俺は咲久良を廊下の壁際に追いつめた。
咲久良は明らかに動揺している。はぐらかそうとして、視線を合わせようとしない。
「だって、としくんが。ねえ、お願い。原稿を探しましょう? としくんがうんって言ってくれたら、私は助かるのに」
咲久良は、泣いていた。
おいおい、落選原稿を探すのをやめたぐらいで、なぜ涙? 俺は戸惑った。涙には弱い。咲久良の、か弱い肩を抱きたくなってしまう。
「助かるって、なんなんだ。そんな言い方ってない。原稿を見つけたあとは、冴木鏡子との取り引きが待っているんだ、お前をすぐに助けられるわけじゃない」
ん? 助かるって、妙だな。なんか、ひっかかる……?
「だ・か・ら。あなたが『うん』って言ったら、みずほは助かったのよ」
冴木鏡子の仕事部屋のドアが開いた。
出てきたのは本人、冴木鏡子だった。
ただし、実際に会ったことはない。写真やテレビで見たことがある、その人。肩や胸もとは大きく開き、女性らしさを強調したワインレッドのワンピースを着ている。
「あなた、人間としては合格だけど、みずほの婚約者にはなれなかったわね、残念。初めまして、土方さん。いえ、土方先生と呼ぶべきかしら。私は、みずほの母です。そして、『冴木鏡子』。ご存じですよね」
予期しない人物の登場に、思わず俺は身構えた。対保護者用の能面笑顔になる。
「こちらこそ、初めまして。土方です」
「ママ、どうして出てきたのよ。もうちょっと、待っていてくれてもよかったのに!」
咲久良は顔を真っ赤にして怒っている。
「これ以上押しても、効果ないわよ。だって先生、あなたに多少の好意はありそうだけど、欲情はしていないもの。みずほも、男を押すのが下手ね。もっと勉強しなさい。先生、結末はこの通り。みずほが先生を落とすか、先生がみずほのために罪を犯すなら、あなたたちを許してもよかったんだけど、とうとう先生は最後までいいこちゃんだったわね。みずほ、もう諦めなさい」
「そんな」
咲久良は、明らかに失意に打ちのめされている。
俺は咲久良に騙され、冴木鏡子に試されていたようだ。冴木鏡子はとっくに帰宅していて、すべての行動を見られていたのだ。やられた。
こみ上げてくる怒りをおさえ、俺は冴木鏡子に質問をした。
「あの、俺が不合格ならば、咲久良は予定通り坂崎氏と結婚を?」
「そうね。あの子にもそろそろ飽きてきたけど、ほかに代わりもいないし……先生が私の新しい愛人になってくれるなら、話は別かしら。みずほが急いで選んだ割には、わりといい顔じゃない。よりによって、担任教師なんてとんでもないチョイスだけど。先生、どうかしら?」
「なりませんよ、絶対に」
即答、即断。
「そう? じゃ、お別れね。これは、返す。だいたい、こちらの事情は分かっているでしょうし、情報を売っても構わないわよ。いくら真実でも、陽の目を当てられないこともある。だって、このことが明るみになっても、誰も得をしない」
冴木鏡子は封筒ごと、俺にそれを突きつけた。
中身を確認すれば、かつて新人賞に出したときのオリジナル原稿だった。何度も読まれたらしく、用紙はやや色茶けていて角が折れていたり、くたびれていた。
「分かりました。取り引き、しませんか。『境界線』へのアイディア流用には、目を瞑ります。だから、咲久良の婚約を、なかったことにしてあげられませんか」
「先生!」
「咲久良はまだ若い。大学へ行って、もっと勉強したほうが、より豊かな人間になれます。結婚は、そのあとでも間に合います。家の都合はあるでしょうが、咲久良の可能性を潰さないでいただきたい」
「……咲久良家は代々、女系の家。だから、この家に生まれた女は、早くに婿を取るしきたりがある。私もそうしたし、この子も同じ」
「結婚はします。でも、相手ぐらいは選ばせて、ママ」
「ただの男ではだめなの。咲久良家の存続がかかっていることを認識し、咲久良家の家訓に染まれる人でなければ。顔だけで判断して、この先生を連れて来たのかしら。それとも、変わった趣味の持ち主? 私に対するあてつけ? わざとでしょ」
「最初は、狙ってやったことだった。だって、土方歳三って、かつてママが盗作した作品の著者じゃない。こんな同姓同名なんて、まずいないもの。でも、先生のことを知るたびに、先生がだいすきになった!」
咲久良は明らかに動揺している。はぐらかそうとして、視線を合わせようとしない。
「だって、としくんが。ねえ、お願い。原稿を探しましょう? としくんがうんって言ってくれたら、私は助かるのに」
咲久良は、泣いていた。
おいおい、落選原稿を探すのをやめたぐらいで、なぜ涙? 俺は戸惑った。涙には弱い。咲久良の、か弱い肩を抱きたくなってしまう。
「助かるって、なんなんだ。そんな言い方ってない。原稿を見つけたあとは、冴木鏡子との取り引きが待っているんだ、お前をすぐに助けられるわけじゃない」
ん? 助かるって、妙だな。なんか、ひっかかる……?
