阿佐高水泳部の同期で、津村だけが大学でも水泳を続けた。種目はもちろん平泳ぎだ。大学でも二年生の時から全国大会に出場して、四年生の時には一〇〇メートルも二〇〇メートルも四位に入賞した。
卒業後外資系の製薬会社に入社した津村は、今も週末はプールで泳ぎ、年賀状には短水路のマスターズ五十~五十四歳の部で優勝した自慢が表彰台に立つ写真とともに印刷されていた。
「昨年の大会では久しぶりに虹を見たぞ」
それだけは直筆で書かれていた。
高校生の時に津村に連れていかれたON劇場は二〇〇一年に閉館した。妻子のある津村が今もストリップに通っているかは聞いていない。
野波は大学を卒業して家電メーカーに就職した。今は広報課長だが、本人いわく人望がないそうだ。強い者に弱く弱い者に強い性格はその後も変わらず、上司に対して腰が低く、部下に負荷をかけているらしい。
野波は「オレ流の処世術だ」と主張しているが、僕はほどほどにしたほうがいいと言っている。
堀内は、国立の教育大学を卒業し、和菓子屋は継がずに弟に譲り、都立高校の教師になった。担当科目は世界史だ。
そして、秋吉と結婚した。東京都大会の後、態度のはっきりしない秋吉を押して押して押しまくり、交際し、大学卒業後まもなく籍を入れたのだ。
しかし、四十二歳で急逝した――。
急性骨髄性白血病だった。
職場の定期検診で白血球に異常が見つかった時、堀内の様子はいつもとまったく変わらなかったそうだ。それでもその日のうちに緊急入院をした。翌日には高熱などの症状が表れ、担当医に余命三か月と言われたという。
進行は速く、医師はすぐに余命を一か月と訂正した。そして、検査からわずか三週間で息をひきとった。
堀内の葬儀の日、十数年ぶりに水泳部の同期と再会した。青木も駆け付けてくれた。
やせる間もなかったのだろう。棺の中の堀内は生前のたくましさがそのままで、穏やかな顔で眠っていた。高校時代はいつも無精ひげがぼうぼうだったが、本来は育ちのいい美しい顔をした男だ。
「ああー、福島、行きてえなあー!」
そう言って今にも起き上がってくる気がした。彼の傍らにはギターが添い寝していた。「Gibson」とヘッドに彫られたグレコのSGだ。
そのわきに、僕は妙なものを見つけた。青っぽい布がくるくるっとねじれている。
とっさに秋吉を見た。目が合うと、喪服の彼女が泣き笑いのような顔でうなずいた。それは堀内が大切にはいていたベストパンツだった。東京都大会のリレーで泳いだ後、脱いだままの状態で残されていたのだ。
僕は、野波の横腹をつついて、そこにベストパンツがあることを教えた。
「お前が砂場に埋めたパンツだ」
見た瞬間、野波は母親に叱られた幼児のように咆哮した。
「堀内! 堀内―!」
気が狂ってしまうんじゃないかと思うほど、野波は何度も何度も名前を呼び続けた。
涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らし遺体に抱きつこうとするので、津村と二人で必死に抑え、棺から引き離した。
四人で泳ぐ機会は永遠に失われた。
圭美は阿佐高を卒業して推薦枠で東京女子学院大へ進んだ。卒業後は誰もが知る大手の都市銀行に入り、しかし一年もしないうちに辞めて、ニューヨークへ渡った。総合商社に勤めて駐在が決まった木下を追っていったのだ。
そして、そのまま結婚した。今はニューヨークの、マンハッタンから鉄道で一時間ほど離れたアップステイトで暮らしているという。堀内の葬儀には、「木下圭美」の名で花が届いた。
水泳部を引退し、圭美に失恋し、無気力に過ごした僕は、当然の結果として受験に失敗した。浪人生活を送った末に入ったのは東京郊外の私立大学だ。
大学卒業後は小さな出版社で編集者として働き、音楽評論の道を選び独立した。ジャズの本やレコードのライナーノーツを書き、ミュージシャンのインタビューをするのが仕事だ。
圭美の結婚を知った時は心を乱した。卒業以来一度も会っていなかったのに――。
高校三年生の夏は遠い日の思い出のはずだった。その後いく度かの恋愛もした。にもかかわらず、別れの手紙を読んだ時と同じように僕は苦しんだ。裸の圭美と木下とが毎夜ベッドをきしませて絡み合う姿を想像してしまうのだ。想像の中の二人に血を吐きそうになるほど嫉妬し、しばらくは仕事でも集中力を欠いた。そんな自分をどう扱っていいのかわからなかった。
僕は一人の女性に二度失恋をしたのだ。
三十代で僕は一度結婚をした。圭美の面影を感じる女性だった。しかし、結婚生活は二年も続かなかった。妻は圭美に似ていたけれど、圭美ではなかったからだ。
一度だけ、圭美の姿を見たことがある。
