夏休みが終わり、新学期が始まった。東京都大会は、毎年九月の最初の週末に行われる。
 大会初日の土曜日は学校から出発した。二時限目まで授業を受け、担任の教師に早退届を提出し、千駄ヶ谷にある試合会場、明治神宮水泳場へ向かう。「神宮プール」と呼ばれて親しまれているこの会場は一九三〇年にオープンした。一九四八年の日本選手権の一五〇〇メートル自由形と四〇〇メートル自由形で古橋廣之進が世界新記録を樹立した歴史あるプールだ。
水泳部は全員でぞろぞろと中杉通りを阿佐ヶ谷駅へ向かって歩いた。気温こそ下がっていないが、陽の光は八月よりもやわらかい。欅並木から降り注ぐ蝉しぐれは衰えることはなく、試合会場へ向かう僕たちに声援を送ってくれた。
 阿佐ヶ谷駅から電車に乗り、千駄ヶ谷駅で降りて神宮プールまで歩くと、すでに青木がいた。会場前で円陣を組み、初日のスケジュール、アップの内容と泳ぐ順番などを確認していく。
 青木がチームの一人一人の顔を見回すようにして念を押した。
「今日から二日間で、練習してきたすべてを出し切って来い。特に三年生は、高校三年間の総決算だ。レースでは全国大会のことは考えるな。ここが最後だと思え。ひと滴も力を残さすな」
「はい!」
 部員全員の声が神宮の杜に響いた。
「もう一つ。競ったら勝て。必ず勝て」
「はい!」
 青木はそこで一呼吸おいて、付け加えた。
「今、お前たちは水泳選手だけど、水泳をやめてからの人生のほうがずっと長い。競り勝った体験はいつか必ず役に立つ。大人になってからかもしれないけど、きっと泳いでよかったと思うはずだ」
 全体ミーティングを終えると、男女それぞれの入場口から会場に入った。
 正午試合開始の初日は、参加人数が少ない自由形の長距離と中距離、バタフライと背泳ぎと平泳ぎの二〇〇メートル、個人メドレーなどが行われる。参加人数の多い、自由形と平泳ぎの一〇〇メートルやリレーは朝からまる一日かけて行われる大会二日目の日曜日に予定されていた。
三年生で初日に泳ぐのは、二〇〇メートル平泳ぎの津村と二〇〇メートル個人メドレーの秋吉だ。堀内と野波と僕はサブプールで軽く泳いで、コンディションを整えた。

 一日目の二〇〇メートル平泳ぎで、津村はあっさりと全国大会出場を決めた。全体の五位だったが、標準タイムを一秒以上切っての入賞だった。
「肘をしめる時、光の柱、見たのか?」
 レースを終えて自陣に戻ってきた津村に訊くと、表情をくずしてうなずいた。
「虹を見たよ」
「そっか。完璧だな」
「オレの一〇〇%が出せた」
 そう言って、しかし、にわかに表情を曇らせた。
「どうした?」
「石神、オレ、怖いんだ」
 津村は深刻な何かを打ち明けるように言った。
「怖いって、お前、絶好調じゃないか」
「ああ、絶好調だ。泳ぐたびに速くなる気がする。でも、今のオレたちの水泳中心の生活、あと少しだよな。公式戦が終わったら引退だ。練習もしなくなる。そうしたら、速くは泳げなくなるだろ」
「ああ……」
 津村が何を恐れているのか、見当がついた。
「光の柱を見ることができなくなる。泳ぐたびに目の前に立ち上がる光の柱を、もう見ることができなくなる」
「部活じゃなくても、しっかりと肘をしめて泳げば水は盛り上がるだろ?」
「いや、違うんだ。石神、限界を超えようとしている時とそうでない時とは違うんだよ。本気じゃなくちゃだめだ」
 津村は言い残して、筋肉をほぐすためにサブプールへ向かった。

 秋吉はさらに強かった。二〇〇メートル個人メドレーで全国大会の標準タイムを切った上に、出場者全体の二位で表彰台に上ったのだ。
 秋吉が出場した二〇〇個メの最終レースはこの大会初日で特別に激しいレースになった。プールは全十コース。秋吉は第四コースで泳いだ。
ライバル、弥生高の岡林も同じ組で、秋吉と一つコースをはさんだ第六コース。レースは大会にエントリーした時に申請した持ちタイムが近い選手同士が同じ組で競るようにグループ編成されている。二人の間の第五コースでは、桜桃学園三年生の石垣が泳いだ。桜桃学園はスポーツに力を入れている私立女子高で水泳の名門校だ。女子の全種目で全国大会行きを目指している。石垣も二〇〇個メの優勝候補だった。
 レースはバタフライから背泳ぎまで、石垣を先頭に、秋吉が体半分差で追い、全体を引っ張った。
展開が変わったのは平泳ぎだ。岡林がぐんぐん追い上げ、まず秋吉を、そして石垣も抜いた。岡林の平泳ぎは強い。二人を抜いた後も、じわじわと差を広げていく。石垣とは体一つ、秋吉とは体一つ半差をつけて、最後のターンでクロールにスイッチした。
先頭の岡林を石垣と秋吉が追う。岡林といつも競っている秋吉にとっては、体一つ半の差は、苦しいながらも想定内の展開だった。しかし、初対戦の石垣は抜かれてあせり、平泳ぎの後半でピッチを上げ過ぎた。
水泳競技四種目の中で、平泳ぎはもっともタイミングが難しい泳法だ。上半身は三拍子だけど、下半身は二拍子。手は、水をかき、肘をしめ、前へ伸びる。それに対して、脚は、引きつけて、蹴る。一つの体で異なるリズムの動きを同時に行わなくてはいけない。岡林に抜かれてあわてた石垣は上半身と下半身の動きにずれが生じ、その分疲労を蓄積してクロールにスイッチした。
石垣の意識では、このレースの敵は平泳ぎで自分を抜き前を泳ぐ岡林だ。クロールにスイッチしてからも右サイドで呼吸しながら、岡林を捕まえることに神経をつかった。ラスト一〇メートルで、岡林と石垣のデットヒートになった。だから、石垣は左からクロールの強い秋吉が迫っていることに気づかなかった。
ラスト五メートルは、四、五、六コースの競り合いとなり、誰が勝ってもおかしくない展開の末、タッチの差で秋吉がレースを制した。次は岡林。石垣から逃げ切った。本人たちは意図していなかったものの、秋吉と岡林の連携で優勝候補の石垣を挟み撃ちにする結果になった。
秋吉と岡林は二位と三位で表彰台に立った。優勝は一つ前の組で泳いだ、ノーマークの桜桃学園の一年生だった。その選手は自己ベストを五秒も縮めたのだ。石垣も含め四人とも標準タイムを切り、勝負は全国大会に持ち越された。