「だ・か・ら。あなたが『うん』って言ったら、みずほは助かったのよ」
冴木鏡子の仕事部屋のドアが開いた。
出てきたのは本人、冴木鏡子だった。
ただし、実際に会ったことはない。写真やテレビで見たことがある、その人。肩や胸もとは大きく開き、女性らしさを強調したワインレッドのワンピースを着ている。
「あなた、人間としては合格だけど、みずほの婚約者にはなれなかったわね、残念。初めまして、土方さん。いえ、土方先生と呼ぶべきかしら。私は、みずほの母です。そして、『冴木鏡子』。ご存じですよね」
予期しない人物の登場に、思わず俺は身構えた。対保護者用の能面笑顔になる。
「こちらこそ、初めまして。土方です」
「ママ、どうして出てきたのよ。もうちょっと、待っていてくれてもよかったのに!」
咲久良は顔を真っ赤にして怒っている。
「これ以上押しても、効果ないわよ。だって先生、あなたに多少の好意はありそうだけど、欲情はしていないもの。みずほも、男を押すのが下手ね。もっと勉強しなさい。先生、結末はこの通り。みずほが先生を落とすか、先生がみずほのために罪を犯すなら、あなたたちを許してもよかったんだけど、とうとう先生は最後までいいこちゃんだったわね。みずほ、もう諦めなさい」
「そんな」
咲久良は、明らかに失意に打ちのめされている。
俺は咲久良に騙され、冴木鏡子に試されていたようだ。冴木鏡子はとっくに帰宅していて、すべての行動を見られていたのだ。やられた。
こみ上げてくる怒りをおさえ、俺は冴木鏡子に質問をした。
「あの、俺が不合格ならば、咲久良は予定通り坂崎氏と結婚を?」
「そうね。あの子にもそろそろ飽きてきたけど、ほかに代わりもいないし……先生が私の新しい愛人になってくれるなら、話は別かしら。みずほが急いで選んだ割には、わりといい顔じゃない。よりによって、担任教師なんてとんでもないチョイスだけど。先生、どうかしら?」
「なりませんよ、絶対に」
即答、即断。
「そう? じゃ、お別れね。これは、返す。だいたい、こちらの事情は分かっているでしょうし、情報を売っても構わないわよ。いくら真実でも、陽の目を当てられないこともある。だって、このことが明るみになっても、誰も得をしない」
冴木鏡子は封筒ごと、俺にそれを突きつけた。
中身を確認すれば、かつて新人賞に出したときのオリジナル原稿だった。何度も読まれたらしく、用紙はやや色茶けていて角が折れていたり、くたびれていた。
「分かりました。取り引き、しませんか。『境界線』へのアイディア流用には、目を瞑ります。だから、咲久良の婚約を、なかったことにしてあげられませんか」
「先生!」
「咲久良はまだ若い。大学へ行って、もっと勉強したほうが、より豊かな人間になれます。結婚は、そのあとでも間に合います。家の都合はあるでしょうが、咲久良の可能性を潰さないでいただきたい」
「……咲久良家は代々、女系の家。だから、この家に生まれた女は、早くに婿を取るしきたりがある。私もそうしたし、この子も同じ」
「結婚はします。でも、相手ぐらいは選ばせて、ママ」
「ただの男ではだめなの。咲久良家の存続がかかっていることを認識し、咲久良家の家訓に染まれる人でなければ。顔だけで判断して、この先生を連れて来たのかしら。それとも、変わった趣味の持ち主? 私に対するあてつけ? わざとでしょ」
「最初は、狙ってやったことだった。だって、土方歳三って、かつてママが盗作した作品の著者じゃない。こんな同姓同名なんて、まずいないもの。でも、先生のことを知るたびに、先生がだいすきになった!」