一九九九年の五月、僕はジャズミュージシャンのインタビューでニューヨークを訪れていた。
そのとき、幻を見ている気がした。夏を待たずして熱波に襲われたマンハッタン。気温が四十度を超えた昼下がり。陽炎が揺れる五番街を僕は歩いていた。そのすぐ目の前を圭美が横切った。
彼女は白いワンピース姿で、薄いブルーの日傘をさしていた。もう片方の手で、五歳くらいだろうか、彼女にそっくりの女の子の手を引いていた。
往来を確認する圭美とほんの一瞬目が合った気がした。しかし、錯覚だろう。
プールサイドで光と水しぶきを浴びて笑う高校生の圭美がよみがえった。圭美の瞳は十七歳のままだったのだ。コンクリートの歩道やビルを焼く太陽の光がワンピースの白に反射して目がくらんだ。
彼女が女の子になにかを話しかけ、冷房を求めるように小走りでラグジュアリーブランドが入った百貨店、ヘンリベンデルへ入っていく。
この日のために生きてきたことに、僕は気づいた。街で圭美と再会した時に恥ずかしくない僕であるために仕事と向き合い、自分に負荷をかけてきたのだ。
あれほどまでに思った女性の幸せそうな姿を見た喜び。その幸せが僕ではない男によってもたらされたことへの悔しさ。その二つがが同時にわきあがってきた。
母娘を追おうとした僕は、しかし、足をとめた。自分の服装を確かめた。ラフなTシャツ姿。靴もよく磨かれていなかった。
こんな姿で再会するべきではない――。
自分に言い訳をして、踵を返した。
今も僕は時々、『ラスト・ワルツ』を観る。そして、「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」のシーンで、少し泣く。
君をどんなに愛しているか
僕にできることといったら
打ち明けることなく黙っているだけ
これほどまでに寂しさを感じたことはない
リック・ダンコはシャウトし、ロビー・ロバートソンはギターの弦をはじき、指を震わせる。
ベースを弾きながら歌ったリック・ダンコも、ドラムスのリヴォン・ヘルムも、キーボードのリチャード・マニュエルも、もういない。ザ・バンドが全員そろって演奏する機会は失われた。
この世には永遠はない。
すべてには終わりが来る。
「失って初めて知るのかもしれないね。大切なものって」
『ラスト・ワルツ』を観た帰りの圭美の言葉がよみがえった。
八月の日比谷公園でも、九月の中杉通りでも、僕たちはいつも蝉しぐれに包まれていた。
卒業後外資系の製薬会社に入社した津村は、今も週末はプールで泳ぎ、年賀状には短水路のマスターズ五十~五十四歳の部で優勝した自慢が表彰台に立つ写真とともに印刷されていた。
「昨年の大会では久しぶりに虹を見たぞ」
それだけは直筆で書かれていた。
高校生の時に津村に連れていかれたON劇場は二〇〇一年に閉館した。妻子のある津村が今もストリップに通っているかは聞いていない。
野波は大学を卒業して家電メーカーに就職した。今は広報課長だが、本人いわく人望がないそうだ。強い者に弱く弱い者に強い性格はその後も変わらず、上司に対して腰が低く、部下に負荷をかけているらしい。
野波は「オレ流の処世術だ」と主張しているが、僕はほどほどにしたほうがいいと言っている。
堀内は、国立の教育大学を卒業し、和菓子屋は継がずに弟に譲り、都立高校の教師になった。担当科目は世界史だ。
そして、秋吉と結婚した。東京都大会の後、態度のはっきりしない秋吉を押して押して押しまくり、交際し、大学卒業後まもなく籍を入れたのだ。
しかし、四十二歳で急逝した――。
急性骨髄性白血病だった。
職場の定期検診で白血球に異常が見つかった時、堀内の様子はいつもとまったく変わらなかったそうだ。それでもその日のうちに緊急入院をした。翌日には高熱などの症状が表れ、担当医に余命三か月と言われたという。
進行は速く、医師はすぐに余命を一か月と訂正した。そして、検査からわずか三週間で息をひきとった。
堀内の葬儀の日、十数年ぶりに水泳部の同期と再会した。青木も駆け付けてくれた。
やせる間もなかったのだろう。棺の中の堀内は生前のたくましさがそのままで、穏やかな顔で眠っていた。高校時代はいつも無精ひげがぼうぼうだったが、本来は育ちのいい美しい顔をした男だ。
「ああー、福島、行きてえなあー!」
そう言って今にも起き上がってくる気がした。彼の傍らにはギターが添い寝していた。「Gibson」とヘッドに彫られたグレコのSGだ。
そのわきに、僕は妙なものを見つけた。青っぽい布がくるくるっとねじれている。
とっさに秋吉を見た。目が合うと、喪服の彼女が泣き笑いのような顔でうなずいた。それは堀内が大切にはいていたベストパンツだった。東京都大会のリレーで泳いだ後、脱いだままの状態で残されていたのだ。
