隣の席の女性が、さっきから賢介のことをちらちらと見ている。たぶん二十代だろう。小学生の頃にテレビで見ていたアニメ『アルプスの少女ハイジ』のクララに似ている。小柄で、目が大きく、まつ毛が長い。彼女はどうしておじいさんがここに――という目線だ。
「皆さん、おはようございます!」
 婚活バスツアーのアテンドはあの二階堂美景だった。パーティーの時とは雰囲気の違うラフなTシャツにデニム姿だ。
「おはようございまーす!」
 参加者もいっせいに挨拶する。
これは婚活である。パートナーがいない寂しい男女の集まりである。にもかかわらず、参加者の明るさ、元気さが、賢介には理解できない。
「本日は〈お見合い婚活バスツアー❤牧場キラキラ❤ライトアップファーム❤〉にご参加いただき、ありがとうございます! 私、このバスツアーで皆さんとご一緒させていただく、婚活カウンセラーの二階堂美景と申します。今日一日、よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いしまーす!」
 その日初めて集まったとは思えないほど、全員の声がそろう。まるで小学校の遠足だ。
 二階堂が一日のスケジュールや見合いのルールをわかりやすく説明していく。
会話はバスの中からスタートする。男女が隣同士のシートに座り、おたがいのプロフィールを交換して話す。一人の相手と五、六分話すと、男性だけが移動して、次の女性と話す。午前中はこれをくり返し、男性参加者は女性参加者全員と、女性参加者も男性参加者全員と会話を行う。
午後はイチゴ狩りをして、夜はライトアップされた牧場を訪れる。この二か所は自由行動だ。気に入った相手をつかまえて話す時間になっていた。賢介が参加した青山のお見合いパーティーと流れは同じだが、時間は圧倒的に長い。
夏なのになぜイチゴ――。最初は不思議に感じたが、一年中室内でイチゴを育てているファームを訪れるらしい。
車内をざっと見渡したところ、参加者の主流は二十代から三十代といったところである。一人だけ年齢が高い賢介は思っていたよりも目立つ。修学旅行の引率の先生になった気分だ。
「会話をスタートする前に、私から一つ、アドバイスがあります」
 二階堂は、少しトーンを上げた。
「よろしいですか、会話の際、できるだけ多くの相手と連絡先を交換しましょう。ただ話をするだけでは、何も生まれません。人生に何も起こりません。連絡先がわかれば、後日アプローチできます。お友達を紹介し合うこともできます。初対面の相手に連絡先を教えるのはご不安でしょう。特に女性は躊躇して当然です。でも、勇気を持ってください。皆さんは大人ですから、よほど嫌な相手でない限り、教えてしまいましょう。もし後で何か問題が起きたら、たとえば、交際を断ったのに何度もしつこく連絡がくる、あるいは何か商品を営業された場合は、私どもの会社に連絡をください。責任をもって対処します」
 二階堂はきっぱりと言った。
「では、さっそくお隣のかたと会話をスタートしてください!」
 号令とともに参加者全員があらかじめ記入していたプロフィールを男女で交換し、会話を始めた。全員がいっせいに話し始めるので車内が一気ににぎやかになる。賢介の相手はさっきからチラ見されていたクララだ。
「石神賢介と申します。よろしくお願いします」
「中西森栄です。こちらこそよろしくお願いします」
 森栄のプロフィールを見ると、二十八歳とある。色落ちしたブルーのデニムに白のTシャツ。いい女やいい男はおしゃれをしなくてもおしゃれに見える特権を持っている。森栄の職業欄には「会社員」とだけ記入されていた。
「一人目にいきなり年寄りでごめんなさい」
賢介はこくりと頭を下げた。ちょっと卑屈だが、最初から謝っておいたほうがいい。
「いえ、年上のかたに興味があります。父親より若ければ交際範囲内です」
 社交辞令だとしてもうれしいことを言ってくれる。
「お父様はおいくつですか?」
「五十七歳です」
 ちょっと安心する。
「よかった。僕より上だ。ちなみにお母様は?」
「五十です」
 訊かなければよかった。
 森栄が二十八歳という若さでお見合いバスツアーに参加していることに賢介は驚いた。賢介が二十代の頃、一九八〇年代には「婚活」という言葉は生まれていなかったが、結婚相談所はあった。しかし、そのような出会いのツールを利用しようなどとは考えもしなかった。恋愛は仕事関係や学生時代の友人といった日常的な交流から生まれるものだと考えていたのだ。結婚相談所には、人生を金銭で売買するイメージもあった。
しかし、今は二十代の、しかもクララのような顔をした女性が貴重な週末をまるまる一日使い、しかも一万五千円というコストを投じて、お見合いバスツアーに参加している。
「中西さんはきれいだし感じもいいから、バスツアーに参加しなくてもパートナーは見つけられるのでは」
 賢介は感じたままを口にした。
「いいえ。何年も男性とお付き合いしていません。職場はコールセンターで、フロアの九割以上は女性が占めています。数少ない男性も全員が既婚者なので、ふだんの暮らしではまったく出会いがなくて」
「年上に興味がある」という発言もあながち社交辞令ではないらしい。というのも、彼女は専業主婦になりたいのだという。同世代の男と結婚したら、共働きは避けられない。その点、年上ならば多くの場合自分よりも収入は多い。家庭に収まって子育てに専念するという考えなのだ。だから、若く婚活市場で有利なうちに相手を見つけようとしていた。
 賢介はずっと若い女ばかりを好む同世代の男をばかにしていた。軽蔑すらしていた。成熟した男は成熟した女を好むもの。本心から思っていた。でも、それはおそらく、ふだん若い女と接触する機会がないからだと思い知った。森栄との会話が賢介は楽しくてしかたがないのだ。
目の前にチャンスがあれば、若い女性を求めてしまう。それはたぶん、健康なDNAを遺したいというオスとしての本能なのだろう。

