練習試合の最終種目、男子四〇〇メートルリレーの招集がかかる。この日は、各校AB二チームずつの六チームで泳ぐことになっていた。阿佐高は、堀内、津村、野波、僕の順番で泳ぐAチームと、二年生と一年生混合のBチームが編成された。
肩を大きくまわしてほぐしていると、圭美が歩み寄ってきた。
「賢介、勝ってね」
そう言って、僕の胸に触れ、指を這わせた。心がざわついた。圭美は木下のこともこうして励ましたのだろうか。
「うん……」
動揺を悟られたくなくてそっけない返事をした。レースに向けて集中したい思いと、圭美の期待に強く応じたいのに目も合わせられないもどかしさで落ち着かない。
阿佐高は、第一泳者の堀内から第四泳者の僕まで、持ちタイムの速い順で泳ぐ。できるだけ長く先頭集団で競ることで、もつ力を最大限に発揮させるのが青木が考えた戦法だ。
自陣からスタート台へ向かう時、リレーが始まる前のプールでクールダウンをしていた秋吉が前から歩いてきた。すれ違いざま視線が合う。
「頑張ってね」
気合を入れるように僕の上腕を平手でぴしゃりと叩いた。その一撃で胸に残る圭美の指の感覚は消え、心が戦闘モードに戻った。
「おう!」
秋吉に応えてすれ違う。心を寄せる相手が秋吉だったら、苦しみは少なくてすんだのかもしれない。
僕たちに与えられたのは第四コースだった。弥生高、宮前高それぞれのAチームにはさまれるコースだ。
「石神さん」
呼ぶ声にふり向くと、四〇〇メートルで競った弥生高の二年生だった。
「佐久間君?」
「はい。四〇〇で隣でした」
「君のおかげで苦しいレースになったよ」
「リレーは勝ちます」
あらためて近くで顔を合わせると、佐久間は頬がすっきりとして、きれいに刈り上げた後頭部が大きい。いかにも頭がよさそうだ。
「佐久間君は何番手?」
「石神さんと同じ第四泳者です」
「また一緒か。できれば今日はもう競りたくないけど」
佐久間と会話をしているうちにレースをスタートさせる合図の笛が鳴った。各チームの第一泳者がスタート台に立つ。
「堀内、頼むぞ!」
後ろから声をかける。
「位置について」
「よーい」
参加選手全員がスターターの握る鉄砲の音に集中する。
空を貫くようなピストル音とともに六人の選手が飛び込んだ。
堀内の調子はよさそうだ、風邪気味ではあるが、ほかの種目の出場を見合わせたので、体力を温存できている。
予想通り、弥生高、宮前高、阿佐高、三校の各Aチームがトップを争う展開になった。阿佐高の第二泳者は津村だ。肩をほぐしながら、スタート台に上がった。自信ありげな笑みを浮かべている。
両隣と競りながら、堀内が戻ってきた、スタート台で津村が慎重にタイミングを合わせる。
前を泳ぐ選手のタッチと同時に次の選手の足がスタート台を離れるのが理想的な引き継ぎだ。それよりも速く跳べばフライングの反則をとられるし、遅ければレースで不利になる。だから、前の泳者のタッチの速さやクセを体で覚えておく必要がある。そのために、毎日、全体練習の後に引継ぎの練習も重ねてきた。
堀内が壁にタッチすると同時に津村が跳んだ。抜群のタイミングだ。
「よし!」
思わず僕は叫んだ。
体調がよくないながらも責任を果たした思いが強いのだろう。堀内はほっとした表情で、水から上がる。
プールでは、それぞれのチームの第二泳者が飛び込み、なお三校のAチームがトップを争っている。
その時、第三泳者の野波が僕の水着を力なく引っ張った。
「石神……」
ふり返ると、目の前に不安そうな表情があった。
「野波、どうした?」
「まずい……」
「なんだ?」
「がまんできそうにない」
野波が何をうったえているのか。その苦しそうな表情から察した。尿意か。あるいは便意か。小用のほうであれば、プールの中で泳ぎながらしても、誰にも気づかれない。
「トイレか?」
