*
今日はもう貝になろう。そう決心したナオに、「駅からシェアハウス朔まで、車なら通常十分ぐらいかしら」と美月が声をかける。
「でも、自転車だったら抜け道があるから五分ぐらいかなぁ。ねぇねぇ、朔、ボサノバに変えていい?」
美月の好きなジャンルだ。しかし……それより自転車の方が速い? 理解不能な言葉にナオは首を傾げる。
「あの踏切、どうにかならないかしら? あれがあるから渋滞が起きるのよ」
美月が溜息を吐く。その言葉でナオの疑問が解ける。
どうやら、車道の途中に“開かずの踏切”があるようだ。
「朔、車道を高架化とか地下化とかする計画はどうなったの?」
「どうして俺に訊く? 俺は一般市民だ」
「だって、朔のお父上は国土交通省にお勤めじゃない。偉いさんじゃない」
「親父は親父、俺は俺。知らん」
「ほーんと、朔ってば愛想なしなんだから」
二人は道中、こんな調子で絶え間なく言い合っていた。仲が良いのか悪いのか? その間ナオは黙ってその会話を聞いていた。
そうなったのは、朔が『お前、高三になってもまともに挨拶ができないのか?』と言ったからだ。だからナオは『年下の子を怖がらせるような人にそんなこと言われたくありません』と言い返してしまった。
今思うと腹立たしかった理由が分かる。美月に対する態度と自分に対する態度があからさまに違ったからだ。それがナオのコンプレックスを刺激したのだ。
しかし、朔もまさか陰気な黙りが反撃するとは夢にも思っていなかったみたいだ。
――あの時のあの驚いた顔、見物だった。
ナオの顔に思い出し笑いが浮かぶが、それは一瞬だけだった。
――でも……美月にもバレちゃうなんて。
呆気に取られた彼女の顔を見て、ナオは、しまった、と後悔した。
なぜなら、美月の前でナオはいつも大人しい良い子だったからだ。化けの皮が剥がれるとはああいうことだろう。
――ああ、もう最悪。逃げたい。
駅前と踏切を抜けると車はスムーズに進み、今は閑静な住宅地を走っていた。当然、逃げる隙はない。
溜息交じりにナオがぼんやり車窓の外を眺めていると、助手席の美月が振り向き進行方向を指差した。
「ナオちゃん、家、覚えてる? ほら、見えてきたよ」
ナオの目が美月の指を辿り前方を見る。そこに如月家の敷地を囲む焼き杉板の塀が見えた。それがどんどん近付いてくる。
延々と続く艶やかな黒い塀は相変わらず趣があり、五年以上前に見たときとさほど変わらない様相をしていた。
――あの時はお母さんも一緒だったなぁ……。
「で、道を隔てた隣が朔の家。その敷地の一角にシェアハウスが建ってるの。あっ、朔。ここで下ろしてくれる。ナオちゃん、ごめんね。これから私用で出掛けなくちゃいけないの」
美月はそう言って如月家の表門近くで車を停めさせた。
「あっ、気にしないで下さい。迎えに来て下さって、ありがとうございました」
「もう、また敬語……」さっきの件もだが、美月は何も言わず、少し淋しそうに笑うと、「朔、ナオちゃんのことよろしくね」と言って車を降りた。
本当に急いでいたようで、バタンとドアが閉まると美月は振り返ることなく駆け出した。
その後車はすぐ発車したが、車中に先程までの賑やかさはなく、気にも留めていなかったボサノバの、甘く優しい歌声がやけに大きく聞こえ、それが否応なしに朔と二人きりだとナオに意識させた。
――早く降りたい。
ナオは居た堪らなかった。それを誤魔化すように再び車窓の外に目を向け――気付く。
道を隔てた隣はブロック塀が延々と続いていた。葛城家もかなりの名家だと。
今日はもう貝になろう。そう決心したナオに、「駅からシェアハウス朔まで、車なら通常十分ぐらいかしら」と美月が声をかける。
「でも、自転車だったら抜け道があるから五分ぐらいかなぁ。ねぇねぇ、朔、ボサノバに変えていい?」
美月の好きなジャンルだ。しかし……それより自転車の方が速い? 理解不能な言葉にナオは首を傾げる。
「あの踏切、どうにかならないかしら? あれがあるから渋滞が起きるのよ」
美月が溜息を吐く。その言葉でナオの疑問が解ける。
どうやら、車道の途中に“開かずの踏切”があるようだ。
「朔、車道を高架化とか地下化とかする計画はどうなったの?」
「どうして俺に訊く? 俺は一般市民だ」
「だって、朔のお父上は国土交通省にお勤めじゃない。偉いさんじゃない」
「親父は親父、俺は俺。知らん」
「ほーんと、朔ってば愛想なしなんだから」
二人は道中、こんな調子で絶え間なく言い合っていた。仲が良いのか悪いのか? その間ナオは黙ってその会話を聞いていた。
そうなったのは、朔が『お前、高三になってもまともに挨拶ができないのか?』と言ったからだ。だからナオは『年下の子を怖がらせるような人にそんなこと言われたくありません』と言い返してしまった。
今思うと腹立たしかった理由が分かる。美月に対する態度と自分に対する態度があからさまに違ったからだ。それがナオのコンプレックスを刺激したのだ。
しかし、朔もまさか陰気な黙りが反撃するとは夢にも思っていなかったみたいだ。
――あの時のあの驚いた顔、見物だった。
ナオの顔に思い出し笑いが浮かぶが、それは一瞬だけだった。
――でも……美月にもバレちゃうなんて。
呆気に取られた彼女の顔を見て、ナオは、しまった、と後悔した。
なぜなら、美月の前でナオはいつも大人しい良い子だったからだ。化けの皮が剥がれるとはああいうことだろう。
――ああ、もう最悪。逃げたい。
駅前と踏切を抜けると車はスムーズに進み、今は閑静な住宅地を走っていた。当然、逃げる隙はない。
溜息交じりにナオがぼんやり車窓の外を眺めていると、助手席の美月が振り向き進行方向を指差した。
「ナオちゃん、家、覚えてる? ほら、見えてきたよ」
ナオの目が美月の指を辿り前方を見る。そこに如月家の敷地を囲む焼き杉板の塀が見えた。それがどんどん近付いてくる。
延々と続く艶やかな黒い塀は相変わらず趣があり、五年以上前に見たときとさほど変わらない様相をしていた。
――あの時はお母さんも一緒だったなぁ……。
「で、道を隔てた隣が朔の家。その敷地の一角にシェアハウスが建ってるの。あっ、朔。ここで下ろしてくれる。ナオちゃん、ごめんね。これから私用で出掛けなくちゃいけないの」
美月はそう言って如月家の表門近くで車を停めさせた。
「あっ、気にしないで下さい。迎えに来て下さって、ありがとうございました」
「もう、また敬語……」さっきの件もだが、美月は何も言わず、少し淋しそうに笑うと、「朔、ナオちゃんのことよろしくね」と言って車を降りた。
本当に急いでいたようで、バタンとドアが閉まると美月は振り返ることなく駆け出した。
その後車はすぐ発車したが、車中に先程までの賑やかさはなく、気にも留めていなかったボサノバの、甘く優しい歌声がやけに大きく聞こえ、それが否応なしに朔と二人きりだとナオに意識させた。
――早く降りたい。
ナオは居た堪らなかった。それを誤魔化すように再び車窓の外に目を向け――気付く。
道を隔てた隣はブロック塀が延々と続いていた。葛城家もかなりの名家だと。