
しっかり者の詩織。
いつも優しい駿。
うるさいくらいに明るい陽ちゃん。
そんな三人と、私と海斗。
小学生の頃から自然とそんな仲良し五人組が出来上がっていたけれど。
「夕海」と私を呼ぶ海斗の声が変わった頃から、私の心に少しずつ変化が生まれていった。
きっかけは、些細なこと。
中学生になって、周りにいる皆が急に大人っぽくなったように感じたり、海斗や他の男子たちの声変わりに驚いたり。
それまでは男女なんて関係なく友達は友達。
そんな感じできていたのに、誰かと誰かが付き合っているとか、誰々さんが誰々のこと好きらしいよとか。
そんな恋の話を度々耳にするうち、何故か少しずつ異性を異性として意識をするようになっていって。
多感な年頃だった、ちょうどその頃。
幼なじみの海斗が同級生の女の子に手紙で告白をされるということがあり、異性というものへの意識がさらに強くなっていった。
告白された本人である海斗は、初めて貰った手紙がよほど嬉しかったのか、自慢げに私たちにそれを見せびらかしてきた。
「何書いてるか知りたい?」と、別に聞いてもいないのに、その手紙の内容を知りたいかなんて聞いてきたり。
明らかに告白されて浮かれている。
そんな海斗の姿は、何故か私を苛立たせ無性にイライラさせた。
だけど、そのイライラの原因がなんなのか。私には、最初は全然わからなかった。
こんなことを言ったら海斗を調子に乗らせてしまうと思うけれど、海斗は昔から女の子にモテていたし学校でも人気者だった。
運動神経は抜群で、いつもクラスの中心にいるようなリーダーシップのある性格をしていて。
人を笑わせることが好きで。
おもしろい遊びを思いつくと、周りを巻き込んでみんなで楽しむ。
そんな海斗に周囲の女子たちは「緒方っておもしろい」とか「海斗君がクラスで一番格好いい」とか。
身近にいると自然とそうやって好意をもつような子たちが小学生の頃からたくさんいた。
でも、ずっと別に何とも思わなかった。
それなのに…中学生になってからというもの。
その告白の一件を境に、それが何とも思わずにいられなくなった。