「うん……」
「まさか大きいほうか?」
野波がうなずく。プールから上がったばかりで激しく肩で息をしている堀内も、驚いた顔で野波を見る。
「レース前にしておかなかったのか?」
「行った。でも、ほとんど出なかったんだ。それで、今、さしこみがきた。腹がきゅるきゅるする。このまま飛び込んだらもらす。悪いけど、オレはトイレへ行く。すぐに戻る。でも、もし間に合わなかったら、石神が第三泳者で泳いでくれ」
早口で告げると、ギリギリなのだろう、野波は内股で、歩幅は狭く、でも、猛烈な勢いで脚を動かし、トイレに走って行った。
「レースが始まってから泳ぐ順番を変更したら失格だっけ?」
まだ肩で呼吸をしている堀内に確認する。
「たぶんアウトだけど、練習試合だから、誰も文句は言わないんじゃないのか。石神、三番手で泳いでくれよ。野波は間に合わないと思うよ」
自分が泳ぎ終わっていて緊張がほぐれているせいもあるが、堀内は動じない。さすがキャプテンだ――と、妙に感心した。
プールでは三チームの競り合いが続いていた。体四分の一ほど、津村がリードしている。
津村のクロールは一〇〇メートル一分を切る。野波が一分以内にトイレから戻るのは難しいだろう。僕が第三泳者で泳ぐつもりでいたほうがよさそうだ。
背中に視線を感じ、ふり返ると、弥生高の佐久間と目が合った。こちらの状況をうかがっていたのだろう。落胆するような、憐れむような目だ。
「佐久間君、すまんが、一緒に泳げなくなった。こっちは急きょ第三泳者に変更された」
「そうらしいですね……」
「またいつか一緒に泳ごう」
佐久間の横で、弥生高のほかのメンバーが下を向いて笑いを抑えている。
「石神さんが卒業する前に、ぜひ」
プールの中では、あと一〇メートルのところまで津村が近づいてきた。
弥生高と宮前高の第三泳者はすでにスタート台に立っている。気持ちを切り替えて、第三泳者でいくしかない。
「というわけで、のんびりしているわけにはいかなくなった。では、お先に」
そう言って、僕もスタート台に上がった。
まだ野波の姿は見えない。
〈落ち着け〉
自分に言い聞かせる。
つかの間目を閉じて、津村のタッチを思い出そうとした。
ずっと野波のタッチに合わせて練習してきたので、津村のタイミングやクセはぼんやりとしかわからない。非常事態だからしかたがない。津村のタッチをギリギリまで目で追って飛び込もう。
スタート台の上で、津村のストロークに合わせ、上体を落としていく。
リレーの引き継ぎの時、僕はスタート台に手を触れず、脚だけで跳ぶ。顔を上げ、前の泳者の泳ぎに目線を合わせるからだ。リレーでは第二泳者から第四泳者までは体を静止させなくてもフライングはとられない。
三メートル、二メートル、一メートル……。
津村の壁へのタッチと同時に、スタート台を蹴った。
水に入ると、大きくドルフィンキックを打つ。一回、二回……体が水面に上がってきたら、左右各三回思い切りバタ足を打ち、水面で体を安定させる。状態はいい。
阿佐高は速い順番にオーダーを組むが、ほかのチームは、第一泳者と第四泳者が速く、第二泳者と第三泳者はやや力が落ちる。津村がつくったリードを守って、野波につなげたい。僕が一〇〇メートルを泳ぐまでには、野波は戻ってきているだろうか。気になるが、考えてもしかたがない。今は自分の泳ぎに集中するべきだ。
二五メートルのターンをしたあたりから、体が水にのっているのがわかった。
ターンで壁を蹴り、二ストロークかいたところで体が水と同化している気がした。アップの時のあの感覚だ。ブルーの視界の中を前に進みながら、体と水との境界があいまいになる自分を感じる。腕に力がみなぎっていた。
〈もっと遠くの水をつかめ〉
五〇メートルのターンを折り返す。大きな何かに包まれ、励まされているようだ。七五メートルのターンの後はただ無心で前へ進んでいった。