僕は、野波の横腹をつついて、そこにベストパンツがあることを教えた。
「お前が砂場に埋めたパンツだ」
見た瞬間、野波は母親に叱られた幼児のように咆哮した。
「堀内! 堀内―!」
気が狂ってしまうんじゃないかと思うほど、野波は何度も何度も名前を呼び続けた。
涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らし遺体に抱きつこうとするので、津村と二人で必死に抑え、棺から引き離した。
四人で泳ぐ機会は永遠に失われた。
圭美は阿佐高を卒業して推薦枠で東京女子学院大へ進んだ。卒業後は誰もが知る大手の都市銀行に入り、しかし一年もしないうちに辞めて、ニューヨークへ渡った。総合商社に勤めて駐在が決まった木下を追っていったのだ。
そして、そのまま結婚した。今はニューヨークの、マンハッタンから鉄道で一時間ほど離れたアップステイトで暮らしているという。堀内の葬儀には、「木下圭美」の名で花が届いた。
水泳部を引退し、圭美に失恋し、無気力に過ごした僕は、当然の結果として受験に失敗した。浪人生活を送った末に入ったのは東京郊外の私立大学だ。
大学卒業後は小さな出版社で編集者として働き、音楽評論の道を選び独立した。ジャズの本やレコードのライナーノーツを書き、ミュージシャンのインタビューをするのが仕事だ。
圭美の結婚を知った時は心を乱した。卒業以来一度も会っていなかったのに――。
高校三年生の夏は遠い日の思い出のはずだった。その後いく度かの恋愛もした。にもかかわらず、別れの手紙を読んだ時と同じように僕は苦しんだ。裸の圭美と木下とが毎夜ベッドをきしませて絡み合う姿を想像してしまうのだ。想像の中の二人に血を吐きそうになるほど嫉妬し、しばらくは仕事でも集中力を欠いた。そんな自分をどう扱っていいのかわからなかった。
僕は一人の女性に二度失恋をしたのだ。
三十代で僕は一度結婚をした。圭美の面影を感じる女性だった。しかし、結婚生活は二年も続かなかった。妻は圭美に似ていたけれど、圭美ではなかったからだ。
一度だけ、圭美の姿を見たことがある。
一九九九年の五月、僕はジャズミュージシャンのインタビューでニューヨークを訪れていた。
そのとき、幻を見ている気がした。夏を待たずして熱波に襲われたマンハッタン。気温が四十度を超えた昼下がり。陽炎が揺れる五番街を僕は歩いていた。そのすぐ目の前を圭美が横切った。
彼女は白いワンピース姿で、薄いブルーの日傘をさしていた。もう片方の手で、五歳くらいだろうか、彼女にそっくりの女の子の手を引いていた。
往来を確認する圭美とほんの一瞬目が合った気がした。しかし、錯覚だろう。
プールサイドで光と水しぶきを浴びて笑う高校生の圭美がよみがえった。圭美の瞳は十七歳のままだったのだ。コンクリートの歩道やビルを焼く太陽の光がワンピースの白に反射して目がくらんだ。
彼女が女の子になにかを話しかけ、冷房を求めるように小走りでラグジュアリーブランドが入った百貨店、ヘンリベンデルへ入っていく。
この日のために生きてきたことに、僕は気づいた。街で圭美と再会した時に恥ずかしくない僕であるために仕事と向き合い、自分に負荷をかけてきたのだ。
あれほどまでに思った女性の幸せそうな姿を見た喜び。その幸せが僕ではない男によってもたらされたことへの悔しさ。その二つがが同時にわきあがってきた。
母娘を追おうとした僕は、しかし、足をとめた。自分の服装を確かめた。ラフなTシャツ姿。靴もよく磨かれていなかった。
こんな姿で再会するべきではない――。
自分に言い訳をして、踵を返した。
今も僕は時々、『ラスト・ワルツ』を観る。そして、「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」のシーンで、少し泣く。
君をどんなに愛しているか
僕にできることといったら
打ち明けることなく黙っているだけ
これほどまでに寂しさを感じたことはない
リック・ダンコはシャウトし、ロビー・ロバートソンはギターの弦をはじき、指を震わせる。
ベースを弾きながら歌ったリック・ダンコも、ドラムスのリヴォン・ヘルムも、キーボードのリチャード・マニュエルも、もういない。ザ・バンドが全員そろって演奏する機会は失われた。
この世には永遠はない。
すべてには終わりが来る。
「失って初めて知るのかもしれないね。大切なものって」
『ラスト・ワルツ』を観た帰りの圭美の言葉がよみがえった。
八月の日比谷公園でも、九月の中杉通りでも、僕たちはいつも蝉しぐれに包まれていた。