 バスは首都高を走っていく。路面はがたがただ。左からも右からも合流があり、頻繁に車線変更をくり返す。車内で、立ったり座ったりしながら会話を行う男性参加者はつらい。案の定、出発して三十分後には、何人かの男性が乗り物酔いをうったえた。そのうち二人は婚活トークの流れをはずれて、空いている後部のシートで体を横たえた。
サービスエリアに着くと、手で口をふさいでトイレに駆け込む男もいた。見合いは自分との戦いでもある。酔い止めを飲んだ賢介はもちこたえている。
 首都高を抜けたバスは、神奈川県の川崎から東京湾アクアラインを千葉県木更津目指して走っていく。左右はどちらも青い海。さざなみがきらきらと輝いてまぶしい。
 房総半島に上陸すると、夏の輝くような緑の中を内陸へ入っていく。その間も相手を替えながらお見合いは進む。賢介にとっては全員が年下だが、会話を続けるうちに相手との年齢差は感じなくなっていた。
婚活バスツアーは時間とお金をかけているだけあって、結婚相手を真剣に探している女性ばかりだ。結婚相談所、お見合いパーティーと体験してきたが、高コストであればあるほど参加者の本気度も高い。
往路の車中で女性参加者全員と会話をしたが、会社員が多いものの、ここにも保育士、看護師のような大半を女性が占める職場で働く人が複数いた。さらに、ソムリエや介護士といった専門職もいる。
そのほとんどの女性に賢介は好印象をもった。少なくとも会話の時点で高年齢の賢介に対してあからさまな嫌悪感を示す女性はいない。

 ランチは房総のリゾートホテル内のチャイニーズレストランだった。席はアミダクジで決められ、正面と左右の席は女性になるように配慮されていた。必然的に、女性の正面と左右は男性参加者になる。
すでに全員と会話をしているので、どのテーブルもなんとなく同志的な雰囲気になっている。麻婆豆腐や春巻きは冷めかけていたが、まずくはない。
「石神さん、今のフリーライターというお仕事、楽しいですか?」
 右隣の女性が話しかけてきた。高橋響子という三十五歳の銀行員だ。ネイビーのパンツに淡いピンクのポロシャツを上手に合わせている。
「仕事なのでもちろん苦しいことは多いですけど、ほかの職種よりは自分に向いている気はします」
「うらやましいなあ」
 会話を交わしながら、目の前の皿に野菜を取り分けてくれた。好感を持たれている気がした。
「でも、仕事が楽しいのも問題です。プライベートがおろそかになって、こうしてお見合いバスツアーに参加するはめになっています。それに、婚活ではフリーランスは不利です。ふだんは周囲も同じような立場で働く人間ばかりだけど、世の中の男のほとんどは会社員や公務員のような組織に所属していますよね。皆さん、時間も収入も安定している。不安定な僕はハンディを感じています」
 食事をしながらの会話では、つい気を許して自分に不利な現状も吐露してしまう。
「でも、今は大きな企業でも倒産するし、リストラは当たり前です」
 響子がフォローしてくれた。
「皆さんそう言ってくれます。でも、僕もかつて出版社に勤めていましたが、会社員とフリーランスではやっぱり違います。フリーは風邪をひいて高熱で苦しくても、仕事に穴をあけることはできません。仕事をキャンセルして、自分の代わりの誰かがいい結果をだしたら、その仕事は二度と僕には戻ってきません」
「楽しく仕事をするには、リスクもとらなくちゃいけないわけですね」
「リスクをとらなくては、好きな仕事は得られないのでしょうね。そういった意味では、高橋さんの職場には結婚相手に適した男性が多いのでは」
「銀行の男性はみんな結婚が早いから、社内の男性はほとんど既婚者です。社外で探さなくちゃ出会いはないんです。シングルのまま生きていくことも考えたんですけれど、それはやっぱり寂しくて」

 お見合いバスツアーは体力勝負だ。五十代で、しかも前夜遅くまで仕事をしていたせいで、午後のプログラムは睡魔との闘いになった。
「あの……、バスの中で休んでいてはいけませんか?」
 耐え切れず、牧場散策の前に二階堂に懇願した。
「いけません! 参加したからには最後まで頑張りましょう。もしこの時点で石神さんに興味をもっている女性がいたら、彼女はどう感じると思いますか? 朝からの努力が全部無駄になります。休むのは家に帰ってからにしましょう」
 尻を叩かれるようにバスから追われ、夕刻の牧場を歩いた。
牧場には、その全エリアに牛や馬がいるわけではない。敷地の多くは花壇や芝生や樹木に囲まれた小道である。参加者の中にはおたがい興味を持っているカップルが生まれているようだ。そういう男女は暗くなり始めた牧場のさらに暗がりへと向かって歩いていく。この日に出会ったばかりなのに、うらやましい。