僕は持つ力をすべて出し切って、一〇〇メートルを泳ぎ、野波に引き継いだ。
肩を大きくまわしてほぐしていると、圭美が歩み寄ってきた。
「賢介、勝ってね」
そう言って、僕の胸に触れ、指を這わせた。心がざわついた。圭美は木下のこともこうして励ましたのだろうか。
「うん……」
動揺を悟られたくなくてそっけない返事をした。レースに向けて集中したい思いと、圭美の期待に強く応じたいのに目も合わせられないもどかしさで落ち着かない。
阿佐高は、第一泳者の堀内から第四泳者の僕まで、持ちタイムの速い順で泳ぐ。できるだけ長く先頭集団で競ることで、もつ力を最大限に発揮させるのが青木が考えた戦法だ。
自陣からスタート台へ向かう時、リレーが始まる前のプールでクールダウンをしていた秋吉が前から歩いてきた。すれ違いざま視線が合う。
「頑張ってね」
気合を入れるように僕の上腕を平手でぴしゃりと叩いた。その一撃で胸に残る圭美の指の感覚は消え、心が戦闘モードに戻った。
「おう!」
秋吉に応えてすれ違う。心を寄せる相手が秋吉だったら、苦しみは少なくてすんだのかもしれない。
僕たちに与えられたのは第四コースだった。弥生高、宮前高それぞれのAチームにはさまれるコースだ。
「石神さん」
呼ぶ声にふり向くと、四〇〇メートルで競った弥生高の二年生だった。
「佐久間君?」
「はい。四〇〇で隣でした」
「君のおかげで苦しいレースになったよ」
「リレーは勝ちます」
あらためて近くで顔を合わせると、佐久間は頬がすっきりとして、きれいに刈り上げた後頭部が大きい。いかにも頭がよさそうだ。
「佐久間君は何番手?」
「石神さんと同じ第四泳者です」
「また一緒か。できれば今日はもう競りたくないけど」
佐久間と会話をしているうちにレースをスタートさせる合図の笛が鳴った。各チームの第一泳者がスタート台に立つ。
「堀内、頼むぞ!」
後ろから声をかける。
「位置について」
「よーい」
参加選手全員がスターターの握る鉄砲の音に集中する。
空を貫くようなピストル音とともに六人の選手が飛び込んだ。
堀内の調子はよさそうだ、風邪気味ではあるが、ほかの種目の出場を見合わせたので、体力を温存できている。
予想通り、弥生高、宮前高、阿佐高、三校の各Aチームがトップを争う展開になった。阿佐高の第二泳者は津村だ。肩をほぐしながら、スタート台に上がった。自信ありげな笑みを浮かべている。
両隣と競りながら、堀内が戻ってきた、スタート台で津村が慎重にタイミングを合わせる。
前を泳ぐ選手のタッチと同時に次の選手の足がスタート台を離れるのが理想的な引き継ぎだ。それよりも速く跳べばフライングの反則をとられるし、遅ければレースで不利になる。だから、前の泳者のタッチの速さやクセを体で覚えておく必要がある。そのために、毎日、全体練習の後に引継ぎの練習も重ねてきた。
堀内が壁にタッチすると同時に津村が跳んだ。抜群のタイミングだ。
「よし!」
思わず僕は叫んだ。
体調がよくないながらも責任を果たした思いが強いのだろう。堀内はほっとした表情で、水から上がる。
プールでは、それぞれのチームの第二泳者が飛び込み、なお三校のAチームがトップを争っている。
その時、第三泳者の野波が僕の水着を力なく引っ張った。
「石神……」
ふり返ると、目の前に不安そうな表情があった。
「野波、どうした?」
「まずい……」
「なんだ?」
「がまんできそうにない」
野波が何をうったえているのか。その苦しそうな表情から察した。尿意か。あるいは便意か。小用のほうであれば、プールの中で泳ぎながらしても、誰にも気づかれない。
「トイレか?」
「うん……」
「まさか大きいほうか?」
野波がうなずく。プールから上がったばかりで激しく肩で息をしている堀内も、驚いた顔で野波を見る。
