「賢介はどうしてクロールを選んだの?」
 圭(たま)美(み)が僕の目をのぞいた。
水泳部の練習の帰り。意志の強さを感じさせる彼女の瞳には、阿佐谷の街を南北に走る中杉通りの欅並木が映っていた。
パソコンもケータイもない時代、学校から国鉄阿佐ヶ谷駅までゆっくりと歩く十五分ほどが圭美と会話を交わせる時間だった。
高校三年の夏が終わろうとしていた。
僕たちはまだ十七歳で、でも、彼女の口もとにはもう大人の匂いがあった。
「どうしてクロールだったんだろう……」
 自分に問いかける。
「平泳ぎやバタフライをやろうとは思わなかった?」
 圭美が重ねて訊く。
「ほかの種目には興味はなかったかな」
 そう、クロール以外は一度も考えたことはない。
自由形が自分に不向きなことは知っていた。クロールを泳ぐ自由形は、背が高くて手足が長い選手が有利だ。できるだけ遠くの水をつかみ、体の下を長くかくほうが速く泳げる。身長が一七〇センチで手足も短い僕は、いつもハンディを感じていた。
 それでも、僕にはこの種目しか考えられなかった。それはたぶんクロールがほかの泳法よりも速いからだ。
そしてもう一つ、ほかの泳ぎにはない魅力があった。
平泳ぎやバタフライは入水した手を前に伸ばしたポイントから水をかくけれど、クロールは、手を目一杯伸ばし、さらに遠くの水をキャッチしようとして肩を前に突っ込んでいく。
〈もっと遠くの水をつかめ〉
 自分を励まして進む。
〈もっと遠くへ、もっと遠くへ手を伸ばせ〉
 泳ぎながら頭の中でくり返し、気持ちが高ぶっていく感じが好きだった。

 圭美と共有した時間も、感情も、昨日の出来事のようによみがえる。
まさかあの夏が、髪に白いものが混ざるようになるまで胸をしめつけることになるとは、十七歳の僕は知る由もなかった。