「レース前にしておかなかったのか?」
「行った。でも、ほとんど出なかったんだ。それで、今、さしこみがきた。腹がきゅるきゅるする。このまま飛び込んだらもらす。悪いけど、オレはトイレへ行く。すぐに戻る。でも、もし間に合わなかったら、石神が第三泳者で泳いでくれ」
早口で告げると、ギリギリなのだろう、野波は内股で、歩幅は狭く、でも、猛烈な勢いで脚を動かし、トイレに走って行った。
「レースが始まってから泳ぐ順番を変更したら失格だっけ?」
まだ肩で呼吸をしている堀内に確認する。
「たぶんアウトだけど、練習試合だから、誰も文句は言わないんじゃないのか。石神、三番手で泳いでくれよ。野波は間に合わないと思うよ」
自分が泳ぎ終わっていて緊張がほぐれているせいもあるが、堀内は動じない。さすがキャプテンだ――と、妙に感心した。
プールでは三チームの競り合いが続いていた。体四分の一ほど、津村がリードしている。
津村のクロールは一〇〇メートル一分を切る。野波が一分以内にトイレから戻るのは難しいだろう。僕が第三泳者で泳ぐつもりでいたほうがよさそうだ。
背中に視線を感じ、ふり返ると、弥生高の佐久間と目が合った。こちらの状況をうかがっていたのだろう。落胆するような、憐れむような目だ。
「佐久間君、すまんが、一緒に泳げなくなった。こっちは急きょ第三泳者に変更された」
「そうらしいですね……」
「またいつか一緒に泳ごう」
佐久間の横で、弥生高のほかのメンバーが下を向いて笑いを抑えている。
「石神さんが卒業する前に、ぜひ」
プールの中では、あと一〇メートルのところまで津村が近づいてきた。
弥生高と宮前高の第三泳者はすでにスタート台に立っている。気持ちを切り替えて、第三泳者でいくしかない。
「というわけで、のんびりしているわけにはいかなくなった。では、お先に」
そう言って、僕もスタート台に上がった。
まだ野波の姿は見えない。
〈落ち着け〉
自分に言い聞かせる。
つかの間目を閉じて、津村のタッチを思い出そうとした。
ずっと野波のタッチに合わせて練習してきたので、津村のタイミングやクセはぼんやりとしかわからない。非常事態だからしかたがない。津村のタッチをギリギリまで目で追って飛び込もう。
スタート台の上で、津村のストロークに合わせ、上体を落としていく。
リレーの引き継ぎの時、僕はスタート台に手を触れず、脚だけで跳ぶ。顔を上げ、前の泳者の泳ぎに目線を合わせるからだ。リレーでは第二泳者から第四泳者までは体を静止させなくてもフライングはとられない。
三メートル、二メートル、一メートル……。
津村の壁へのタッチと同時に、スタート台を蹴った。
水に入ると、大きくドルフィンキックを打つ。一回、二回……体が水面に上がってきたら、左右各三回思い切りバタ足を打ち、水面で体を安定させる。状態はいい。
阿佐高は速い順番にオーダーを組むが、ほかのチームは、第一泳者と第四泳者が速く、第二泳者と第三泳者はやや力が落ちる。津村がつくったリードを守って、野波につなげたい。僕が一〇〇メートルを泳ぐまでには、野波は戻ってきているだろうか。気になるが、考えてもしかたがない。今は自分の泳ぎに集中するべきだ。
二五メートルのターンをしたあたりから、体が水にのっているのがわかった。
ターンで壁を蹴り、二ストロークかいたところで体が水と同化している気がした。アップの時のあの感覚だ。ブルーの視界の中を前に進みながら、体と水との境界があいまいになる自分を感じる。腕に力がみなぎっていた。
〈もっと遠くの水をつかめ〉
五〇メートルのターンを折り返す。大きな何かに包まれ、励まされているようだ。七五メートルのターンの後はただ無心で前へ進んでいった。
僕は持つ力をすべて出し切って、一〇〇メートルを泳ぎ、野波に引き継いだ。